2015年4月29日水曜日

1976年(昭和の頃)に見ていた風景(建物=学校)

1976年(昭和の頃)に見ていた風景(建物=学校)
GW(ゴールデンウィークの課題)学校の建物=学校の写真を撮影する。

開設しているTwitterのフォローワーさんの人数が、1976人になりました。
実は、フォローワーさんの人数は1992人に到達していたのですが、フォローしてくださっている方のTwitterアカウントを全てフォローしようとすると、鍵がかかっていて、フォロー出来ないアカウントが沢山ありました。
鍵が掛かっている全てのアカウントにフォローリクエストを送りましたが、20日以上経っても、フォローを承認してくれない、アカウントが多くありました。
昨日、フォローを承認していただけない、アカウントを全てブロックして、僕のTwitterアカウントをフォローするのを解除しました。
昨日の段階で、僕のTwitterのアカウントをフォローしてくださっていて、僕からのフォローも承認していただいている、アカウントの数は1976でした。
せっかく、フォローワーさんの人数が1992人に到達したので、僕が学校を卒業した1992年に書いていた文章を公開していましたが、現在のフォローワーさんの人数では、公開出来ません。
仕方ないので、1976年、昭和の時代に僕が見ていた風景=建物(学校)の現在の建物をスマートフォンで撮影するととも、説明文のようなものをブログに書いていきたいと思っています。
今日、(昭和の日)から始まるゴールデンウィーク中に、小学校、中学校、高等学校、大学、1992年まで、僕が見ていた風景=学校が現在ではどのような建物になっているか、その風景を写真に収めたいと思っています。
写真が撮影出来れば、説明文のようなブログも書けると思います。

僕個人としては、徐々にフォローワーさんが増えて、早く学校を卒業した1992年に書いていた文章を公開できるといいと思っています。

ちょうど、今日は「昭和の日」なので、僕が「昭和」の頃見ていた風景が現在、どのような風景になっているかを再確認するには良いと思います。

以上、1976年(昭和の頃)に見ていた風景(建物=学校)
GW(ゴールデンウィークの課題)学校の建物=学校の写真を撮影する。



早速、僕が通っていた小学校の風景を外からスマートフォンで撮影してきました。

まずは、校門です。

この門から小学校の中に入りました。

玄関で上履きに履き替えます。






次ぎに、学校の外から見た鉄棒です。

小学生用なので低い鉄棒ですが、この鉄棒で僕も逆上がりの練習とかしていました。



次に、学校の外から見た、校庭です。
僕の頃はコンクリートの校庭で、転んで頭を打ち付けると大きな怪我につながることがありました。
現在では、校庭の素材は少しクッションのあるものになっているようです。





次に学校の外から見た学校の建物の様子です。
僕の通っていた小学校は、踊り場の建築様式が特徴的な建物で、外観も非常に優れていました。



僕の通っていた小学校では高学年になると夏休みに長野県の八ヶ岳山麓での林間学校があり、小学生ながら、雄大な八ヶ岳を見られるはとても嬉しかったです。空気もきれいで、景色も良く、子供にとっては貴重な体験をさせていただいたと今でも思っています。

東京都心の学校に通っている子どもたちは、雄大な自然の風景とかを目の当たりにすると心から嬉しそうな顔をしていました。


以上、1976年(昭和の頃)に見ていた風景(建物=学校)

