2026年9月11日金曜日

「ブログページビュー120万ページビュー達成」

 「ブログページビュー120万ページビュー達成」

 今日、僕のブログのページビュー数を確認していたら、僕のブログのページビュー数が120万ページビューを超えていました。

 ブログを開設したのが20112月です。ブログ開設から148ヶ月で100万ページビューを達成しています。

 110万ページビューを達成したのが2026327日なので約半年で10万ページビューあったようです。

 僕のブログのページビューの推移を見てみると以下のような感じになります。

 20万ページビューを超えたのが2017827日でした。

 30万ページビューを超えたのが2018829日でした。

 40万ページビューを超えたのが2019916日でした。

 50万ページビューを超えたのが20201121日でした。

 60万ページビューを超えたのが2021731日でした。

 70万ページビューを超えたのが2022813日でした。

 80万ページビューを超えたのが20231023日でした。

 90万ページビューを超えたのが2025614日でした。

 100万ページビューを超えたのが20251013日でした。

 110万ページビューを超えたのが2026327日でした。

 そして、今日、2026911日、に120万ページビューを超えました。

地道にコツコツとブログを書き続けてきて良かったと思っています。

 時にはブログなんて書いても何のいいこともないし、もうブログなんてやめようかと思ったことも何度もありました。それでも、何か一つのことを諦めずに地道にコツコツと続けていればそのうち良いこともあるだろうという気持ちで、地道にコツコツとブログを書いてきました。

素直に、一つの数字として、ブログの累計ページビュー数が120万ページビューを達成したことは嬉しいです。

 僕は報酬を貰わずに、無給で3000以上のブログを書いているプロではなくド素人のアマチュアの本当に拙いブロガーなので、ぺージビュー数も少ないブロガーですが、ページビュー数は気になっていました。

 プロ志向の多い早稲田大学探検部関係者の中で、僕は報酬を貰わずに無給で3000以上ブログを地道にコツコツと書くアマチュアのブロガーですが、アマチュアの希望になれるようにこれからも諦めずに頑張ってブログを書いていこうと思っています。

今日、ブログのページビュー数を見ていたら120万ページビューを越えていたので、ブログを書いておきます。

 毎回、毎回、同じことを書いてしまいますが、僕のブログの読者の方々には心より感謝いたします。これからも懲りずに僕のブログにお付き合いいただければ幸いです。

 以上、「ブログページビュー120万ページビュー達成」

 ブログに載せます。

2026年9月9日水曜日

「東日本大震災を悼む」

 「東日本大震災を悼む」

毎回、毎回、同じことを書きますが、僕は一介のブロガーとして、ありきたりな日常を書き続けながら、胸が締めつけられるようなニュースや本に触れては、こうして文章にしています。

2011311日午後246分頃、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が発生しました。宮城県栗原市などで最大震度7を観測し、東北地方太平洋沖地震、いわゆる東日本大震災です。巨大な津波が岩手、宮城、福島の沿岸を飲み込み、福島第一原子力発電所では炉心溶融が起きました。発生から15年余りが経った今も、警察庁の発表では直接死は15901人、行方不明者は2519人、災害関連死は3810人を超えています。身元がわからない遺体も、岩手で47体、宮城で6体残っています。建物の全壊・半壊は合わせて41万戸を超え、今も25千人近くの方が避難生活を続けています。

僕は20115月、東日本大震災の直後に東北へボランティアに行きました。泥かきをしながら、ただただ無力感に打ちのめされたあの感覚が、今も鮮明に残っています。がれきの山、流された家の土台、泥だらけの田んぼ、そして何より、当たり前の日常が一瞬で消えてしまった風景。形は違えど、災害が奪うものはいつも「当たり前の日常」であり、「生きることの重み」なのです。

文京区の静かな道を歩きながら、スマホの万歩計をチラチラ見つつ、頭の中はあのときの東北の光景でいっぱいです。母は要支援2で脊柱管狭窄症と関節リウマチを抱え、父は心不全で要介護2。僕自身も統合失調症で精神障害2級を抱え、長時間のパソコン作業による右手のマウス腱鞘炎をこらえながら、キーボードを叩いている一介のブロガーです。そんな僕にできることは、本を読み、こうして書くことだけです。

手元には、これまで集めてきた震災本があります。石巻日日新聞が震災直後に手書きで貼り出した『石巻日日新聞 壁新聞』、河北新報の記録、大槌町や陸前高田、南三陸、大川小学校のことを記した本。神田川沿いを歩きながら僕の母校、早稲田大学に行き、

『震災本を 集めて早し 神田川』と詠んできました。2014年以来、この活動を続けています。

僕が自分で集めた震災関連本を読むたびに、胸が締めつけられます。15年経っても、風化させてはいけないと思います。

自然の前では、人間の力は本当に小さい。それでも、被災地の人々は今も立ち上がり、復興の道を歩み続けています。防潮堤が整備され、高台移転が進み、新しいまちの姿も見えます。でも、帰ることのできない故郷、見つからない家族、消えた集落は、今もそこにあります。

東日本大震災で亡くなられた方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。今も行方のわからない方々、遺されたご遺族、復興に尽力されている方々に、遠く東京の文京区から、連帯の思いを送ります。

忘れないことが、僕たちにできる、せめてもの「悼み」のかたちではないでしょうか。

地道にコツコツと、諦めずに。

ブログを更新し続けるように、被災地の皆さんも、僕らも、支え合っていきましょう。

Don't give up

9月某日 早稲田大学探検部33OB 上原和明 東京にて

以上、「東日本大震災を悼む」

ブログに載せます。

2026年9月6日日曜日

「中越地震を悼む」

 「中越地震を悼む」

毎回、毎回、同じことを書きますが、僕は一介のブロガーとして、ありきたりな日常を書き続けながら、胸が締めつけられるようなニュースや本に触れては、こうして文章にしています。

両親の介護でバタバタしていて、落ち着いて長い文章を書く余裕はあまりありません。右手は長時間のパソコン作業でマウス腱鞘炎気味です。それでも、キーボードの前に座らずにはいられない話題があります。今日は、20041023日の新潟県中越地震、いわゆる中越大震災を悼む文章です。

20041023日、土曜日の午後556分。新潟県中越地方の深さ約13キロを震源とするマグニチュード6.8の直下型地震が起きました。川口町(現長岡市)で震度7。震度計による観測が始まって以来、初めて震度7が計測された地震でした。小千谷市、山古志村、小国町では震度6強。本震のあと、わずか1時間のうちにマグニチュード6クラスの余震が続き、強い揺れが何度も地面を叩き続けました。

死者68人。うち直接死は16人、災害関連死が52人。負傷者は4,805人。住家全壊3,175棟、半壊13,810棟。一部損壊を含めると約12万棟。避難者はピーク時に10万人を超えました。上越新幹線は長岡市内で脱線し、中山間地では地すべり・斜面崩壊が3,791か所。芋川では土砂が川をせき止め、天然ダムができました。豪雪地帯の秋に起きた地震でした。あと2か月で雪が降る。その焦りが、当時の記録の随所に残っています。

僕は早稲田大学探検部33期のOBです。山を歩き、自然の大きさを肌で感じてきた人間として、中越の山が崩れた話を読むと、胸の奥が重くなります。老子の「天下水より柔弱なるは莫し」を座右の銘にしています。水は柔らかい。でも岩を削る。地震もまた、人間の想定をやすやすと超えてくる。だからこそ、忘れないことが仕事になるのだと思います。

今日の文章は、次の本を参考文献にして書いています。

『中越大震災自治体の叫び』 

『中越大震災 前編』雪が降る前に 

『中越大震災 後編』復旧・復興への道 

『中越大震災』自治体の危機管理は機能したか 

『震度7』新潟県中越地震を忘れない 

『「震度7」を生き抜く』被災地医師が得た教訓 

『山古志村ふたたび』 

『ドキュメント新潟県中越地震』1027奇跡の救出 

『新潟県中越地震』特別報道写真集

全部を机の上に並べて、ページをめくりながら書きました。写真集の一枚一枚が、棚田と錦鯉の池と、崩れた山と、ブルーシートの屋根を今も見せてきます。

『前編』の副題は「雪が降る前に」です。この一言に、中越の特殊性があると思います。阪神・淡路とは違う。都市直下ではなく、中山間地の地盤災害でした。道路が寸断され、集落が孤立し、ライフラインが止まり、そのうえ冬が来る。記録誌は、応急仮設住宅の建設、地下埋設物の復旧、除排雪体制、新潟と首都圏を結ぶ幹線の復旧――この四つを、雪が降る前に何としても片づける、という当時の社会的な合意を伝えています。実際、その冬は19年ぶりの豪雪になりました。地震の傷の上に、雪が乗ったのです。

『後編』は「復旧・復興への道」です。新潟県は「創造的復旧」という言葉を使いました。ただ元に戻すのではなく、旧を踏まえつつ新しいものを乗せる。道路も、農地も、集落の暮らしも、原形復旧にこだわらず機能を先に確保した箇所がありました。復興基金、中間支援組織、住民ワークショップ。行政だけが動いた話ではありません。住民が仮設の集会室に集まり、地区ごとの復興計画を自分たちの手で書いていった記録が残っています。

その中心に、山古志村があります。

当時の山古志村は、人口2,000人余り。14の集落。棚田、錦鯉、牛の角突き。日本の原風景と呼ばれる山の暮らしでした。震度6強。家が倒れ、牛舎が壊れ、棚田と養鯉池が崩れ、道路がすべて切れた。村長は翌日、全村民の避難を決断します。1025日までに、約2,167人がヘリコプターなどで長岡市内へ。全集落の避難指示が解除されるのは、それから約2年半後、200741日のことでした。

合言葉は「帰ろう山古志へ」でした。県の側には、合併後のコンパクトなまちへ移る案もあったと聞きます。それでも村民は、集落のまとまりを崩さず、仮設住宅でも地区ごとに暮らし、帰村を選びました。34年後には、およそ7割が戻ったといいます。人口はその後も減り、高齢化は進みました。それでも「山古志に帰った」という事実は、能登をはじめ、いまも中山間地の復興を考える人たちの前に立ち続けています。

『山古志村ふたたび』の写真を見ると、地震の前の山古志がよくわかります。先人が何十年もかけてつくった棚田。水面に錦鯉。素朴な家並み。それが一揺れで、別の景色になる。写真集は復興応援のために編まれた本です。美しいものと、失われたものとが、同じ頁の厚みの中にあります。

