2023年1月31日火曜日

「紫藤クリニック カウンセリング 11 カナダ・ユーコン川川下り」

 「紫藤クリニック カウンセリング 11 カナダ・ユーコン川川下り」

  昨年、自分の部屋の大掃除をしていたら、僕が統合失調症と診断されてから、僕が通院し始めた紫藤クリニックでのカウンセリングの際の書類が見つかりました。

  僕が31歳の頃に書いていた文書です。

  書類には紫藤クリニックでのカウンセリングの際に、女性の心理士の先生にカウンセリングの際の参考になるように僕が書いた書類がありました。

  僕の書いた書類を女性の心理士の先生に読んでいただき、カウンセリングを受けたようです。

  かなり、恥ずかしいことも書かれていますが、心の病気の診療に参考になると思うのでブログに載せていきたいと思います。

  紫藤クリ二ックでのカウンセリングの際書類、その10、書類のタイトルは「大学13年(19才~22才)(サークル・バイト編)4」というタイトルでした。

 以下のようなことが書かれていました。

 『カナダ・ユーコン川川下り』

 大学3年の時には同期の4人と一つ下の女子と5人で夏にカナダの北西部あるユーコン川の川下りをゴムボートで行いました。

 このときも副隊長でした。

 ユーコン川の流域には先住民のインディアンが一定の居住区に住まわされていて、鮭を捕ったり、民芸品を売ったりして生活していました。

 私たちに捕った鮭を分けてくれたりしてくれて親切でしたが、うつろな目をした人が多く、又、自殺も多いらしく、白人の価値観に疑問を持ちました。

 私たちも白人に

 “Hey yellow monkey”

と言われました。

河下り自体は激流部もなく、ルアーで釣りをしたり、ビーバーに出くわしたり、遠い岸を闊歩する大きなグリズリーという熊を見れたりの楽しい旅でした。

夜になるとオーロラが現れ、又、白夜に近い状態も経験し、これも楽しい思い出になりました。

私自身は探検部では楽しませてもらいましたが、きちんとした視点に立った報告書を出せるような活動は結局出来ず、又、特別な役職に就くこともありませんでした。

2年からは飲み会の幹事を任されるようになり、有能でちょっと自分勝手な人間が多い個性派集団のまとめ役のような存在になり、又、良くバイトばかりしていたので、

“形而下の幹事長”

“影の幹事長”

“探検部三軍(落ちこぼれ軍団)幹事長”

などとも言われていました。

この他、探検部では日本各地の山登りや、川下りなどさまざまな活動をし、又、バイトや旅をしていろんな体験をしたり、様々な人々に出会えたりしましたが、大学の成績は悪く、又、女性と交際することは出来ず、相変わらずアダルトビデオを性欲の処理に使っていましたが、自分では大学3年までは好きなことが出来た楽しい学生生活だったと思っています。

親からも

「和明は好きなことが出来て幸せだ。いつ死んでもいいだろう」

と嫌味半分、冗談半分に言われていました。

以上が、紫藤クリニックでのカウンセリングの際に女性の心理士の先生に読んでいただいた書類です。

この文書を読んでみると、僕が早稲田大学探検部3年生の時にカナダのユーコン川川下りに行ったことが書かれています。

オーロラが見られたり、白夜を体験したりすることの出来た川下りで、この文書を読んでみるとカナダユーコン川川下りは楽しい活動だったようです。

ただ、僕は早大探検部の伝統を持っていて、カナダユーコン川流域の一定の居留区に住む先住民のインディアンのことが書かれています。

うつろな目をした人が多く、自殺が多く、白人の価値観に疑問を持っていることも書かれています。

僕が真面目に何かを考え、何かを見ようとしていたことが分かる文書だと思います。

この文書を読む限りでは、僕は探検部の活動中も真面目に物事を考え、真面目に物事を見ようとしていたことが分かる文書だと思いました。

以上、「紫藤クリニック カウンセリング 11 カナダ・ユーコン川川下り」

ブログに載せます。

 

 

 

 

 

 

 

 

