2023年2月28日火曜日

「大学4年(22才)以降から紫藤クリニックに来院するまでの主な出来事 1991年編」

 「大学4年(22才)以降から紫藤クリニックに来院するまでの主な出来事 1991年編」

  カウンセリング関連の書類には、僕が大学4年の時(19904月)から、僕が精神科クリニック、紫藤クリニックに来院する(199910月)までの主な出来事が書かれた書類もありました。1991年の出来事は以下のようなものでした

 19911月 

●インドから大学の試験のために1人で帰国。

2月 

●学費値上げ闘争で試験が無く、全科目レポートで全単位取得。

 ?月 

●早大探検部の1つ下の女子から、「30になったら結婚してください」と言われる。彼女は別

の男と同棲していた。)何を考えているのかなと思う。冗談だろうと思ったが、以後、彼女の

ことが気になり出す。

●この年くらいから、風俗で遊び始める。自分の性器が仮性包茎であることは分かってい

て、勃起すればなんとかなるだろうと思っていたが、風俗で性交してみて、自分が早漏であ

ることが分かり、落ち込む。

 以上が、僕がカウンセリングの際に女性の心理士の先生に読んでいただいた、1991年、の主な出来事を書いている書類です。

 以上、「大学4年(22才)以降から紫藤クリニックに来院するまでの主な出来事 1991年編」

  ブログに載せます。

 

 

「2月は1日平均7552歩歩いていたようだ」

 「1月は1日平均7552歩歩いていたようだ」

    スマホの万歩計を確認していたら、僕は、2月は1日平均、7552歩いていたようです。

    僕は1日7千歩歩くことを目標に歩いているので、目標は達成しました。

   スマホを新しくしたら、新しいスマホで万歩計の歩数が前のスマホより2000歩~3000歩少なくカウントされるようになりました。

   自分ではかなり歩いているつもりですが、新しいスマホでは歩数は少なめにカウントされるようです。

    新しいスマホの歩数カウントを信頼して、17000歩歩くことを目標にしていきます。

   長期間のコロナ禍で慢性的な運動不足で、体調が悪いので、少しずつでも歩く歩数を増やしていきたいと思っています。

   こらからも少しずつ、歩く歩数を増やしていこうと思っています。

   毎月、毎月、 同じようなことを書いていますが、2月は1日平均7552歩歩いていたようなのでブログを書いておきます。

    以上、「2月は1日平均7552歩歩いていたようだ」

     ブログに載せます。

2023年2月27日月曜日

「大学4年(22才)以降から紫藤クリニックに来院するまでの主な出来事 1990年編」

 「大学4年(22才)以降から紫藤クリニックに来院するまでの主な出来事 1990年編」

 カウンセリング関連の書類には、僕が大学4年の時(19904月)から、僕が精神科クリニック、紫藤クリニックに来院する(199910月)までの主な出来事が書かれた書類もありました。1990年の出来事は以下のようなものでした。

 19904月 

大学1年の時に早大探検部をやめさせられた私と同期の平君という人間が早大探検部に再入部したいと部室を訪れ、偶然、私がそこに居合わせ、私が再入部を勧める。

5月 

一緒に早稲田の喫茶店でアルバイトをしていた中学時代の同期生、室越正明君が白血病で亡くなる

 7  

●3つ年下の女性と生まれて初めてデートをする、結局、振られる。

8  

結核上がりの先輩、秋山英樹さんと新宿区戸山にアパートを借りる。(先輩は1ヶ月でアパートを出ていく)私は今年の3月まで住み続ける。

●私が探検部入部を勧めた平君が青森県と秋田県の県境の白神山地の沢の途中の滝で頭から転落し、死亡。指紋の照合や遺品の捜索に現地まで行く。又、平君のお父さんを沢の見える場所までお連れする。