『自治体の叫び』と『自治体の危機管理は機能したか』を読むと、現場の行政の声が生々しいです。庁舎が被災し、職員自身が被災者であり、通信が途切れ、情報が入らない。土曜日の夕方という発生時刻。小さな市町村が、国と県と自衛隊と消防と、どうつながるか。計画どおりには動かない。それでも、誰かが判断し、誰かが走る。全村避難のような重い決断は、後からならいくらでも批評できます。その場にいた人の叫びを、本は残してくれています。

危機管理は、完璧には機能しませんでした。機能した部分もあります。コミュニティ単位で避難し、仮設でも地縁を保ったことは、阪神・淡路で問題になった孤独死への反省が生きた部分だと、複数の記録が書いています。車中泊からエコノミークラス症候群が出たことも、この地震で広く知られるようになりました。関連死が直接死を大きく上回った事実は、揺れが止まったあとに人は死ぬ、ということを日本社会に突きつけました。

『「震度7」を生き抜く』は、被災地の医師・田村康二さんが書いた本です。立っていられない揺れ。40年前の新潟地震を知っていても、想像を超える。医師として、まず自分が倒れないこと。ホテルを確保し、移動手段を確保し、1週間の避難生活の中で医療を続ける。長岡では地震後に心筋梗塞で亡くなる人が増えた、という記述もあります。公的援助が来るまでの24時間を、どう耐えるか。隣の人をどう助けるか。素人の僕が要約できるほど、単純な教訓ではありません。ただ、震度7は「知識」では生き抜けない、身体と備えの問題だということは、強く残ります。

そして『ドキュメント新潟県中越地震 1027奇跡の救出』。長岡市妙見町の土砂崩落。乗用車が埋まり、母子3人が行方不明になりました。1027日午後239分、当時2歳の男の子が、地震発生から約92時間後に救出されます。東京消防庁ハイパーレスキュー、緊急消防援助隊、警察、多くの人が急斜面に取りつきました。男の子は生きていた。母親は搬送先で亡くなり、3歳の姉は車内で亡くなっていました。奇跡と、救いきれなかった命が、同じ現場にあります。僕はここを、安易な美談にはしたくありません。助けた人も、助けられなかった人も、家族も、20年経ってもその日を抱えて生きているはずです。忘れない、というのは、そういう重さを引き受けることだと思います。

『震度7 新潟県中越地震を忘れない』と、特別報道写真集は、映像と活字でその日の中越を固定しています。脱線した新幹線。亀裂の入った道路。夜間の避難所。ブルーシート。土砂の壁。ヘリの音。写真は、文章より先に胸に入ります。だから写真集は、記録であると同時に、悼みの道具でもあります。

中越から20年以上が経ちました。そのあいだに、東日本大震災があり、熊本があり、北海道胆振東部があり、能登がありました。中越で見えたことは、何度も繰り返されています。中山間地の孤立。関連死。冬と災害の重なり。全村・全集落避難の是非。帰村と過疎。自治体職員の疲弊。ボランティアと中間支援。住民が計画を書くことの力。

僕みたいな素人ブロガーにできることは、書くことだけです。義援金を何百万円も出せるわけでもない。現地に入り続ける専門家でもない。介護の合間に本を開き、事実を拾い、こうしてブログに残す。それだけです。

でも、残さなければ、68人の死は数字に戻ってしまう。山古志の全村避難は「昔の話」になる。妙見の急斜面は、地図の一点になる。本を参考文献にして書く意味は、そこにしかありません。

雪が降る前に、人は動いた。雪が降ったあとも、人は帰ろうとした。危機管理は完全ではなかった。それでも、諦めなかった人がいた。

地道にコツコツと、諦めずにブログを更新し続けるように、被災地の記憶も、僕らも、支え合っていきましょう。

Don't give up

9月某日 早稲田大学探検部33OB 上原和明 東京にて

以上、「中越地震を悼む」

 ブログに載せます。

2026年9月2日水曜日

「北海道胆振東部地震を悼む」

 「北海道胆振東部地震を悼む」

毎回、毎回、同じことを書きますが、僕は一介のブロガーとして、ありきたりな日常を書き続けながら、胸が締めつけられるようなニュースや本に触れては、こうして文章にしています。

201896日午前37分頃、北海道胆振地方中東部を震源とするマグニチュード67の地震が発生しました。厚真町で震度7。北海道で観測史上初めての震度7でした。安平町、むかわ町では震度6強。震源の深さは37キロ。人々が眠っている未明のことでした。

発生から8年。令和89月を迎えようとしている今も、僕はこの地震のことを忘れられません。関連死を含め死者は44人。そのうち厚真町で36人が亡くなりました。吉野地区では、住民34人のうち19人が犠牲になったと報じられています。逃げる間もなく、土砂に生き埋めになり、家屋の下敷きになって窒息死した方が多かった。60代以上が大半を占めていたことも、胸に残ります。

僕は20155月、東日本大震災の直後に東北へボランティアに行きました。泥かきをしながら、ただただ無力感に打ちのめされたあの感覚が、この地震の報道写真を見るたび、また蘇ります。形は違えど、災害が奪うものはいつも「当たり前の日常」であり、「生きることの重み」なのです。

僕は東京・文京区で、心不全で要介護2の父と、脊柱管狭窄症や関節リウマチで要支援2の母を介護しながら暮らしています。僕自身も統合失調症で精神障害2級です。右手はマウス腱鞘炎で痛む。そんな僕にできることは、本を読み、こうして書くことだけです。

今回、改めて3冊の本を手元に置きました。

1冊目は、『地震による地すべり災害 2018年北海道胆振東部地震』(「地震による地すべり災害」刊行委員会編、北海道大学出版会)です。地すべり学会と応用地質学会の共同調査を踏まえた本です。この地震では、厚真町・安平町を中心に、南北25キロ、東西23キロ、面積約300平方キロの範囲で、斜面変動が約8千箇所に及んだと記されています。明治以降の主要な地震災害の中でも、斜面崩壊の面積は最大規模だったといいます。

変動の多くは、斜面に堆積したテフラ層が黒色土などとともに滑落した土層すべりでした。樽前火山の降下軽石層(Ta-d)などが、強震動で一気に滑った。吉野地区、富里地区、厚幌幌内地区などの事例が、丁寧に整理されています。岩盤地すべりもあった。日高幌内川、厚真川右岸、二風谷ダム貯水池近傍。造成地の谷埋め盛土も動いた。札幌市里塚地区の液状化も、この本では都市の地盤変動として扱われています。

 専門書なので、僕のような素人には難しい箇所もあります。それでもページをめくりながら思うのは、山が、ただの山ではなかったということです。火山灰の層が、地下水が、風化と粘土鉱物が、未明の揺れと結びついて、ふもとの家を飲み込んだ。自然の仕組みを知らなければ、悼むことすら表面的になってしまう。そう感じました。

2冊目は、『20189.6北海道胆振東部地震 報道写真集 緊急出版』(北海道新聞社編)です。発生から一週間を、北海道新聞の写真と紙面で記録した本です。最大震度7、それに続く全戸停電。道民が初めて経験した大災害の、生々しい光景が並んでいます。

土砂に埋まった家。山肌がはがれた斜面。捜索する自衛隊員と消防。投光器の光。掘り出される日用品。悲しむ親族。暗闇の交差点。空港に取り残された人々。コンビニに並ぶ人たち。写真は言葉より先に、胸を締めつけます。8年経っても、あの1週間の空気が本の中に残っている。報道写真集とは、そういうものだと思います。

3冊目は、『検証ブラックアウト 北海道胆振東部地震』(北海道新聞社編)です。地震そのものだけでなく、国内初のエリア全域停電――295万戸が同時に電気を失った事態を検証した本です。地震発生から18分後の午前325分頃、北海道は闇に沈みました。

当時、道内の電力需要の約半分を担っていた苫東厚真火力発電所が、震源に近く損傷して停止した。2号機・4号機がタービン振動を検知して止まり、のちに1号機も停止する。周波数が急低下し、風力、水力、北本連系設備も連鎖的に止まり、ブラックアウトに至った。電源の一極集中が、脆弱さの核心だったと、この本は書いています。

書評にもあったとおり、大量の生乳廃棄、綱渡りの人工呼吸、暗闇での交通整理。電気のない3日間、人々がどう動き、企業や行政がどう対応したか。証言を丹念に集め、北電の電源政策にも踏み込んでいます。「電力の安定供給とは何か」を、電気のある生活に慣れ切った僕たちに問う本です。

父の介護をしていて思うのは、電気が止まったら、すぐに命に関わるということです。在宅医療、訪問看護、薬、冷蔵庫、夜間の照明。ブラックアウトは、便利さの裏側にある危うさを、北海道全土で一度に見せました。冬だったら、さらに多くの命が危なかったはずです。

3冊を読み比べると、この地震は一つの顔だけでは語れません。地すべりという大地の動き。報道写真が残した人の表情。ブラックアウトが暴いた社会の仕組み。どれか一つだけでは足りない。だから僕は、3冊まとめて机に置きました。

8年たっても、厚真の山は完全には元に戻りません。農地も、暮らしも、失われた人の席も、簡単には埋まりません。それでも現地の人たちは、少しずつ土を直し、家を建て直し、電力の備えも見直してきたはずです。遠く東京にいる僕には、その一歩一歩の重さは測りきれません。

平成30年北海道胆振東部地震で亡くなられた方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。遺されたご遺族、今も復興と記録に尽力されている方々に、文京区の静かな道を歩きながら、連帯の思いを送ります。

忘れないことが、僕たちにできる、せめてもの「悼み」のかたちではないでしょうか。

地道にコツコツと、諦めずに。 ブログを更新し続けるように、被災地の皆さんも、僕らも、支え合っていきましょう。

Don't give up

9月某日 早稲田大学探検部33OB 上原和明 東京にて

以上、「北海道胆振東部地震を悼む」

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2026年9月1日火曜日

「8月は9万612字入力していたようだ」

 「8月は9612字入力していたようだ」

 ATOKマンスリーレポートを見ていたら、僕は、20268月は9612字パソコンで入力していたようです。

 ブログを書くこと、X(旧 Twitter)でポストすることで、パソコンのキーボードで入力しているので、入力した文字数が一月、9万字を超えていたのだと思います。

一日平均2922字くらいです。

入力時間は126時間、原稿用紙227枚分入力していたようです。

 1日平均、4時間、1日平均原稿用紙にすると73枚分、パソコンに向かってキーボードで入力していたようです。

 相当、長い時間、パソコンに向かい、キーボードをカチカチ打っているようです。

 9万字を超える文字を入力していたとは、ものすごく多い入力数だと思います。

 毎回、毎回、同じことを書きますが、新しいパソコン、レノボのThinkPad X9-15 Gen1 Aura Editionというものすごくバッテリー持ちの良い(長時間バッテリーで、外出先でもバッテリーのことを気にせずにパソコンで長時間の作業が出来ています。14時間~5時間程度の外出先でのパソコンでの作業なら全くバッテリーのことを気にせずにパソコン作業が出来ています)ものすごく性能の良いパソコンを購入したので、パソコンに向かう時間も大幅に増えて、入力文字数も大幅に増えているのだと思います。

