「4月は1日平均7631歩歩いていたようだ」
長期間のコロナ禍で慢性的な運動不足で、体調が悪いので、少しずつでも歩く歩数を増やしていきたいと思っています。
こらからも少しずつ、歩く歩数を増やしていこうと思っています。
出来れば1日1万歩を目標にしていきたいと思っています。
毎月、毎月、 同じようなことを書いていますが、4は1日平均7631歩歩いていたようなのでブログを書いておきます。
以上、「4月は1日平均7631歩歩いていたようだ」
ブログに載せます。
「4月は1日平均7631歩歩いていたようだ」
長期間のコロナ禍で慢性的な運動不足で、体調が悪いので、少しずつでも歩く歩数を増やしていきたいと思っています。
こらからも少しずつ、歩く歩数を増やしていこうと思っています。
出来れば1日1万歩を目標にしていきたいと思っています。
毎月、毎月、 同じようなことを書いていますが、4は1日平均7631歩歩いていたようなのでブログを書いておきます。
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「船戸与一さんを悼む」読売新聞 西木正明
早大探検部なる、世の親御さんにとっては出来たら忌避させたい部活で出会い、二人だけでアラスカで越冬したこともある。出会いから早半世紀。その間年齢で四歳、学年では一年次上のわたしは、世間的意味合いにおいてはずっと先輩だった。
だが実態は逆で船戸とわたしの関係は。終始下剋上的だったと言っていい。冒頭の「またかよ!」もその典型である。もうずいぶんと前、船戸の御尊父が亡くなられた時のこと。金融界の責任のある立場であった船戸の御尊父は、私ども仲間としても尊敬すべき存在であった。
そこでせめて気持ちだけでもと、仲間内でわずかな香典を集めて船戸に託した。しかるにその貧者の一灯に対して、葉書一枚の反応もなかったのである。これはおかしいということになり、ある時安酒場で、仲間のひとりがさりげなく聞いた。
「大変だっただろうが、落ちついたか?」
船戸がうなずいて、
「ああ、おかげさまで。頂いた志はまちがいなく仏前に報告しておいた」
このひと言で、皆がぴんときた。
「さてはお前」
反応がないのは当然で、船戸はその香典袋をたずさえてゴールデン街あたりを徘徊し、ご尊父を偲んで一人暮らし弔い酒を飲んだというのが落ちだった。
そこで冒頭の「またかよ」だが、およそ5年ぐらい前、突然船戸から封書が届いた。ふだん盆暮の挨拶も省略するような相手からの封書である。なにごとと思いつつ開封して、さっと目を通して仰天した。
この度自分は医師によって肺がんを宣告され、余命は長くて半年と宣告された云々。
驚きつつ電話をかけると、存外元気そうに淡々と自分の病状を話すのを聞いて、なんとなく安心した。結果的に彼は医師の宣告よりずっと長い年月を生き続け、全9巻におよぶ大作『満州国演義』(新潮社)を完成させた。
この間の彼の病状と心情を思う時、その凄まじい精神力には、文句なしに脱帽せざるを得ない。ゆえにいまさら、船戸与一の訃報などに接しても実感がなく、「またかよ!」のひと言しか出てこないのだ。
以上、「船戸与一さんを悼む」読売新聞 西木正明
ブログに載せます。
「船戸与一さんを悼む」西木正明
ここでの暮らしは文字通りのサバイバルだった。とりわけ大変だったのは排泄物の始末。
エスキモーをはじめとする北方少数民族は基本的に固定トイレを持たない。夏場はともかく、冬は凍りついて汲み取り不可能になるからだ。わたしたちも地元の流儀に従い、部屋の片隅に置いた石油缶を、おまる代わりにして用を足した。
満タンになると、指定された場所に捨てに行くのだが、これがなかなか大変だった。ウェールズの場合、冬場は岸辺から百メートルほど沖合の海上が捨て場で、凍結して滑りやすい海氷上を、重い石油缶をぶら下げて歩く。晴天でも風の強い日は、一つ間違うと横転して飛沫をかぶることになる。ましてブリザードが吹き荒れる荒天下ではおおごとだった。