●遭難した平君の福岡での葬式に参列。私が入部を勧めなければと思い、辛くなる。直後に長野でゼミ合宿があり、厄落としのつもりで、途中、岐阜で下車し、金津園のソープランドに行き、性交初体験。長野までの電車の中で、葬式の後に何をしているのかと思い、気が滅入る。

 9月 

遭難死した平君の遺骨を平君のお父さんにも同行してもらい、分骨し、山梨県大菩薩峠の見晴らしの良い場所に埋め、早大探検部同期の仲間でケルンを建てる。


12月

世界初のインド、ブラマプトラ川川下りに参加。 心身共に疲れ果て、途中で体調を崩す。

以上が、僕がカウンセリングの際に女性の心理士の先生に読んでいただいた、1990年の主

   な出来事を書いている書類です。

 以上、「大学4年(22才)以降から紫藤クリニックに来院するまでの主な出来事 1990年編」

  ブログに載せます。

 

 

2023年2月26日日曜日

「紫藤クリニック カウンセリング 26 探検部の一つ下の女性、山田珠美」

 「紫藤クリニック カウンセリング 26 探検部の一つ下の女性、山田珠美」

 昨年、自分の部屋の大掃除をしていたら、僕が統合失調症と診断されてから、僕が通院し始めた紫藤クリニックでのカウンセリングの際の書類が見つかりました。

 僕が31歳の頃に書いていた文書です。

  書類には紫藤クリニックでのカウンセリングの際に、女性の心理士の先生にカウンセリングの際の参考になるように僕が書いた書類がありました。

  僕の書いた書類を女性の心理士の先生に読んでいただき、カウンセリングを受けたようです。

  かなり、恥ずかしいことも書かれていますが、心の病気の診療に参考になると思うのでブログに載せていきたいと思います。

  紫藤クリ二ックでのカウンセリングの際の書類、その25、書類のタイトルは「大学5年(23才~24才)」というタイトルでした。

  以下のようなことが書かれていました。

 『探検部の一つ下の女性、山田珠美』

   大学5年になると探検部の一つ下の山田珠美という女性が私のアパートに電話をかけてきてきたり遊びに来たりするようになりました。

  正確な日時は覚えていませんが、覚えていることだけ書きます。

  各出来事に時間的なずれがあるのかも知れません。

   又、彼女に対する当時の感情は複雑で文章が曖昧になることが多くなると思いますので、箇条書きにしますのでよろしくお願いいます。

  ●山田珠美は探検部の頃、ダンスのサークルと掛け持ちしていて、私が大学3年の秋合宿のときに探検部をやめようかと悩んでいたので、私から彼女に私のパーティーに参加しないかと声を掛けました。

 私も彼女の書いた文章を読んだことがあり、彼女に興味がありました。

  彼女は、

  「よろしくお願いします」

  と私のパーティーに加わることになりました。

   合宿の時は、彼女は体力が無く、どんどん後ろにおいていかれるので、私がリーダーでしたので、彼女の後ろにつき、彼女が1人はぐれないようにしていました。

  なんとか迷わないようにして、ピークに到達すると、彼女は歌を歌い出し、心配してやってんのになんだと思い、

  「うるさい」

  と言うと、

 「どうして」

  と言い返してきて、気が強いんだなと思い、仕方なく無言で我慢していました。

  ●まだ、私が実家に住んでいる頃、合宿で彼女が名古屋出身で高円寺に1人暮らししていると聞いていたので、実家の中華料理屋で作った餃子をあげたりしていました。

  ●大学4年の時、早稲田通りで偶然、出会い、ダンスの練習で足を痛めたらしく、足を引きずりながら、元気なさそうに歩いているのを見ました。私と会っても挨拶をしないので、こちらから声をかけ、

  「皆、1人でいるときは嫌なことを考えているんだから、楽しい話でもしたら」

 と言ったこともありました。

  ●その後も、私のバイトしていた早稲田の喫茶店でバイトをしたいとやって来ていて、新宿スポーツセンターのプールの帰りに、喫茶店に寄ると、彼女がバイトしていてびっくりしたり、喫茶店を出て帰るときに、

