「チベットに行く前の1988年2月27日の日記」
1988年の2月27日の日記は以下のような日記でした。
しかも俺は親に最近甘えるようになってきた。これが正常な状態なのかもしれないが、正常な学生が将来変わったことが出来るのか?
何を言っているのか分からないが、親の愛情を受け入れている限り、俺は親に報いなければならないのではないか?
加藤先生の気持ちに対しても同じである。
俺が将来プー太郎になるようにあのようなことをしてくれたとは思えない。
社会にとって役に立つ人間になってくれよと俺をあれほど世話してくれたはずである。
このことは過去に対しての束縛なのであろうか?
俺は知らぬ間に自由を失ってしまったのか?
この自由は一体何なのか?
他人の気持ちだけを自分の利益に結びつけ、あとは勝手気ままにやることが、真の自由なのか?
俺にはやはり日本伝統の義理を強く持っているかもしれない。
口では過去に縛られるなと言っても、どこかで責任を感じてしまうのである。
これが大人の世界なのか?
20才というのがそれほどに意味を持っているとは思わないが、最近、自分の周囲に対して責任というようなものを感じ始めてきた。
尾崎よ、本当に卒業できるのか?
さびしくないのか?
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