「超人格者のエスピオナージ 西木正明」
メールには西木正明さんの書かれた記事が添付されていました。
記事は以下のような記事です。
ここしばらくそう言いたくなるほど、新聞にしろテレビにしろ、パソコンやスマホ関連のメディアにしろ、どこもかしこも、新型コロナウィルス関連のネタばかりが続いていた。
そんな日々にうんざりしていた4月3日午後、手元の携帯の着信音が鳴った。電話の主は、勉強好きで7年余りも学部在籍した筆者に、なぜか卒業証書を与えてくれなかった、早稲田大学の同期OBだった。
携帯を耳にあてると、挨拶を抜きにしていきなり言われた。
「今朝方ニックが亡くなった」
驚いて返事も出来なかった。
筆者も末席にいる、現代日本の探検冒険の人脈の中に、ニックという名の人物はひとりしかいない。英国出身で、日本に帰化したC・W・ニコルだ。
その彼の死を告げられて、すぐには信じられなかった。この半世紀ほどメディアに登場したニックは、それほど多岐にわたり活躍する存在だったからだ。
それにしても、と携帯電話を切りながら考えた。彼と最後に会ったのはいつだっただろうと。最初の出会いについては、よく覚えているのだが。
今や作家として、あるいは環境保全活動家として知られるニックとの出会いは、1964年の真夏だった。
場所はゾルゲ事件や阿部定事件の弁護で有名な、竹内金太郎弁護士邸。彼の孫が早稲田大学探検部員で、後に鎌倉市長になった竹内謙(故人)だ。親友という縁につけこんで、筆者らは都内にあるその豪邸で合宿していた。
ユーラシア大陸と北アメリカ大陸を隔てているベーリング海峡を、凍結時期に徒歩で横断する手段を把握することが、この合宿の当面の目標であった。
その先の狙いは、南北アメリカ大陸のインディアンやエスキモーと呼ばれている先住民族の御先祖が、日本人と同じモンゴロイド(蒙古系民族)であることを、子孫である筆者らが、モンゴルから南アメリカ大陸南端までを徒歩でなぞって証明すること。
この探検行動で最も大切な任務はベーリング海峡の、凍結した海を徒歩で横断して、はるか昔の先人たちの行動を再現することだった。
ニックにその旨を話すと、
「自分は今、日本大学で日本語を勉強中だが、君たち早稲田の探検部が、いにしえの民族大移動を再現しようとしていることを知って、すばらしいと思い、出来れば自分も参加したいと思った。なにか手伝えることがあればと思って、お邪魔した」
まさに渡りに船だった。ニックの登場は、その目標達成のシグナルのように思えた。
以後ニックは、筆者らの合宿に足しげく顔をみせ、いろいろと手伝ってくれた。なによりもうれしかったのは、われわれがベーリング海峡で越冬した時、面倒を見てくれる現地の人を紹介してくれたことだった。
半年後の1965年1月。筆者を含む3人の探検部員は、零下50度以下まで下がるベーリング海峡で越冬するため、貨物船に乗ってアラスカを目指した。
ニックが紹介してくれた現地人パイロットも、とても親切に筆者らを支えてくれた。
思わず笑ってしまったのは、その友人が米中央情報局CIAの腕っこきだったことである。
その彼は冗談まぎれに、
「ニックが君たちのことをわたしに託した時にこうも言っていた。君たちは日米安保条約に強く反対した学生運動のヒーローだ、と」
さらに、こうも言っていた。
「彼は私同様諜報機関の人間だから、君たちがベーリング海峡で見たことをソ連に伝える可能性があると思ったのかな」
その後筆者たちは、いつも落ち着いた紳士だったニックに、超人格者エスピオナージ(諜報員)というあだ名をつけた。彼は今天国で、いかなるスパイになっていることか。
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