2026年9月6日日曜日

「中越地震を悼む」

 「中越地震を悼む」

毎回、毎回、同じことを書きますが、僕は一介のブロガーとして、ありきたりな日常を書き続けながら、胸が締めつけられるようなニュースや本に触れては、こうして文章にしています。

両親の介護でバタバタしていて、落ち着いて長い文章を書く余裕はあまりありません。右手は長時間のパソコン作業でマウス腱鞘炎気味です。それでも、キーボードの前に座らずにはいられない話題があります。今日は、20041023日の新潟県中越地震、いわゆる中越大震災を悼む文章です。

20041023日、土曜日の午後556分。新潟県中越地方の深さ約13キロを震源とするマグニチュード6.8の直下型地震が起きました。川口町(現長岡市)で震度7。震度計による観測が始まって以来、初めて震度7が計測された地震でした。小千谷市、山古志村、小国町では震度6強。本震のあと、わずか1時間のうちにマグニチュード6クラスの余震が続き、強い揺れが何度も地面を叩き続けました。

死者68人。うち直接死は16人、災害関連死が52人。負傷者は4,805人。住家全壊3,175棟、半壊13,810棟。一部損壊を含めると約12万棟。避難者はピーク時に10万人を超えました。上越新幹線は長岡市内で脱線し、中山間地では地すべり・斜面崩壊が3,791か所。芋川では土砂が川をせき止め、天然ダムができました。豪雪地帯の秋に起きた地震でした。あと2か月で雪が降る。その焦りが、当時の記録の随所に残っています。

僕は早稲田大学探検部33期のOBです。山を歩き、自然の大きさを肌で感じてきた人間として、中越の山が崩れた話を読むと、胸の奥が重くなります。老子の「天下水より柔弱なるは莫し」を座右の銘にしています。水は柔らかい。でも岩を削る。地震もまた、人間の想定をやすやすと超えてくる。だからこそ、忘れないことが仕事になるのだと思います。

今日の文章は、次の本を参考文献にして書いています。

『中越大震災自治体の叫び』 

『中越大震災 前編』雪が降る前に 

『中越大震災 後編』復旧・復興への道 

『中越大震災』自治体の危機管理は機能したか 

『震度7』新潟県中越地震を忘れない 

『「震度7」を生き抜く』被災地医師が得た教訓 

『山古志村ふたたび』 

『ドキュメント新潟県中越地震』1027奇跡の救出 

『新潟県中越地震』特別報道写真集

全部を机の上に並べて、ページをめくりながら書きました。写真集の一枚一枚が、棚田と錦鯉の池と、崩れた山と、ブルーシートの屋根を今も見せてきます。

『前編』の副題は「雪が降る前に」です。この一言に、中越の特殊性があると思います。阪神・淡路とは違う。都市直下ではなく、中山間地の地盤災害でした。道路が寸断され、集落が孤立し、ライフラインが止まり、そのうえ冬が来る。記録誌は、応急仮設住宅の建設、地下埋設物の復旧、除排雪体制、新潟と首都圏を結ぶ幹線の復旧――この四つを、雪が降る前に何としても片づける、という当時の社会的な合意を伝えています。実際、その冬は19年ぶりの豪雪になりました。地震の傷の上に、雪が乗ったのです。

『後編』は「復旧・復興への道」です。新潟県は「創造的復旧」という言葉を使いました。ただ元に戻すのではなく、旧を踏まえつつ新しいものを乗せる。道路も、農地も、集落の暮らしも、原形復旧にこだわらず機能を先に確保した箇所がありました。復興基金、中間支援組織、住民ワークショップ。行政だけが動いた話ではありません。住民が仮設の集会室に集まり、地区ごとの復興計画を自分たちの手で書いていった記録が残っています。

その中心に、山古志村があります。

当時の山古志村は、人口2,000人余り。14の集落。棚田、錦鯉、牛の角突き。日本の原風景と呼ばれる山の暮らしでした。震度6強。家が倒れ、牛舎が壊れ、棚田と養鯉池が崩れ、道路がすべて切れた。村長は翌日、全村民の避難を決断します。1025日までに、約2,167人がヘリコプターなどで長岡市内へ。全集落の避難指示が解除されるのは、それから約2年半後、200741日のことでした。

合言葉は「帰ろう山古志へ」でした。県の側には、合併後のコンパクトなまちへ移る案もあったと聞きます。それでも村民は、集落のまとまりを崩さず、仮設住宅でも地区ごとに暮らし、帰村を選びました。34年後には、およそ7割が戻ったといいます。人口はその後も減り、高齢化は進みました。それでも「山古志に帰った」という事実は、能登をはじめ、いまも中山間地の復興を考える人たちの前に立ち続けています。

『山古志村ふたたび』の写真を見ると、地震の前の山古志がよくわかります。先人が何十年もかけてつくった棚田。水面に錦鯉。素朴な家並み。それが一揺れで、別の景色になる。写真集は復興応援のために編まれた本です。美しいものと、失われたものとが、同じ頁の厚みの中にあります。