「1月は1日平均6461歩歩いていたようだ」

 「1月は1日平均6461歩歩いていたようだ」

    スマホの万歩計を確認していたら、僕は、1月は1日平均、6461歩いていたようです。

    僕は1日7千歩歩くことを目標に歩いているので、目標は達成出来ませんでした。

   スマホを新しくしたら、新しいスマホで万歩計の歩数が前のスマホより2000歩~3000歩少なくカウントされるようになりました。

   自分ではかなり歩いているつもりですが、新しいスマホでは歩数は少なめにカウントされるようです。

    新しいスマホの歩数カウントを信頼して、17000歩歩くことを目標にしていきます。

    長期間のコロナ禍で慢性的な運動不足で、体調が悪いので、少しずつでも歩く歩数を増やしていきたいと思っています。

    こらからも少しずつ、歩く歩数を増やしていこうと思っています。

    毎月、毎月、 同じようなことを書いていますが、1月は1日平均6461歩歩いていたようなのでブログを書いておきます。

     以上、「1月は1日平均6461歩歩いていたようだ」

     ブログに載せます。

2023年1月30日月曜日

「紫藤クリニック カウンセリング 10  年上の女性に振られる・沖縄の西表島・与那国島」

 「紫藤クリニック カウンセリング 10  年上の女性に振られる・沖縄の西表島・与那国島」

  昨年、自分の部屋の大掃除をしていたら、僕が統合失調症と診断されてから、僕が通院し始めた紫藤クリニックでのカウンセリングの際の書類が見つかりました。

  僕が31歳の頃に書いていた文書です。

  書類には紫藤クリニックでのカウンセリングの際に、女性の心理士の先生にカウンセリングの際の参考になるように僕が書いた書類がありました。

  僕の書いた書類を女性の心理士の先生に読んでいただき、カウンセリングを受けたようです。

  かなり、恥ずかしいことも書かれていますが、心の病気の診療に参考になると思うのでブログに載せていきたいと思います。

  紫藤クリ二ックでのカウンセリングの際書類、その9、書類のタイトルは「大学時代(19才~22才)(サークル・バイト編)3」というタイトルでした。

 以下のようなことが書かれていました。

  『年上の女性に振られる』

  又、それまで女性と交際したことが無かったので、大学2年の4月からバイトを始めた早稲田の喫茶店で一緒に働いていた2つ年上の女性にいろいろと話しかけて仲良くなり、大学2年生の6月に演劇の券を2枚買い、誘いましたが断られ、一人で下北沢の劇場で演劇を見ました。これも失恋なのかもしれませんが、この時は悲しいというより、喜劇の役者ような気持ちであまり落ち込むこともなく、仕方ないと思い、帰りに高田馬場の焼き鳥屋で一杯飲んで帰りました。

  『沖縄の西表島・与那国島』

  大学2年の春休みに沖縄の西にある西表島にイリオモテヤマネコの新種を探すプロジェクトに参加しました。新種といっても架空の未知動物で、私も内心、そんなものがいるのかと半信半疑で参加しました。

  同期2人、下級生5人の7人の隊で私が副隊長でした。下級生の中には一人女子もいて、この合宿を契機に一人の下級生の男子と交際し始め、94年に結婚し、私も結婚式に出席しました。

  3年ぐらい前にその女子から夜中に電話があり、うまくいっていないようで、「別れたい」と相談されました。

  その時は、「結婚は墓場のようなものかもしれないが別れない方が良い」と言っておきました。

  プロジェクトの方は、島の南西部に餌付けしてイリオモテヤマネコの新種をおびきよせる計画でしたが、全く現れませんでした。

  西表島はまだ野生の自然が残っており、夜になるとホタルが現れ、いい雰囲気の島でした。

  私は途中で隊と別れ、一人で日本最西端の与那国島に行き、民宿に泊まりながらサトウキビの収穫のアルバイトをしました。

 完全な3ちゃん農業で、おじさんとおばちゃんばかりでした。まだ2月でしたが、昼は太陽光線が強くて非常に暑く、おじさんは泡盛を飲みながらキビ刈りをしていました。

  私にとっては苦しい作業で、3日でやめました。

  また、民宿のおばさんがユタという霊媒師のようで、いろいろと島を案内してくれました。

  女性の子宮を模した墓や、昔、間引きのために妊婦が海に飛び込んだという断崖絶壁などに連れて行ってもらいました。

  このおばちゃんは夜になると隣の部屋で何か祈祷のようなしていたましたが、あまり気にならず私は寝ていました。

  又、この時、昭和天皇の大喪の礼がテレビで放映されていて、ここも日本なんだなと実感しました。

  以上が、紫藤クリニックでのカウンセリングの際に女性の心理士の先生に読んでいただいた書類です。

  この文書には、僕がバイト先で知り合った年上の女性を演劇に誘ったことが書かれています。

  演劇の券を2枚買って、バイト先で知り合った女性を、一緒に演劇の観劇をしませんかと誘ったようですが、見事に振られたようです。

  又、この文書には、沖縄県の西表島にイリオモテヤマネコの新種を探しに行ったことも書かれています。

  早稲田大学探検部の活動で、西表島に行きました。

  西表島では、夜になるとホタルが現れ良い雰囲気の島だったとも書いてあります。

  今から思い返してみても、良い風景だったと思います。

  西表島から与那国島に行ったことも書かれています。

  与那国島では、サトウキビの収穫のアルバイトをしたが3日でやめたことが書かれています。本当にサトウキビの収穫は大変な労働なのだと思います。

  島のユタ(霊媒師)に女性の子宮を模した墓や、昔、間引きのために妊婦が海に飛び込んだという断崖絶壁に連れて行かれたことも書かれています。

  本当に与那国島で怖いものを見聞したのだと思いました。

  この文書を読んでみると、好奇心が強く、様々なものに関心を持ち、いろいろなものを見聞しているなと思いました。何か妄想があるとは僕には思えない文書だと思いました。

  以上、「紫藤クリニック カウンセリング 10  年上の女性に振られる・沖縄の西表島・与那国島」

  ブログに載せます。

 

 

 

 

 

 