くだらない内容ですがブログに載せます。




2015年4月28日火曜日

「土曜の夜はこれを借りろ」③(少年) フォローワーさん1992人到達記念、1992年に書いていた文章

「土曜の夜はこれを借りろ」③ (少年)
フォローワーさん1992人到達記念、1992年に書いていた文章

 Twitterのフォローワーさんが1992人になったので、僕が1992年に書いていた文章を公開しています。

 今回、紹介するコラムは、一昨年亡くなった大島渚監督の佳作、「少年」という映画を題材にした映画コラムです。

「少年」

「もっと日本が広ければいいのになぁ」。
北海道のノサップ岬までたどり着いたときに少年が呟くこの言葉は「少年」という映画のすべてだ。
 映画は息子に当たり屋をさせることによって生計を立てながら高知を皮切りに日本各地を転々としていく一つの家族を描いたロードムービーで、家族の姿を映し出すことにより日本という国を浮き彫りにしていくのだが、家族の赴く地は日本でしかない。そこにはいつも日の丸がはためいていて、日本語が話されており、新天地などどこにも存在しないのだ。本州の向こうの希望の地、北海道に渡ってもやはり、そこは日本なのであって端まで行けばいつものように海が行く手を塞ぐように待っており、この家族も少年も日本という呪縛から逃れられない。みんな家族と繋がっていて、家族は日本と繋がっていて、どこにも自立した個人など存在しないのだ。唯一人、「少年」が意思を持った個人として映し出されるが、日本から逃れられない家族同様、結局、少年も家族から逃れることができないのだ。
 個人が存在することのできないイビツなロードムービーの中で描かれるのは個人と個人の絆などではなく、あくまで個人と家族、家族と日本の絆でしかない。
 この映画は日本という家から家出をしようとする家族の姿を描くことによって、日本から逃れられない家族と同時に、家族から抜け出せない個人をも描いてしまう。そして、少年がいつも海に出くわすときに表すやりきれない表情によって、個人としての日本人の限界までも一気に見せてしまう極めて優れたロードムービなのである。

以上が、「an(デイリーアン=日刊アルバイトニュース)に掲載された僕の文章です。

何度も書きますが、当時の学生は、普通にアルバイトをしていました。
僕も良く、アルバイトをしていました。
アルバイトニュースには大変お世話になったので、アルバイトニュースに僕の文章が掲載されたことは嬉しかったです。
アルバイトをせざるを得ない貧乏学生たちに良質な映画を見てもらい、日々のアルバイトの疲れを週末にレンタルビデオでも見て、精神的疲れを解消してもらいたいと思い、良質な映画の映画評をおもしろおかしく書いていました。

この「少年」という映画を題材にした映画コラムは、内容がシビアで正直に言うとおもしろおかしく文章を書けませんでした。

ただ、映像美に関しては、日本各地の風景を美しく撮影していたので、疲れ果てている学生さんに観てもらいたと思い、紹介する映画の一つにしました。

 大島渚監督の映画は沢山観ましたが、他の映画は紹介しませんでした。

僕にとってはこの「少年」という映画が大島渚監督の映画の中では一番、好きな映画だったので、題材としました。
 
以上、「土曜の夜はこれを借りろ」③ (少年)
フォローワーさん1992人到達記念、1992年に書いていた文章


くだらない内容ですが、ブログに載せます。

2015年4月26日日曜日

「土曜の夜はこれを借りろ」② (ブリキの太鼓) フォローワーさん1992人到達記念、1992年に書いていた文章

「土曜の夜はこれを借りろ」② (ブリキの太鼓)
フォローワーさん1992人到達記念、1992年に書いていた文章
 

 Twitterのフォローワーさんが1992人になったので、僕が1992年に書いていた文章を公開しています。

 先日は、スペイン映画「アタメ」という映画を題材にした映画コラムでしたが、今回はドイツの作家ギュンター=グラス氏の著作「ブリキの太鼓」を原作にしている映画を題材にした映画評論コラムを公開します。

