「船戸与一さんを悼む」西木正明
ここでの暮らしは文字通りのサバイバルだった。とりわけ大変だったのは排泄物の始末。
エスキモーをはじめとする北方少数民族は基本的に固定トイレを持たない。夏場はともかく、冬は凍りついて汲み取り不可能になるからだ。わたしたちも地元の流儀に従い、部屋の片隅に置いた石油缶を、おまる代わりにして用を足した。
満タンになると、指定された場所に捨てに行くのだが、これがなかなか大変だった。ウェールズの場合、冬場は岸辺から百メートルほど沖合の海上が捨て場で、凍結して滑りやすい海氷上を、重い石油缶をぶら下げて歩く。晴天でも風の強い日は、一つ間違うと横転して飛沫をかぶることになる。ましてブリザードが吹き荒れる荒天下ではおおごとだった。
たったふたりで日課の気象観測と沖合の海氷調査を行いながら、こうした日常の雑事もこなした。文字通り鼻面突き合わせての日々だったのに、まったく揉めなかったのは、生来おおらかだった船戸と、鈍感の権化のようなわたしという組み合わせだったからだと思う。
前年から二冬連続の越冬だったわたしは、酷寒が少し緩んだ三月はじめ、交代要員と入れ替わりに、一足早く帰国することになった。
凍結した海氷を滑走路代わりにして到着したブッシュプレーン(郵便飛行)に乗り込む時、わたしは船戸に尋ねた
このやりとりですべて通じた。ノームはウェールズからおよそ百五十キロほど東の人里で、十九世紀末のゴールドラッシュ時は人口が二万人を越えた。スーパーでナニを購入し、翌日朝のブッシュプレーンに託すつもりで、船戸宛に電報を打った。
当時アラスカ北極圏の電報は独特の方法で配信された。毎日夕方六時半から十五分ほどかけて、地元ラジオ局の「ターミガン(雷鳥)テレグラム」なる番組が、その日託された電文を、およそ北海道ほどの広さの地域全域に向かって読み上げたのだ。
ここから先は後日、日本に帰国した船戸から聞いた話。会うなりあの温厚な船戸が舌鋒鋭く詰問した。
「ターミガンテレグラムでマサさんがグッドスタッフ(いいもの)を送ったなどと流したものだから、沖合に飛行機が着く度に酒飲みの親父どもが押しかけてきて、ケンジ、俺にも飲ませろと攻めたてる。しかも肝心のナニはついに着かずじまいだった。ひどいよ」
当時エスキモー村は、酒類持ち込み禁止の所が多かった。そこに「グッドスタッフを送った」という放送が流されたのだから大変だったと思う。ナニ未着の理由は買ったわたしが全部飲んでしまったから。ちなみにマサはわたしの愛称で、ケンジは船戸の本名のファーストネーム。
船戸は物事にこだわらない恬淡とした性格だったが、この一件についてはとても執念深く、
物書きとしての船戸与一は見事な生きざまを全うした。最後の五年余りは病魔との壮絶な戦いの最中、全九巻にも及ぶ大作『満州国演義』(新潮社)を書き上げた。わたしも遠からずそっちへ行くから、またナニを飲もうぜ。合掌。
(にしき・まさあき=作家)
作家船戸与一さんは22日、胸腺がんのため71歳で死去。
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