2022年4月28日木曜日

「船戸与一さんを悼む」読売新聞 西木正明

 「船戸与一さんを悼む」読売新聞 西木正明

  2015423日に、早稲田大学探検部OB会より僕のメールアドレスに届いたメールに添付されていた読売新聞2015423日朝刊の記事ブログに載せます。

  早稲田大学探検部7OBで直木賞作家の西木正明さんの書かれた船戸与一さんを追悼する文章です。

  記事は以下のような記事です。

  「船戸与一さんを悼む」読売新聞 西木正明

  422日朝、同業者にして大学部活の仲間でもある船戸与一の訃報に接して、思わず「またかよ!」といそうになり、慌てて言葉を呑み込んだ。常識的には不謹慎極まりない応であることに気づいたからだった。しかし、同じような状況のもとで彼の訃報を告げられたら、また同じ反応をしてしまいそうだ。

 早大探検部なる、世の親御さんにとっては出来たら忌避させたい部活で出会い、二人だけでアラスカで越冬したこともある。出会いから早半世紀。その間年齢で四歳、学年では一年次上のわたしは、世間的意味合いにおいてはずっと先輩だった。

 だが実態は逆で船戸とわたしの関係は。終始下剋上的だったと言っていい。冒頭の「またかよ!」もその典型である。もうずいぶんと前、船戸の御尊父が亡くなられた時のこと。金融界の責任のある立場であった船戸の御尊父は、私ども仲間としても尊敬すべき存在であった。

 そこでせめて気持ちだけでもと、仲間内でわずかな香典を集めて船戸に託した。しかるにその貧者の一灯に対して、葉書一枚の反応もなかったのである。これはおかしいということになり、ある時安酒場で、仲間のひとりがさりげなく聞いた。

 「大変だっただろうが、落ちついたか?」

 船戸がうなずいて、

 「ああ、おかげさまで。頂いた志はまちがいなく仏前に報告しておいた」

 このひと言で、皆がぴんときた。

 「さてはお前」

 反応がないのは当然で、船戸はその香典袋をたずさえてゴールデン街あたりを徘徊し、ご尊父を偲んで一人暮らし弔い酒を飲んだというのが落ちだった。

 そこで冒頭の「またかよ」だが、およそ5年ぐらい前、突然船戸から封書が届いた。ふだん盆暮の挨拶も省略するような相手からの封書である。なにごとと思いつつ開封して、さっと目を通して仰天した。

 この度自分は医師によって肺がんを宣告され、余命は長くて半年と宣告された云々。

 驚きつつ電話をかけると、存外元気そうに淡々と自分の病状を話すのを聞いて、なんとなく安心した。結果的に彼は医師の宣告よりずっと長い年月を生き続け、全9巻におよぶ大作『満州国演義』(新潮社)を完成させた。

 この間の彼の病状と心情を思う時、その凄まじい精神力には、文句なしに脱帽せざるを得ない。ゆえにいまさら、船戸与一の訃報などに接しても実感がなく、「またかよ!」のひと言しか出てこないのだ。

  (作家)

 

以上、「船戸与一さんを悼む」読売新聞 西木正明

 

 ブログに載せます。

 

 

 

 

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