 「ブリキの太鼓」

 オスカルの母親が生のニシンをひたすら食い続け、やがて死に果てるシーンはこの映画をよく表しているよ。
 とにかくドイツという国の人々の考えていることはよくわからん。何がそこまで訳をわからなくしているかと言えば、やっぱりその厳しい倫理観だということになるんだろうな。厳しい倫理観という虚構の中に存在するあのイヤラシさを又、ドイツ人は笑い飛ばして表現できないから、こんな歪んだ名作が作られることが可能になるんだ。
 大体、オスカルは生まれた時からドイツ人の裏側を知っているんだよ。あんな美人の母親の腹に宿っちゃって、しかも三島みたいな早熟な天才だったオスカルは母親の子宮にいたときから記憶があるときやがる。それじゃ、あの厳しい倫理観の裏側のイヤラシさをこの世に出てくる前から知っちまっていたということになるもんな。だからオスカルは何があっても感情を出さない。そして、どうにもならいときに伝家の宝刀ブリキの太鼓を持ち出してやりきれない叫びを上げるんだ。
 まぁ、こんな映画を見て物知り顔に解説しているような奴とはドイツ人でないかぎり友達になりたくないね。何しろ、突然、生のニシンが欲しいと言われたら恐ろしいからね。

以上が、「an(デイリーアン=日刊アルバイトニュース)に掲載された僕の文章です。

何度も書きますが、当時の学生は、普通にアルバイトをしていました。
僕も良く、アルバイトをしていました。
アルバイトニュースには大変お世話になったので、アルバイトニュースに僕の文章が掲載されたことは嬉しかったです。
アルバイトをせざるを得ない貧乏学生たちに良質な映画を見てもらい、日々のアルバイトの疲れを週末にレンタルビデオでも見て、精神的疲れを解消してもらいたいと思い、良質な映画の映画評をおもしろおかしく書いていました。

 この映画、「ブリキの太鼓」の原作はドイツの偉大な作家、ギュンターグラス氏で、ニュージャーマン=シネマの一つとして撮られた映画だったと思います。

 僕らが学生時代を過ごした1980年代後半は、映画など流行っていました。僕も、劇場でも沢山映画を見ましたし、レンタルビデオ屋さんで映画ビデオを借りて、良く見ていました。

 この「ブリキの太鼓」は劇場で観たものではなくレンタルビデオで借りて自宅で観た映画だったと思います。

 レンタルビデオ屋さんに、名作が沢山置かれていた時代だったので、「an」に僕の「ブリキの太鼓」の紹介映画批評コラムが掲載されたことは嬉しかったです。

以上、「土曜の夜はこれを借りろ」② (ブリキの太鼓)

フォローワーさん1992人到達記念、1992年に書いていた文章

くだらない内容ですがブログに載せます。







2015年4月25日土曜日

「土曜の夜はこれを借りろ」① アタメ フォローワーさん1992人到達記念、1992年に書いていた文章

 Twitterのフォローワーさんが1992人になったので、僕が1992年に書いていた文章を公開してみます。
 アルバイト情報誌「デイリーアン」におすすめ映画評論のようなコラムを書いていました。
コラムのタイトルは「土曜の夜はこれを借りろ!!」
でした。

当時はレンタルビデオが全盛の頃で、若者は皆、レンタルビデオ屋さんで、映画のビデオとか借りて、週末を乗り切っていました。

僕が「an」に書いた映画コラムの題材にした映画の一つは、

「アタメ!!」という映画でした。

以下、「an」に掲載された僕の文章です。

 最近、赤ら顔の男がめっきり減ってきているのはどうしたことだろうか。みんな燃えてくるものがないのだろうか。そりゃあ、女の子からすればキレイな顔した男の子がかわいいんだろけど、やっぱり男に生まれたかぎり、たまには頭に血を昇らせるぐらいの血の騒ぎっているのは欲しいものである。
 だいたい頭というのは首から繋がっていているものであって、その姿っていうのはある意味で非常に男性的なのであり、その頭に血が昇らないっていうのはやはりヤバイのだ。それは簡単に言ってしまえば精神的インポだということになる。
 この「アタメ!」という映画はそんな閉塞的状況に生きている現代の男性たちへの叱咤の映画だ。主人公はラテンの血の注入された燃えたぎった頭を持つ若者。舞台は情熱の国スペイン。彼は若い時に孤児院に引き取られ、以来、精神病院に入院。二十三歳にしてようやく退院を許され、憧れの女性の元へ。振り向いてくれない彼女へあの手この手でアタックしても彼女はソッポを向いたままだったてんで、最後の禁じ手「アタメ!」によって彼女をモノしてしまう、というお話である。
 まあ、今の日本じゃいろいろと障害は多くこう簡単に「アタメ!」とはいかないだんろけど、そんな弱気の人は「アタミ」の温泉でも入って、「アタマ」に血を昇らせればちょっとは気が触れて、「アタメ!」、っていう言葉ぐらいは叫べるかもしれないのである。