『自治体の叫び』と『自治体の危機管理は機能したか』を読むと、現場の行政の声が生々しいです。庁舎が被災し、職員自身が被災者であり、通信が途切れ、情報が入らない。土曜日の夕方という発生時刻。小さな市町村が、国と県と自衛隊と消防と、どうつながるか。計画どおりには動かない。それでも、誰かが判断し、誰かが走る。全村避難のような重い決断は、後からならいくらでも批評できます。その場にいた人の叫びを、本は残してくれています。

危機管理は、完璧には機能しませんでした。機能した部分もあります。コミュニティ単位で避難し、仮設でも地縁を保ったことは、阪神・淡路で問題になった孤独死への反省が生きた部分だと、複数の記録が書いています。車中泊からエコノミークラス症候群が出たことも、この地震で広く知られるようになりました。関連死が直接死を大きく上回った事実は、揺れが止まったあとに人は死ぬ、ということを日本社会に突きつけました。

『「震度7」を生き抜く』は、被災地の医師・田村康二さんが書いた本です。立っていられない揺れ。40年前の新潟地震を知っていても、想像を超える。医師として、まず自分が倒れないこと。ホテルを確保し、移動手段を確保し、1週間の避難生活の中で医療を続ける。長岡では地震後に心筋梗塞で亡くなる人が増えた、という記述もあります。公的援助が来るまでの24時間を、どう耐えるか。隣の人をどう助けるか。素人の僕が要約できるほど、単純な教訓ではありません。ただ、震度7は「知識」では生き抜けない、身体と備えの問題だということは、強く残ります。

そして『ドキュメント新潟県中越地震 1027奇跡の救出』。長岡市妙見町の土砂崩落。乗用車が埋まり、母子3人が行方不明になりました。1027日午後239分、当時2歳の男の子が、地震発生から約92時間後に救出されます。東京消防庁ハイパーレスキュー、緊急消防援助隊、警察、多くの人が急斜面に取りつきました。男の子は生きていた。母親は搬送先で亡くなり、3歳の姉は車内で亡くなっていました。奇跡と、救いきれなかった命が、同じ現場にあります。僕はここを、安易な美談にはしたくありません。助けた人も、助けられなかった人も、家族も、20年経ってもその日を抱えて生きているはずです。忘れない、というのは、そういう重さを引き受けることだと思います。

『震度7 新潟県中越地震を忘れない』と、特別報道写真集は、映像と活字でその日の中越を固定しています。脱線した新幹線。亀裂の入った道路。夜間の避難所。ブルーシート。土砂の壁。ヘリの音。写真は、文章より先に胸に入ります。だから写真集は、記録であると同時に、悼みの道具でもあります。

中越から20年以上が経ちました。そのあいだに、東日本大震災があり、熊本があり、北海道胆振東部があり、能登がありました。中越で見えたことは、何度も繰り返されています。中山間地の孤立。関連死。冬と災害の重なり。全村・全集落避難の是非。帰村と過疎。自治体職員の疲弊。ボランティアと中間支援。住民が計画を書くことの力。

僕みたいな素人ブロガーにできることは、書くことだけです。義援金を何百万円も出せるわけでもない。現地に入り続ける専門家でもない。介護の合間に本を開き、事実を拾い、こうしてブログに残す。それだけです。

でも、残さなければ、68人の死は数字に戻ってしまう。山古志の全村避難は「昔の話」になる。妙見の急斜面は、地図の一点になる。本を参考文献にして書く意味は、そこにしかありません。

雪が降る前に、人は動いた。雪が降ったあとも、人は帰ろうとした。危機管理は完全ではなかった。それでも、諦めなかった人がいた。

地道にコツコツと、諦めずにブログを更新し続けるように、被災地の記憶も、僕らも、支え合っていきましょう。

Don't give up

9月某日 早稲田大学探検部33OB 上原和明 東京にて

以上、「中越地震を悼む」

 ブログに載せます。

2026年9月2日水曜日

「北海道胆振東部地震を悼む」

 「北海道胆振東部地震を悼む」

毎回、毎回、同じことを書きますが、僕は一介のブロガーとして、ありきたりな日常を書き続けながら、胸が締めつけられるようなニュースや本に触れては、こうして文章にしています。

201896日午前37分頃、北海道胆振地方中東部を震源とするマグニチュード67の地震が発生しました。厚真町で震度7。北海道で観測史上初めての震度7でした。安平町、むかわ町では震度6強。震源の深さは37キロ。人々が眠っている未明のことでした。

発生から8年。令和89月を迎えようとしている今も、僕はこの地震のことを忘れられません。関連死を含め死者は44人。そのうち厚真町で36人が亡くなりました。吉野地区では、住民34人のうち19人が犠牲になったと報じられています。逃げる間もなく、土砂に生き埋めになり、家屋の下敷きになって窒息死した方が多かった。60代以上が大半を占めていたことも、胸に残ります。