2023年1月29日日曜日

「紫藤クリニック カウンセリング 9 チベット・カイラス山への遠征」

 「紫藤クリニック カウンセリング 9 チベット・カイラス山への遠征」

昨年、自分の部屋の大掃除をしていたら、僕が統合失調症と診断されてから、僕が通院し始めた紫藤クリニックでのカウンセリングの際の書類が見つかりました。

 僕が30歳の頃に書いていた文書です。

  書類には紫藤クリニックでのカウンセリングの際に、女性の心理士の先生にカウンセリングの際の参考になるように僕が書いた書類がありました。

  僕の書いた書類を女性の心理士の先生に読んでいただき、カウンセリングを受けたようです。

  かなり、恥ずかしいことも書かれていますが、心の病気の診療に参考になると思うのでブログに載せていきたいと思います。

 紫藤クリ二ックでのカウンセリングの際書類、その8、書類のタイトルは「大学時代(19才~22才)(サークル・バイト編)2」というタイトルでした。

 以下のようなことが書かれていました。

 『チベット・カイラス山への遠征』

  大学2年からは心機一転再び、本格的な探検部の活動に打ち込み始めました。4月には私を含めた探検部の同期の仲間4人でチベットに行く計画が決まりました。

  チベット西部にある聖なる山、カイラス山というところを目指す遠征でした。

  カイラス山というのはチベット仏教徒にとっては一生に一度、巡礼できれば、天国に行けるというくらいの聖地です。

   本来ならチベット語をマスターしなければならいのですが、準備期間が短く、又、旅費を稼ぐため、昼は喫茶店で、夜は焼き鳥屋でバイトしていたので、ほとんど勉強できず、語学は片言、主に中国語を使いました。

  ヒッチハイや徒歩などで、約2ヶ月かけて、カイラス山に到達し、山の周りの50キロの巡礼路を1周しました。

   現地のチベット人は五体投地といって、全身を大地に投げ出して巡礼する人もいました。

  最高で標高5700mぐらいのところもあり、高山病になりかけたり、下痢をしたり、吹雪に襲われたり、大変きつい旅でしたが、現地の人に食べ物を分けてもらったり、親切にされ、又、昼は空が群青色で低く、空気がきれいで、夜になると天の川もはっきり見え、満天落ちてくるような星空になり、仲間もいい友達ばかりで家族のことや悩みのことなどを一晩中話して、今まで生きてきて、一番楽しい思い出です。

  この時の4人組は、その後も仲が良く、今でも連絡を取り合っています。

  私がチベット隊の隊長で、計画書を作成し、報告会も開きました。

  以上が、紫藤クリニックでのカウンセリングの際に女性の心理士の先生に読んでいただいた「大学時代(19才~22才)(サークル・バイト編)という書類です。

  僕の早稲田大学探検部時代の楽しい思い出、チベットカイラス遠征のことが書かれています。

 この文書を読んでみると、本当にチベットカイラス遠征は苦しくも楽しい、探検部の活動だったのだと思います。

  この文書に出てくる言葉は、

   空が群青色で低く、空気がきれいで、夜になると天の川もはっきり見え、満天落ちてくるような星空になり

  と、とても良い言葉の数々が書かれています。

  この文書を読む限りでは、どう考えても僕が精神病だったとは思えません。

  統合失調症の患者が書いた文書とは思えないような良い言葉が書かれていると思いました。

  以上、「紫藤クリニック カウンセリング 9 チベット・カイラス山への遠征」

ブログに載せます。

 

2023年1月28日土曜日

「紫藤クリニック カウンセリング 8 急性肝炎で入院」

 「紫藤クリニック カウンセリング 8 急性肝炎で入院」

  昨年、自分の部屋の大掃除をしていたら、僕が統合失調症と診断されてから、僕が通院し始めた紫藤クリニックでのカウンセリングの際の書類が見つかりました。

  僕が31歳の頃に書いていた文書です。

  書類には紫藤クリニックでのカウンセリングの際に、女性の心理士の先生にカウンセリングの際の参考になるように僕が書いた書類がありました。

  僕の書いた書類を女性の心理士の先生に読んでいただき、カウンセリングを受けたようです。

  かなり、恥ずかしいことも書かれていますが、心の病気の診療に参考になると思うのでブログに載せていきたいと思います。

  紫藤クリ二ックでのカウンセリングの際書類、その8、書類のタイトルは「大学時代(19才~22才)(サークル・バイト編)2」というタイトルでした。

 以下のようなことが書かれていました。

 『急性肝炎で入院』

  9月の下旬に、大学が始まるので帰京すると、まだ9月なのに寒気がものすごく、いくらふとんをかけても寒い状態になりました。

  熱を計ってみると、42度くらいあり、次の日、医者に行ってみると紹介状を書かれて、東京厚生年金病院に入院することになりました。

  ここで急性肝炎と診断されました。

  ヤップ島に行って慣れない物を食べ、ウィルスが経口感染したのが原因らしかったです。

  かなり悪かったらしく、肝臓のGDPGOPという値が普通の人の100倍近くということで、約40日間入院しました。

  初めての入院でした。

 まだ、19歳の時で、世話をしてくれた看護婦さんがきびきび働き、親切で皆、かわいく見えました。

  又、寂しかったのか、一人の看護婦さんに恋をして、退院するときにラブレターを書きましたが、うちに電話がかかってきて振られました。

  ラブレターを書いたのもこれが初めてでした。

  自然に悲しくなり、泣けてきて、友人に電話して話を聞いてもらいました。

  又、入院中は探検部の友人などがお見舞いに来てくれましたが、夜は暇だったので、就寝時間後、ドストエフスキーやカミュなどの普段、読めないような小説を夜中に読んでいました。