以上が、「an(デイリーアン=日刊アルバイトニュース)に掲載された僕の文章です。

当時の学生は、普通にアルバイトをしていました。
僕も良く、アルバイトをしていました。
アルバイトニュースには大変お世話になったので、アルバイトニュースに僕の文章が掲載されたことは嬉しかったです。
アルバイトをせざるを得ない貧乏学生たちに良質な映画を見てもらい、日々のアルバイトの疲れを週末にレンタルビデオでも見て、精神的疲れを解消してもらいたいと思い、良質な映画の映画評をおもしろおかしく書いていました。

「アタメ」という映画も、僕が当時、観ておもしろかった映画だったので、紹介する映画の一つに選んでいました。

毎日、毎日、学業とアルバイトに追われる、苦学生にはせめて週末だけも、おもしろいことを考えてもらえれば思っていました。

以上、「土曜の夜はこれを借りろ」フォローワーさん1992人到達記念、1992年に書いていた文章


くだらない内容ですが、ブログに載せます。
アタメ/私をしばって!
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2015年4月24日金曜日

「ブラマの水の味」

「ブラマの水の味」

 199012月~19912月にかけて、インド領チベット文化圏のアルナチャルプラデシュ州に赴き、アルナチャルプラデシュ州を流れるブラマプトラ川の川下り遠征に参加した時に書いた文章が、日本ヒマラヤ協会から、出版されている、