僕は20155月、東日本大震災の直後に東北へボランティアに行きました。泥かきをしながら、ただただ無力感に打ちのめされたあの感覚が、この地震の報道写真を見るたび、また蘇ります。形は違えど、災害が奪うものはいつも「当たり前の日常」であり、「生きることの重み」なのです。

僕は東京・文京区で、心不全で要介護2の父と、脊柱管狭窄症や関節リウマチで要支援2の母を介護しながら暮らしています。僕自身も統合失調症で精神障害2級です。右手はマウス腱鞘炎で痛む。そんな僕にできることは、本を読み、こうして書くことだけです。

今回、改めて3冊の本を手元に置きました。

1冊目は、『地震による地すべり災害 2018年北海道胆振東部地震』(「地震による地すべり災害」刊行委員会編、北海道大学出版会)です。地すべり学会と応用地質学会の共同調査を踏まえた本です。この地震では、厚真町・安平町を中心に、南北25キロ、東西23キロ、面積約300平方キロの範囲で、斜面変動が約8千箇所に及んだと記されています。明治以降の主要な地震災害の中でも、斜面崩壊の面積は最大規模だったといいます。

変動の多くは、斜面に堆積したテフラ層が黒色土などとともに滑落した土層すべりでした。樽前火山の降下軽石層(Ta-d)などが、強震動で一気に滑った。吉野地区、富里地区、厚幌幌内地区などの事例が、丁寧に整理されています。岩盤地すべりもあった。日高幌内川、厚真川右岸、二風谷ダム貯水池近傍。造成地の谷埋め盛土も動いた。札幌市里塚地区の液状化も、この本では都市の地盤変動として扱われています。

 専門書なので、僕のような素人には難しい箇所もあります。それでもページをめくりながら思うのは、山が、ただの山ではなかったということです。火山灰の層が、地下水が、風化と粘土鉱物が、未明の揺れと結びついて、ふもとの家を飲み込んだ。自然の仕組みを知らなければ、悼むことすら表面的になってしまう。そう感じました。

2冊目は、『20189.6北海道胆振東部地震 報道写真集 緊急出版』(北海道新聞社編)です。発生から一週間を、北海道新聞の写真と紙面で記録した本です。最大震度7、それに続く全戸停電。道民が初めて経験した大災害の、生々しい光景が並んでいます。

土砂に埋まった家。山肌がはがれた斜面。捜索する自衛隊員と消防。投光器の光。掘り出される日用品。悲しむ親族。暗闇の交差点。空港に取り残された人々。コンビニに並ぶ人たち。写真は言葉より先に、胸を締めつけます。8年経っても、あの1週間の空気が本の中に残っている。報道写真集とは、そういうものだと思います。

3冊目は、『検証ブラックアウト 北海道胆振東部地震』(北海道新聞社編)です。地震そのものだけでなく、国内初のエリア全域停電――295万戸が同時に電気を失った事態を検証した本です。地震発生から18分後の午前325分頃、北海道は闇に沈みました。

当時、道内の電力需要の約半分を担っていた苫東厚真火力発電所が、震源に近く損傷して停止した。2号機・4号機がタービン振動を検知して止まり、のちに1号機も停止する。周波数が急低下し、風力、水力、北本連系設備も連鎖的に止まり、ブラックアウトに至った。電源の一極集中が、脆弱さの核心だったと、この本は書いています。

書評にもあったとおり、大量の生乳廃棄、綱渡りの人工呼吸、暗闇での交通整理。電気のない3日間、人々がどう動き、企業や行政がどう対応したか。証言を丹念に集め、北電の電源政策にも踏み込んでいます。「電力の安定供給とは何か」を、電気のある生活に慣れ切った僕たちに問う本です。

父の介護をしていて思うのは、電気が止まったら、すぐに命に関わるということです。在宅医療、訪問看護、薬、冷蔵庫、夜間の照明。ブラックアウトは、便利さの裏側にある危うさを、北海道全土で一度に見せました。冬だったら、さらに多くの命が危なかったはずです。

3冊を読み比べると、この地震は一つの顔だけでは語れません。地すべりという大地の動き。報道写真が残した人の表情。ブラックアウトが暴いた社会の仕組み。どれか一つだけでは足りない。だから僕は、3冊まとめて机に置きました。

8年たっても、厚真の山は完全には元に戻りません。農地も、暮らしも、失われた人の席も、簡単には埋まりません。それでも現地の人たちは、少しずつ土を直し、家を建て直し、電力の備えも見直してきたはずです。遠く東京にいる僕には、その一歩一歩の重さは測りきれません。

平成30年北海道胆振東部地震で亡くなられた方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。遺されたご遺族、今も復興と記録に尽力されている方々に、文京区の静かな道を歩きながら、連帯の思いを送ります。