 「サヨウナラ」

 と言われて、何か後ろ髪を引かれるような思いになったりしていました。

  ●山田珠美の住んでいた高円寺のアパートの隣の部屋が空いたから、「上原さん住みませんか?」などと言われたこともありました。

  ●北村さん(私の一つ上の男、年は私と一緒)という彼氏がいたことは聞いていて知っていて、それまで異性と言うより、探検部の後輩の女子として彼女のことを見ていたので、何か彼女の世界(異性の世界?)に引き込まれるような感じがして、以後、避けるようになっていました。

  ●アパートに遊びに来るようになったのは、私のことを心配していたのか、友達になりたかったのか、良く分かりませんでしたが、一緒にお酒を飲みに行ったり、公園で夜中に弁当を食べたりしましたが。

 夜中に電話をしてきたり、遊びに来たりするので、困ることもありました。既にその頃から彼女は北村さんのところ(北村さんは西早稲田に住んでいた)に猫のようにすみついていて同棲していたのですが。

   ●うまくいっていないようで、私に相談したり、小学校の頃までお父さんとお風呂に良く入っていた話など子供の頃の話を良くしていました。

   ●当時は私も昔の嫌なことを思い出したりしていて、機嫌は良くなく、いい加減にしてくれとも思い、せっかく探検部の頃のいい思い出が壊されるような感じで、又、男女関係に巻き込まれるのも嫌でしたが、良く気のつく子という感じで、次第に恋愛感情もわいてきました。

  ●子供を産むのにベストのコンディションですと言われたこともあります。

  ●私が、「北村さんと結婚するのか?」と聞くと、「そんな所帯じみていません」と答えたこともありました。

  ●又、一度、彼女のダンスの公演を吉祥寺の井の頭公園でするというので誘われ、見に行きましたが、公園の森の中を走り回ったり、木に抱きついたりしていて、何がなんだか分からない内容で、私には理解できないことを考えているだなと思いました。

  ●同伴喫茶でバイトしているときに、探検部の2つ下の後輩の服部(彼も愛知県出身で、山田珠美とは仲が良かった)から

 「上原さん、珠さん(後輩からの呼び名)のことが嫌いでしょう」

   と言われたので、そんな噂でも立っているのかと勝手に思い、あまのじゃくのところもあり、私から電話をかけ、

  「珠ちゃん(私は彼女のことをそう呼んでいた)のことは好きだから」と言うと

  30になったら結婚してください」

  と言われ、どうせ冗談だろうと思い、

 「キープか?」

  と言い返しました。

   彼氏と同棲しているのをに何を考えているだろうと思いました。

   彼女も冗談で言っているのかも知れませんでしたが、この言葉を聞いてから、山田珠美のことが妙に気にかかるようになり、彼女に対して恋愛感情と憎しみの感情がわき、又、北村さんに対しての嫉妬の感情も湧き始めました。

   ●中野で一緒に飲もうとこちらから電話をかけ誘い、飲みに行きましたが、私も卒業間近で、さっさと彼女と縁を切りたかったので、飲みに行き、終電の時間まで飲み、別れるときは、手紙を渡しました。内容はあまり覚えていませんが、

 「年を取ったらいい女性になってくださいね」

  といったような内容だったと思います。

  中野から早稲田まで東西線で帰るのですが、途中、寝てしまい、終点の東陽町まで行ってしまい、電車が無く、タクシーで戸山のアパートまで帰りました。

   以上が、紫藤クリニックでのカウンセリングの際に女性の心理士の先生に読んでいただいた書類です。

この文書では、早稲田大学探検部で僕の一つ下の代の早稲田大学探検部34期の女子、山田珠美のことについて書かれています。

僕が新宿トルコ料理屋の早稲田大学探検部の飲み会の際に、早稲田大学探検部33期で同期の桜井誠人に言われた、

「山田珠美賞」とは、桜井誠人が僕に山田珠美と結婚しろという意味と僕は捉えています。

この文書を読めば分かるように、早稲田大学探検部34期の山田珠美とは、僕は一緒に飲みに行ったりしたこともありますが、山田珠美は、早稲田大学探検部在籍中から北村さんという彼氏がいたことは探検部の皆も知っていました。

