2024年11月14日木曜日

「1988年夏チベット探査報告書」

 「1988年夏チベット探査報告書」

  部屋を探していたら1988年夏のチベット探査の際の報告書が見つかりました、1130日土曜日に中島さん吉澤さんとの会合の際に持って行こうと思っています。紙に書いたものとパソコンで清書してプリントアウトしたものを持って行こうと思っています。パソコンで清書した報告書は以下のようなものです。

 期間 1988722日~104

 隊員 隊長 上原和明 副隊長 桜井誠人 渉外 倉島孝行 食糧 中谷敏夫

 行程 成田(飛行機)→ソウル→香港(鉄道)→広州(飛行機)→成都(鉄道)

→蘭州(鉄道)→西寧(鉄道)→ゴルムド(バス)→ラサ(バス)

→シガチェ(バス、ヒッチハイク)→ラズー(ヒッチハイク)

→ツオチェン(ヒッチハイク)→ヤンフー(ヒッチハイク)

→シーチャンホー(ヒッチハイク)→タルチェン(カイラスの周囲の巡礼路を1周して

カイラス巡礼)(ヒッチハイク)→シーチャンホー(ヒッチハイク)

→イエチョン(バス)→カシュガル(ヒッチハイク)→ウルムチ(飛行機)

→上海(船 鑑真号)→神戸→早稲田大学

 

目的 チベットの自然及び、チベット人の生活に関するスライド作成

   カイラス巡礼者調査

 成果 今回のチベット探査の目的の2つのうち、スライド作成に関してはスライドを見ていただければ分かると思います。目的は達成したと思います。

   カイラス巡礼者調査について

     カイラスとはチベット自治区の南西に位置し、3つの宗教、すなわち、チベット仏教(ラマ教)、ヒンドゥー教、ボン教(チベット原始宗教)の聖地とされる。このカイラス山の麓に1周約50㎞の巡礼路があり、私たちもこの巡礼路を歩いた。言葉は分からなかったが、服装から判断して識別できたのはチベット仏教とヒンドゥー教の信者たちであった。ヒンドゥー教の信者たちは主にインドの豊かな階層の人々のようで、50人乗りぐらいのバスで大挙して巡礼にやって来ていた。チベット仏教の信者たちが、私の見る限りでは最も人数が多いようであった。高僧から貧しい老人までかなりの人数がいた。ボン教徒は見る限りでは分からないが、カイラスの巡礼路を反時計回りに回ると聞いていたので注意して見たところ、10人に1人くらいはいたようである。カイラス滞在期間も1週間くらいと短く、ろくに言葉が分からず、全般的な巡礼者についての調査はしていないので、カイラスで会ったあるチベット仏教信者の巡礼者の行動をを中心に、巡礼者を見てみたい。

    「カイラス北壁のゴンパ(山小屋のようなもの)で会ったチベット仏教信者の場合」

          私はシーチャンホーで倉島、中谷と別れ、桜井と二人でカイラスに向かい、カイラス北壁で桜井と別れ、後続の二人を待つため4日間カイラス北壁にあるゴンパと呼ばれる山小屋のような建物の中で過ごした。ゴンパは20畳くらいの広さで、中には柱が2本立っていてテントを張るスペースがなく、又、天井に穴が二つ空いており吹雪という悪天候の中、寒さが身にしみた。私は最初、テントを外に張っていたが吹雪になったので急きょゴンパに避難したのであったがテントのほうがゴンパより快適であった。そんななかで私が外に出られずシュラフに包まっていると大きな袋を持った親子連れの巡礼者がやってきた。父親の方は40半ばくらいの人の良さそうな顔つきの男で、子供はまだ5才ぐらいのかわいらしい笑顔を持つ元気な男の子であった。彼らが来たのは午後6時ごろであったがチベットは北京時間を採用しており、しかもカイラスはチベットの西に位置しているため時間のずれが大きく6時でも外は明るかった。(ひぐれはだいたい9時ごろ)。彼らは吹雪のため体じゅう雪化粧といった観で白くなっており衣服の汚れ、顔の汚れと対照的であった。

