「早稲田大学探検部とチベット」
即ち、チベット文化圏が広大であり、その文化がそれぞれの地域において独自性を持つからである。代表的な地を列挙すると、チベット自治区の東部と西部、雲南省北部、四川省西北部、青海省南部、ビルマ北部、シッキム地方、ラダック地方、パキスタンのバルチスタン地方、ネパールの亡命地、インドにおける亡命地(ラダック、アッサム、ダラムサラ周辺、南インドなど)、さらにはイギリス、アメリカ、スイスなどにも多くのチベット人が居住している。
これらの地の独自性、及びチベット文化圏、チベット民族に共通する普遍性を明らかにするには、一人の力、数度の探検のみでは力量不足であることは明白である。
チベットに関する多くの地を探検しても一度のみの訪問では検証が浅く、内容も片寄ったものになる可能性が大きい。現代世界の流動は激しく、チベットについてもその例外ではない。ある地域における活動をそれぞれの世代が何度もフォローし、その内容を深化させると共に、それぞれの世代おけるチベット民族とチベット文化の証人となり、チベット史を築き上げていく。つまり、早稲田大学探検部があるかぎり、チベット高原民族探査隊が続けられていく、それが早大探検部とチベットなのである。
1) 中島、吉沢隊 ~1986夏
文化人類学的な調査をチベット自治区にて展開する。
2) 木村、坂下隊 ~1987春
東チベット、チベット自治区、ネパール、ダラムサラの難民を訪問し、チベット民族の現状を把握。チベット問題を直視する。奇襲1号参照
中島、後藤、斎藤隊 ~1987夏
第一次隊に続き、文化人類学的調査をチベット自治区にて展開し、内容を深化させる。遊牧民のキャンプに住み込み、ヤクとチベット人の関係、一妻多夫制を家系図により証明すると共に、大草原での遊牧生活とそれに根ざす文化のすばらしさを紹介し、以後の活動の根幹を築く。
1) 斎藤、松田隊 ~1988夏
2) 上原、桜井、倉島、中谷隊 1988夏
この遠征によりチベット自治区の開放地、未開地の相当分を網羅する。スライド等の資料を多数持ち帰る。
(第四次隊)
高橋、斎藤隊 ~1989冬、春
冬の遊牧民の生活を調査。「彼らは冬の間遊牧しない(高橋)」などの調査結果を出す。厳冬期のヒマラヤを徒歩でネパールに抜ける。
1) 中谷、岸田隊 ~1990春
ネパールのチベット難民居住区を訪問。チベット難民がネパール人のカースト制度の人で下層のカーストに位置付けられ、ボテと呼ばれ、ある意味では虐げられている姿をリポートする。彼らもまたそのボテとしての地位に不満を示す様子はない。仮に独立を果たしてもだだっ広い高原に文明生活のない事を理由に、帰るかどうか迷う人間の姿に感動する。
2) 沢田石、前田隊 ~1990春
インドのダラムサラ、ラダック地方を訪問。1989年3月8日以来、チベット自治区に戒厳令が敷かれたためチベット自治区訪問を断念。当初は漢民族によるチベット人虐殺、不妊手術などの人権侵害に取り組む予定であったが、訪問地をインドに変更し、難民の文化、またチベット人よりチベット的と呼ばれるラダックの文化を調査した。と同時にチベット問題、ラダック問題についても調査し、かなりの部分をフォローした。
(第六次隊)
沢田石、遠藤、桑田隊
以上のような早稲田大学探検部とチベットに関する記述がありました。
早稲田大学探検部とチベットの関係が分かり易く書かれていると思いました。早稲田大学探検部のチベットの計画が早稲田大学探検部30期OBの中島木祖也氏により創設され、その後、数次の隊が早稲田大学探検部からチベットに送り出されて、なんらかの成果があったことが分かります。
僕がチベットに行った1988年夏の隊は第3次隊になるようです。成果としては、「この遠征によりチベット自治区の開放地、未開地の相当分を網羅する。スライド等の資料を多数持ち帰る。」という記述がありました。
僕が作成したチベットのスライドも重要な成果の一つだったようですが、僕は重要な成果であるチベットのスライドを紛失してしまったようです。残念です。
11月30日土曜日に高田馬場でのインド・ネパール・チベット料理屋さんでの会合では早稲田大学探検部でチベットの計画を創設された中島木祖也さんにもお会いします。
早稲田大学探検部のチベット話を盛り上げていこうと思っています。
先日、自分の部屋を掃除していたら、「第6次チベット高原民族探査隊 1990年夏」という計画書が見つかったので、早稲田大学探検部とチベットのことに書かれている部分をブログに載せます。
以上、「早稲田大学探検部とチベット」
ブログに載せます。
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