  退院後は、無理をすると慢性化すると言われたので、バイトも探検部の活動もせず、大学に行く以外はしばらく自宅でブラブラ休養していました。

  この頃から煙草を吸い始めました。

  以上が、紫藤クリニックでのカウンセリングの際に女性の心理士の先生に読んでいただいた「大学時代(19才~22才)(サークル・バイト編)という書類です。

  僕が急性肝炎で入院したことが書かれています。

  入院中に、世話をしてくれた看護婦さんに恋をして初めてラブレターを書いたことも書かれています。

  僕が生まれて初めてラブレターを書いた、僕が恋をした看護婦さんのことは今でも覚えています。

  本当に可愛いい看護婦さんでした。

  僕が入院中も親身に看護してくれて、本当に天使のように見えました。

 僕も当時は、熱が42℃も出て、体中に黄疸が出て、典型的な急性肝炎だったので、辛かったのだと思います。

  本当に辛いときに、僕の看護をしてくださり、僕もまだ、19歳で、若く、看護婦さんに恋をしたのだと思います。

  今から思い返すと純粋で良かったなと思います。

 以上、「紫藤クリニック カウンセリング 8 急性肝炎で入院」

ブログに載せます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年1月27日金曜日

「紫藤クリニック カウンセリング 7 ミクロネシア・ヤップ島・農業のアルバイト」

 「紫藤クリニック カウンセリング 7 ミクロネシア・ヤップ島・農業のアルバイト」

  昨年、自分の部屋の大掃除をしていたら、僕が統合失調症と診断されてから、僕が通院し始めた紫藤クリニックでのカウンセリングの際の書類が見つかりました。

  僕が30歳の頃に書いていた文書です。

  書類には紫藤クリニックでのカウンセリングの際に、女性の心理士の先生にカウンセリングの際の参考になるように僕が書いた書類がありました。

  僕の書いた書類を女性の心理士の先生に読んでいただき、カウンセリングを受けたようです。

  かなり、恥ずかしいことも書かれていますが、心の病気の診療に参考になると思うのでブログに載せていきたいと思います。

  紫藤クリ二ックでのカウンセリングの際書類、その7、書類のタイトルは「大学時代(19才~22才)(サークル・バイト編)」というタイトルでした。

 以下のようなことが書かれていました。

  サークルは何か面白いことをしたいと思っていましたし、又、子供の頃、「十五少年漂流記」という小説が大好きで、小学校の時の卒業時の夢が探検家になることだったので、小さな夢でも叶えようと探検部というサークルに入りました。部室に行ってみると外国に行った先輩が多くいて、話を聞いていてすごいところだなと思いました。

 探検部の私たちの代は15人ぐらいで女子は一人いましたが、創価学会の会員らしく選挙の時に私の家まで来て勧誘されました。

 この子は途中でサークルをやめ、結局、私たちの代は男子ばかりの暑苦しい代になりました。

 山での合宿や、川下りの練習など初めての体験も多く、かなりきついサークルでした。

  『初の海外体験、ミクロネシア・ヤップ島』

  とにかく自分から何かやらなければ取り残されるようなサークルだったので、1年の夏休みに4月から7月まで夜に焼肉屋でバイトをしたお金でミクロネシアのヤップ島というところに1ヶ月の予定で行くことになりました。

 一般教養で取っていた人類学の先生に紹介状を書いてもらい、島の酋長さんの家にお金を払って住み込ませてもらい、フィールドワークもどきを行いました。

 しかし、言葉があまり通じず、きちんとした人類学的バックボーンも身に付けておらず、1ヶ月の滞在できちんとした報告書を書けるような活動は出来ませんでした。

 海のきれいな島でしたが、太平洋上のアメリカ軍の軍事的要衝の一つであって、アメリカ人が支配階層で島の人たちはコップレックスがあるのかアメリカ人は嫌いだという人たちが多くいました

 第二次大戦までは日本軍が占領した島ということで、日本人は嫌われているかなとも思い行きましたが、年輩の人は、「サクラサクラ」など覚えていて、外交辞令かもしれませんが、顔つきが似ていると言うことで、アメリカ人より日本人の方が好きだという人が多くいました。

 本を読んで調べてみると、若者の自殺が多いということで、こんなのんびりした島でなぜかなとも思いました。

 この時の単独行で学問的基礎の無さと一人で何かをやることに限界を感じ、以後、探検部の活動は一人で行うことはなくなりました。

  『長野、野辺山で農業のアルバイト』

  8月の下旬に帰国してからは、今度は長野の野辺山の農家でレタスやキャベツなどの高原野菜の収穫のアルバイトを始めることになりました。

 農業には、高校の頃から興味があり、屋根裏部屋に寝かされ、暑くてあまり眠れずかなりきつかったですが、1ヶ月バイトをしました。

 一時、高熱を出しましたが、風邪薬を3人分くらい飲まされて働き続けました。

  以上が、紫藤クリニックでのカウンセリングの際に女性の心理士の先生に読んでいただいた書類です。

  僕が早稲田大学に進み、早稲田大学探検部に入部したことが書かれています。

  「十五少年漂流記」が好きだったこと、小学校の頃の夢が探検家になることだったので、早稲田大学探検部に入部したことが書かれています。

  探検部に入部した動機としてはまともな動機だと思いました。

  早稲田大学探検部1年生の時にミクロネシアのヤップ島に行ったことも書かれています。

  現地でフィールドワークのようなことをして、報告書のようなものを書きたかったことが分かります。

  探検部1年生としては、真面目に探検しようとしていたことが分かりました。

  真面目に探検部の活動に取り組もうとしていたことが分かる文書だと思いました。 

 以上、「紫藤クリニック カウンセリング 7 ミクロネシア・ヤップ島・農業のアルバイト」

  ブログに載せます。

 