たったふたりで日課の気象観測と沖合の海氷調査を行いながら、こうした日常の雑事もこなした。文字通り鼻面突き合わせての日々だったのに、まったく揉めなかったのは、生来おおらかだった船戸と、鈍感の権化のようなわたしという組み合わせだったからだと思う。
前年から二冬連続の越冬だったわたしは、酷寒が少し緩んだ三月はじめ、交代要員と入れ替わりに、一足早く帰国することになった。
凍結した海氷を滑走路代わりにして到着したブッシュプレーン(郵便飛行)に乗り込む時、わたしは船戸に尋ねた
このやりとりですべて通じた。ノームはウェールズからおよそ百五十キロほど東の人里で、十九世紀末のゴールドラッシュ時は人口が二万人を越えた。スーパーでナニを購入し、翌日朝のブッシュプレーンに託すつもりで、船戸宛に電報を打った。
当時アラスカ北極圏の電報は独特の方法で配信された。毎日夕方六時半から十五分ほどかけて、地元ラジオ局の「ターミガン(雷鳥)テレグラム」なる番組が、その日託された電文を、およそ北海道ほどの広さの地域全域に向かって読み上げたのだ。
ここから先は後日、日本に帰国した船戸から聞いた話。会うなりあの温厚な船戸が舌鋒鋭く詰問した。
「ターミガンテレグラムでマサさんがグッドスタッフ(いいもの)を送ったなどと流したものだから、沖合に飛行機が着く度に酒飲みの親父どもが押しかけてきて、ケンジ、俺にも飲ませろと攻めたてる。しかも肝心のナニはついに着かずじまいだった。ひどいよ」
当時エスキモー村は、酒類持ち込み禁止の所が多かった。そこに「グッドスタッフを送った」という放送が流されたのだから大変だったと思う。ナニ未着の理由は買ったわたしが全部飲んでしまったから。ちなみにマサはわたしの愛称で、ケンジは船戸の本名のファーストネーム。
船戸は物事にこだわらない恬淡とした性格だったが、この一件についてはとても執念深く、
物書きとしての船戸与一は見事な生きざまを全うした。最後の五年余りは病魔との壮絶な戦いの最中、全九巻にも及ぶ大作『満州国演義』(新潮社)を書き上げた。わたしも遠からずそっちへ行くから、またナニを飲もうぜ。合掌。
(にしき・まさあき=作家)
作家船戸与一さんは22日、胸腺がんのため71歳で死去。
「早稲田大学探検部創設経緯」
2010年2月22日に早稲田大学探検部OB会から届いたメールに故惠谷治さんの書かれた「早稲田大学探検部創設経緯」が添付されていました。
以下のようなものでした。
「早稲田大学探検部創設経緯」
2010年2月21日第3稿
2010年2月12日第2稿
2010年2月9日第1稿
資料と証言で再現する探検部OB会の創設から現在まで
(「資料でみるOB会の創設経緯と不明点」を改題)
惠谷 治
早大探検部(探検研究会)出身のOB、OGたちが、大学を出た後に創設した最初のOB組織は、残存する以下の資料から、発足した「探友会」だったことが明らかである。
「翌日〔1965年5月18日〕、早稲田戸塚町の珈琲店『ナポリ』において理事の職務を決め、探友会発足2年目を迎えて、ますます活動の充実をはかることを確認した次第である」(探友会旬報『アポロ1号』ガリ版刷り。発行年月は記載されていないが1965年であることは明らかで、文面から6月頃発行と推定される)
発足時期は明示されていないが、昭和39(1964)年4月だったことは、ほぼ間違いないだろう。
『アポロ1号』の冒頭には、次のような記述がある。
「昭和40年度第1回探友会総会は、5月17日、母校大隈会館で開かれた。和田理事長から、39年度の活動報告、神村理事から会計報告等が行われた後、39年度理事会を解散した(ここでビール乾杯)。ひき続き、40年度新理事を投票によって選出した」
総会で選出された新役員は以下の通りである。
理事長 和田匡弘、副理事長 神村敏夫(会計)、岩崎雅典
理事 西野佳秀(企画)、川瀬浩邦(渉外)、占部圀弘(書記)、塚田紀昭(会報)
