「早稲田大学探検部時代に実は幹事長に推薦されていた」
僕は早稲田大学在学中、早稲田大学探検部に在籍していました。
僕らの代、早稲田大学探検部33期はは15人くらい部員がいました。
2年生の秋に、誰が早稲田大学探検部の最高責任者の幹事長になるるかが議論されます。
僕らの代も誰が幹事長になるかが部会で議論されました。
僕は同期だった人間、後藤健介から、幹事長に推薦されました。
しかしながら、やはり同期だった人間、高橋宏治から、
「上原はふさわしくない」
との論が上がり、僕の早稲田大学探検部幹事長はなくなりました。
僕はその後、早稲田大学探検部の飲み会の幹事を務めることになりました。
一部の早稲田大学探検部の人間からは、
「影の幹事長」とか「三軍幹事長」
とか言われていました。
僕の中では、僕が「影の幹事長」「三軍幹事長」だったとは思っていませんが、一部の人からは
「影の幹事長に」「三軍幹事長」に見えたのかもしれません。
昨日もブログに書きました、僕は中学、高校と、人をまとめる側の立場の役割をしていたので、早稲田大学探検部でも、僕の中学、高校時代の経験が「飲み会幹事長」という形で現れたのだと思います。
早稲田大学探検部は、体育会ではありませんから、規律が特に厳しいわけでもなく、皆で一緒に探検活動の練習するわけでもありません。
良く言えば自由で、登山とか、川下りとかをしたりして、自分の活動を文章にまとめたりします。
山の文学を書いている人の文章は美しく、都会の文学とは違い自然が多く出てきて、生命感に溢れた文学的な文章を書いていた方もいらしたと思います。
早稲田大学探検部は文連サークルですから、体育会ではなく、文化的なサークルだと思いますが、登山とか川下りをしていると、やはり体力がないと、活動できません。
文化系のサークルと言っても、体育会的な要素も多いに含んでいるサークルだったと思います。
僕は、中学、高校で、人をまとめる立場になっていたので、大学では、出来れば、まとめられる立場になりたいと思っていました。
ただ、やはり、中学、高校の経験は大きくて、早稲田大学探検部の幹事長になっていた人間が、人をまとめる立場の役割をこなしていないと、気になり、幹事長に、
「こうした方がいいんじゃない」
とか助言をしていました。
ただ、僕らの代の幹事長は、会話をしてみると、
「オレは、六本木で黒服を着ることは夢なんだ」
とか言っていて、こいつが幹事長の早稲田大学探検部に在籍していて、大丈夫かなとか内心心配していました。
しかしながら、僕らの世代の幹事長の方は、しっかりと幹事長の役割をこなしていたので、僕らの頃の早稲田大学探検部も上手く運営されていたのだと思います。
僕が一部の方から、「影の幹事長」「三軍幹事長」と言われていたのは、僕なりに、早稲田大学探検部を陰ながら支えていたからだと思います。
現 在の早稲田大学探検部がどうのような状況か分かりませんが、部を運営するのは幹事長だけではありません。
部員の方々、皆で、早稲田大学探検部を運営されていかれれば良いと思っています。
以上、「早稲田大学探検部時代に実は幹事長に推薦されていた」
ブログに載せます。
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