    彼らは私を見ると一瞬驚いたようであるが、こちらから笑顔を見せると笑顔で答えてきた。彼らはしきりにチベット語で話しかけてきたが私はほとんどチベット語を知らないので、ただ「タシデレ」(こんにちは)と繰り返していた。彼らはようやく私がチベット語を話せないことが理解できたらしく話しかけるのをあきらめた様子でゴンパのなかに入り、私のいた反対側にあぐらをかいて座った。父親の方は何かを口ずさんだ後、大きな袋から円形の黒い塊を取り出した。最初、何がなんだか分からなかったが、これらに火をつけるのを見て、ヤクのフンであることが分かった。チベットではヤクのフンが大切な燃料になっている。彼はヤクのフンに火をつけると今度は羊の皮で作ったふいごのようなもので空気を送り、火をだんだん大きくしていった。もの凄い煙のためゴンパの中はモノクロの世界に変わった。火が大きくなると彼はやかんを持って外に出ていき水を汲んできた。そしてやかんを石で作ったかまどの上に置いた。彼は再びふいごを自由自在に操り空気を吹き込んだ。30分ぐらいすると、湯が沸きはじめ、四角い固まりになっている茶をばらして湯の中に入れた。2、3分ふいごの手をゆるめ、待ち、茶ができると茶椀を出して茶を注いだ。次にそのなかに独特の臭みのあるバターを入れる。チベットではバターは希少なたんぱく源であり、このバター茶は朝昼晩を問わず一日20杯ぐらいは飲む。彼は子供の茶碗に茶を注いだ後、私にも勧めてきたので私は好意を受け入れコップを差し出した。バター茶は日本人が飲んでもうまいと感じないかもしれないが、この様な状況では寒さをいやしてくれるもの、人の暖かみを感じさせてくれるものである。私は一杯飲み干しすっかりいい気分になった。彼はもう一杯勧めてきた。私は一度遠慮してからコップを差し出して注いでもらった。すると今度は白い粉をバター茶の中に入れてくれた。明らかに砂糖でないことがわかる。なぜならコップ一杯にこぼれるぐらい入れるのであるから。この白い粉はチンコー麦である。チベットの主食であるツァンパはこのようにチンコー麦をバター茶の中に入れそれを練りそのまま食べるのである。日本のきなこを思い浮かばればわかりやすいと思う。味は砂糖か何かがあれば何とか口に入るのだが、そのままでは何も味がせずバター独特の臭みとあいまってうまいと言えるものではない。しかし彼らはそれをうまそうに食べているので、私も気分を害すまいと「ヤップドゥ」(very goodの意)を連発した。それに乗じて勧めてくる彼らに辟易したが真の好意であったのだろう。そうこうしているうちに私と彼らはすっかり仲良くなり、子供は調子に乗って歌を歌い出し、服を脱いで小さな息子をあらわにして踊りも始めた。私と子供の父親は大笑いでそれに拍手を送った。このようにしてバター茶とツァンパの食事は終わり、私はシュラフの中にもぐりこんだ。

    彼らはもう寝るものと思っていると父親はお経をとなえ、手を頭の上にかざして祈りはじめた。もう夜の11時過ぎであった。ヤクのフンの火も消えゴンパの中は真っ暗になっていた。彼は細いろうそくの火を頼りに五体投地をしている。彼はさっきまでの笑顔と打って変わって真剣であった。子供が何を話しかけても怒鳴ってそれに答え、ひたすら

「オム マニ ペメ フム」

で始まるお経を繰り返してはゴンパの土間に身を投げ出していた。祈りが終わったのは12時過ぎであった。

以上が僕が1988年に書いていた、チベットの聖山、カイラス山北壁のティラプクゴンパというゴンパで僕が見聞したチベット仏教徒の方の父と子の様子です。

  チベット仏教徒の方の、祈りの真剣さが現在でも記憶に残っています。

 チベット仏教徒の方々は他者のために祈りを捧げるようです。

  五体投地という祈りの仕方のようです。

  僕も、チベットに行った際に五体投地をする方と実際に会いましたが、真剣でした。

  何か、僕にとって大切なことを教えていただいたような気がしています。

    以上、「1988年夏チベット探査報告書」

     ブログに載せます。

 

 

 

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