竹内 謙(庶務)、並木瑛一郎(庶務)
監査 梶川道夫、市川公一
「拝啓
OB会員の皆様には、益々御清栄のことと御慶び申し上げます。先にお知らせした『探検部OB会総会』は去る9月27日、虎ノ門葵会館で盛大に行われました。出席者は、鳥取、長野、新潟、札幌の遠方から駆けつけてくれた山枡(旧姓田中)、塚田、小坂、渡辺の4会員を含め49名を数えました。
しかし、この数年のOB会の沈滞を反映してか、会長選出(神原前会長のボルネオ転勤以来空席となっていた)に先だって、OB会のあり方に関して議論が紛糾し、混乱状態のまま各期互選の代表幹事会に一任することで解散となりました。
その後、10月28日、第1回幹事会が新宿イノヤマに於いて行われ、次の事項を討議決定致しました。
1) 会長選出及びOB会の組織について、まず会長候補を選出し、幹事会において十分な討議を重ねた上、新組織を発足させる。
2) 会員名簿作成の件及び新役員・総会の通知について。
3) 富士川事故対策費援助の件(別紙)
出席者 1期 石原、2期 田辺、3期 岩崎、4期 佐藤(和)、5期 原田、6期 竹内、
7期 中井、8期 伊藤
以上、報告します。
敬具
11月27日 早稲田大学探検部OB会
OB各位」
「1965年3月に、私は3年のネパール滞在を終えて帰国しました。ネパールでの研究を1年かけて『ネパールの歴史と社会』という題名でまとめ、外務省に報告を提出しました。これは、幸いに外務省が認めるところとなり、『外務省調査月報』に3回にわたり発表されました。
その後、わたくしは何らかネパール関係の仕事をしたいと思っていたのですが、何もなく、結局、石油関係の職につきました。これは、わたくしが尊敬していた叔父の推薦によるものです。『石油資源開発』という通産省系の会社に、1966年12月に途中入社したのです。石油資源開発(株)では、海外本部契約課というところで、石油産業のいろはから勉強しました。幸い私の隣の席に、早稲田大學文学部出身のさる先輩がいられ、親身に教えていただいたのです。
石油資源開発に入社した私は、石油関連の勉強をすると、まずは現場を経験してこいと言われ、1967年の4月にインドネシア、東カリマンタン州に新設された同社の東カリマンタン鉱業所に転勤となりました。鉱業所といっても何もなく、国営の石油会社であるプルタミナ社の事務所、住居を間借りしていた先遣隊4名の1人でした。そこから帰任したのは、1968年の夏でしたが、その後、子会社のインドネシア石油(株)で働き、そして1969年4月に石油開発公団(のちの石油公団)に移籍となったのです」
「探検部OB会会長として何をしたかの記憶は、ほとんどありません。期間は1966年4月から1年間でしょう。1967年4月には私はボルネオ島に行っています。1966年には私は報告書まとめで忙しく、また、同年12月からは石油関係で多忙であり、ほとんどお役にたたなかったと思われます」
「早大探検部OB・OG会1998年度総会のお知らせ
<略>今回は、長年にわたりOB会活動にご尽力いただきました梶川道夫氏(1期生)が諸般に事情により、会長を退かれることになりました。ついては、これを機に会長他の役員体制を本総会において一新する所存です。<略>
1. 日時 6月3日(水)18:30〜21:00
2. 会場 大隈会館30号室
<略>
なお、探検部長の島田征夫先生(法学部教授)は98年3月末でもって退任され、4月から宮口侗廸先生(教育学部教授)が部長に就任されました。」
1959年 探検部初代部長に関根吉郎理工学部教授(1959年4月〜1986年3月)
1964年 探友会初代理事長に和田匡弘氏(1964年4月〜66年3月)
1966年 探友会が探検部OB会に改編、初代会長に神原達氏(1966年4月〜67年3月)
1969年 6月28日、富士川川下りで2年の松井久が遭難死
1970年 探検部OB会2代目会長に川瀬浩邦氏(1970年4月〜1977年?)