 先月も同じことを書いていますが、実はパソコンに向かう時間が長過ぎて、パソコン操作をする時間が長く、マウスに触っている時間がとても長く、右手がマウス腱鞘炎になってしまい、右手の握力が低下しています。右手の握力が25キロくらいになっていて、ご飯を食べるときも右手で箸を使えずに左手で箸を使いご飯を食べています。右手が使えないので料理も出来ません。症状はかなり深刻で、整形外科にも行っています。整形外科では、マウス腱鞘炎ではない、首からきている症状ではないか、首のMRIを撮ってもらた方が良い、大きな病院で診てもらった方が良いと言われ、新宿メディカルセンターの脊椎脊髄外科に紹介状を書いていただき、紹介状は整形外科からいただいていますが、両親の介護で家に居なければならずに新宿メディカルセンターの脊椎脊髄外科にいまだに行けていません。

少しでも症状を和らげるために、パソコンに向かう時間を大幅に減らすことを考えていますが、Xでポストするのが日々の習慣になっていて、毎日、パソコンに向かってXをしていています。そのため、パソコンに向かう時間も減らすことは出来ずに、右手のマウス腱鞘炎だと思っている症状も一向に良くなりません。右手のマウス腱鞘炎だと僕が思っている症状がかなり深刻で、Xもブログも含めて、パソコンに向かう時間を大幅に減らさないといけないと思っていますが減らせていません。しばらく、パソコンも開かずに安静にしているのが良いのだと思っていますが、パソコンを立ち上げてXをしてしまっています。

 パソコンに向かって、キーボードで文字を入力していると、逆流性食道炎も良くならないと思っています。以前、お医者さんにパソコンに向かっている限り、逆流性食道炎は良くなりませんと言われたことがありました。

 先々月も同じ事を書いていますが、パソコンに向かわない、なにか体を動かす時間を増やして気分転換をするのが良いのだと思っています。僕が体を動かしているのは、168千歩程度の散歩と、家での家事くらいなので、僕の家の最寄りのラジオ体操が行われている場所の教育の森公園でのラジオ体操でも、近所の教育の森公園にある文京スポーツセンターでの運動でも良いから何か軽いスポーツ、運動をした方が良いと本心で思っています。

 今日、ATOKマンスリーレポートを見ていたら、20268月は、僕は9612字入力していたようなので、ブログを書いておきます。

 以上、「8月は9612字入力していたようだ」

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「石川、富山、福井の大雨災害にお見舞い申し上げます」

 「石川、富山、福井の大雨災害にお見舞い申し上げます」

毎回、毎回、同じことを書きますが、僕は一介のブロガーとして、ありきたりな日常を書き続けながら、胸が締めつけられるようなニュースに触れては、こうして文章にしています。

令和8827日未明から朝にかけて、石川県と富山県で線状降水帯が相次いで発生し、気象庁は午前620分、富山県氷見市と石川県羽咋市、志賀町、宝達志水町、中能登町にレベル5大雨特別警報を発表しました。氷見市では24時間降水量が350ミリを超え、羽咋市でも340ミリを超えるなど、観測史上最多を更新する記録的な雨でした。両県で20を超える河川が氾濫し、床上・床下浸水が相次ぎ、山間部では土砂崩れで集落が孤立しました。収穫前の田んぼが濁流に沈み、「見ただけでやる気を失う」と語る農家の声が、ニュースから聞こえてきました。

その雨がいったん小康状態になったと思った矢先、830日未明には前線と湿った空気の影響で今度は福井県が襲われました。福井市、大野市、勝山市にレベル5大雨特別警報が出され、勝山市では24時間降水量350.5ミリ、福井市でも318ミリと、こちらも観測史上最多を記録しました。荒川をはじめ20を超える河川で氾濫や護岸損傷が起き、坂井市などでは市街地が広く冠水し、緊急安全確保が一時30万人規模に発令されました。

能登はまだ、20241月の能登半島地震と、その年の9月の豪雨の傷が癒えていません。地震で地盤が緩み、家を直し、田を直し、ようやく日常を取り戻そうとしていたところへ、またこの雨です。「また被災するとは」という言葉が、現地の人の口から自然に出てくる。その言葉を聞くだけで、胸が締めつけられます。

僕は20115月、東日本大震災の直後に東北へボランティアに行きました。泥かきをしながら、ただただ無力感に打ちのめされたあの感覚が、今また蘇ります。形は違えど、災害が奪うものはいつも「当たり前の日常」であり、「生きることの重み」なのです。文京区の静かな道を歩きながら、スマホの万歩計をチラチラ見つつ、頭の中は北陸の浸水した家と、泥に埋もれた田んぼのことでいっぱいです。

母は要支援2で、父は要介護2。僕自身も精神障害2級を抱え、長時間のパソコン作業による右手のマウス腱鞘炎をこらえながら、キーボードを叩いている一介のブロガーです。そんな僕にできることは、こうして書くことだけです。遠く東京から現地へ行くことも、大きな義援金を出すこともできません。ただ、忘れないこと。被害の数字がこれから増えるかもしれないことを恐れつつ、忘れないことです。

石川、富山、福井の大雨災害で被害に遭った方々に心よりお見舞い申し上げます。、今も泥をかき出し、水を汲み、復旧に尽力されている方々に、遠く東京の文京区から、連帯の思いを送ります。

地道にコツコツと、諦めずに。ブログを更新し続けるように、被災地の皆さんも、僕らも、支え合っていきましょう。

Don't give up

9月某日 早稲田大学探検部33OB 上原和明 東京にて

以上、「石川、富山、福井の大雨災害にお見舞い申し上げます」

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2026年8月31日月曜日

「8月は1日平均6731歩歩いていたようだ」

 「8月は1日平均6731歩歩いていたようだ」

スマホの万歩計を確認していたら、僕は、8月は208690歩、1日平均、6731歩歩いていたようです。

 3年前、文京シビックセンターで行われた文京区の特定保健指導では112千歩歩くことが目標になっていますが、17千歩程度で十分だと自分では思っています。

8月は7月に比べると歩いた歩数は少し増えています。

両親の訪問診療、訪問歯科の対応で、家に居なければならずに、なかなか外出できません。尚且つ、自分の精神科訪問看護も週2回あり、散歩をする時間もなかなか作れません。

3年前の健康診断では体重が74キロもあり、メタボリックシンドロームだと診断されて、文京区の特定保健指導を受けましたが、74キロもあった体重が、一昨年の文京区の健康診断では、体重を測ったら、65キロになっていましたが、昨年の健康診断では体重は69キロと昨年に比べて4キロも増えていました。今年の健康診断では体重は68キロくらいです。

 少しずつ、歩く歩数を増やしていき、体重を落とさないといけないと思っています。

 一日8千歩の散歩を目標にして歩こうと思っています。

少しずつ外出する機会を増やして、徐々に歩く歩数を増やしていこうと思っています。

これから少しづつ涼しくなってくると思います。徐々に散歩する歩数を増やしていこうと思っています。

 スマホの万歩計を確認していたら、僕は、8月は208690歩1日平均、6731歩歩いていたようなのでブログを書いておきます。

以上、「8月は1日平均6731歩歩いていたようだ」

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2026年8月18日火曜日

「令和8年8月千葉豪雨を悼む」

 「令和88月千葉豪雨を悼む」

毎回、毎回、同じことを書きますが、僕は一介のブロガーとして、ありきたりな日常を書き続けながら、胸が締めつけられるようなニュースに触れては、こうして文章にしています。

令和8813日から14日にかけて、千葉県を中心に関東地方を襲った記録的な豪雨。気象庁はこれを「令和88月千葉豪雨」と命名しました。千葉市中央区では24時間降水量が367ミリを超え、8月の平年1か月分の3倍以上。観測史上1位を更新する猛烈な雨が降り注ぎました。線状降水帯が3回発生し、レベル5の大雨特別警報や土砂災害特別警報が千葉県内の多くの市町に出されました。

各地で道路が冠水し、住宅の浸水被害は約1500棟。水没した車は2700台を超え、成田空港では約7000人が一夜を明かしました。そして、尊い命が13人も失われました。車の中で水に閉じ込められたり、冠水した道路で倒れたりした方々のことを思うと、胸が締めつけられます。

僕は早稲田大学探検部33OBとして、自然の力の凄まじさを少しは知っているつもりです。探検部時代、未知の地を歩き、風雨にさらされた経験もあります。でも、こんな記録的な豪雨は、想像を絶します。千葉の皆さん、特に被災された方々、遺族の方々の痛みは、僕のような東京の一介のブロガーには到底測り知れません。

両親の介護で毎日忙しく、自分自身も統合失調症で精神障害2級を抱えながら、地道にブログを更新している身です。無収入で、文京区の狭い家で父と母を看ています。そんな僕にできることは、本当に限られています。でも、こうして書くことだけは、諦めずに続けたい。

被災地の皆さんが一日も早く日常を取り戻せるように。泥にまみれた家を片付け、水に浸かった思い出を洗い流しながら、また前を向ける日が来るように。僕みたいな素人ブロガーにできることは、こうして悼みの気持ちを綴ることだけです。

地道にコツコツと、諦めずに。
ブログを更新し続けるように、被災地の皆さんも、僕らも、支え合っていきましょう。

Don't give up

8月某日
早稲田大学探検部33OB 上原和明
東京にて

以上、「令和88月千葉豪雨を悼む」

ブログに載せます。

 

2026年8月12日水曜日

「令和8年熊本地震を悼む」

 「令和8年熊本地震を悼む」

両親の介護で忙しくて落ち着いてブログを書けません。 

今日もAIを利用してブログを書きます。

Xの人工知能Grok 

「ブロガーの上原和明さんの文体で、令和8年熊本地震を悼むブログを書いてください」

と質問してみました。すると以下のような回答が返ってきました。

毎回、毎回、同じことを書きますが、僕は一介のブロガーとして、ありきたりな日常を書き続けながら、胸が締めつけられるようなニュースに触れては、こうして文章にしています。

