表紙はこんな感じです。
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読んでみたら、おもしろかったので、ブログに載せたいと思います。
個人文集「チョモランマ」には以下のようなことが書かれていました。
一度聞いても、わからないと思いますが、実は、この「チョモランマ」とはエベレストのことを、中国では、チョモランマというそうで、ぼくは、その世界一高い山、チョモランマのように、でっかくなるようにと、題を「チョモランマ」としてみました。
この文集の内容は、1年生から6年生までの思い出や、将来の希望など、いろいろなことを書きます。
ぼくの担任の先生は、福良先生であった。ぼくたちは、みんなと仲よく遊んだ。その中でも、クリスマス会は、印象深い。
先生がクリスマスツリーのかわりに、ゴムの木を持ってきて、いろいろかざって、また、いろんなゲームして遊んだ。
昭和50年、ぼくは、また福良先生になりたいとなあと思っていたが、吉川先生になった。しかし、吉川先生は、おもしろくて授業も楽しかった。そしていろんな友だちもできた。
昭和51年、ぼくは、今度は、組替えがあるので、期待と、不安が一つになっていた。
しかし、組替えは、まあまあで、今度の担当の先生は、細川先生だった。
3,高学年のころの思い出
昭和52年、ぼくは、2回目の組替えをひかえていた。ぼくは、またも1回目に続き、心の中が、期待と不安でごっちゃになっていた。そういえば、書くのを忘れていたが、4年生の時の担任の先生は、竹中先生だった。組替えは、まあまあよかった。また、担任の先生も竹中先生変わらずとなっていた。
また5年になって初めて八ヶ岳林間学校に行った。そこは空気もおいしく、宿舎もきれいで、とてもよかった。
昭和54年、ぼくたちは、最高学年の6年になった。担任の先生も変わらず、竹中先生だった。6年になるとやたらに仕事が多い。まず、しいく、校章旗上げ、朝のあいさつといろいろあった。また、ぼくは、6年になると運がよく、陸上記録会と水上記録会に出場できた。成績はともかく、出場できただけでうれしかった。そしてもうぼくたちは、卒業である。
そして、お金がたまったら、日本を出発してから、ソ連2年、アジア4年、オセアニアやいろいろな島々3年、南アメリカ3年、北アメリカ2年、ぐらいの間に、石油に代わるエネルギー資源を発見し、ノーベル物理学賞をもらい、また、その間のいろいろな出来事を本にまとめて、それで、ノーベル文学賞をもらい、小日向の英雄、文京区の英雄、東京の英雄、日本の英雄、アジアの英雄、世界の英雄、宇宙の英雄になろうと思う。
僕が早稲田大学に進んでからも、早稲田大学探検部に入部したのは小学校の頃の卒業文集の力が大きかったのだと思います。
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