忘れないことが、僕たちにできる、せめてもの「悼み」のかたちではないでしょうか。

地道にコツコツと、諦めずに。 ブログを更新し続けるように、被災地の皆さんも、僕らも、支え合っていきましょう。

Don't give up

9月某日 早稲田大学探検部33OB 上原和明 東京にて

以上、「北海道胆振東部地震を悼む」

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2026年9月1日火曜日

「8月は9万612字入力していたようだ」

 「8月は9612字入力していたようだ」

 ATOKマンスリーレポートを見ていたら、僕は、20268月は9612字パソコンで入力していたようです。

 ブログを書くこと、X(旧 Twitter)でポストすることで、パソコンのキーボードで入力しているので、入力した文字数が一月、9万字を超えていたのだと思います。

一日平均2922字くらいです。

入力時間は126時間、原稿用紙227枚分入力していたようです。

 1日平均、4時間、1日平均原稿用紙にすると73枚分、パソコンに向かってキーボードで入力していたようです。

 相当、長い時間、パソコンに向かい、キーボードをカチカチ打っているようです。

 9万字を超える文字を入力していたとは、ものすごく多い入力数だと思います。

 毎回、毎回、同じことを書きますが、新しいパソコン、レノボのThinkPad X9-15 Gen1 Aura Editionというものすごくバッテリー持ちの良い(長時間バッテリーで、外出先でもバッテリーのことを気にせずにパソコンで長時間の作業が出来ています。14時間~5時間程度の外出先でのパソコンでの作業なら全くバッテリーのことを気にせずにパソコン作業が出来ています)ものすごく性能の良いパソコンを購入したので、パソコンに向かう時間も大幅に増えて、入力文字数も大幅に増えているのだと思います。

 先月も同じことを書いていますが、実はパソコンに向かう時間が長過ぎて、パソコン操作をする時間が長く、マウスに触っている時間がとても長く、右手がマウス腱鞘炎になってしまい、右手の握力が低下しています。右手の握力が25キロくらいになっていて、ご飯を食べるときも右手で箸を使えずに左手で箸を使いご飯を食べています。右手が使えないので料理も出来ません。症状はかなり深刻で、整形外科にも行っています。整形外科では、マウス腱鞘炎ではない、首からきている症状ではないか、首のMRIを撮ってもらた方が良い、大きな病院で診てもらった方が良いと言われ、新宿メディカルセンターの脊椎脊髄外科に紹介状を書いていただき、紹介状は整形外科からいただいていますが、両親の介護で家に居なければならずに新宿メディカルセンターの脊椎脊髄外科にいまだに行けていません。

少しでも症状を和らげるために、パソコンに向かう時間を大幅に減らすことを考えていますが、Xでポストするのが日々の習慣になっていて、毎日、パソコンに向かってXをしていています。そのため、パソコンに向かう時間も減らすことは出来ずに、右手のマウス腱鞘炎だと思っている症状も一向に良くなりません。右手のマウス腱鞘炎だと僕が思っている症状がかなり深刻で、Xもブログも含めて、パソコンに向かう時間を大幅に減らさないといけないと思っていますが減らせていません。しばらく、パソコンも開かずに安静にしているのが良いのだと思っていますが、パソコンを立ち上げてXをしてしまっています。

 パソコンに向かって、キーボードで文字を入力していると、逆流性食道炎も良くならないと思っています。以前、お医者さんにパソコンに向かっている限り、逆流性食道炎は良くなりませんと言われたことがありました。

 先々月も同じ事を書いていますが、パソコンに向かわない、なにか体を動かす時間を増やして気分転換をするのが良いのだと思っています。僕が体を動かしているのは、168千歩程度の散歩と、家での家事くらいなので、僕の家の最寄りのラジオ体操が行われている場所の教育の森公園でのラジオ体操でも、近所の教育の森公園にある文京スポーツセンターでの運動でも良いから何か軽いスポーツ、運動をした方が良いと本心で思っています。

 今日、ATOKマンスリーレポートを見ていたら、20268月は、僕は9612字入力していたようなので、ブログを書いておきます。

 以上、「8月は9612字入力していたようだ」

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「石川、富山、福井の大雨災害にお見舞い申し上げます」

 「石川、富山、福井の大雨災害にお見舞い申し上げます」

毎回、毎回、同じことを書きますが、僕は一介のブロガーとして、ありきたりな日常を書き続けながら、胸が締めつけられるようなニュースに触れては、こうして文章にしています。

令和8827日未明から朝にかけて、石川県と富山県で線状降水帯が相次いで発生し、気象庁は午前620分、富山県氷見市と石川県羽咋市、志賀町、宝達志水町、中能登町にレベル5大雨特別警報を発表しました。氷見市では24時間降水量が350ミリを超え、羽咋市でも340ミリを超えるなど、観測史上最多を更新する記録的な雨でした。両県で20を超える河川が氾濫し、床上・床下浸水が相次ぎ、山間部では土砂崩れで集落が孤立しました。収穫前の田んぼが濁流に沈み、「見ただけでやる気を失う」と語る農家の声が、ニュースから聞こえてきました。