令和8728日午後427分頃、熊本県熊本地方を震源とするマグニチュード7.1の地震が発生しました。宇城市と氷川町で最大震度7を観測し、平成28年の熊本地震以来、約10年ぶりに熊本の大地が大きく揺れました。

発生から2週間余りが経った今も、死者は39人(うち災害関連死の疑いを含む)、重傷者24人、住宅被害は2万棟を超えています。八代市の日本製紙工場で煙突が倒壊し9人が亡くなり、嘉島町のイオンモール熊本では爆発と建物崩落で7人が犠牲になりました。猛暑の中、断水が続き、避難所や車中泊で過ごす人々が今も数千人います。

僕は20115月、東日本大震災の直後に東北へボランティアに行きました。泥かきをしながら、ただただ無力感に打ちのめされたあの感覚が、今また蘇ります。形は違えど、災害が奪うものはいつも「当たり前の日常」であり、「生きることの重み」なのです。

2016年の熊本地震のときも、僕は遠く東京からニュースを見守り、ただ祈ることしかできませんでした。それから10年。建物の耐震化も進み、人々の備えも変わったはずなのに、また震度7が襲った。日奈久断層の動きだったと報じられています。自然の前では、人間の力は本当に小さい。

でも、被災地の人々は今も立ち上がろうとしています。自衛隊やボランティアが駆けつけ、二次避難の準備が進み、ブルーシートが張られた家々から少しずつ生活の音が戻りつつあると聞きます。母は要支援2で、父は要介護2。僕自身も介護の現実を日々感じながら生きていますが、そんな僕にできることは、こうして書くことだけです。右手がマウス腱鞘炎で痛む中、キーボードを打ちながら、ただ「忘れない」と心に刻むのです。

令和8年熊本地震で亡くなられた方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。遺されたご遺族、今も復興に尽力されている方々に、遠く東京の文京区から、連帯の思いを送ります。

忘れないことが、僕たちにできる、せめてもの「悼み」のかたちではないでしょうか。

地道にコツコツと、諦めずに。ブログを更新し続けるように、被災地の皆さんも、僕らも、支え合っていきましょう。

Don't give up

8月某日 早稲田大学探検部33OB 上原和明 東京にて

以上のような文章が返ってきました。

まるで僕が書いたような文章だと思いました。概ね僕が思っていることを書いてくれていると思いました。

AIとは文章を書く手間を大幅に省いてくれて本当に有り難いと思います。これからもAIを利用して地道にブログを更新していきたいと思います。

以上、「令和8年熊本地震を悼む」

ブログに載せます。

2026年8月9日日曜日

「介護負担が限界」

 「介護負担が限界」

心不全で要介護293歳の父と、脊柱管狭窄症、関節リウマチで要支援289歳の母を、統合失調症で幻聴の症状がある精神障害2級の次男である58歳の僕が同居して介護しています。

僕の介護負担が限界です。

毎日、毎日、父に朝の薬の服用の介助をして、母の足の痛みを気遣い、食事の用意をし、掃除、洗濯をし、往診、訪問看護、訪問リハビリの立ち会いをして、様子を見ます。幻聴が聞こえてくる中で、それをやり続けています。

父は心不全で5分くらい歩くと息が上がります。母は脊柱管狭窄症の手術の後遺症と関節リウマチで歩くのもつらい。二人とも住み慣れた家で過ごしたいと言います。僕もそうしてあげたい。でも、僕自身が統合失調症で精神障害2級。幻聴がひどくなると、頭の中がうるさくて、何も手につかなくなります。

もう限界です。

ケアマネジャーや訪問看護の方にも「限界です」とメールで伝えています。ショートステイを利用してもらいたい、デイサービスを増やしたい、僕が少しでも休める時間を作ってほしいとお願いしています。でも状況は一向に変わりません。

僕は早稲田大学探検部33期のOBです。学生時代は山に登り、未知の場所を歩き、仲間と一緒に困難を乗り越えてきました。あの頃の自分なら「Don't give up」と笑って言えたかもしれません。でも今は、毎日が精一杯です。

介護をしながら、こうしてブログを書いています。AIに助けてもらいながら、少しずつ文字を打っています。右手の握力が25キロくらいで右手で箸も持てない状態で調子も悪い中で。

僕が倒れたら、両親はどうなるのか。それが一番怖い。だからこそ、制度を使って、プロの力を借りて、少しでも負担を軽くしたい。ショートステイでも、訪問介護でも、何でもいい。僕が自分のことを少し考えられる時間が欲しいのです。

同じように親の介護をしながら、自分も病気を抱えている人がいるかもしれません。一人で抱え込まないでください。地域包括支援センターに相談してください。ケアマネに「限界です」と伝えてください。

僕もそうします。

これからも懲りずに、僕のブログにお付き合いいただければ幸いです。

以上、「介護負担が限界」

Don't give up
8
月某日 早稲田大学探検部33OB 上原和明 東京にて

 

2026年8月7日金曜日

「幻聴の症状のある統合失調症の58歳の男が要介護2の父と要支援2の母の介護を出来るでしょうか?」

 「幻聴の症状のある統合失調症の58歳の男が要介護2の父と要支援2の母の介護を出来るでしょうか?

 僕は統合失調症と診断されていて、幻聴の症状があります。

 僕は両親の介護をしています。

 そこでXの人工知能Grok

 「幻聴の症状のある統合失調症の58歳の男が要介護2の父と要支援2の母の介護を出来るでしょうか?

と質問してみました。

 すると以下のような回答が返ってきました。

症状の安定度や支援の活用次第で「一部は可能」ですが、一人で父母双方の介護を全面的に担うのは難しい可能性が高く、無理をすると共倒れのリスクがあります。 個別の状態によるため、専門家への相談が必須です。

要介護2と要支援2の状態の目安

  • 要介護2(父):食事や排泄は一部介助・見守りで可能な場合が多い一方、立ち上がり・歩行に支えが必要で、着替え・入浴・爪切りなど身の回りの動作に介助・見守りが日常的に必要です。要介護認定等基準時間はおおむね50分以上70分未満相当とされ、生活全般で部分的な介助が増える段階です。
  • 要支援2(母):食事・排泄などの基本動作はほぼ自立できますが、立ち上がり・歩行にふらつきや支えが必要で、掃除・買い物などの家事に支援が必要な状態です。予防的な支援が中心で、要介護より負担は軽いです。

父母合わせて在宅で支える場合、身体介助・見守り・家事の負担が重なり、日常的に相当の時間と体力・注意力が求められます。介護保険のサービス(訪問介護、通所、ショートステイなど)を使えば家族の負担を大幅に減らせますが、ゼロにはなりません。

幻聴のある統合失調症の場合の留意点

統合失調症は個人差が非常に大きく、服薬で症状が安定し日常生活を送れている人は少なくありません。一方で、幻聴が残存している場合は集中力・判断・ストレス耐性に影響が出やすく、介護の負担が症状悪化や再発のきっかけになることがあります。

介護は身体的な介助だけでなく、予定管理、緊急時の対応、感情的なやりとりも伴います。ストレスで症状が不安定になると、父母の安全にも影響しかねません。精神疾患を抱える人が親の介護を担うケースでは、「今度は自分が親の面倒を見る番」という気持ちから無理をして共倒れになる例が指摘されています。

年齢(58歳)も考慮すると、長期にわたる介護体力や自分自身の将来の健康も重要です。

現実的な進め方

可能かどうかを本人・家族だけで判断せず、以下を並行して相談してください。

  • 主治医(精神科):現在の症状(幻聴の程度・頻度・内容)、服薬状況、介護負担が病状に与える影響を確認。必要なら訪問看護の導入も検討。
  • 地域包括支援センター:高齢者の総合相談窓口。父母のケアプラン作成やサービス調整をケアマネジャーと連携して進められます。精神疾患のある家族がいる場合の相談にも対応しています。
  • 市区町村の障害福祉担当窓口:息子さん自身が障害者手帳や障害支援区分を持っている場合、居宅介護などの障害福祉サービスを使える可能性があります。
  • 介護保険サービスを最大限活用:訪問介護(身体介護・生活援助)、デイサービス、ショートステイを組み合わせ、息子さんの負担を「補助」の範囲に抑える。

一人で抱え込まず、外部サービスと役割分担するのが安全です。症状が安定していても、介護は「できる範囲」で関わり、専門職に任せる部分を明確にすることをおすすめします。

この回答は一般的な情報に基づくものであり、医療・介護の個別判断ではありません。必ず主治医と地域の相談機関に現状を伝えて確認してください。早めの相談が、父母と息子さん双方の生活を守る近道になります。

以上のような回答が返ってきました。

僕が両親の介護をするのはかなり無理があるようです。

介護負担が限界ですとケアマネ、訪問看護にメールしていますが、状況は一向に改善されていません。

早く介護から離れ、ゆっくり自分のことだけ考えられる時間を作ってのんびりと休息したいというのが僕の本音です。

 以上、「幻聴の症状のある統合失調症の58歳の男が要介護2の父と要支援2の母の介護を出来るでしょうか?