山田珠美が、彼氏がいたにも関わらずに、早稲田大学探検部の先輩になる僕にいろいろとちょかいを出してきたことがこの文書を読むと分かります。

僕は早稲田大学探検部の後輩として山田珠美のことを見ていますが、山田珠美は、男女交際の対象として早稲田大学探検部の男子を見ていることが分かります。

僕は早稲田大学探検部内で、部員の男女が付き合ったりして、結婚したりすることが悪いこととは思いませんが、この文書を読んでみると、山田珠美とは僕にとって、負担になるような女性だったようです。

山田珠美とは内助の功をしてくれるような女性ではなく、僕にとって負担になるような女性だったようです。

僕にとって大きな精神的負担になっていたのが山田珠美のようです。

この文書を読んでみると到底、早稲田大学探検部34OGの山田珠美とは僕は結婚など出来ないことが分かります。

この文書で僕が統合失調症と診断されてから通院し始めた紫藤クリニックでの女性心理士とのカウンセリングの際に女性心理士の先生に読んでいただいた書類は終わりです。

次は、大学4年以降から精神科クリニック、紫藤クリニックに来院するまでの出来事をまとめている書類をブログに載せていきます。

以上、「紫藤クリニック カウンセリング 26 探検部の一つ下の女性、山田珠美」

ブログに載せます。

 

 

 

2023年2月25日土曜日

「紫藤クリニック カウンセリング 25 風俗遊び」

 「紫藤クリニック カウンセリング 25 風俗遊び」

昨年、自分の部屋の大掃除をしていたら、僕が統合失調症と診断されてから、僕が通院し始めた紫藤クリニックでのカウンセリングの際の書類が見つかりました。

  僕が31歳の頃に書いていた文書です。

  書類には紫藤クリニックでのカウンセリングの際に、女性の心理士の先生にカウンセリングの際の参考になるように僕が書いた書類がありました。

  僕の書いた書類を女性の心理士の先生に読んでいただき、カウンセリングを受けたようです。

   かなり、恥ずかしいことも書かれていますが、心の病気の診療に参考になると思うのでブログに載せていきたいと思います。

  紫藤クリ二ックでのカウンセリングの際の書類、その25、書類のタイトルは「大学5年(23才~24才)」というタイトルでした。

  以下のようなことが書かれていました。

  『風俗遊び』

   夏になって、性欲が溜まると、ヘルス(ファッションマッサージのこと)などの風俗店などに行くようになり始めたのも大学5年の頃からです。

   池袋の西口のニューハードというお店に、Pちゃんという背の高いスリムな感じの女性がいて、5千円多く払えば、コンドーム付きで本番をやらせてくれるので、45回通いました。

   挿入すると(いつも騎乗位の体位で、女性に私の性器を手で誘導してもらい女性の性器に挿入していました)、挿入すると、私がすぐに射精してしまうので、「二回戦する?」とも言われましたが、いつもいいと言って断り、残り時間は話をしていました。

  以後、風俗にいろいろ行きましたが、2回戦は経験がありません。

   射精するまでは、抜きたくて(射精したくて)抜きたくて仕方ないのですが、一度、射精すると、気が滅入り、勃起しなくなるのです。

  何か罪悪感のようなものがあったのかもしれません。

   Pちゃんは早番でお昼にお店に行くのですが、私は土曜日に行っていて、池袋まで、暑い夏、行くべきか行かないべきか迷いながら歩いていって、帰ってくるときは電車で帰ってきて、又、行ってしまったのかと後悔しながら、高田馬場から戸山のアパートまで悲しく歩いて戻ってきたのが印象に残っています。