その雨がいったん小康状態になったと思った矢先、830日未明には前線と湿った空気の影響で今度は福井県が襲われました。福井市、大野市、勝山市にレベル5大雨特別警報が出され、勝山市では24時間降水量350.5ミリ、福井市でも318ミリと、こちらも観測史上最多を記録しました。荒川をはじめ20を超える河川で氾濫や護岸損傷が起き、坂井市などでは市街地が広く冠水し、緊急安全確保が一時30万人規模に発令されました。

能登はまだ、20241月の能登半島地震と、その年の9月の豪雨の傷が癒えていません。地震で地盤が緩み、家を直し、田を直し、ようやく日常を取り戻そうとしていたところへ、またこの雨です。「また被災するとは」という言葉が、現地の人の口から自然に出てくる。その言葉を聞くだけで、胸が締めつけられます。

僕は20115月、東日本大震災の直後に東北へボランティアに行きました。泥かきをしながら、ただただ無力感に打ちのめされたあの感覚が、今また蘇ります。形は違えど、災害が奪うものはいつも「当たり前の日常」であり、「生きることの重み」なのです。文京区の静かな道を歩きながら、スマホの万歩計をチラチラ見つつ、頭の中は北陸の浸水した家と、泥に埋もれた田んぼのことでいっぱいです。

母は要支援2で、父は要介護2。僕自身も精神障害2級を抱え、長時間のパソコン作業による右手のマウス腱鞘炎をこらえながら、キーボードを叩いている一介のブロガーです。そんな僕にできることは、こうして書くことだけです。遠く東京から現地へ行くことも、大きな義援金を出すこともできません。ただ、忘れないこと。被害の数字がこれから増えるかもしれないことを恐れつつ、忘れないことです。

石川、富山、福井の大雨災害で被害に遭った方々に心よりお見舞い申し上げます。、今も泥をかき出し、水を汲み、復旧に尽力されている方々に、遠く東京の文京区から、連帯の思いを送ります。

地道にコツコツと、諦めずに。ブログを更新し続けるように、被災地の皆さんも、僕らも、支え合っていきましょう。

Don't give up

9月某日 早稲田大学探検部33OB 上原和明 東京にて

以上、「石川、富山、福井の大雨災害にお見舞い申し上げます」

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2026年8月31日月曜日

「8月は1日平均6731歩歩いていたようだ」

 「8月は1日平均6731歩歩いていたようだ」

スマホの万歩計を確認していたら、僕は、8月は208690歩、1日平均、6731歩歩いていたようです。

 3年前、文京シビックセンターで行われた文京区の特定保健指導では112千歩歩くことが目標になっていますが、17千歩程度で十分だと自分では思っています。

8月は7月に比べると歩いた歩数は少し増えています。

両親の訪問診療、訪問歯科の対応で、家に居なければならずに、なかなか外出できません。尚且つ、自分の精神科訪問看護も週2回あり、散歩をする時間もなかなか作れません。

3年前の健康診断では体重が74キロもあり、メタボリックシンドロームだと診断されて、文京区の特定保健指導を受けましたが、74キロもあった体重が、一昨年の文京区の健康診断では、体重を測ったら、65キロになっていましたが、昨年の健康診断では体重は69キロと昨年に比べて4キロも増えていました。今年の健康診断では体重は68キロくらいです。

 少しずつ、歩く歩数を増やしていき、体重を落とさないといけないと思っています。

 一日8千歩の散歩を目標にして歩こうと思っています。

少しずつ外出する機会を増やして、徐々に歩く歩数を増やしていこうと思っています。

これから少しづつ涼しくなってくると思います。徐々に散歩する歩数を増やしていこうと思っています。

 スマホの万歩計を確認していたら、僕は、8月は208690歩1日平均、6731歩歩いていたようなのでブログを書いておきます。

以上、「8月は1日平均6731歩歩いていたようだ」

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2026年8月18日火曜日

「令和8年8月千葉豪雨を悼む」

 「令和88月千葉豪雨を悼む」

毎回、毎回、同じことを書きますが、僕は一介のブロガーとして、ありきたりな日常を書き続けながら、胸が締めつけられるようなニュースに触れては、こうして文章にしています。

令和8813日から14日にかけて、千葉県を中心に関東地方を襲った記録的な豪雨。気象庁はこれを「令和88月千葉豪雨」と命名しました。千葉市中央区では24時間降水量が367ミリを超え、8月の平年1か月分の3倍以上。観測史上1位を更新する猛烈な雨が降り注ぎました。線状降水帯が3回発生し、レベル5の大雨特別警報や土砂災害特別警報が千葉県内の多くの市町に出されました。

各地で道路が冠水し、住宅の浸水被害は約1500棟。水没した車は2700台を超え、成田空港では約7000人が一夜を明かしました。そして、尊い命が13人も失われました。車の中で水に閉じ込められたり、冠水した道路で倒れたりした方々のことを思うと、胸が締めつけられます。