 ブログに載せます。

 

 

2026年8月1日土曜日

「7月は10万69539字入力していたようだ」

 「7月は1069539字入力していたようだ」

 ATOKマンスリーレポートを見ていたら、僕は、20267月は1069539字パソコンで入力していたようです。

 ブログを書くこと、X(旧 Twitter)でポストすることで、パソコンのキーボードで入力しているので、入力した文字数が一月、10万字を超えていたのだと思います。

 一日平均3450字くらいです。

入力時間は168時間、原稿用紙268枚分入力していたようです。

 1日平均、54時間、1日平均原稿用紙にすると86枚分、パソコンに向かってキーボードで入力していたようです。

 相当、長い時間、パソコンに向かい、キーボードをカチカチ打っているようです。

 10万字を超える文字を入力していたとは、ものすごく多い入力数だと思います。

 毎回、毎回、同じことを書きますが、新しいパソコン、レノボのThinkPad X9-15 Gen1 Aura Editionというものすごくバッテリー持ちの良い(長時間バッテリーで、外出先でもバッテリーのことを気にせずにパソコンで長時間の作業が出来ています。14時間~5時間程度の外出先でのパソコンでの作業なら全くバッテリーのことを気にせずにパソコン作業が出来ています)ものすごく性能の良いパソコンを購入したので、パソコンに向かう時間も大幅に増えて、入力文字数も大幅に増えているのだと思います。

 先月も同じことを書いていますが、実はパソコンに向かう時間が長過ぎて、パソコン操作をする時間が長く、マウスに触っている時間がとても長く、右手がマウス腱鞘炎になってしまい、右手の握力が低下しています。右手の握力が25キロくらいになっていて、ご飯を食べるときも右手で箸を使えずに左手で箸を使いご飯を食べています。症状はかなり深刻で、整形外科にも行っています。整形外科では、マウス腱鞘炎ではない、首からきている症状ではないか、首のMRIを撮ってもらた方が良い、大きな病院で診てもらった方が良いと言われ、新宿メディカルセンターの脊椎脊髄外科に紹介状を書いていただき、紹介状は整形外科からいただいていますが、両親の介護で家に居なければならずに新宿メディカルセンターの脊椎脊髄外科にいまだに行けていません。

少しでも症状を和らげるために、パソコンに向かう時間を大幅に減らすことを考えていますが、Xでポストするのが日々の習慣になっていて、毎日、パソコンに向かってXをしていています。そのため、パソコンに向かう時間も減らすことは出来ずに、右手のマウス腱鞘炎だと思っている症状も一向に良くなりません。右手のマウス腱鞘炎だと僕が思っている症状がかなり深刻で、Xもブログも含めて、パソコンに向かう時間を大幅に減らさないといけないと思っていますが減らせていません。しばらく、パソコンも開かずに安静にしているのが良いのだと思っていますが、パソコンを立ち上げてXをしてしまっています。

 パソコンに向かって、キーボードで文字を入力していると、逆流性食道炎も良くならないと思っています。以前、お医者さんにパソコンに向かっている限り、逆流性食道炎は良くなりませんと言われたことがありました。

 先々月も同じ事を書いていますが、パソコンに向かわない、なにか体を動かす時間を増やして気分転換をするのが良いのだと思っています。僕が体を動かしているのは、168千歩程度の散歩と、家での家事くらいなので、僕の家の最寄りのラジオ体操が行われている場所の教育の森公園でのラジオ体操でも、近所の教育の森公園にある文京スポーツセンターでの運動でも良いから何か軽いスポーツ、運動をした方が良いと本心で思っています。

 今日、ATOKマンスリーレポートを見ていたら、20267月は、僕は1069539字入力していたようなので、ブログを書いておきます。

 以上、「「7月は1069539字入力していたようだ」

 ブログに載せます。

 

2026年7月31日金曜日

「7月は1日平均6142歩歩いていたようだ」

 「7月は1日平均6142歩歩いていたようだ」

スマホの万歩計を確認していたら、僕は、7月は189849歩、1日平均、6142歩歩いていたようです。

 3年前、文京シビックセンターで行われた文京区の特定保健指導では112千歩歩くことが目標になっていますが、17千歩程度で十分だと自分では思っています。

7月は6月に比べると歩いた歩数は大幅に減っています。

両親の訪問看護、訪問リハビリ、訪問診療、訪問歯科の対応で、家に居なければならずに、なかなか外出できません。尚且つ、自分の精神科訪問看護も週2回あり、散歩をする時間もなかなか作れません。

3年前の健康診断では体重が74キロもあり、メタボリックシンドロームだと診断されて、文京区の特定保健指導を受けましたが、74キロもあった体重が、一昨年の文京区の健康診断では、体重を測ったら、65キロになっていましたが、昨年の健康診断では体重は69キロと昨年に比べて4キロも増えていました。今年の健康診断では体重は68キロくらいです。

 少しずつ、歩く歩数を増やしていき、体重を落とさないといけないと思っています。

 一日8千歩の散歩を目標にして歩こうと思っています。

少しずつ外出する機会を増やして、徐々に歩く歩数を増やしていこうと思っています。

これから暑さも厳しくなると思います。熱中症に気を付けながら、徐々に散歩する歩数を増やしていこうと思っています。

 スマホの万歩計を確認していたら、僕は、7月は189849歩1日平均、6142歩歩いていたようなのでブログを書いておきます。

以上、「7月は1日平均6142歩歩いていたようだ」

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2026年7月30日木曜日

「2026年の熊本地震で災害関連死を減らすには」

 「2026年の熊本地震で災害関連死を減らすには」

両親の介護で忙しくて落ち着いてブログを書けません。今日もAIを利用してブログを書きます。

一昨日、728日午後427分に熊本県で最大震度7を観測する地震がありました。令和8年熊本地震です。僕は東京にいて、直接の揺れはほとんど感じませんでしたが、ニュースを見て胸が痛みました。

2016年の熊本地震では、直接死(地震による倒壊や土砂崩れなどによる死亡)は50人、災害関連死(避難生活のストレスや持病悪化による死亡)は218人だったそうです。直接死の4倍以上が関連死という、本当に重い数字です。今回もすでに死者は30人を超え、避難所でのエコノミークラス症候群や車中泊による持病の悪化が早くも報じられています。

僕は20115月、東日本大震災直後の東北で1週間、泥かきなどの災害ボランティアをしました。あのとき、ただただ無力感に打ちのめされました。

熊本地震の関連死の多くも、避難生活の中で起きたのでしょう。狭いスペース、プライバシーの欠如、十分な医療や栄養、運動の機会がないこと。特に高齢者や持病のある方にとって、それは命に直結します。

では、今回の2026年熊本地震で、災害関連死を減らすにはどうすればいいのか。

まず、避難所の環境を一刻も早く改善することです。熱中症防止のためスポットクーラーを入れること。段ボールベッドや間仕切りを迅速に整え、エコノミークラス症候群を防ぐための足の運動や水分補給を徹底する。医療チームが巡回し、持病の薬や血圧管理を途切れさせない。車中泊を選ぶ人も多いですが、そこでも血栓予防の知識を広め、早めに適切な場所へ移ってもらう支援が必要です。

次に、可能な人は在宅避難を続けることです。家が安全なら、無理に避難所に行かず、備蓄と地域のつながりで暮らす。2016年の教訓から、仮設住宅やみなし仮設への移行を急ぐことも大切です。孤立を防ぎ、誰かが声をかける仕組みを、行政と地域で作る。

そして、心のケア。ストレスは持病を悪化させます。僕自身、統合失調症を抱えながら両親の介護を続けている身として、精神的な負担がどれだけ体を蝕むか、痛いほどわかります。専門家やボランティアが寄り添い、「大丈夫だよ」と声をかけるだけで、命が助かる場合もあるはずです。

僕が2011年に感じた無力感は、今も胸の奥に残っています。でも、老子の言葉に「天下に水より柔弱なるは莫し」とあるように、柔らかい水が岩を穿つように、小さな備えと支え合いが、大きな悲劇を少しずつ減らしていくのだと思います。

今回の熊本の被災者の方々に、少しでも早く穏やかな日常が戻りますように。災害関連死を増やさないためにも、避難されている方々が体調を崩されないことを祈ります。

Don't give up.

早稲田大学探検部33OB 上原和明東京にて

以上、「2026年の熊本地震で災害関連死を減らすには」

 ブログに載せます。

2026年7月29日水曜日

「31年間で7回の震度7の地震」

 「31年間で7回の震度7の地震」

 昨日、728日火曜日午後427分に熊本県で震度7を観測する地震がありました。

 1995年の阪神淡路大震災以来、7回目の震度7の地震です。

 1995年以来、日本で震度7を観測した地震は、1995年の阪神淡路大震災、2004年の中越地震、2011年の東日本大震災、2016年の熊本地震、2018年の北海道胆振東部地震、2024年の能登半島地震、そして、2026年の令和8年熊本地震です。

 そこで、Xの人工知能Grok

 「1995年以来阪神・淡路大震災、中越地震、東日本大震災、熊本地震、北海道胆振東部地震、能登半島地震、令和8年熊本地震と7回も震度7を観測する地震が起きていますが、日本は異常な状態なのでしょうか?」

 と質問してみました。

 すると以下のような回答が返ってきました。

 いいえ、日本が「異常な状態」にあるわけではありません。 1995年以降に震度7を観測した地震が複数回あるのは事実ですが、主な理由は観測体制の大幅な充実と、日本がもともと世界有数の地震多発地帯であることです。強い揺れを伴う地震そのものが急増したわけではありません。

震度7を観測した主な地震(1995年以降)

ご指摘の通り、以下のような事例があります(2016年熊本地震は前震・本震で2回観測されたため、観測回数としてはそれも含めてカウントされる場合があります)。

1995年:兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)

2004年:新潟県中越地震

2011年:東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)

2016年:熊本地震(414日・16日)

2018年:北海道胆振東部地震

2024年:能登半島地震

2026728日:令和8年熊本地震(M7.1、宇城市・氷川町などで震度7

これらで「震度7」が公式に記録されたのは、主に1995年以降です。

なぜ1995年以降に目立つのか

最大の要因は震度観測網の充実です。

1995年以前は気象官署中心の観測点が約160点程度で、限られた場所しかカバーしていませんでした。

阪神・淡路大震災を契機に1996年以降、計測震度計が導入され、気象庁・防災科学技術研究所・地方公共団体合わせて約4,000点以上に大幅増強されました。

震度7は内陸の浅い地震でも震源断層近くの限定的な範囲でしか出ないことが多く、観測点が疎い時代には「見逃されていた」可能性が高いのです。観測密度が上がったことで、局地的な強い揺れを正確に捉えられるようになっただけで、「日本で強い揺れを伴う地震が増えたという事ではない」と指摘されています。

また、震度階級自体も変遷しています。震度71949年(福井地震を契機)に導入され、1996年以降は計測震度6.5以上を震度7と定義する現行方式になりました。以前は体感や被害状況からの推定が中心でした。

歴史的に見ても珍しくない

日本では過去にも震度7相当の激しい揺れを伴う地震が繰り返されてきました。例えば、1948年福井地震(震度7導入のきっかけ)、1923年関東地震、1891年濃尾地震、さらには江戸時代以前の記録でも家屋の大規模倒壊を示す被害から震度7相当と推定されるものが複数あります。観測技術が未熟だった時代に「公式記録」が少ないだけで、活動そのものが近年突然異常になったわけではありません。

日本の地震活動の背景

日本は太平洋プレート、フィリピン海プレート、ユーラシアプレート(北米プレート)などの境界に位置し、世界の地震の約1割前後が日本周辺で発生するとされます。マグニチュード7クラスの地震は地域全体で年平均1回程度起こり得る水準で、活動が活発な時期と静穏な時期の変動もあります(2011年以降の余効的な活動など)。南海トラフや首都直下など、将来の大規模地震のリスクは常に指摘されていますが、それは「異常」というよりプレートテクトニクスに基づく本来の性質です。