 

 

 

 

  

 

2023年1月26日木曜日

「紫藤クリニック カウンセリング 6 大学時代 勉強編」

 「紫藤クリニック カウンセリング 6 大学時代  勉強編」

  昨年、自分の部屋の大掃除をしていたら、僕が統合失調症と診断されてから、僕が通院し始めた紫藤クリニックでのカウンセリングの際の書類が見つかりました。

  僕が31歳の頃に書いていた文書です。

  書類には紫藤クリニックでのカウンセリングの際に、女性の心理士の先生にカウンセリングの際の参考になるように僕が書いた書類がありました。

  僕の書いた書類を女性の心理士の先生に読んでいただき、カウンセリングを受けたようです。

  かなり、恥ずかしいことも書かれていますが、心の病気の診療に参考になると思うのでブログに載せていきたいと思います。

  紫藤クリ二ックでのカウンセリングの際書類、その6、書類のタイトルは「大学時代(19才~22才)」というタイトルでした。

 以下のようなことが書かれていました。

 『勉強編』

 大学に合格し入学することになると、実家に戻ることになりました。

 親は大学なんか行ってどうすると言っていましたが、内心は早稲田に合格して嬉しかったようです。

 高校時代の苦い思い出や、浪人中の苦しみもあり、何とか楽しい人生に変えたいと思い、希望を持って、早稲田の門をくぐりました。

 又、親の年収の関係で、貸与でしたが日本育英会から奨学金を受けました。

 しかし、大学時代の成績が悪く、結局、2年の時でストップしました。

 ●勉強

1,2年は語学のクラスがあり、私は第一外国語で中国語のクラスに入りました。

 週3回中国語、2回が英語のクラスでした。

  女性が一人もいないうざったいクラスでしたが、麻雀をやったり高校の時の話をしたり、又、地方出身者も多くて面白い語学クラスでした。

  ただ、中国語は発音が難しく、吃音の私にとっては語学はテキストを読まされるので、苦痛でもありました。

  2年生の時には、テキストを読まされ、かなりどもり、中国人の先生から

  「あなたは精神障害者ですか?」

 と言われたこともありました。

  当時は皆に笑われ、腹が立ちましたが、今から思うとそうだったのかもしれないと思っています。

  語学の成績は、中国語、英語ともにほとんど可でした。

  その他の講義の方は、1・2年生は法律の専門科目もあまりなく、一般教養が多く、あまり出席しませんでしたが、一般教養の講義はいろいろな知らない新しい科目があり、出席すれば楽しかったです。

  成績は、優、良、可、不可、バランス良くあり、単位はそれほど落としませんでした。

  3年になると法律の専門科目が増え、法律にはあまり興味がなかったのでほとんど講義には出なくなりました。

  又、3年からはゼミがあり、私は、犯罪に興味があったので、第1志望ではありませんでしたが、刑法を選択しました。

  犯罪を犯す人間の心理や、生い立ちに興味がありましたし、人が人を裁くということにも関心がありました。

  私の場合は、社会の治安を守るということよりも、なぜ犯罪が起きるようになるのかに非常に関心がありました。

  ゼミとは関係なかったですが、刑法の判例を読むことは社会の陰の部分を見れるような気がして面白かったです。

  いい勉強になりました。

   ゼミの先生は元最高検察庁の検事の人でバリバリの体制派の先生でしたが、私たちがこのゼミの一期生で先生も楽しかったようで、ゼミ生で早稲田界隈を案内したり、大隈会館で食事をしたりしました。

  このゼミにも女性が一人もいなくて、本当に自分は女性と縁のない学生生活を送るんだなと思いました。

  ゼミ論はありませんでしたが、1人1回テーマを与えられて、発表しなければならず、私の時は水俣病の堕胎の罪に関するテーマでした。

  大学4年の時に刑務所見学をしましたが、私だけ私服で行ってしまい、先生にひどく怒られました。

 成績は優と良でした。

  3年の時は法律の専門科目ばかりで、全体的に講義に出ず、好きな本を読んだりしていたので、半分くらい単位を落とし、3年を終了する段階で、4年で卒業することは出来なくなりました。

