「チベットに行く前の1988年1月10日の日記 創造」
今日、国立競技場にラグビー大学選手権の決勝戦を見に行った。
早稲田は11年ぶりに優勝することができた。
俺がワセダに入学して早々に優勝できたことはまことにうれしいものである。
ワセダの堀越は何か運の強さのようなものを持っているような気がする。
これで俺もやっとワセダの大学生になったような気がした。
最近、なんとか俺も大学生らしくマージャンやパチンコをし、たばこも吸うようになった。
何か、二十歳を過ぎて去年の11月あたりから何かが変わってきたようである。
中学・高校と遊びらしい遊びもしなかった者としては仕方ないが、世間の非難を浴びることはやむをえないだろう。
しかし、未知の世界を少しでも減らしていきたい俺は、これからも良いも悪いもいろいろなことを経験していきたいのである。
人間が何かを創造するためには楽しいだけではできないと思う。
何かを成し遂げようと思ったときからその人の苦しみは始まるのかも知れない。なぜなら成功することは、失敗の山の上にあるからであり、挫折の末にあるからである。
また、才能が無ければ、ほとんど不可能なのかもしれず、そのまま死んでいく人間、あきらめて妥協する人間、忘れてしまう人間がいる。
俺は最近、後者の2つの方向に向かっているのかもしれない。
それが大人の世界だから。
しかし、忘れることだけはしたくない。
カミュはいう。シーシュポスは重い石を山の上まで上げていき、神はそれをまた平原へ落とす。
彼の毎日は、無意味な石を積み上げていることである。
俺は負けない。
僕の入学した早稲田大学のラグビー部が大学選手権で優勝し、喜んでいるころが分かります。
人間が何かを創造するためには楽しいだけではできないと思う。
何かを成し遂げようと思ったときからその人の苦しみは始まるのかも知れない。なぜなら成功することは、失敗の山の上にあるからであり、挫折の末にあるからである。
とも書いています。僕が何かを成し遂げようと思ったときからその人の苦しみは始まると思っていることが分かります。
先日、部屋の掃除をしたら、僕が早稲田大学探検部でチベットに行った1988年のDiary(日記)が見つかったので日記に書いていた文章をブログに載せます。
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