1970年 早稲田大学探検部OB会名簿(1970年6月現在)発行
1972年 早稲田大学探検部OB会名簿(1972年6月現在)発行(事務局:藤野孝博)
1973年?探検部OB会ラグビーチーム「ゴルゴ」を結成
1977年?探検部OB会3代目会長に鈴木正昭氏(1977年?〜?)
1981年 早稲田大学探検部OB会名簿(1981年1月現在)発行(発行人:事務局)
1980年 西木正明が『オホーツク諜報船』で第7回日本ノンフィクション賞新人賞受賞
1985年 船戸与一が『山猫の夏』で第6回吉川英治文学新人賞を受賞
??? 探検部OB会4代目会長に梶川道夫氏(?〜1998年3月)
1986年 探検部2代目部長に奥島孝康法学部教授(1986年4月〜1994年3月)
1987年 早稲田大学探検部OB会名簿(1987年12月現在)発行
1987年 ペレストロイカの下でOB会と現役の合同でベーリング海峡横断を再計画
1988年 西木正明が『凍れる瞳』『端島の女』で第99回直木賞受賞
1990年 創部30周年記念『早稲田大学探検部30年史』(1990年4月)発行
1990年 早稲田大学探検部OB名簿(1990年4月現在)発行
1990年 白神山地沢登りで平泰則(33期)が個人単独活動中に滑落死(8月)
1992年 船戸与一が『砂のクロニクル』で第5回山本周五郎賞を受賞
1994年 探検部3代目部長に島田征夫法学部教授(1994年4月〜98年3月)
1994年 西木正明が『夢幻の山旅』で第14回新田次郎文学賞受賞
1994年 岩崎雅典が『サシバ』で第36回科学技術映像祭内閣総理大臣賞受賞
1996年 早稲田大学探検部OB会員名簿(1996年8月現在)発行
1997年 OB会が現役2人をベーリング海峡偵察に派遣(2月14日〜3月25日)
1997年 アマゾン河筏下り隊の伊東千秋と宮下尚大がぺルー軍兵士に殺害(10月17日)
1998年 ぺルー事件に関し橋本首相の糾弾公告を『週刊ポスト』(2月6日号)に掲載
1998年 早稲田大学探検部アマゾン河筏下り隊合同慰霊祭(3月14日) 大隈小講堂
1998年 探検部4代目部長に宮口侗廸教育学部教授(1998年4月〜現在)
1998年 探検部OB会5代目代会長に岩崎雅典氏(1998年4月〜2007年3月)
1999年 創部40周年記念事業として企画コンペを実施
1999年 船戸与一の呼びかけで「北海道ラーメン探検行」(8月29日〜30日)
2000年 船戸与一が『虹の谷の五月』で第123回直木賞受賞
2000年 西木正明が『夢顔さんによろしく』で第13回柴田錬三郎賞受賞
2000年 創部40周年記念事業の「探検部収集品展」を早稲田文化週間(5月)に開催
2002年 奥多摩(峰谷沢・長久保沢)で2年の佐々木鉄矢が滑落死(5月12日)
2003年 奥島前総長慰労会で鶏冠山(1716m)登山(1月25日〜26日)19名参加
2003年 知床・羅臼岳(1660m)登山(9月20日〜23日)