   以上が、僕が紫藤クリニックでのカウンセリングの際に女性の心理士の先生に読んでいただいた書類、「大学時代 勉強編」という書類です。

  この文書では、大学時代の学部での勉強のことが書かれています。

  僕は早稲田大学では学部は法学部でしたが、この文書を読むと法律には興味がなかったと書かれています。

  僕が、早稲田大学法学部の成績が悪かったのも、法律に興味がなく、法律の勉強をしなかったから、成績が悪かったのだと思います。

 法学部時代のゼミ、刑法のゼミのことも書かれています。

 ゼミの発表が、水俣病の堕胎の罪に関することだったことが書かれています。

  水俣病の堕胎の罪とは、化学製品製造会社、チッソが水俣病の有機水銀を含む廃水を水俣川河口に垂れ流し、その海域から採れた魚を食べた妊婦の胎内にいた胎児が水俣病に罹患してしまっていて、出生後、12歳あまりで、亡くなってしまった事件に対しての刑法上の責任を問うものです。

 こんな難しいことを学生時代に勉強していたのかと思いました。

 大学とは、本当に難しいことを勉強する場所だと正直に思いました。

以上、「紫藤クリニック カウンセリング 6 大学時代 勉強編」

 ブログに載せます。

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年1月25日水曜日

「紫藤クリニック カウンセリング 5 浪人時代」

 「紫藤クリニック カウンセリング 5 浪人時代」

  昨年、自分の部屋の大掃除をしていたら、僕が統合失調症と診断されてから、僕が通院し始めた紫藤クリニックでのカウンセリングの際の書類が見つかりました。

  僕が31歳の頃に書いていた文書です。

  書類には紫藤クリニックでのカウンセリングの際に、女性の心理士の先生にカウンセリングの際の参考になるように僕が書いた書類がありました。

  僕の書いた書類を女性の心理士の先生に読んでいただき、カウンセリングを受けたようです。

  かなり、恥ずかしいことも書かれていますが、心の病気の診療に参考になると思うのでブログに載せていきたいと思います。

  紫藤クリニックでのカウンセリングの際書類、その4、書類のタイトルは「浪人時代」というタイトルでした。

 以下のようなことが書かれていました。

 『浪人時代』 

 浪人することが決まると親と喧嘩になり、高校3年生の3月に家から飛び出して、中央区人形町の新聞屋に住み込みで受験勉強を始めることになりました。

 高校の卒業式の日が雪の日で朝刊の新聞配達をしてから雪の中、高校の卒業式に行ったことが印象に残っています。

 クラスの誰とも口をきかず卒業式を終え、雪の中、新聞屋に戻り、夕刊の配達をしました。

 新聞屋で住み込みで受験勉強をし始めてからは、夏ぐらいまでは、あまり受験勉強に集中できず、高熱を出したりして勉強は進みませんでした。

 職場の人もいい加減な人が多く、図書館まで来て、土下座をされ5万円を貸してくれと言われて断れず、貸したところ、夜逃げされたこともありました。

 又、苦学生も多く、美容師の専門学校に通っていたある人は発狂して横須賀まで走って行ってしまい、精神病院に入院しました。

 又、ある人は統一教会の信徒で私の部屋にケーキを持ってきてさかんに勧誘していました。

 あまり勉強がはかどらないので、夏に中学の時に通っていた本郷の塾の先生に相談したところ、うちに来なさいと言われ、週2回、本郷の塾に通うことになりました。

 この塾の先生に励まされ、以後、図書館で毎日5時間くらい勉強するようになり、予備校の模試などでも好成績になり始めました。

 受験は第一志望ではありませんでしたが、早稲田の法学部に合格しました。

 なぜか、あまりうれしくありませんでした。

 疲れたという感じしかありませんでした。

 新聞配達は受験日以外は1日も休みませんでした。

 又、この頃からストレスの捌け口がなく、アパートで一人で酒を飲んだり、ビデオデッキとテレビを買ってきて、映画やアダルトビデオなどを見るようになりました。

以上が、僕が紫藤クリニックでのカウンセリングの際に女性の心理士の先生に読んでいただいた、僕が書いていた、「浪人時代」というタイトルの文章です。

僕の人生の中でも本当に苦しかった浪人時代のことを書いている文書です。

初めての1人暮らしで、早稲田大学受験のための受験勉強をするために、中央区浜町のアパートに住んで、東京新聞の新聞配達をしながら、図書館で受験勉強をしていたことが書かれています。

文書を読んでいても、多くのストレスを抱えていることが分かり、この頃から、酒を飲み始めたり、テレビとビデオデッキを買ってきて、アダルトビデオを見始めたことも書かれています

本当に、本当に、暗い、暗い、浪人時代で、僕の現在の暗い性格の基盤を作っているが浪人時代だと思います。

今、自分の書いた文書を読み返してみると、良く、早稲田大学に合格したなと思わせる文書だと思いました。

以上、「紫藤クリニック カウンセリング 5 浪人時代」

 ブログに載せます。

 

2023年1月24日火曜日

「紫藤クリニック カウンセリング 4 高校時代」

「紫藤クリニック カウンセリング 4 高校時代」

  昨年、自分の部屋の大掃除をしていたら、僕が統合失調症と診断されてから、僕が通院し始めた紫藤クリニックでのカウンセリングの際の書類が見つかりました。

  書類には紫藤クリニックでのカウンセリングの際に、女性の心理士の先生にカウンセリングの際の参考になるように僕が書いた書類がありました。

  僕の書いた書類を女性の心理士の先生に読んでいただき、カウンセリングを受けたようです。

  かなり、恥ずかしいことも書かれていますが、心の病気の診療に参考になると思うのでブログに載せていきたいと思います。

  紫藤クリニックでのカウンセリングの際書類、その3、書類のタイトルは「高校時代」というタイトルでした。

 以下のようなことが書かれていました。

 『高校時代』

  高校は有名な進学校でした、昔は東大に何人も入ったという高校でした。

 私たちの頃は特に勉強の出来る高校でもなかったですが、クラスでもまわりの子はある程度、みんな勉強が出来、制服もなく、学区内の優等生が進学してくるような高校で中学に比べると感じの良い学校でした。

