「中越地震を悼む」
毎回、毎回、同じことを書きますが、僕は一介のブロガーとして、ありきたりな日常を書き続けながら、胸が締めつけられるようなニュースや本に触れては、こうして文章にしています。
両親の介護でバタバタしていて、落ち着いて長い文章を書く余裕はあまりありません。右手は長時間のパソコン作業でマウス腱鞘炎気味です。それでも、キーボードの前に座らずにはいられない話題があります。今日は、2004年10月23日の新潟県中越地震、いわゆる中越大震災を悼む文章です。
2004年10月23日、土曜日の午後5時56分。新潟県中越地方の深さ約13キロを震源とするマグニチュード6.8の直下型地震が起きました。川口町(現長岡市)で震度7。震度計による観測が始まって以来、初めて震度7が計測された地震でした。小千谷市、山古志村、小国町では震度6強。本震のあと、わずか1時間のうちにマグニチュード6クラスの余震が続き、強い揺れが何度も地面を叩き続けました。
死者68人。うち直接死は16人、災害関連死が52人。負傷者は4,805人。住家全壊3,175棟、半壊13,810棟。一部損壊を含めると約12万棟。避難者はピーク時に10万人を超えました。上越新幹線は長岡市内で脱線し、中山間地では地すべり・斜面崩壊が3,791か所。芋川では土砂が川をせき止め、天然ダムができました。豪雪地帯の秋に起きた地震でした。あと2か月で雪が降る。その焦りが、当時の記録の随所に残っています。
僕は早稲田大学探検部33期のOBです。山を歩き、自然の大きさを肌で感じてきた人間として、中越の山が崩れた話を読むと、胸の奥が重くなります。老子の「天下水より柔弱なるは莫し」を座右の銘にしています。水は柔らかい。でも岩を削る。地震もまた、人間の想定をやすやすと超えてくる。だからこそ、忘れないことが仕事になるのだと思います。
今日の文章は、次の本を参考文献にして書いています。
『中越大震災自治体の叫び』
『中越大震災 前編』雪が降る前に
『中越大震災 後編』復旧・復興への道
『中越大震災』自治体の危機管理は機能したか
『震度7』新潟県中越地震を忘れない
『「震度7」を生き抜く』被災地医師が得た教訓
『山古志村ふたたび』
『ドキュメント新潟県中越地震』10・27奇跡の救出
『新潟県中越地震』特別報道写真集
全部を机の上に並べて、ページをめくりながら書きました。写真集の一枚一枚が、棚田と錦鯉の池と、崩れた山と、ブルーシートの屋根を今も見せてきます。
『前編』の副題は「雪が降る前に」です。この一言に、中越の特殊性があると思います。阪神・淡路とは違う。都市直下ではなく、中山間地の地盤災害でした。道路が寸断され、集落が孤立し、ライフラインが止まり、そのうえ冬が来る。記録誌は、応急仮設住宅の建設、地下埋設物の復旧、除排雪体制、新潟と首都圏を結ぶ幹線の復旧――この四つを、雪が降る前に何としても片づける、という当時の社会的な合意を伝えています。実際、その冬は19年ぶりの豪雪になりました。地震の傷の上に、雪が乗ったのです。
『後編』は「復旧・復興への道」です。新潟県は「創造的復旧」という言葉を使いました。ただ元に戻すのではなく、旧を踏まえつつ新しいものを乗せる。道路も、農地も、集落の暮らしも、原形復旧にこだわらず機能を先に確保した箇所がありました。復興基金、中間支援組織、住民ワークショップ。行政だけが動いた話ではありません。住民が仮設の集会室に集まり、地区ごとの復興計画を自分たちの手で書いていった記録が残っています。
その中心に、山古志村があります。
当時の山古志村は、人口2,000人余り。14の集落。棚田、錦鯉、牛の角突き。日本の原風景と呼ばれる山の暮らしでした。震度6強。家が倒れ、牛舎が壊れ、棚田と養鯉池が崩れ、道路がすべて切れた。村長は翌日、全村民の避難を決断します。10月25日までに、約2,167人がヘリコプターなどで長岡市内へ。全集落の避難指示が解除されるのは、それから約2年半後、2007年4月1日のことでした。
合言葉は「帰ろう山古志へ」でした。県の側には、合併後のコンパクトなまちへ移る案もあったと聞きます。それでも村民は、集落のまとまりを崩さず、仮設住宅でも地区ごとに暮らし、帰村を選びました。3〜4年後には、およそ7割が戻ったといいます。人口はその後も減り、高齢化は進みました。それでも「山古志に帰った」という事実は、能登をはじめ、いまも中山間地の復興を考える人たちの前に立ち続けています。