  以後、風俗に行くときは大抵こんな精神状態でした。

   Pちゃんとよく話をしてみると、私の高校の同期生と中学が同じで彼のことを知っているとのことで、それを聞いて以来、彼女から逃げるように行かなくなりました。

   風俗店に行くと、自分の性器が短小の仮性包茎で、早漏であることがはっきり認識され、アパートに帰ると非常に落ち込みました。

 (銭湯に行っていたので、通常時の性器の大きさは他人と大して変わらないと分かっていましたが、風俗店に行くと、短小の包茎で、早漏ですぐに射精してしまうので、落ち込んでいました)

  又、新大久保にニュードールというヘルスがあり、源氏名は忘れましたが、やはり、背の高いスリムな感じの女性がいて、そこにもよく行っていました。

  この女性は私が行くと、びしょびしょに濡れるので、私の指でクリトリスをいじり、立ち上がれないまで、女性の性器をいじり続けていました。

   やめてやめてと言っていましたが、嬉しそうだったので、こっちも調子に乗って、性器をいじり続けていました。

  彼女の性器はサーモンピンクで、愛液の性臭も強烈だったのが印象に残っています。

   以上が、紫藤クリニックでのカウンセリングの際に女性の心理士の先生に読んでいただいた書類です。

  この文書では僕の悪癖、風俗遊びのことについて書かれています。

  よくこんな風俗情報誌に載るような内容の文書を精神科クリニックの女性の心理士の先生に読んでいただいたなと自分ながらあきれています。

   ただ、当時は、僕も若く、性欲もあり、1人暮らしで、自由気ままに生活していたので、風俗にも行っていたようです。

   今から思うと、本当に愚かな生活をしていたなと呆れかえるような内容の文書だと思います。

   こんな生活をしていたから、きちんと就職できずに、アルバイトしか出来ず、貧乏な生活をすることになったのだと思います。

  僕の愚かさが明らかになっている文書だと思いました。

   以上、「紫藤クリニック カウンセリング 25  風俗遊び」

ブログに載せます。

 

 

 

 

 

 

 

2023年2月23日木曜日

「紫藤クリニック カウンセリング 24 夜、眠れなくなる」

 「紫藤クリニック カウンセリング 24 夜、眠れなくなる」

昨年、自分の部屋の大掃除をしていたら、僕が統合失調症と診断されてから、僕が通院し始めた紫藤クリニックでのカウンセリングの際の書類が見つかりました。

  僕が30歳の頃に書いていた文書です。

  書類には紫藤クリニックでのカウンセリングの際に、女性の心理士の先生にカウンセリングの際の参考になるように僕が書いた書類がありました。

  僕の書いた書類を女性の心理士の先生に読んでいただき、カウンセリングを受けたようです。

  かなり、恥ずかしいことも書かれていますが、心の病気の診療に参考になると思うのでブログに載せていきたいと思います。

  紫藤クリ二ックでのカウンセリングの際の書類、その24、書類のタイトルは「大学5年(23才~24才)」というタイトルでした。

  以下のようなことが書かれていました。

 『夜、眠れなくなる』

   いつごろからか覚えていませんが、大学5年の頃から昔の学生生活や、高校の頃のことを思い出したり、又、遭難死した平のことを思い出したりして、いろいろ考え事をして、夜の4時頃くらいまで眠れないことが多くなりました。

   同伴喫茶の仕事が午後3時からで、夜の12時頃くらいに家に帰ってきて、午前中は寝ていられるので、寝不足になることはありませんでしたが、あまり夜、眠れないので、アウトドア用のろうそくを買ってきてそれに火をつけ、その火だけを見て何も考えないようにしようとしたりしました。