「神の河 ブラマプトラの激流を下る」

 という小冊子に掲載されています。

 以下、僕の書いた文章です。

「ブラマの水の味」というタイトルで文章を書いています。

 ブラマの水の味

 その日は朝から嫌な予感のする日だった。川下りメンバーである関口君が腹痛のために朝になって急にボートに乗れないと言い出したのである。私と関口君は、2漕あるボートのうちの一方のボートに日本側隊員として一緒に乗っていた。彼は早稲田大学フロンティアボートクラブの幹事長を務めただけあって、川下りに関しての知識は1歳年上の私よりも豊富であり、それゆえに正確な判断の下せる頼りになる男だった。その彼が、早朝、何度もきじうちのために草むらに向かい、様子が変だった。結局、腹痛の状態は悪いらしく、ボートに乗らないことになった。
 考えてみると、関口君の腹痛の原因は、昨日、トゥティンという町に滞在した際に食べた、豚肉の脂身だと私は思った。アルナチャル・プラデシュと呼ばれるこの地域においては、現地の人間は、日本人と容姿が似ており、それ故かどうか判断できないが、性質も似ているように思われ、客人が来訪した際のもてなしぶりは非常に良い。しかし、「過ぎたるは及ばざるがごとし」、という格言が当たっているのか、たいそうなもてなしというのは時には閉口するものである。チャンに始まるこの地方のもてなしは、それほど食べ物が豊富でないせいかい、食べ過ぎで辟易するということはない。何が困るかと言えば、慣れない食べ物を、これはご馳走だといって勧められるときである。
 私たちもそうであった。私と関口君は、トゥティンに滞在した際には、チベット仏教(ラマ教)のゴンパのある、コミュニティ(現地の人がそう呼んでいた)に遊びに行った。そして、そこで知りあった人の家に招待された、私たちはその親切に嬉しくなり、彼らのもてなしを喜んで受けた。まず、チャンから始まり、みかんが出て来て、次に日本酒に似ているアポンという酒が出て来た。私たちが夜に備えて(夜には村の若い女性たちとのダンスが控えていた。)チビリチビリとゆっくりと飲んでいると、壁にダライ・ラマの写真と一緒に何か獣の皮が掛けられているのが目に入った。私と関口君が、「あれは何かな」と言い合っていると、その家の夫婦がそれを見せてくれて、「これを食べるか?」と聞いてきた。私たちは食べていみたいと思い、「食べる」と返事をした。彼らは、それをナイフで切ってくれて、私たちに勧めた。皮が付いているそれは豚の脂身だった。少々、生臭い匂いがするが、せっかく勧めてくれたものだと思い、ちょっと噛んで飲み込んだ。
 それが迂闊であった。彼らはそれがうまくてすぐに食べてしまったのか、又、新たに、先ほどの2倍位の大きさの脂身の切れ端を勧めてきた。私は生臭さが鼻につき、食べるのをためらっていたが、関口君が気合いで一思いに食べてくれた。おそらく、この豚の脂身(結構、生に近かったと思う)が、関口君の腹痛の原因となったと思う。
 このようなことから、関口君はボートに乗らないで、インド側の予備隊員が代わりに乗ることになった。その日、空はどんよりとした曇り空で、私も少々下痢をしていて、朝から気分は悪かった。ラフティングガイドが、「カズ(私のニックネーム)今日は元気がないな」と声をかけてきたが、私は面倒臭く「静かなのは日本人の心だ」といい加減な返事をした。川は余り大きな瀬もなく、のんびりと進んでいた。昼を過ぎた頃に、瀬が見えたので、下見のため、ボートを岸につけた。岸から見るとその瀬は4級程度に見えた。
 私は。ラフティングガイドのコース選択についての説明も詳しく聞かないで、この程度なら下れるだろうと思っていた。総隊長であるチャモリさんが写真を撮りたいというので岸に残し、ボートを出した。
 激流を下る前の、勇気を鼓舞するかけ声を皆で叫び、いつものようにガイドの誘導で瀬の前のトロ場を漕ぎ出した。この瀬を下る際には、私の乗っていたボートが先に行った(今回の川下りでは、転覆する際の安全確保ために2漕で下っていた。)
 瀬の入り口から、思っていたより波は大きかった。この時点から、私はパドリングで必死で、何も考えていなかった。波は大きくなる一方だった。左前のポジショニングであった私の目の前には、水の壁が出来ては消えしていた。瀬に入り込むとパドルは役に立たなくなった。ガイドは、「オーバーフロント!」と叫んだ。私は身をボートの先端部に移動させた。波に操られるままでボート操作は不可能な状態だったのだ。
 次にガイドは「オーバーライト!」と叫んだ。私は身をボートの右側の縁に移動させた。4回目くらいの大きな波が迫ってきた時、ガイドは、「ドロップ」(身をボートのそこに沈めて、川に投げ出されないようにすること)と叫んだ。私は、右側から、自分のポジションの左前に移動して、身を沈めた。ボートが右斜の状態で、もろに波に突っ込んでいった時、ボートが大きく左側に傾いた。気がついてみると、私はボートから投げ出され、波に飲み込まれていた。
  何とか、ボートは転覆しないで、私の前にあることがわかったので、身をゆすらせて水をかき、ボートにつかまった。周りを見ると、7人全員、川に投げ出されていた。まず、2人をトロ場で助け、残る一人に右側の岸に泳いで上陸しろといって、私たちは左側の岸にボートを着けて後発隊を待った。
 後発隊も3人が川に投げ出された。そのうち2人は、日本側隊員である八島さんと中谷であった。八嶋さんは本来ヒマラヤ登山をしている方だが、今回、はじめて川下りに参加したのである。私は、その八嶋さんが川に投げ出されたので心配したが、それほどショックの表情も見せないで、私たちのボートまで流されてきた。やはり山で修羅場を経験している人は、この程度のことでは動じないものかと感心していた。八嶋さんは流されてきたが、もう一人の中谷は流されてこない。
 彼は私と同じサークルの同期であるが、体力はかなりのものを持っている。中谷は大丈夫だろうと思ったが、なかなか流れてこない。彼は、流れが渦を巻いているところにはまりこみ、抜け出せないのでいたのである。なおかつ、川に投げ出された際に痛めていた踵を岩にぶつけたらしく動けない様子だった。彼がはまり込んでいる、渦を巻いている場所の手前までインド側の隊員が岩づたいにいって中谷を救出した。中谷はかなり水を飲んだらしく、しばらくは口も聞かずにいて、気分が悪そうだった。しかし、インド側隊員の苦笑いから嵩じた大きな笑い声に、苦笑いで返事をしているうちに中谷も元気になった。
 中谷もプラマプトラの水をかなり飲んだが、私も川に落ちた時にかなり飲んだ。チベットのカイラス山の麓に源流を持つこの川の水は聖なる水なのかもしれない。しかし、信仰のないものにとっては単なる水である。そのような自分が見えたとき、急に自分のやっている川下りが恐ろしくなった。

