「チベットに行く前の1988年3月28日の日記 百聞は一見に如かず」
最近、自分が何をしたいのか分からなくなってきた。
何か探検部というものに拘束されているようでイヤになってきた。
確かに海外には行ってみたいが、その他のことはどうもしたいとは思わない。
全く自分勝手で責任感がないが一年間休部したいと思う。
何を欲しているのか、多分、果てしなく広い学問かもしれない。
一年間大学に行って、自分がどれだけバカかが分かったような気がした。
政治に関しても経済に関しても、表面的なことばかりを追っていて、その本質的分析などはほとんどしていなかった。
海外に行って、向こうの人たちと生活してみて、俺が考えていたことは、全くマスコミによってゆがめられた現実しか見れなかったような気がする。
百聞は一見に如かずというが、まさにその通りである。
とは言っても、全くの無知で向こうに行くのと、しっかりした基礎的観念を持って、向こうに行くのでは、大きな違いがある。
一年間、勉強らしい勉強もせず、ただ行動を追い求めていたことは、ある意味、俺にとって大きな経験であった。
しかし、去年は、手段が目的化してしまう傾向があまりに強すぎて、しっかりしたヴィジョンを持続できずに投げやりな行動が多すぎた。
今年は、もっとたくさんの本を読みたい。
自分は肝っ玉が小さい方である。
本来、行動派ではないのかもしれない。
どもりのために、何かある度に落ち込んでしまう。
どもりは果たして直るのだろうか?
どもりのピエロも世間ウケはいいが、本人にとっては苦痛以外の何ものでもないのである。
社会に対して何かをしていきたいと思っていながら、どもりは、意思伝達にとって著しく大きな障害となる。
以上が1988年3月28日の日記です。
僕が早稲田大学に一年行ってみて、自分がどれだけバカか分かったと書いています。
海外に行ってみて、百聞は一見に如かずと思ったことも書かれています。
僕がどもるために何かある度に落ち込んでしまうことも書いてあります。
僕がどもるために意思伝達の際に大きな障害になってしまうと考えていたことも分かります。
1988年3月28日の日記を読み返していたらおもしろかったのでブログに載せます。
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