 ただ、昔、精神病院だったというのが気味悪かったです。

 クラブは高校でもバスケットボール部でした。

 1年の責任者という役職に推薦で選ばれました。

 この頃までは、なぜか推薦で長のつく役になることが多かったです。

 高校ではこのバスケ部の責任者というのがかなり精神的負担になり始めました。

 練習に来ない部員への連絡や、先輩からの意志の伝達、又、コーチからの練習中の態度の問題などが私のところに集中し、かなり精神的負担になりました。

 朝は、毎朝一番に体育館に行って練習の準備をしなければならず、なぜ自分だけがこんなことをしなければならいのかと思い、悩みを相談できる人もおらず、高校1年の2月に夜中、胃が痛くてのたうちまわり、翌日、医者に行くと、バリウムを飲まされ、胃の検査を受けました。

 影があるとのことで、東京医科歯科病院に紹介状を書かれ、ここで胃カメラを飲み、胃潰瘍、十二指腸潰瘍と診断されました。

 コーチに相談しましたが、その程度のことで心配することはないと取り合ってもらえませんでした。

 病気の方は薬を処方され、これを飲むようになってから良くなりました。

 以後、ストレスを溜めると再発すると言われていたので、なるべくストレスを溜めないよう心がけました。

 勉強の方は、最初の頃はクラスでも上の方でしたが、病気をしてから集中力や意欲が低下し、家でもあまり勉強しなくなり、ジリ貧で成績が下がり始めました。

 家に帰っても、親にも相談できず、兄も既に働いていて、そんな学校のことで悩むなと言われる程度でした。

 高校2年になると毎日が鉛色の空のような感じになり、楽しいこともなく、高校生活が苦痛になり始めました。

 女の子の前でわざと猥談をして、ボーボワールの「第二の性」を読んでいる子から、あなたなんか「粗大ゴミよ」と言われたこともありました。

 又、授業中、ぼんやりしていることも多く、周りの人間から何を考えているのか分からないと気味悪がられ、『金閣寺』(三島由紀夫の小説)の坊さんみたいになるなよと言われたこともありました。

 又、弁当を食べているときに、ご飯の上に鮭がのっているだけの弁当を見られて笑われたこともありました。

 クラブでも中学2年からまったく背が伸びず、背の高い新入生も入部してきて、このままでは、試合に出ることはおろか、着るユニフォームも無い状態になりました。

 1年の責任者をやったものがキャプテンか部長になる伝統があってプレッシャーもあり、バスケ部にいることがつらく、高校2年の6月に退部したいと先生やコーチや仲間に伝えました。

 同期生は皆、心配し、私の家に来たり、教室に来て、泣いて説得してくれたりしたので、退部はとりあえず、中止しました。

 バスケ部は続けることになりましたが、以前のようにやる気もなく、練習中もぼんやりした感じで、代が完全に代わる高校2年の9月に正式に退部しました。

私が部をやめたことで、後に続いて、2人の部員が退部しました。

女子の先輩や同期生も泣いてくれたりして、当時も今でも悪いことをしたと思っています。

しかし、内心では負担が減り、精神的には楽になりました。

バスケ部をやめてからは学校の勉強はあまりせず、映画を見たり、読書をしたりと言った感じでした。

学校の成績はジリ貧状態でした。

高校3年になって受験を控え、私立文系の科目を取り、授業も楽になり、学校にもあまり行かなくなり、バイトを始め、図書館で受験勉強をしました。

学校の成績も良くないくせに早稲田を目指しました。

早稲田に行けば何か面白いことがあると思っていました。

なにか当時はよく分かりませんでしたが、吃音やバスケ部をやめたコンプレックスがあったのかもしれません。

現役では無理だと思い、現役の時は早稲田の政経学部だけを受け落ちました。

以上が、僕が紫藤クリニックでのカウンセリングの際に女性の心理士の先生に読んでいただいた、僕が書いた、「高校時代」というタイトルの文書です。

この文書を読むと、高校時代に僕が所属していたバスケットボール部での1年生の責任者という役職が大きなストレスになり、僕が高校時代に胃潰瘍・十二指腸潰瘍になり高校生活の毎日が鉛色の空のようだったと本当に暗い、辛い高校生活を送っていたことが分かり、今から思い出しても、本当に辛かったなと思います。

特に恨みもありませんが、僕も普通の家の子供だったので、名門校の進学校の厳しい規律のある部活は向いていなかったのだと思います。

今から思うと、高校時代とは青春時代で楽しい時期かと思いますが、僕の通っていた高校は、都立の名門の進学校で、僕の所属していたバスケットボール部は、男女交際禁止という厳しい部活で、その部活の1年生の責任者になり、本当に多くの悩み、ストレスがあったのだと思います。