『山古志村ふたたび』の写真を見ると、地震の前の山古志がよくわかります。先人が何十年もかけてつくった棚田。水面に錦鯉。素朴な家並み。それが一揺れで、別の景色になる。写真集は復興応援のために編まれた本です。美しいものと、失われたものとが、同じ頁の厚みの中にあります。
『自治体の叫び』と『自治体の危機管理は機能したか』を読むと、現場の行政の声が生々しいです。庁舎が被災し、職員自身が被災者であり、通信が途切れ、情報が入らない。土曜日の夕方という発生時刻。小さな市町村が、国と県と自衛隊と消防と、どうつながるか。計画どおりには動かない。それでも、誰かが判断し、誰かが走る。全村避難のような重い決断は、後からならいくらでも批評できます。その場にいた人の叫びを、本は残してくれています。
危機管理は、完璧には機能しませんでした。機能した部分もあります。コミュニティ単位で避難し、仮設でも地縁を保ったことは、阪神・淡路で問題になった孤独死への反省が生きた部分だと、複数の記録が書いています。車中泊からエコノミークラス症候群が出たことも、この地震で広く知られるようになりました。関連死が直接死を大きく上回った事実は、揺れが止まったあとに人は死ぬ、ということを日本社会に突きつけました。
『「震度7」を生き抜く』は、被災地の医師・田村康二さんが書いた本です。立っていられない揺れ。40年前の新潟地震を知っていても、想像を超える。医師として、まず自分が倒れないこと。ホテルを確保し、移動手段を確保し、1週間の避難生活の中で医療を続ける。長岡では地震後に心筋梗塞で亡くなる人が増えた、という記述もあります。公的援助が来るまでの24時間を、どう耐えるか。隣の人をどう助けるか。素人の僕が要約できるほど、単純な教訓ではありません。ただ、震度7は「知識」では生き抜けない、身体と備えの問題だということは、強く残ります。
そして『ドキュメント新潟県中越地震 10・27奇跡の救出』。長岡市妙見町の土砂崩落。乗用車が埋まり、母子3人が行方不明になりました。10月27日午後2時39分、当時2歳の男の子が、地震発生から約92時間後に救出されます。東京消防庁ハイパーレスキュー、緊急消防援助隊、警察、多くの人が急斜面に取りつきました。男の子は生きていた。母親は搬送先で亡くなり、3歳の姉は車内で亡くなっていました。奇跡と、救いきれなかった命が、同じ現場にあります。僕はここを、安易な美談にはしたくありません。助けた人も、助けられなかった人も、家族も、20年経ってもその日を抱えて生きているはずです。忘れない、というのは、そういう重さを引き受けることだと思います。
『震度7 新潟県中越地震を忘れない』と、特別報道写真集は、映像と活字でその日の中越を固定しています。脱線した新幹線。亀裂の入った道路。夜間の避難所。ブルーシート。土砂の壁。ヘリの音。写真は、文章より先に胸に入ります。だから写真集は、記録であると同時に、悼みの道具でもあります。
中越から20年以上が経ちました。そのあいだに、東日本大震災があり、熊本があり、北海道胆振東部があり、能登がありました。中越で見えたことは、何度も繰り返されています。中山間地の孤立。関連死。冬と災害の重なり。全村・全集落避難の是非。帰村と過疎。自治体職員の疲弊。ボランティアと中間支援。住民が計画を書くことの力。
僕みたいな素人ブロガーにできることは、書くことだけです。義援金を何百万円も出せるわけでもない。現地に入り続ける専門家でもない。介護の合間に本を開き、事実を拾い、こうしてブログに残す。それだけです。
でも、残さなければ、68人の死は数字に戻ってしまう。山古志の全村避難は「昔の話」になる。妙見の急斜面は、地図の一点になる。本を参考文献にして書く意味は、そこにしかありません。
雪が降る前に、人は動いた。雪が降ったあとも、人は帰ろうとした。危機管理は完全ではなかった。それでも、諦めなかった人がいた。
地道にコツコツと、諦めずにブログを更新し続けるように、被災地の記憶も、僕らも、支え合っていきましょう。
Don't give up
9月某日 早稲田大学探検部33期OB 上原和明 東京にて
以上、「中越地震を悼む」
ブログに載せます。