まとめると、震度7の記録が増えたのは主に「見えるようになった」結果であり、日本が地震国であること自体は変わっていません。個々の地震への備え(耐震化、避難計画、情報収集)を継続することが重要です。最新の令和8年熊本地震についても、気象庁や専門家は過去の同地域の活動(2016年など)と類似のメカニズムを指摘しつつ、余震への注意を呼びかけています。

 以上のような回答が返ってきました。

 Grokは日本は異常な状態ではないと回答しています。

 僕は31年間で震度7の地震が7回も起きていることは、日本は異常な状態だと思っています。

 一向に景気も良くならないし、日本の停滞ムード、日本の衰退ムードを形作っているのが、日本で31年間に7回も起きている震度7の地震だと思っています。

 昨日、熊本県で震度7の地震が起きて、1995年の阪神淡路大震災以来、31年間で7回目の震度7の地震なので、人工知能の回答も交えて、僕が思っていることを書いてみました。

 以上、「31年間で7回の震度7の地震」

 ブログに載せます。

 

 

2026年7月26日日曜日

「生活保護前提の1人暮らし」

 「生活保護前提の1人暮らし」

 両親の介護で忙しくて落ち着いてブログを書けません。

 今日もAIを利用してブログを書きます。

 Xの人工知能Grok

 「58歳の男です。統合失調症で精神障害2級です。父が要介護2で母が要支援2で両親の介護をしています。もう僕の介護負担が限界で家を出て1人暮らしをしたくて、文京区障害者基幹相談支援センターで面談をしてきました。統合失調症で精神障害2級なので生活保護になることを前提に家賃53700円以下の物件を探すことを話してきました。1人暮らしをした方が良いでしょうか?このことについてブロガーの上原和明さんの文体でブログを書いてください。」

 と質問してみました。

 すると以下のような回答が返ってきました。

「一人暮らしは、介護負担が限界に達している現状を考えると『検討する価値が高い選択肢』の一つです。ただし、『絶対に良い』とは言い切れず、ご自身の症状の安定度・日常管理の状況・支援の準備具合によってリスクも伴います。最終判断は主治医や相談支援の専門家と一緒に進めるのが安全です。

文京区の障害者基幹相談支援センターで既に生活保護を前提に家賃53,700円以下の物件を探す話をしたのは、とても良いステップです。文京区(1級地)の単身世帯の住宅扶助上限は確かに53,700円です。

一人暮らしの主なメリットは、介護ストレスの大幅軽減、自分のペースで生活できること、経済面の安定(生活保護)です。デメリット・リスクとしては、孤立と自己管理の難しさ、両親の介護の継続問題、生活保護の制約などがあります。

おすすめの進め方として、主治医に相談、基幹相談支援センターとの連携継続、両親のサービス強化、段階的に試す(地域生活体験)、緊急時の備えを挙げていました。介護を続けて自分の病状が悪化すれば、結果的に両親にとっても良くありません。あなたの健康が優先です。」

まるで僕が書いたような文章だと思いました。概ね僕が考えていることを書いてくれていると思いました。

僕も本当に介護負担が限界で、家を出て1人暮らしをしたいと思っています。将来、生活保護になることは誠に残念ですが、このまま両親の介護を小日向の自宅で続けていたら、僕の統合失調症の症状である幻聴の症状が悪化して、幻聴の症状が増悪していくと思うので、文京区障害者基幹相談支援センターで話をしてきて、生活保護前提で家賃53700円以下の物件を探す方向で進もうとしています。

Grokの言うように、いきなり完全に一人暮らしではなく、段階的に進めるのが良いのかもしれません。主治医にも相談してみようと思います。両親にはショートステイなどを利用してもらい、僕が休める時間をつくりたいです。

AIとは文章を書く手間を大幅に省いてくれて本当にありがたいと思いました。これからもAIを利用して地道にブログを更新していこうと思っています。

Don't give up.

 20267月某日、早稲田大学探検部33OB 上原和明 東京にて

 以上、「生活保護前提の1人暮らし」

 ブログに載せます。

 

2026年7月19日日曜日

「介護負担が限界」

 「介護負担が限界」

 両親の介護で、僕の介護負担が限界になっています。

 そこでXの人工知能Grokに

 「58歳の男です。統合失調症で精神障害2級です。父が要介護2で母が要支援2で両親の介護をしています。もう介護負担が限界です。どうすれば良いでしょうか?

 と質問してみました。すると以下のような回答が返ってきました。

 とてもつらい状況ですね。58歳でご自身が統合失調症(精神障害2級)を持ちながら、父親(要介護2)と母親(要支援2)の介護を一人で担っているのは、想像を絶する負担だと思います。 「もう限界です」と正直に言えるのは、勇気のあることです。一人で抱え込まないでください。あなたが倒れてしまえば、両親も守れなくなります。まずは「自分を守る」ことを最優先に、すぐに専門家に相談してください。

1. 今すぐ相談すべき窓口(優先順位順)

一番おすすめ:両親の担当「地域包括支援センター」
これは市区町村が設置する無料の総合相談窓口で、介護する家族の負担相談に特化しています。保健師・社会福祉士・ケアマネジャーなどがチームで対応し、サービスの見直しやレスパイト(休息)支援を調整してくれます。

  • 「介護負担が限界です」「自分も精神障害2級で体調が心配」と正直に伝えてください
  • ケアプランをすぐに変更し、デイサービス・訪問介護の回数増加、ショートステイ(短期入所)の手配などが可能です。
  • 担当センターがわからない場合:お住まいの市区町村役所の高齢福祉課・介護保険課に電話「地域包括支援センターの連絡先を教えてください」と聞くだけです。多くの自治体でホームページに一覧があります。

すでにケアマネジャーがついている場合
すぐにその人に電話。「限界です」と伝えて、緊急でショートステイやサービス増を依頼してください。ケアマネはあなたの状況を一番把握しています。

ご自身の精神障害に関する相談

  • 主治医の精神科や病院の 医療ソーシャルワーカー(MSW)に連絡。介護ストレスが病状に影響している可能性を伝え、支援を調整してもらいましょう。
  • 市区町村の障害者基幹相談支援センター地域活動支援センター(精神障害者向け)にも相談可能。居宅介護(ホームヘルプ)などの障害福祉サービスを利用して、自分の日常生活を少しでも楽にできる場合があります(食事準備・掃除などの支援)。

2. すぐに負担を軽くできる具体的な方法

  • ショートステイ(短期入所生活介護):これが一番効果的です。
    父親(要介護2)は利用しやすく、数日〜1週間程度施設に預けられます。あなたがしっかり休め、睡眠を取れます。費用は介護保険で1割負担の場合、1日あたり数千円程度(施設・地域により異なります)。ケアマネや地域包括支援センターに「レスパイト(休息)のために」と伝えれば優先的に調整してくれます。要支援2の母親も予防ショートステイが利用できる場合があります。
  • 在宅サービスの強化
    デイサービス(日中預かり)を週23回以上に増やす、訪問介護(ヘルパー)の回数を増やす、訪問看護を追加。夜間などの部分をプロに任せられます。
  • 自分の障害福祉サービスを活用
    精神障害2級で利用できる居宅介護などで、自分の家事・生活支援を受けると、介護に集中しやすくなります。基幹相談支援センターに相談を。

3. 中長期的な選択肢

  • 施設入所を検討:特別養護老人ホーム(特養)など。ケアマネが状態を評価し、申請をサポートします。「親を施設に入れるのはかわいそう」という罪悪感は捨てて大丈夫です。プロの24時間ケアの方が、穏やかに過ごせるケースがとても多いです。
  • 家族・親族との役割分担:兄弟姉妹がいる場合、地域包括支援センターに「家族会議の調整」を依頼すると、第三者として公平に話し合えます。
  • 経済的な支援:高額介護サービス費(自己負担が一定額を超えたら還付)、負担限度額認定(低所得の場合さらに軽減)などを確認。ケアマネや包括センターが一緒に調べてくれます。

大切なこと

  • 「制度を使う=親を見捨てる」ではありません。介護保険制度は「家族の限界」を前提に作られています。プロに頼ることで、あなたが長く優しく関わっていけます。
  • ご自身の統合失調症の治療を最優先に。ストレスが症状を悪化させる可能性があるので、主治医に今の状況を必ず伝えてください。
  • 少しでも「もう無理かも」と感じたら、今日・明日中に電話を。待っていると状況が悪化します。

あなたは一人じゃないです。地域の専門家が必ず味方になってくれます。
まずは地域包括支援センターに電話してみてください。状況を話せば、すぐに動いてくれます。

もし具体的な市区町村名を教えていただければ、よりピンポイントな連絡先をお調べできます。
どうか無理をせず、一歩ずつ。あなた自身を大切にしてください。

以上のような回答が返ってきました。

僕も本当に両親にショートステイを利用してもらい、僕がゆっくり休める時間をつくって欲しいと思っています。

 以上、「介護負担が限界」

 ブログに載せます。

 

2026年7月12日日曜日

「在宅医療の家族負担」

 「在宅医療の家族負担」

 両親の介護で、同居人である僕にかかる負担がものすごい状態になっています。

 そこでXの人工知能Grok

 「在宅医療の家族負担について説明してください」

 と質問してみました。

 すると以下のような回答が返ってきました。

在宅医療における家族の負担について、わかりやすく説明します。

在宅医療(訪問診療・訪問看護など)は、患者さんが住み慣れた自宅で療養できるメリットが大きい一方、家族の負担が課題になるケースが少なくありません。病院と違い、日常の介護や見守りの多くを家族が担うことになるためです。

家族にかかる主な負担

精神的負担 

最も大きい負担とされることが多いです。 

患者さんの容態変化への不安 

24時間見守りのストレス 

もっと何かしてあげられないか」という罪悪感 

認知症の場合のコミュニケーションの難しさや問題行動への対応 

厚生労働省関連の調査でも、精神的負担を「とても感じている・まあ感じている」と答える人が6割以上を占めています。

時間的・生活負担 

自分の時間がほとんど取れなくなります。

なぜ家族の負担が大きいのか?