僕は早稲田大学探検部33OBとして、自然の力の凄まじさを少しは知っているつもりです。探検部時代、未知の地を歩き、風雨にさらされた経験もあります。でも、こんな記録的な豪雨は、想像を絶します。千葉の皆さん、特に被災された方々、遺族の方々の痛みは、僕のような東京の一介のブロガーには到底測り知れません。

両親の介護で毎日忙しく、自分自身も統合失調症で精神障害2級を抱えながら、地道にブログを更新している身です。無収入で、文京区の狭い家で父と母を看ています。そんな僕にできることは、本当に限られています。でも、こうして書くことだけは、諦めずに続けたい。

被災地の皆さんが一日も早く日常を取り戻せるように。泥にまみれた家を片付け、水に浸かった思い出を洗い流しながら、また前を向ける日が来るように。僕みたいな素人ブロガーにできることは、こうして悼みの気持ちを綴ることだけです。

地道にコツコツと、諦めずに。
ブログを更新し続けるように、被災地の皆さんも、僕らも、支え合っていきましょう。

Don't give up

8月某日
早稲田大学探検部33OB 上原和明
東京にて

以上、「令和88月千葉豪雨を悼む」

ブログに載せます。

 

2026年8月12日水曜日

「令和8年熊本地震を悼む」

 「令和8年熊本地震を悼む」

両親の介護で忙しくて落ち着いてブログを書けません。 

今日もAIを利用してブログを書きます。

Xの人工知能Grok 

「ブロガーの上原和明さんの文体で、令和8年熊本地震を悼むブログを書いてください」

と質問してみました。すると以下のような回答が返ってきました。

毎回、毎回、同じことを書きますが、僕は一介のブロガーとして、ありきたりな日常を書き続けながら、胸が締めつけられるようなニュースに触れては、こうして文章にしています。

令和8728日午後427分頃、熊本県熊本地方を震源とするマグニチュード7.1の地震が発生しました。宇城市と氷川町で最大震度7を観測し、平成28年の熊本地震以来、約10年ぶりに熊本の大地が大きく揺れました。

発生から2週間余りが経った今も、死者は39人(うち災害関連死の疑いを含む)、重傷者24人、住宅被害は2万棟を超えています。八代市の日本製紙工場で煙突が倒壊し9人が亡くなり、嘉島町のイオンモール熊本では爆発と建物崩落で7人が犠牲になりました。猛暑の中、断水が続き、避難所や車中泊で過ごす人々が今も数千人います。

僕は20115月、東日本大震災の直後に東北へボランティアに行きました。泥かきをしながら、ただただ無力感に打ちのめされたあの感覚が、今また蘇ります。形は違えど、災害が奪うものはいつも「当たり前の日常」であり、「生きることの重み」なのです。

2016年の熊本地震のときも、僕は遠く東京からニュースを見守り、ただ祈ることしかできませんでした。それから10年。建物の耐震化も進み、人々の備えも変わったはずなのに、また震度7が襲った。日奈久断層の動きだったと報じられています。自然の前では、人間の力は本当に小さい。

でも、被災地の人々は今も立ち上がろうとしています。自衛隊やボランティアが駆けつけ、二次避難の準備が進み、ブルーシートが張られた家々から少しずつ生活の音が戻りつつあると聞きます。母は要支援2で、父は要介護2。僕自身も介護の現実を日々感じながら生きていますが、そんな僕にできることは、こうして書くことだけです。右手がマウス腱鞘炎で痛む中、キーボードを打ちながら、ただ「忘れない」と心に刻むのです。

令和8年熊本地震で亡くなられた方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。遺されたご遺族、今も復興に尽力されている方々に、遠く東京の文京区から、連帯の思いを送ります。

忘れないことが、僕たちにできる、せめてもの「悼み」のかたちではないでしょうか。

地道にコツコツと、諦めずに。ブログを更新し続けるように、被災地の皆さんも、僕らも、支え合っていきましょう。

Don't give up

8月某日 早稲田大学探検部33OB 上原和明 東京にて

以上のような文章が返ってきました。

まるで僕が書いたような文章だと思いました。概ね僕が思っていることを書いてくれていると思いました。

AIとは文章を書く手間を大幅に省いてくれて本当に有り難いと思います。これからもAIを利用して地道にブログを更新していきたいと思います。

以上、「令和8年熊本地震を悼む」

ブログに載せます。

2026年8月9日日曜日

「介護負担が限界」

 「介護負担が限界」

心不全で要介護293歳の父と、脊柱管狭窄症、関節リウマチで要支援289歳の母を、統合失調症で幻聴の症状がある精神障害2級の次男である58歳の僕が同居して介護しています。

僕の介護負担が限界です。

毎日、毎日、父に朝の薬の服用の介助をして、母の足の痛みを気遣い、食事の用意をし、掃除、洗濯をし、往診、訪問看護、訪問リハビリの立ち会いをして、様子を見ます。幻聴が聞こえてくる中で、それをやり続けています。