以上が、「神の河 ブラマプトラの激流を下る」という冊子の、P36,37に掲載されている僕の1991年の文章です。

現地の方々にとっては、山などは山岳信仰の対象でした。
僕は早稲田大学探検部で海外の山などにも行きましたが、現地の方々に比べると装備などでは上回りますが、体力、土地勘、自然に対する五感などでは到底及ばないと痛感しました。

現地を流れるプラマプトラ川も現地の方からすると、貴重な生活用水でした。

普段、僕らが飲んでいる水も、水源はあると思います。

気軽に飲んでいる水も、貴重な水だと思って、有り難みを感じて、口にした方が良いかもしれません。

このプラマプトラ川川下りのことは朝日新聞にも取り上げられ、朝日新聞のスポーツ欄の記事にも僕の名前が掲載されました。


以下、朝日新聞 1990年(平成2年)12月19日水曜日のスポーツ欄に掲載された記事です。


「未踏峰登山・“なぞの川”下り」日印隊、ヒマラヤ挑戦

 日本ヒマラヤ協会(HAJ)は今冬から来春にかけて、ヒマラヤに二つの登山・探検隊を派遣する。世界第三位の高峰カンチェンジュンガ(8,598)に未踏の東壁新ルートから無酸素で挑む一方、もう一隊は世界第六位の大河プラマプトラの未踏査地区を含めた1,200㌔をゴムボートで下る。いずれも、世界初の試みで、インド・チベット国境警備隊(インド)と合同隊を組む。
 カンチェンジュンガ東面(シッキム側)は政治的理由で、戦後、インド隊を除いてはずっと外国隊の立ち入りが禁止されてきた。このため、各国隊はネパール側から挑んできたが、HAJは十数年にわたってインド政府に打診を続けて、今回ようやくシッキム側からの登山許可を取得した。
 隊員は日印双方とも女性二人を含め各十一人。日本側は尾形好雄隊長(42)、名塚秀二副隊長(36)が率いる。明年二月末、ガントク(シッキム州)に集結し、三月上旬、ゼム氷河グリーンレークにベースキャンプを設営したあと五月上旬の登頂を目指す。
 HAJ隊は81年、五つの峰から成るカンチェンジュンガ連峰の初縦走を試みたことがある。縦走には失敗したものの、主峰と西峰に同時登頂を果たしている。尾形隊長はこのとき縦走隊の指揮をとり、西峰に登ったほか、マモストンカンリ(7,526)、ギャラペリ(7,151)などの未踏の難峰に初登頂。名塚副隊長も今夏、チョゴリ(K2=8,611)に困難な北西壁から登頂したベテラン。隊員も世界の高峰登頂者を数多くそろえている。
 プラマプトラ川はチベットに源を発し、ヒマラヤ東端を貫通してベンガル湾に注ぐ。いまも、地図上の空白部を残し“なぞの川”といわれる。下降はインド7人、日本4人の編成。エベレスト登頂者の八木原圀明氏(44)が副隊長として参加するほか、アラスカのユーコン川などの下降歴を持つ上原和明さん(23)ら三人の早大生も激流に挑む。
 一行は一月初旬、中印国境から、下降を開始し、一月末、バングラデシュ国境に到着の予定。

