「チベットで詠んだ句、カイラスに 帰らすなんて 言わせない」
隊長である僕が早稲田大学探検部’88夏チベット探査計画書に書いていた文章は以下です。
左から、上原、倉島、中谷、桜井です。
ラサに滞在した際の僕がロンリープラネットのTravel Survival Kit(トラベルサバイバルキット)を読んで、カイラスにどうやって行こうかと悩んでいる様子を撮った写真はこちら。ちなみにラサでは、「カイラス行かれません」と日本人旅行者の方に言われていました。
ラサで宿泊したホテルで、チベットの現地の少女の子と日本から持参した線香花火をしている様子を撮っている写真はこちら。
チベットに行った翌年の1989年にカナダユーコン川川下りに行き、ユーコン川川沿いの先住民の方々のインディアンの方々の居留区に行った際の写真はこちら
カナダユーコン川川下りについて書いているブログこちらです
「紫藤クリニック カウンセリング カナダ・ユーコン川川下り」
どのような困難に遭ったかというと分かり易く言えば、ヒッチハイクしたトラックがスタック(立ち往生)してしまって前に進めなくなるような事態です。
どのような状況が分かり易い写真はこちら
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左から中谷、倉島、上原です。
隊長であった僕、上原和明は、チベットの食べ物であるツァンパに干しぶどうを入れたものを食べて、太りました。何故か僕だけ、チベットの食べ物である、ツァンパに干しぶどうを入れたものを食べて太りました。
当時のチベットは、中国の監視下に置かれていて、入域するのも困難との情報も出回っており、チベットの首都であるラサに入ることさえ難しいと言われていました。
まして、西チベットのカイラス山に至っては、外国人が足を踏み入れるのも極めて難しい聖なる山でした。
世界中の探検・冒険愛好家の憧憬の山でした。
チベットではマリオ(MARIO BLASEVICH)というカナダ人(カナダのブリティッシュコロンビア州に住んでいたカナダ人)に会いました。マリオとは中国四川省の魔の山と言われる、ミニヤコンガに挑んだことがあり、凍傷で手の指が無い部分もあった探検家であり冒険家でした。
僕が早稲田大学探検部3年生の時にカナダユーコン川川下りに行った際に、マリオのカナダブリティッシュコロンビア州の自宅を訪ねたことがあります。(留守でした、チベットでカナダブリティッシュコロンビア州のマリオの自宅の住所を教えてもらいました。)
マリオの姿の写っている写真はこちら
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一番右にいるのがマリオです。
左から中谷、倉島、上原、マリオです。
僕らは多くの困難に遭いながらもなんとか、憧憬の山カイラスに到達しました。
チベットの聖山、カイラス山に到達してからは、標高5630メートルのドルマ・ラ峠のあるカイラス山の周囲の巡礼路約52キロを重さ約20キロある100リットルザックを背負って2日かけて歩きました。
チベットの信仰の山、聖山カイラス山の周囲の巡礼路では、巡礼するチベット仏教徒の方々、ヒンドゥー教徒の方々が多くいらっしゃいました。
信仰の山の巡礼路は標高5600メートルを超えるドルマ・ラ峠を最高標高点に、本当に苦行をする道のようでした。
僕はチベットのカイラス山の周囲の巡礼路を2日かけて歩いて、仏教徒の方々やヒンドゥー教徒の方々の厚い信仰心を感じ取りました。
カイラス山の周囲の巡礼路の地図は以下です。
チベット カイラス山6:~カイラス山巡礼2日目:最大難関5660mドルマラ峠でチベタンと触れ合う感動の1日~)
チベットの聖山、カイラスに到達して、カイラス巡礼路の途中の宿泊するゴンパのあるカイラス北壁での様子を書いた報告書のようなものはこちら
このカイラス北壁のことについては1988年の早稲田大学の学生手帳には以下のようなことが書かれていました。
"I stayed the north of Kailas for 4 days,a lot of snow,snow."
"I was waiting for my friends for a week,but not coming here.
Maybe tyey got sick,I must go back to Ali. Because I am a captain of our party."
"I went to Kailas Sep 5. I was waiting for my 2 friends for a week,but not
appear, I thought they got sick,so I come back here,Sep 13,and they
had just gone to"
以上のような英語の言葉が1988年の早稲田大学の学生手帳に書かれていました。
以下のような中国語も載っていました。
”你去神山嗎?” (カイラス山に行きますか?)