父は心不全で5分くらい歩くと息が上がります。母は脊柱管狭窄症の手術の後遺症と関節リウマチで歩くのもつらい。二人とも住み慣れた家で過ごしたいと言います。僕もそうしてあげたい。でも、僕自身が統合失調症で精神障害2級。幻聴がひどくなると、頭の中がうるさくて、何も手につかなくなります。

もう限界です。

ケアマネジャーや訪問看護の方にも「限界です」とメールで伝えています。ショートステイを利用してもらいたい、デイサービスを増やしたい、僕が少しでも休める時間を作ってほしいとお願いしています。でも状況は一向に変わりません。

僕は早稲田大学探検部33期のOBです。学生時代は山に登り、未知の場所を歩き、仲間と一緒に困難を乗り越えてきました。あの頃の自分なら「Don't give up」と笑って言えたかもしれません。でも今は、毎日が精一杯です。

介護をしながら、こうしてブログを書いています。AIに助けてもらいながら、少しずつ文字を打っています。右手の握力が25キロくらいで右手で箸も持てない状態で調子も悪い中で。

僕が倒れたら、両親はどうなるのか。それが一番怖い。だからこそ、制度を使って、プロの力を借りて、少しでも負担を軽くしたい。ショートステイでも、訪問介護でも、何でもいい。僕が自分のことを少し考えられる時間が欲しいのです。

同じように親の介護をしながら、自分も病気を抱えている人がいるかもしれません。一人で抱え込まないでください。地域包括支援センターに相談してください。ケアマネに「限界です」と伝えてください。

僕もそうします。

これからも懲りずに、僕のブログにお付き合いいただければ幸いです。

以上、「介護負担が限界」

Don't give up
8
月某日 早稲田大学探検部33OB 上原和明 東京にて

 

2026年8月7日金曜日

「幻聴の症状のある統合失調症の58歳の男が要介護2の父と要支援2の母の介護を出来るでしょうか?」

 「幻聴の症状のある統合失調症の58歳の男が要介護2の父と要支援2の母の介護を出来るでしょうか?

 僕は統合失調症と診断されていて、幻聴の症状があります。

 僕は両親の介護をしています。

 そこでXの人工知能Grok

 「幻聴の症状のある統合失調症の58歳の男が要介護2の父と要支援2の母の介護を出来るでしょうか?

と質問してみました。

 すると以下のような回答が返ってきました。

症状の安定度や支援の活用次第で「一部は可能」ですが、一人で父母双方の介護を全面的に担うのは難しい可能性が高く、無理をすると共倒れのリスクがあります。 個別の状態によるため、専門家への相談が必須です。

要介護2と要支援2の状態の目安

  • 要介護2(父):食事や排泄は一部介助・見守りで可能な場合が多い一方、立ち上がり・歩行に支えが必要で、着替え・入浴・爪切りなど身の回りの動作に介助・見守りが日常的に必要です。要介護認定等基準時間はおおむね50分以上70分未満相当とされ、生活全般で部分的な介助が増える段階です。
  • 要支援2(母):食事・排泄などの基本動作はほぼ自立できますが、立ち上がり・歩行にふらつきや支えが必要で、掃除・買い物などの家事に支援が必要な状態です。予防的な支援が中心で、要介護より負担は軽いです。

父母合わせて在宅で支える場合、身体介助・見守り・家事の負担が重なり、日常的に相当の時間と体力・注意力が求められます。介護保険のサービス(訪問介護、通所、ショートステイなど)を使えば家族の負担を大幅に減らせますが、ゼロにはなりません。

幻聴のある統合失調症の場合の留意点

統合失調症は個人差が非常に大きく、服薬で症状が安定し日常生活を送れている人は少なくありません。一方で、幻聴が残存している場合は集中力・判断・ストレス耐性に影響が出やすく、介護の負担が症状悪化や再発のきっかけになることがあります。

介護は身体的な介助だけでなく、予定管理、緊急時の対応、感情的なやりとりも伴います。ストレスで症状が不安定になると、父母の安全にも影響しかねません。精神疾患を抱える人が親の介護を担うケースでは、「今度は自分が親の面倒を見る番」という気持ちから無理をして共倒れになる例が指摘されています。

年齢(58歳)も考慮すると、長期にわたる介護体力や自分自身の将来の健康も重要です。

現実的な進め方

可能かどうかを本人・家族だけで判断せず、以下を並行して相談してください。

  • 主治医(精神科):現在の症状(幻聴の程度・頻度・内容)、服薬状況、介護負担が病状に与える影響を確認。必要なら訪問看護の導入も検討。
  • 地域包括支援センター:高齢者の総合相談窓口。父母のケアプラン作成やサービス調整をケアマネジャーと連携して進められます。精神疾患のある家族がいる場合の相談にも対応しています。
  • 市区町村の障害福祉担当窓口:息子さん自身が障害者手帳や障害支援区分を持っている場合、居宅介護などの障害福祉サービスを使える可能性があります。
  • 介護保険サービスを最大限活用:訪問介護(身体介護・生活援助)、デイサービス、ショートステイを組み合わせ、息子さんの負担を「補助」の範囲に抑える。

