「1988年夏チベット探査報告書」
→蘭州(鉄道)→西寧(鉄道)→ゴルムド(バス)→ラサ(バス)
→シガチェ(バス、ヒッチハイク)→ラズー(ヒッチハイク)
→ツオチェン(ヒッチハイク)→ヤンフー(ヒッチハイク)
→シーチャンホー(ヒッチハイク)→タルチェン(カイラスの周囲の巡礼路を1周して
カイラス巡礼)(ヒッチハイク)→シーチャンホー(ヒッチハイク)
→イエチョン(バス)→カシュガル(ヒッチハイク)→ウルムチ(飛行機)
→上海(船 鑑真号)→神戸→早稲田大学
目的 チベットの自然及び、チベット人の生活に関するスライド作成
カイラス巡礼者調査
カイラス巡礼者調査について
彼らは私を見ると一瞬驚いたようであるが、こちらから笑顔を見せると笑顔で答えてきた。彼らはしきりにチベット語で話しかけてきたが私はほとんどチベット語を知らないので、ただ「タシデレ」(こんにちは)と繰り返していた。彼らはようやく私がチベット語を話せないことが理解できたらしく話しかけるのをあきらめた様子でゴンパのなかに入り、私のいた反対側にあぐらをかいて座った。父親の方は何かを口ずさんだ後、大きな袋から円形の黒い塊を取り出した。最初、何がなんだか分からなかったが、これらに火をつけるのを見て、ヤクのフンであることが分かった。チベットではヤクのフンが大切な燃料になっている。彼はヤクのフンに火をつけると今度は羊の皮で作ったふいごのようなもので空気を送り、火をだんだん大きくしていった。もの凄い煙のためゴンパの中はモノクロの世界に変わった。火が大きくなると彼はやかんを持って外に出ていき水を汲んできた。そしてやかんを石で作ったかまどの上に置いた。彼は再びふいごを自由自在に操り空気を吹き込んだ。30分ぐらいすると、湯が沸きはじめ、四角い固まりになっている茶をばらして湯の中に入れた。2、3分ふいごの手をゆるめ、待ち、茶ができると茶椀を出して茶を注いだ。次にそのなかに独特の臭みのあるバターを入れる。チベットではバターは希少なたんぱく源であり、このバター茶は朝昼晩を問わず一日20杯ぐらいは飲む。彼は子供の茶碗に茶を注いだ後、私にも勧めてきたので私は好意を受け入れコップを差し出した。バター茶は日本人が飲んでもうまいと感じないかもしれないが、この様な状況では寒さをいやしてくれるもの、人の暖かみを感じさせてくれるものである。私は一杯飲み干しすっかりいい気分になった。彼はもう一杯勧めてきた。私は一度遠慮してからコップを差し出して注いでもらった。すると今度は白い粉をバター茶の中に入れてくれた。明らかに砂糖でないことがわかる。なぜならコップ一杯にこぼれるぐらい入れるのであるから。この白い粉はチンコー麦である。チベットの主食であるツァンパはこのようにチンコー麦をバター茶の中に入れそれを練りそのまま食べるのである。日本のきなこを思い浮かばればわかりやすいと思う。味は砂糖か何かがあれば何とか口に入るのだが、そのままでは何も味がせずバター独特の臭みとあいまってうまいと言えるものではない。しかし彼らはそれをうまそうに食べているので、私も気分を害すまいと「ヤップドゥ」(very goodの意)を連発した。それに乗じて勧めてくる彼らに辟易したが真の好意であったのだろう。そうこうしているうちに私と彼らはすっかり仲良くなり、子供は調子に乗って歌を歌い出し、服を脱いで小さな息子をあらわにして踊りも始めた。私と子供の父親は大笑いでそれに拍手を送った。このようにしてバター茶とツァンパの食事は終わり、私はシュラフの中にもぐりこんだ。
彼らはもう寝るものと思っていると父親はお経をとなえ、手を頭の上にかざして祈りはじめた。もう夜の11時過ぎであった。ヤクのフンの火も消えゴンパの中は真っ暗になっていた。彼は細いろうそくの火を頼りに五体投地をしている。彼はさっきまでの笑顔と打って変わって真剣であった。子供が何を話しかけても怒鳴ってそれに答え、ひたすら
「オム マニ ペメ フム」
で始まるお経を繰り返してはゴンパの土間に身を投げ出していた。祈りが終わったのは12時過ぎであった。
以上が僕が1988年に書いていた、チベットの聖山、カイラス山北壁のティラプクゴンパというゴンパで僕が見聞したチベット仏教徒の方の父と子の様子です。
チベット仏教徒の方の、祈りの真剣さが現在でも記憶に残っています。
チベット仏教徒の方々は他者のために祈りを捧げるようです。
五体投地という祈りの仕方のようです。
僕も、チベットに行った際に五体投地をする方と実際に会いましたが、真剣でした。
何か、僕にとって大切なことを教えていただいたような気がしています。
以上、「1988年夏チベット探査報告書」
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