2004年 屋久島・宮之浦岳(1936m)登山(10月30日〜11月1日)
2005年 台湾・玉山(3952m)登山(9月10日〜13日)
2006年 ボルネオ・キナバル山(4095m)登山(5月3日〜8日)
2006年 白神山地・白神岳(1235m)縦走登山(10月27日〜29日)
2007年 探検部OB会6代目代会長に矢作和重氏(2007年4月〜現在)
2007年 岩崎前会長慰労会で入笠山(1716m)登山(9月29日〜30日)
2007年 故・佐藤和也氏(7期)を偲ぶヒマラヤトレッキング(11月17日〜25日)
2008年 創部50周年記念神津島新人歓迎合宿に参加(5月4日〜6日)
2008年 創部50周年記念知床岬探訪(9月19日〜23日)
2009年 創部50周年記念探検部映像史『夢を食らい続けて50年』を制作
2009年 創部50周年記念モンゴル行(9月19日〜27日) 31名参加
2009年 創部50周年記念『早大探検部物語』をSAPIO誌で連載開始(10月14日号〜)
□探友会旬報『アポロ1号』(1965年。発行日不明だが5月発行と推定)OB会事務局
□1970年度早稲田大学探検部OB会名簿(1970年6月現在)OB会事務局
□1972年度早稲田大学探検部OB会名簿(1972年6月現在)OB会事務局 藤野孝博
□早稲田大学探検部OB通信(2)-(B)(1970年5月25日発行)中井・伊藤
□早稲田大学探検部OB通信(4)(1970年12月25日発行)中井・伊藤
□早稲田大学探検部OB通信(6)(1971年7月12日発行)手書き青焼き
□OB名簿 早稲田大学探検部(1987年12月)奥付なし
□早稲田大学探検部30年史(1990年4月発行)編集 OB会部史編集委員会
□早稲田大学探検部OB名簿(1990年4月現在)
□早稲田大学探検部OB会員名簿(1996年8月現在)OB会事務局・群像舎気付
□04年 in 屋久島(2004年)製作 岩崎雅典
□05年 in 台湾 早稲田大学探検部OB会玉山登山隊(2005年)製作 岩崎雅典
□KINABALU2006(2006年)製作 一瀬徹夫
□06年 in ボルネオ・キナバル登山(2006年8月)製作 岩崎雅典
□08年 in 知床 50周年記念知床岬探訪記(2008年)製作 岩崎雅典
□早稲田大学探検部OB会知床岬探訪記録(2008年9月19日〜23日)製作 天野猛仁
□創部50周年記念早稲田大学探検部OB会モンゴル隊報告書(2009年12月1日発行)
探友会初代理事長 和田匡弘(山の会出身1期)1964年4月〜1966年3月
1965年度 副理事長 神村敏夫(会計)、岩崎雅典
理事 西野佳秀(企画)、川瀬浩邦(渉外)、占部圀弘(書記)、塚田紀昭(会報)
竹内 謙(庶務)、並木瑛一郎(庶務)
監査 梶川道夫、市川公一
OB会初代会長 神原達(アジア学会出身1期)1966年4月〜1967年3月
OB会2代目会長 川瀬浩邦(6期)1970年4月〜1977年?
OB会3代目会長 鈴木正昭(7期)1977年?〜?