一人で抱え込まず、外部サービスと役割分担するのが安全です。症状が安定していても、介護は「できる範囲」で関わり、専門職に任せる部分を明確にすることをおすすめします。

この回答は一般的な情報に基づくものであり、医療・介護の個別判断ではありません。必ず主治医と地域の相談機関に現状を伝えて確認してください。早めの相談が、父母と息子さん双方の生活を守る近道になります。

以上のような回答が返ってきました。

僕が両親の介護をするのはかなり無理があるようです。

介護負担が限界ですとケアマネ、訪問看護にメールしていますが、状況は一向に改善されていません。

早く介護から離れ、ゆっくり自分のことだけ考えられる時間を作ってのんびりと休息したいというのが僕の本音です。

 以上、「幻聴の症状のある統合失調症の58歳の男が要介護2の父と要支援2の母の介護を出来るでしょうか?

 ブログに載せます。

 

 

2026年8月1日土曜日

「7月は10万69539字入力していたようだ」

 「7月は1069539字入力していたようだ」

 ATOKマンスリーレポートを見ていたら、僕は、20267月は1069539字パソコンで入力していたようです。

 ブログを書くこと、X(旧 Twitter)でポストすることで、パソコンのキーボードで入力しているので、入力した文字数が一月、10万字を超えていたのだと思います。

 一日平均3450字くらいです。

入力時間は168時間、原稿用紙268枚分入力していたようです。

 1日平均、54時間、1日平均原稿用紙にすると86枚分、パソコンに向かってキーボードで入力していたようです。

 相当、長い時間、パソコンに向かい、キーボードをカチカチ打っているようです。

 10万字を超える文字を入力していたとは、ものすごく多い入力数だと思います。

 毎回、毎回、同じことを書きますが、新しいパソコン、レノボのThinkPad X9-15 Gen1 Aura Editionというものすごくバッテリー持ちの良い(長時間バッテリーで、外出先でもバッテリーのことを気にせずにパソコンで長時間の作業が出来ています。14時間~5時間程度の外出先でのパソコンでの作業なら全くバッテリーのことを気にせずにパソコン作業が出来ています)ものすごく性能の良いパソコンを購入したので、パソコンに向かう時間も大幅に増えて、入力文字数も大幅に増えているのだと思います。

 先月も同じことを書いていますが、実はパソコンに向かう時間が長過ぎて、パソコン操作をする時間が長く、マウスに触っている時間がとても長く、右手がマウス腱鞘炎になってしまい、右手の握力が低下しています。右手の握力が25キロくらいになっていて、ご飯を食べるときも右手で箸を使えずに左手で箸を使いご飯を食べています。症状はかなり深刻で、整形外科にも行っています。整形外科では、マウス腱鞘炎ではない、首からきている症状ではないか、首のMRIを撮ってもらた方が良い、大きな病院で診てもらった方が良いと言われ、新宿メディカルセンターの脊椎脊髄外科に紹介状を書いていただき、紹介状は整形外科からいただいていますが、両親の介護で家に居なければならずに新宿メディカルセンターの脊椎脊髄外科にいまだに行けていません。

少しでも症状を和らげるために、パソコンに向かう時間を大幅に減らすことを考えていますが、Xでポストするのが日々の習慣になっていて、毎日、パソコンに向かってXをしていています。そのため、パソコンに向かう時間も減らすことは出来ずに、右手のマウス腱鞘炎だと思っている症状も一向に良くなりません。右手のマウス腱鞘炎だと僕が思っている症状がかなり深刻で、Xもブログも含めて、パソコンに向かう時間を大幅に減らさないといけないと思っていますが減らせていません。しばらく、パソコンも開かずに安静にしているのが良いのだと思っていますが、パソコンを立ち上げてXをしてしまっています。

 パソコンに向かって、キーボードで文字を入力していると、逆流性食道炎も良くならないと思っています。以前、お医者さんにパソコンに向かっている限り、逆流性食道炎は良くなりませんと言われたことがありました。

 先々月も同じ事を書いていますが、パソコンに向かわない、なにか体を動かす時間を増やして気分転換をするのが良いのだと思っています。僕が体を動かしているのは、168千歩程度の散歩と、家での家事くらいなので、僕の家の最寄りのラジオ体操が行われている場所の教育の森公園でのラジオ体操でも、近所の教育の森公園にある文京スポーツセンターでの運動でも良いから何か軽いスポーツ、運動をした方が良いと本心で思っています。

 今日、ATOKマンスリーレポートを見ていたら、20267月は、僕は1069539字入力していたようなので、ブログを書いておきます。

 以上、「「7月は1069539字入力していたようだ」

 ブログに載せます。