今、読み返してみても僕の高校時代の苦悩、苦しみが分かる文章で、自分で自分の書いた文章を読み返していても、胃が痛くなる文章だと思いました。

 以上、「紫藤クリニック カウンセリング 4 高校時代」

 ブログに載せます。

 

 

  

 

 

 

 

  

2023年1月23日月曜日

「紫藤クリニック カウンセリング 3  中学校の頃」

 「紫藤クリニック カウンセリング 3  中学校の頃」

  昨年、自分の部屋の大掃除をしていたら、僕が統合失調症と診断されてから、僕が通院し始めた紫藤クリニックでのカウンセリングの際の書類が見つかりました。

  僕が31歳の頃に書いていた文書です。

  書類には紫藤クリニックでのカウンセリングの際に、女性の心理士の先生とのカウンセリングの際の参考になるように僕が書いた書類がありました。

  僕の書いた書類を女性の心理士の先生に読んでいただき、カウンセリングを受けたようです。

  かなり、恥ずかしいことも書かれていますが、心の病気の診療に参考になると思うのでブログに載せていきたいと思います。

  紫藤クリニックでのカウンセリングの際書類、その3、書類のタイトルは「中学校の頃」というタイトルでした。

 以下のようなことが書かれていました。

 「中学校の頃」

 中学に行くとやはりクラスでは中1から中3まで、前期、後期、どっちか推薦で、毎年、自治委員(クラス委員のこと)でした。

 中学では、ぐれたり、いじめられたりする子も多く、小学校とは違い自治委員が負担になっていたかもしれません。

 中学になってからはニキビも出始め、異性を意識するようになり、女性とうまく口を聞くこともできませんでした。

 バレンタインデーにチョコレートをもらったこともありましたが、恥ずかしくて何も返事出来ませんでした。

又、吃音のことがいやで、笑ってごまかしていたりしていましたが、内心、かなり悩んでいたのかもしれません。

 この頃から吃音がひどくなってきたような気がします。

 学校の先生は吃音にも負けず立派な子だと言っていましたが、自分はそうならざるを得なかったんだと思います。

 吃音や実家が小さな中華料理屋と言うことで強がっていたところもあり、中3の番長から生意気だと呼び出しを受けたこともありました。

 クラブ活動はバスケットボール部でした。チームは弱いチームでしたが、楽しいクラブで、ここでも推薦で副キャプテンになりました。

 走るのは得意でレギュラーでしたが、バスケットボール自体はあまり上手くなかったと思います。

 学校が終わってから夜に皆でランニングをしたりして強いチームになりたかったでした。

 中2の後期から生徒会長になりました。

 これも推薦でした。

 特別何をしたということもなかったでしたが、卒業式の送辞を読んだときにどもって、卒業式なのに、皆に笑われたことが印象に残っています。

 又、字が下手で、送辞の文を筆で書くのが苦痛だった記憶があります。

 生徒会長と言うのは、一種の権力で良くも悪くも模範生にならなければならず、今から思うと負担だったかもしれません。

 中3になってクラブ活動を終わってから、成績がぐんぐん良くなり、学区内の一番いい都立高校に進学することになりました。

 ちなみに受験の時は都立のみで、落ちたら定時制に行こうと思っていました。

 親が働いているのを見ていて、大変そうだったのと、小学校の頃のイメージがまだ残っていて、私立に行くのは金持ちだと偏見があったのかもしれません。

 担任の教師は私立も受けろと言っていましたが、都立しか受けませんでした。

 都立の試験の成績は500点満点中、480点で私の中学で2番目の成績でした。

 今から考えると、中学に不満があったのかもしれません。

 生徒会長をやって教育というものにかなり疑問を持つようになりました。

 中学校の頃は、ぐれる子の気持ちも分かり、また、いじめも止められず、私も無理して優等生をしていたようなところがあり、大人になったら、中学の先生にだけはなりたくないと思っていました。

 中学はみな、同じ格好をし、刑務所のようなところだったと思います。

 私はそこで先生に利用された模範囚だったような気もします。

 卒業するときは区から健康優良児ということで表彰されました。

 以上が、僕が紫藤クリニックでのカウンセリングの際に女性の心理士の先生に読んでいただいた、僕が書いた、「中学校の頃」というタイトルの文書です。

 今から読み返してみると、かなり自分の通っていた中学校に対して、斜に構えて見ていたような気がします。

 確かに僕が通っていた中学校にはいじめられっ子もいたし、ぐれる子もいたし、番長もいました。

 公立の中学校なので、様々な家庭環境の子供がいて、尚且つ思春期で、多くの悩みを抱えた子供たちがいたと思います。

 僕も吃音のことで悩んでいるし、中学校の生徒会長になり、模範生として振る舞わなければならずに、中学校を刑務所に例えて、先生に利用された模範囚だったとも書いています。

 僕の物の見方がかなりひねくれていたことが分かります。

 勉強とスポーツの両立で、中学校時代から多くのストレスを抱えていたことが分かります。

 今から読み返すと、こんなことを考えていたのかと驚くような内容の文書だと思いました。

以上、「紫藤クリニック カウンセリング 3  中学校の頃」

 ブログに載せます。