 可能なルートは探す
 稲田定重HAJ理事長の話
 カンチェンジュンガ東壁は、だれも手を触れたことがない未知のカベ。写真でみた限り、険しすぎて登れそうもない感じだが、なんとか登頂可能なルートを見つけ、日印で力を合わせて成功させたい。こんどのシッキム側からの入山は特例で、解禁になったわけではない。

以上、『プラマの水の味

くだらない内容ですが、ブログに載せます。

ヒマラヤ協会から出版された冊子、「神の河 プラマプトラの 激流を下る」は国会図書館に所蔵されています。

                     本の表紙はこちら
                         
                          ↓











 





2015年4月22日水曜日

朝の挨拶、「ブログ見てます。」

朝の挨拶、「ブログ見てます。」


 今朝、近所を歩いていたら、道を歩いている人が、

通行人の人に、

「ブログ見てます。」

と話してかけていました。

東京などの、地方から出てきている人が多い都市では、ご近所のコミュニケーションも、
ネットを通じて、ブログを読んでいたりして、

「ブログ見てます」

とか、声を掛けて、コミュニケーションを取るのも一つのコミュニケーションの形なのかなと思いました。

とかく、面識のない人が多い、都会などでは、ネットを通じて、ブログなどを見つけて、ブログを読んでから、その人を知ってから、コミュニケーションを図るのも一つのコミュケーションの取り方なのかなと思いました。

 ネット上には、確かに危ういサイトも多くありますが、これだけ、ネットが普及してくると、ネットでよく調べてから、人と接するのも一つの方法だと思いました。

以上、朝の挨拶、「ブログ見てます。」


くだらない内容ですが、ブログに載せます。

2015年4月21日火曜日

「迷惑メールの対処法を教わった」

「迷惑メールの対処法を教わった」

今年の2月から、携帯のメールへの迷惑メールが多くなっていたので、近所の携帯のショップに相談に行ってきました。
キャリアのメールアドレスに迷惑メールが沢山来ているので、どうしたら良いのかと尋ねました。
ショップの店員さんは、スマホのページからメール設定について教えてくれました。
小さな画面から、メール設定をします、
セキュリティIDがキャリアのメールに届くので、その数字を入力してくださいとのことでした。
メールの受信箱を見てみると、メールは来ていません。
ショップの店員さんにメールが来ていないのですがと尋ねたところ、迷惑メールにメールがあるかもしれませんとのことでした。
迷惑メールの受信箱を見てみると、キャリアからのセキュリティの数字をが添付されたメールがありました。
迷惑メールを開いて、セキュリティの番号を確認し、スマホのページに入力。
これで、スマホにメールに対する、設定が完了。
迷惑メールの受信箱のすべてを選択して、削除を選択します。
この作業で、迷惑メールは全部削除されました。
わずか10分ほどのショップの店員さんとの作業でしたが、スマホの中の迷惑メールが全て削除出来ました。
スマホの操作はショップの店員さんは慣れていて、作業はスムーズに行われました。
スマホの操作だけに多大な時間を取られるのは時間が無駄だと思いました。
ネットで自分でスマホの操作を調べるのも良いですが、面倒だったらショップの店員さんに尋ねたほうが作業は早く済むかもしれません。

以上、「迷惑メールの対処法を教わった」


くだらない内容ですが、ブログに載せます。