病院や施設では看護師や介護士が24時間対応してくれますが、在宅では家族がケアチームの一員として位置づけられます。医師や看護師、ケアマネージャーなどが訪問しますが、日常の多くは家族が支える形になります。

(同居家族が主な介護者の約46%を占める実態があります)

負担を軽減するための主な支援・制度(日本)

負担をゼロにすることは難しいですが、以下の制度やサービスを活用することで大幅に軽減可能です。

介護保険サービス(要介護認定を受けると利用可能)

訪問介護(身体介護・生活援助)

デイサービス(通所)

ショートステイ(短期入所・レスパイトケア:家族の休息に最適)

ケアマネージャー(介護支援専門員)

最も重要な相談先。必要なサービスを調整してくれます。

負担を軽くするためのポイント

「できる範囲で考える」 家族がすべてを完璧にやる必要はありません。プロのサービスを積極的に使いましょう。

一人で抱え込まない :家族で役割分担をし、定期的にグチを言い合える関係を作りましょう。

早めに相談する:負担が限界になる前にケアマネージャーや地域包括支援センターに相談を。

レスパイトケアを活用 ショートステイなどで定期的に家族が休む時間を作ることが重要です。

在宅医療は患者さんにとって大きなメリットがありますが、家族の負担を軽減しながら続けられる体制を整えることが成功の鍵です。

以上のような回答が返ってきました。

もうすでに僕の両親の介護負担が限界なので、この回答にあるように、両親にショートステイを利用して貰い、僕自身がゆっくり休息できる時間を作っていかないといけないと思っています。

以上、「在宅医療の家族負担」

ブログに載せます。

 

 

2026年7月9日木曜日

「3.11の際の岩手県釜石市の被災を悼む」

 「311の際の岩手県釜石市の被災を悼む」

「命を救えなかった」釜石・鵜住居防災センターの悲劇を悼み、「釜石の奇跡」と希望の記憶に学ぶ

 両親の介護で忙しくて落ち着いてブログを書けません。

 今日もAIを利用してブログを書きます。

 Xの人工知能Grok

 「ブロガーの上原和明さんの文体で、311の際の岩手県釜石市の被災を悼むブログを

『命を救えなかった』 釜石・鵜住居防災センターの悲劇

『釜石の奇跡 』 どんな防災教育が子どものいのちを救えるのか?

『あしたがすき』 釜石「こすもす公園」きぼうの壁画ものがたり

『いのちの砦』 「釜石方式」に訊け

<持ち場>の希望学  釜石と震災、もう一つの記憶」

を参考文献にして書いてください。」

 と質問してみました。すると以下のような回答が返ってきました。

311日が近づくたび、岩手県釜石市の被災を思い、胸が痛みます。あの日から15年余り。釜石市では、死者888人、行方不明者152人(平成271231日時点の集計による)という大きな人的被害がありました。関連死を含めると、1,064人に上る尊い命が失われたとされています。特に、市北部の沿岸部に位置する鵜住居地区で死者445人、行方不明者138人という甚大な被害が出ており、市全体の犠牲者の多くを占めています。

そんな中、鵜住居地区で起きた「命を救えなかった」悲劇が、今も深く心に残ります。20102月に開所したばかりの「釜石市鵜住居地区防災センター」。鉄筋コンクリート造りの2階建てで、津波からの避難場所として地域住民に認識され、避難訓練も行われていました。しかし、東日本大震災の大津波は、建物の2階天井付近にまで到達しました。津波が引いた後、内部から34人の生存者が救出されましたが、69人の遺体が収容され、検証の結果、162人の犠牲者が出たことが明らかになりました。家族の証言などでは、200人以上が避難していた可能性も指摘されています。

渋井哲也さんの『命を救えなかった 釜石・鵜住居防災センターの悲劇』は、妻子を失った一人の男性に寄り添いながら、この悲劇の背景を丁寧に描いています。施設の名称や訓練の実施が住民を「ここは安全」と誤解させたこと、ハザードマップの限界、行政の周知不足——。本来、津波の緊急避難場所ではなかったにもかかわらず、多くの人が命を託した場所で、想定を超える津波がすべてを飲み込みました。救助が来たのは発災から3日目の夜遅くで、その間に低体温症などで亡くなった方もいたそうです。無念の思いが、静かに胸に迫ってきます。

同じ鵜住居地区で、対照的な「奇跡」が起きていました。鵜住居小学校と釜石東中学校にいた児童・生徒、教職員合わせて約600人が、全員高台に避難して無事だったのです。NHKスペシャル取材班の書籍『釜石の奇跡 どんな防災教育が子どものいのちを救えるのか?』は、この出来事が単なる奇跡ではなく、震災前から積み重ねられた防災教育の成果だったことを詳しく伝えています。

群馬大学(現・東京大学)の片田敏孝教授が2005年頃から指導した教育では、「避難の3原則」が子どもたちに根付いていました。「想定にとらわれるな」「最善を尽くせ」「率先避難者たれ」。ハザードマップを過信せず、その場で最善の判断をし、自分から率先して逃げる——。地震直後、子どもたちはこの原則に従い、高台へ走りました。中学生たちは、指定の避難場所に着いた後も、周囲の状況を見てさらに高い場所へ移動したのです。わずか30秒後、その場所は津波に襲われました。学校管理下にあった子どもたちの生存率は99.8%に達したといいます。教育が、命を守る力になったのです。

医療の現場でも、「釜石方式」と呼ばれる取り組みが命をつなぎました。芦崎治さんの『いのちの砦 「釜石方式」に訊け』は、釜石医師会の医師たちが、災害直後から93日間にわたり医療を継続した記録です。被災しながらも患者を内陸部へ搬送し、お薬手帳を活用した連携、遺体検案の重い役割——。それぞれの持ち場で、医師たちは「いのちの砦」を守り抜きました。施設が壊れ、情報が途絶える中、人間の判断と連帯がどれほど大切かを教えてくれます。

悲劇と奇跡が交差する釜石で、もう一つの希望の物語があります。津波で子どもたちの遊び場が失われ、仮設住宅が建ち並ぶ中、甲子町で「こすもす公園」が手作りで生まれました。隣の工場の壁に、タイ在住の画家・阿部恭子さんのデザインによる巨大な「きぼうの壁画」が、のべ600人のボランティアの手で半年かけて描かれました。鮮やかな色で未来を象ったその壁画は、子どもたちの笑顔と「明日」を願う気持ちを込めています。指田和さんの絵本『あしたがすき 釜石「こすもす公園」きぼうの壁画ものがたり』は、この与え合いの軌跡を優しく記録しています。震災の傷を負った町で、みんなで力を合わせて希望を形にしたのです。

東大社研編・中村尚史・玄田有史編の『〈持ち場〉の希望学 釜石と震災、もう一つの記憶』は、こうした営みを別の角度から照らします。オーラル・ヒストリーを通じて、消防関係者、市職員、調査船の船員、製鉄所の労働者など、公の仕事をまっとうした人々の声を紡いでいます。褒められなくても、家族を案じながら、それぞれの「持ち場」で懸命に役割を果たした人々。希望とは、特別な場所や人物にあるのではなく、日々の責任を全うする静かな営みの中にある——。釜石のもう一つの記憶が、そこに息づいています。

僕自身、20115月、3.11直後に1週間、東北に、泥かきなどの災害ボランティアをさせていただきました。あのとき感じたのは、圧倒的な無力感でした。自然の力の前に人間は何と脆いか。しかし同時に、生き残った人々が「生きる」ことの重みを体現している姿にも、深く心を打たれました。釜石の物語は、その無力感と希望が表裏一体であることを、静かに教えてくれます。

老子の言葉に、「天下水より柔弱なるは莫し、而も堅強なる者は之を能く勝つること莫し」とあります。水は柔らかく、どんなに硬い岩をも浸透し、削り、時には飲み込みます。釜石の教訓もまた、柔らかいがゆえに強い。施設やマップに頼りきるのではなく、一人ひとりが判断し、率先し、持ち場を全うし、子どもたちの笑顔のために色を塗る——そんな営みが、硬い悲劇を乗り越える力になるのだと思います。

15年余り経ち、風化の波が押し寄せようとしていますが、釜石に学ばねばなりません。南海トラフや首都直下地震の脅威が迫る中で、「正しく恐れる」姿勢を忘れずに。自分の命は自分で守る。家族や地域の命を、率先して守る。〈持ち場〉で希望を紡ぐ。釜石の奇跡は、軌跡であり、誰にでも描ける道です。

忘れないために、語り継ぎましょう。命を救えなかった悲劇を、命を守った軌跡を、あしたがすきと願う壁画を、それぞれの持ち場で。

7月某日 早稲田大学探検部33OB 上原和明 東京にて

(参考文献:渋井哲也『命を救えなかった 釜石・鵜住居防災センターの悲劇』(第三書館、2017年)、NHKスペシャル取材班『釜石の奇跡 どんな防災教育が子どものいのちを救えるのか?』(イースト・プレス)、指田和『あすが すき 釜石「こすもす公園」きぼうの壁画ものがたり』(ポプラ社、2016年)、芦崎治『いのちの砦 「釜石方式」に訊け』(講談社、2013年)、東大社研編・中村尚史・玄田有史編『〈持ち場〉の希望学 釜石と震災、もう一つの記憶』(東京大学出版会、2014年)ほか、釜石市資料・各種報道)

 以上のような文章が返ってきました。

 まるで僕が書いたような文章だと思いました。

 概ね僕が考えていることを書いてくれいると思いました。

 AIとは文章を書く手間を大幅に省いてくれて本当に有り難いと思いました。

 これからもAIを利用して地道にブログを更新していこうと思っています。

 以上、「311の際の岩手県釜石市の被災を悼む」

 ブログに載せます。

2026年7月7日火曜日

「3.11の際の南三陸町の被災を悼む」

 「311の際の南三陸町の被災を悼む」

 両親の介護で忙しくて落ち着いてブログを書けません。今日もAIを利用してブログを書きます。

 Xの人工知能Grok

「ブロガーの上原和明さんの文体で、311の際の宮城県南三陸町の被災を悼むブログを20115月に東北の被災地に1週間災害ボランティアに行ったことを絡めて、

「南三陸から」 [vol.1]

『南三陸町からの手紙 』 東日本大震災、それぞれのあの日

『復興と尊厳 』 震災後を生きる南三陸町の軌跡

『南三陸日記』

を参考文献にして書いてくだい。」

と質問してみました。

すると以下のような回答が返ってきました。

20115月。僕は東北の被災地に、1週間の災害ボランティアとして入りました。泥かきなどの災害ボランティアを主にしました。

あの時、どれほど体を動かしても、圧倒的な無力感に苛まれました。

それから15年余り経った今、改めて宮城県南三陸町の被災と、その後の歩みに思いを馳せます。

宮城県南三陸町では311の際に南三陸町の公式記録(町ホームページより、整理時点の数値)によると死者: 620人(直接死600人[町民551人、町外48人、不明1人]+間接死20人)行方不明者: 211人(町民210人)の被害がありました。