学生手帳にはカイラスの巡礼路についての簡単な絵も載っていました。
僕は言葉の力とは大きいものだと思っています。
ちなみにカイラスに到達し、カイラスから無事日本に帰ってきてから、関西に遊びに行き、神戸の中華街、南京町に行ったときの4人の様子を撮った写真はこちら
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チベットカイラス隊の4人とも日本に帰ってくると普通の大学生でした。
関西では大阪の新世界にも行きました。
大阪の新世界に行った際の写真はこちら。
左から 中谷、上原、倉島、桜井です。
新世界では、僕は生まれて初めて、ストリップ劇場に入場して、女性のストリップショーを見ました。
2019年3月23日(土曜日)に約30年ぶりにチベットカイラス隊の4人とチベットで会った吉竹俊之君(近畿大学探検部OB)、田中智秀君(中国語の専門家)と6人で高田馬場の居酒屋で飲み会をした際の集合写真はこちら
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左から吉竹、桜井、上原、田中、倉島、中谷です。
チベット遠征から30年以上経っても皆、元気でした。
飲み会のことを書いているブログはこちら
→「30年以上前にチベットに遠征した男たちはとても元気だった」
→「高田馬場のにんじん屋で自らの罪を自白した倉島孝行、桜井誠人」
→「高田馬場にんじん屋に見たおまえが麻原彰晃だったんじゃないか?」
→「チベットに行ったときのことを思い出せば大抵のことは乗り越えられると思っている」
→「チベット隊はすぐに集まるのに、ユーコン隊は全く集まりがないと思っている」
→「30年以上前にチベットに挑んだ男たちが集うことになった」
→「早稲田大学探検部チベット隊でクレイジージャーニーを見ている人間はいないようだ」
→「早稲田大学探検部で計画書を作れたところで何の力も持たない」
→「ラーメン屋のせがれが現代社会へのアンチテーゼなんていう文章を書けるのか?」
僕がチベット隊のことについて書いているブログはこちら
→ 「紫藤クリニック カウンセリング チベット・カイラス山への遠征」
→「早稲田大学探検部チベット隊の隊長なんて務めなければ良かった」
→「早稲田大学探検部チベット隊は隊長より、メンバーの方が偉くなっている」
→「昨日、カイラスのYou Tubeを見たが、すごい場所に行っていたと思った」
→ 「チベットで出会った田中智秀君にプレゼントされた男宝(ナンパオ)」
→ 「チベットカイラス隊では僕だけマナサロワール湖に行っていない」
→「小日向台町小学校の卒業文集、個人文集、『チョモランマ』」
僕が僕の人生の中で早稲田大学時代が人生の頂点だったことを書いているブログはこちら
ちなみに
僕がチベットに行く前にリストアップしていた書籍は以下です。
僕がチベット行きの遠征資金を貯めるためにしていたアルバイトのことについて書いているブログはこちら
→「チベットに行く遠征資金を貯めるためにしていたアルバイト焼き鳥屋さん でのアルバイト」
僕がチベットに行く前に「探検部」のことを考えてみた文章が載っているブログはこちら
僕がチベットに行く前に日記に書いていたものは以下です。
→チベットに行く前の1988年1月27日の日記 価値観 アンチテーゼ」
→「チベットに行く前の1988年2月25日の日記 アンチテーゼ」
→ 「チベットに行く前の1988年3月9日の日記 情報化社会」
→ 「チベットに行く前の1988年3月25日の日記 価値観」
→「チベットに行く前の1988年3月28日の日記 百聞は一見に如かず」
→「チベットに行く前の1988年5月12日の日記 チベット」
→ 「チベットに行く前の1988年5月26日の日記 チベット」
→ 「チベットに行く前の1988年6月3日の日記 チベット」
→「チベットに行く前の1988年6月19日の日記 チベット」
蛇足になってしまいますが、チベットカイラス遠征の際に僕がチベットに持っていた本の中の1つは旅行ガイドブックのロンリープラネットのチベットトラベルサバイバルキット(lonely planet Tibet a trabvel survival kit)という英語の旅行ガイドブックでした。
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