事務局(会計) 渡辺知子
OB会4代目会長 梶川道夫(1期)?〜1998年3月
副会長 岩崎雅典
1998年度 事務局 岩崎雅典、会計 中本信義
OB会5代目会長 岩崎雅典(6期)1998年4月〜2007年3月
副会長 上幸雄、石田哲郎
事務局 高橋丈夫、会計 中本信義
OB会6代目会長 矢作和重(12期)2007年4月〜
副会長 石田哲郎、太田肇
事務局 高橋丈夫、会計 中本信義
松井 久(14期) 1969年6月28日遭難死
西野佳秀(6期) 1977年×月×日事故死
竹内憲治(13期) 1983年×月×日病没
松本憲一郎(会友) ××××年×月×日病没
横田 清(1期) ××××年×月×日病没
加藤久彰(2期) ××××年×月×日病没
石原寿一(2期) ××××年×月×日病没
鈴木達治(5期) ××××年×月×日病没
今村公明(11期) ××××年×月×日事故死
橋本 隆(12期) ××××年×月×日
塩崎拓二(16期) ××××年×月×日病没
平 泰則(33期) 1990年8月×日遭難死
関根吉郎(部長) 1994年1月25日病没
伊東千秋(41期) 1997年10月18日遭難死
宮下尚大(41期) 1997年10月18日遭難死
木下誠一(8期) 1999年1月24日病没
古城 泰(18期) 2000年5月×日病没
駒井勇太郎(7期) 2001年×月×日病没
岡本則男(6期) 2001年2月16日病没
佐々木鉄矢(47期)2002年5月12日遭難死
渡辺知子(12期) 2004年1月10日病没(胸腺ガン)
佐藤和也(6期) 2006年12月15日病没
坂野 晧(13期) 2006年3月13日病没
梶川道夫(1期) 2008年1月25日病没
古賀美岐(32期) 2008年4月28日病没(高山病)日本電波ニュース
境祐一郎(10期) 2008年5月×日病没
山口昌之(3期) 2009年7月18日病没(膵臓ガン)
1959年度(1期)初代幹事長 和田匡弘(山の会出身1期)
副幹事長 梶川道夫(アジア学会出身1期)
幹事庶務係 佐藤文一(東南アジア研究会出身1期)
幹事企画係 戸原文雄(早大生協出身1期)
幹事渉外係 石原寿一(雄弁会出身1期)
幹事研究係 神村敏夫(ラテンアメリカ協会出身1期)
幹事記録係 羽島禎紀(海外移住研究会)
1960年度(6期)2代目幹事長 戸原文雄(早大生協3期)、副幹事長 武安誠正(4期)
1961年度(7期)3代目幹事長 武安誠正(4期)、副幹事長 田中(現・山枡)實(4期)
1962年度(8期)4代目幹事長 西野佳秀(6期)、副幹事長(庶務担当)川瀬浩邦(6期)、副幹事長(研究部門担当)中本信義(6期)の2人制
1963年度(9期) 5代目幹事長 鈴木正昭(7期)、副幹事長 竹内謙(7期)
1964年度(10期)6代目幹事長 二名良日(8期)、副幹事長 ______
1965年度(11期)7代目幹事長 安藤進(9期)→木下誠一(9期)、副幹事長 ___
1966年度(12期)8代目幹事長 木下誠一(9期)、副幹事長 ______
1967年度(13期)9代目幹事長 中井実(10期)、副幹事長 山崎篤(10期)
1968年度(14期)10代目幹事長 伊藤雅彦(12期)、副幹事長 ______
1969年度(15期)11代目幹事長 惠谷治(13期)7月辞任、副幹事長 坂野皓(13期)
1970年度(16期)12代目幹事長 小川渉(13期)、副幹事長 小寺重利(14期)
1971年度(17期)13代目幹事長 天野猛仁(15期)、副幹事長 成川順(15期)
1972年度(18期)14代目幹事長 辻本成昭(16期)、副幹事長 塩崎拓二(16期)
1973年度(19期)15代目幹事長 塩崎拓二(16期)、副幹事長 _____
1974年度(20期)16代目幹事長 丸門俊夫(18期)、副幹事長 高岡 護(18期)
1975年度(21期)17代目幹事長 井草和幸(退部)→伊藤和典(19期)、副幹事長 _____