南三陸警察署発表では死者566人・行方不明者211人となっており、数字は身元確認の進捗により若干変動します。全体として、町の人口の約5%近くが犠牲または行方不明になるという、死者・行方不明者を合わせると800人超に上り、町人口の約5%近くに相当する甚大な人的被害で極めて深刻な被害がありました。宮城県南三陸町の311の際の被災を悼むブログを以下の三冊の本を通じて、書きます。

まず手に取ったのは、『南三陸町からの手紙 東日本大震災、それぞれのあの日』(山形夕佳ほか48名による手記集)。震災直後から復興の過程で、町に暮らす48人の人々が自らの「あの日」を赤裸々に綴ったものです。傷がまだ生々しい中で、痛ましい記憶と向き合い、文字にする作業がどれほど重かったか。その一文一文に、町を襲った巨大な津波の恐怖と、失われたものへの哀惜が溢れています。

特に胸を抉られるのは、防災対策庁舎の悲劇である。3階建て、約12メートルの庁舎に災害対策本部を置き、職員たちは地震発生直後から避難指示を出し続けていた。津波警報が更新され、「高台へ避難してください」という声が無線で響く中、予想をはるかに超える15メートルを超える波が押し寄せ、庁舎を飲み込みました。33人の町職員を含む43人の命がそこで奪われました。若い職員たちが、住民の命を守るために最後まで職務を果たし、流されていったといいます。生存した年配の職員が「われわれ年寄りは生き残り、若い職員が流されてしまった」と悔やむ声が、今も耳に残ります。公立志津川病院でも、津波が4階まで達し、入院患者107人のうち72人が死亡・行方不明となりました。動けない高齢の患者たちを懸命に救おうとしたスタッフの、死を覚悟した姿もまた、痛切です。

次に、『南三陸日記』(三浦英之著)。朝日新聞の記者が震災直後に南三陸町に住み込み、被災者と共に暮らし、小さな声に耳を傾け続けたルポルタージュです。家族全員を失った女性が、直後に授かった新たな命を抱き、出産を迎える場面。学校で児童や教職員を失った痛みと、それでも子どもたちと向き合う教職員の姿。仮設住宅での日常の積み重ね。著者が静かに、しかし力強く記す言葉が胸に刺さります

——「人を殺すのは『災害』ではない。いつだって『忘却』なのだ」。僕が災害ボランティアで泥かきをしていた頃、南三陸もまだ瓦礫と泥に覆われ、行方不明者の捜索が続き、行政機能も混乱していたに違いありません。あの小さな声の積み重ねが、復興の土台になったことを、この本は静かに教えてくれます。

そして、『復興と尊厳 震災後を生きる南三陸町の軌跡』(内尾太一著)。文化人類学者が5年間にわたり、町の復興過程を深層から記録した貴重な記録です。被災直後の生活再建から、防災庁舎を震災遺構として保存するかどうかの長く続いた議論、防潮堤の建設をめぐる葛藤まで。単なる物理的な「復興」ではなく、被災者たちの尊厳をどう守り、未来をどう描くかが問われる。海と共に生きてきた町が、巨大な壁によって海から隔てられることの意味。町の人々が自ら選択する「復興」のあり方こそが、尊厳を体現する——この視点は、私のボランティア体験を振り返る上でも、大きな示唆を与えてくれる。泥を掻き出す作業は、物理的な片付けであると同時に、町の記憶と尊厳を少しずつ取り戻す営みでもあったのかもしれません。

南三陸311メモリアルをはじめとする現在の施設は、あの痛みと選択の軌跡の上に建っています。旧防災対策庁舎の悲劇を伝え、語り継ぐための場として、黒く鋭い屋根の現代的な建築が、静かに海を見下ろしています。復興とは、ただ元に戻すことではなく、失われたものを正しく記憶し、尊厳をもって次に進むことだと、この風景は語っているように思えする。

僕が20115月に感じた無力感は、今も胸の奥に残っています。あの時、どれだけ動いても追いつかない喪失の大きさ。しかし同時に、生存者たちが互いに支え合い、片付けを始め、「生きる」ことの重さを静かに示していたことも、確かにあった。これらの本を読み返すたび、あの体験がより深く結びつく。南三陸町の被災は、決して数字や統計だけで語り尽くせるものではない。一人ひとりの「あの日」、その後の葛藤、そして尊厳を保ちながら進む復興の軌跡。それを風化させず、忘却に抗うことこそが、僕たちにできる、せめてもの「行動」ではないかと思います。

天下に水より柔弱なるは莫し、とは老子の言葉だが、柔らかい水がやがて堅い岩を穿つように、記憶を繋ぎ、語り継ぎ、支え続ける営みは、決して無力ではない。南三陸に思いを馳せ、そのことを改めてかみしめています。

7月某日 早稲田大学探検部33OB 上原和明 東京にて

(参考文献:『南三陸町からの手紙 東日本大震災、それぞれのあの日』、『復興と尊厳 震災後を生きる南三陸町の軌跡』内尾太一、『南三陸日記』三浦英之)

 以上のような回答が返ってきました。

 まるで僕が書いたような文章だと思いました。

 概ね僕が考えていることを書いてくれていると思いました。

 AIとは文章を書く手間を大幅に省いてくれて本当に有り難いと思いました。

 これからもAIを利用して地道にブログを更新していこうと思います。

 以上「311の際の南三陸町の被災を悼む」

 ブログに載せます。

2026年7月6日月曜日

「西日本豪雨を悼む」

 「西日本豪雨を悼む」

 **生活の消えた町を悼む** 

――西日本豪雨八年目に、谷山宏典『ドキュメント豪雨災害』を手に

 両親の介護で忙しくて落ち着いてブログを書けません。

 今日もAIを利用してブログを書きます。

 Xの人工知能Grok

 「ブロガーの上原和明さんの文体で西日本豪雨を悼むブログを

『ドキュメント豪雨災害』 西日本豪雨の被災地を訪ねて

を参考文献にして書いてください。」

と質問してみました。すると以下のような回答が返ってきました。

この夏もまた、じめじめとした空気が続きます。

ふと手にした一冊が、胸の奥を重く揺さぶりました。

谷山宏典さん著『ドキュメント豪雨災害 西日本豪雨の被災地を訪ねて』(山と溪谷社、2019年)。著者が実際に被災地を歩き、住民の証言を丹念に集めた渾身の記録です。

20187月、西日本を襲った記録的な豪雨から8年。200人を超える尊い命が失われたあの災害の痛みを、今もなお静かに問いかけています。

谷山さんが訪ねた岡山県倉敷市真備町の有井地区や川辺地区。そこでは、高梁川の支流・小田川の堤防が決壊し、バックウォーター現象によって濁流が住宅街に一気に押し寄せた。わずか数時間で水位は5メートルを超え、多くの家が水没した。住民たちは2階や屋根に逃れ、救助を待った。しかし、高齢者を中心に逃げ遅れ、町全体で51人もの命が奪われたという。約4600棟の家屋が全壊した地域もあったと記されている。生活が一瞬にして消え去った光景を、谷山さんの筆は克明に、しかし感情を抑えて描き出しています。

対照的に、同じ岡山県内で、総社市下原地区では奇跡が起きた。事前の準備と迅速な判断により全戸避難が実現し、浸水や周辺工場の爆発被害に見舞われながらも、犠牲者ゼロを成し遂げた。同じ豪雨、同じ流域にありながら、明暗を分けたものは何だったのか。本書はそこに深く切り込みます。

広島県の被災地もまた、痛ましい。安芸区矢野東の梅河団地などでは、同時多発的な土砂災害が家々を飲み込んだ。避難勧告は236万人に出されたというのに、実際に避難所を利用した人はわずか0.8%に過ぎなかった。逃げ遅れが被害を拡大させた要因の一つだったと、谷山さんは指摘します。

僕は20115月、東日本大震災直後の東北で、泥かきなどのボランティアをしました。あのとき、ただただ無力感に打ちのめされました。西日本豪雨の被災地を思うと、同じ泥の光景が重なります。形は違えど、災害が奪うものはいつも「当たり前の日常」であり、「生きることの重み」なのです。

谷山さんの本が特に問いかけるのは、「人はなぜ逃げ遅れるのか」という問いです。過去の小さな水害で「家にいれば大丈夫だった」という経験が、今回は裏目に出ました。正常性バイアス、情報の曖昧さ、避難に伴う身体的・心理的負担への躊躇……。情報やノウハウだけでは命は守れない。著者は、災害心理学や気象学の専門家の知見を交えながら、「新常識」の必要性を説きます。

生き延びるためにすべきこと。それは、自分の暮らす地域の過去の災害歴や地形を事前に知ること。避難の判断基準を自分なりに決めておくこと。大雨の際に「これはヤバい」と感じたら、迷わず行動すること。そして何より、地域の人々との日頃のつながりを土台にすること。本書の終章が強調するのは、まさにこの「人とのつながり」です。総社市下原地区で奇跡を可能にしたのも、こうした日常のつながりと、率先して動く人々の存在でした。

8年が経った今、真備町の町並みは少しずつ姿を取り戻しているでしょう。しかし、失われた命は二度と戻りません。遺族の胸に残る痛みも、時が完全に癒すことはありません。被災地を訪ね、記録を残した谷山さんの営みは、僕たちに「忘れない」という静かな責務を突きつけています。

気候の変動が進む中で、こうした局地化・集中化・激甚化した豪雨は、今後ますます起こりうります。インフラだけに頼るのではなく、一人ひとりが「正しく恐れる」姿勢を持ち、備えを怠らないこと。公式の警報を待つのではなく、自分の命は自分で守るという覚悟と、近隣を気にかけるまなざしを併せ持つこと。それが、本書から僕が受け取った最も大切な教訓です。

西日本豪雨で亡くなられた方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。遺された方々、復興に今も尽力されている方々に、遠くからではありますが、連帯の思いを送ります。

西日本豪雨を忘れないことが、僕たちにできる、せめてもの「悼み」のかたちではないでしょうか。

7月某日 早稲田大学探検部33OB 上原和明 東京にて

(参考文献:谷山宏典『ドキュメント豪雨災害 西日本豪雨の被災地を訪ねて』山と溪谷社、2019年)

 以上のような文章が返ってきました。

 まるで僕が書いたような文章だと思いました。

 概ね僕が思っている事を書いてくれていると思いました。

 AIとは文章を書く手間を大幅に省いてくれて本当に有り難いと思います。

 これからもAIを利用して地道にブログを更新していきたいと思います。

 以上、「西日本豪雨を悼む」

 ブログに載せます。