2022年10月20日木曜日

「チベットに行く前の1988年1月19日の日記 幸福」

 「チベットに行く前の1988119日の日記 幸福」

   先日、部屋の掃除をしていたら、僕が早稲田大学探検部でチベットに行った1988年のDiary(日記)が見つかりました。日記には僕が早稲田大学探検部でチベットに行く前の心境が書かれています。

   チベットのことは書かれていませんが、今日は、1988119日の日記をブログに載せたいと思います。

  1988年の119日の日記は以下のような日記でした。

  119日(火) 天気 はれのちくもり

  今日、中島敦の「山月記」を読んだ。

 主人公は自分の自尊心のため、自らの才能の暴露を恐れ、詩人になることをあきらめ、人生に妥協し、官吏となる。

 しかし、そこでも彼は、その自尊心のためにこの生活に耐え切れなくなり、しっそうし、ついには虎となってしまうのである。

  きわめて近代的、いや現代にも通じる自我の屈折とその悲劇を描いていて佳作だと思った。

  自らの限界を認識することは全く怖ろしいことにちがいない。

  しかし、それをひたかくしにしていては、人間はついに真の自分を表現できず、ますますストレスはつのり、体までも害してしまうのではないか?

  現代は、みながその交際する社会の中においては仮面をつけている。

  それを始めから承知の上での交際もあってしかるべきであるが、それだけでは、人間は生きていけるか?

  嘘ばかりの人間関係は自分の城を守るぶん、新しい世界への道を閉ざしてしまうものである。

  なにか話がどんどん飛躍してしまうが、論点を戻すと、結局、人間には個人における才能の限界がある。

  これは当然の事実である。

  そこで、人はそれを知る前に努力を放棄するか、それを知った上でもまだ努力し続ける意志を持っているかということである。

  両者の結末のうちどちらが幸福かは、俺には分かるわけもない。

  しかし、未知の世界に挑むこと、自らを知ること、これこそ我らが凡人の究極の生き様だと思う。

  以上が1988119日の僕の日記の文章です。

  中島敦の小説「山月記」を読んでの感想を書いている日記でした。

  僕の好きな作家の一人、中島敦の「山月記」を読んでの感想を書いている日記でした。

  この日記に「幸福」という言葉が出てきます。

  自分の才能の限界を知る前に努力を放棄するか、自分の才能の限界を知っても努力し続けるかどちらの結末が幸福かと問うています。

  先日、部屋の掃除をしたら、僕が早稲田大学探検部でチベットに行った1988年のDiary(日記)が見つかったので日記に書いていた文章をブログに載せます。

  以上、「チベットに行く前の1988119日の日記 幸福」

  ブログに載せます。

 

 

 

 

 

 

 

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