1976年度(22期)18代目幹事長 窪田吉孝(19期)、副幹事長 鹿沼貞良(20期)
1977年度(23期)19代目幹事長 水谷直樹(21期)、副幹事長 加藤典康(21期)と荒内美子(21期。現姓・高岡)の2人制
1978年度(24期)20代目幹事長 渡辺光二(22期)、副幹事長 斎藤勝美(22期)と中西賢二(22期)の2人制
1979年度(25期)21代目幹事長 宮原克弘(23期)、副幹事長 太田 肇(23期)
1980年度(26期)22代目幹事長 大倉正寿(24期)、副幹事長 綾部昌利(24期)
1981年度(27期)23代目幹事長 矢島良久(25期)、副幹事長 馬場孝一(25期)
1982年度(28期)24代目幹事長 鈴木新介(26期)、副幹事長 重信秀年(26期)
1983年度(29期)25代目幹事長 田辺 泰(27期)、副幹事長 細沼信彦(27期)
1984年度(30期)26代目幹事長 美野真司(28期)、副幹事長 _______
1985年度(31期)27代目幹事長 佐藤英一(29期)、副幹事長 _______
1986年度(32期)28代目幹事長 中島木祖也(30期)、副幹事長 _______
1987年度(33期)29代目幹事長 高野秀行(31期)、副幹事長 高橋洋祐(31期)と内田真利子(31期)の2人制
1988年度(34期)30代目幹事長 向井 徹(32期)、副幹事長 吉澤基勝(32期)
1989年度(35期)31代目幹事長 森山憲一(33期)、副幹事長 清水博之(33期)と
田村修(33期)の2人制
1990年度(36期)32代目幹事長 森田健一(34期)、副幹事長 四倉幹木(34期)
1991年度(37期)33代目幹事長 小林竜夫(35期)、副幹事長 _______
1992年度(38期)34代目幹事長 遠藤史朗(36期)、副幹事長 ________
1993年度(39期)35代目幹事長 ________、副幹事長 _______
1994年度(40期)36代目幹事長 杉山栄一(38期)、副幹事長 水野真隆(38期)
1995年度(41期)37代目幹事長 ________、副幹事長 _______
1996年度(42期)38代目幹事長 大倉良太(40期)、副幹事長 鈴木修一郎(40期)
1997年度(43期)39代目幹事長 蔀 竜夫(41期)、副幹事長 島田陽磨(41期)
1998年度(44期)40代目幹事長 角幡唯介(42期)、副幹事長 黒澤 力(42期)
1999年度(45期)41代目幹事長 井上博登(43期)、副幹事長 野川貴史(43期)
2000年度(46期)42代目幹事長 佐藤友彦(44期)、副幹事長 丸中太郎(45期)
2001年度(47期)43代目幹事長 丸中太郎(45期)、副幹事長 宮崎善輝(45期)
2002年度(48期)44代目幹事長 友松裕介(46期)、副幹事長 牧 淳(46期)と荒井龍二(46期)の2人制
2003年度(49期)45代目幹事長 梅津悠紀(47期)、副幹事長 高橋恒太郎(47期)
2004年度(50期)46代目幹事長 馬上 寛(48期)、副幹事長 名真大気(48期)
2005年度(51期)47代目幹事長 鈴木邦和(49期)、副幹事長 米田有三(49期)
2006年度(52期)48代目幹事長 安藤 航(50期)、副幹事長 下村今日子(52期)
※探検部が弱体化していたため、幹事長よりも上位の「主将」を特設し、当時、早大探検部に属していた東京理科大の山田雅子が主将という実質的な幹事長だった
2007年度(53期)49代目幹事長 光永奏者(51期)、副幹事長 ________
2008年度(54期)50代目幹事長 大平祐嗣(52期)、副幹事長 ________
2009年度(55期)51代目幹事長 奥野将章(53期)→佐野洋輔(54期)、副幹事長 前澤陽平(54期)
2010年度(55期)52代目幹事長
以上、「早稲田大学探検部創設経緯」
ブログに載せます。