   考え事をし出すと何か過去の自分が悪い人間だったような気がしはじめて、顔つきも悪くなったようで、友人から何か悪いことでもしたのかとよく言われました。

   肩凝りや、首筋の痛みがひどくなり、体全身が痛いような感じがあり、仕事以外は外に出るのが嫌になり始めました。

  又、この頃はイスラム教に関心を持ち始め、井筒俊彦という人の本をたくさん読んでいました。

  何か、自分の心の中に闇のようなものがあるような気がして、それが何なのか見ようとしていました。

   アパートで1人になると、何もやる気が起きずに、ただ、横になって目を閉じて、昔のことを思い浮かべたりしていました。

  今まで、走るように生きてきたので、その疲れが出たのかなとも思っていました。

  引きこもり状態の年だったような気がします。

  いつも、夜中にたばこを吸って、たいてい、夜中の4時くらいに寝ていたと思います。

  飲み会などに行っても、無理して体調の悪さを隠そうとしていて、以前の自分と違い、探検部の一つ上の先輩、船越通暁さんからは、

  「上原、殺気が出ているぞ」

  と言われたこともありました。

又、探検部の一つ下の後輩の男子、山田博英からは、

「上原さん、死相が出ていますよ」

などとも言われていました。

以上が、紫藤クリニックでのカウンセリングの際に女性の心理士の先生に読んでいただいた書類です。

この文書では、僕が考え事をして、夜眠れなくなっていることが書かれています。

僕の現在でもある症状ですが、僕が1人で考え事をするのは、僕の習慣のようになっています。

1人で考え事をしているから、僕もこれだけブログが書けています。

僕は何か考え事をしていないと落ち着かないような人間のようです。

僕は何かをする際にも、一度よく考えてから行動をするタイプです。

この文書を読んでみると、考え事をすることが悪いことのように書かれていますが、1人で考え事をしているから、僕もブログが書けています。

効率優先の日本社会、特に東京では、考え事をするのは時間の無駄だとされますが、僕は1人で考え事をする時間というのは、本来の自分に戻れる貴重な時間だと思っています。

以上、「紫藤クリニック カウンセリング 24 夜、眠れなくなる」

 ブログに載せます。

 

 

 

 

 

2023年2月22日水曜日

「紫藤クリニック カウンセリング 23 就職」

 「紫藤クリニック カウンセリング 23 就職」

  昨年、自分の部屋の大掃除をしていたら、僕が統合失調症と診断されてから、僕が通院し始めた紫藤クリニックでのカウンセリングの際の書類が見つかりました。

  僕が30歳の頃に書いていた文書です。

   書類には紫藤クリニックでのカウンセリングの際に、女性の心理士の先生にカウンセリングの際の参考になるように僕が書いた書類がありました。

  僕の書いた書類を女性の心理士の先生に読んでいただき、カウンセリングを受けたようです。

   かなり、恥ずかしいことも書かれていますが、心の病気の診療に参考になると思うのでブログに載せていきたいと思います。

  紫藤クリ二ックでのカウンセリングの際書類、その23、書類のタイトルは「大学5年(23才~24才)」というタイトルでした。

  以下のようなことが書かれていました。

  『就職』

  当時は大学5年で残っている単位もあまりなく、翌年の3月には卒業できることは分かっていてほとんど大学には行きませんでした。

   探検部の同期の仲間の多くは4年か5年で就職が決まり、自分だけ取り残されるような感じがありましたが、会社に行くことは中学や高校に戻るようなイメージがありましたし、又、吃音のこともあり、会社に行って、同世代の人間と競争していく自信がありませんでした。

   一応、マスコミ志望で、朝日新聞と毎日新聞の願書はもらいに行きましたが、毎日新聞の入社試験は受けたと思いますが、朝日新聞の入社試験は結局受けなかったと思います。

  それ以外は夏になっても、就職活動はしませんでした。

  相変わらず、安い名画座で映画をよく見ていました。

  映画館が現実からの逃避の場所でした。

  映画館の外に出ると現実に戻され、うんざりするような感じでした。

  又、風呂のかわりにプールに行くのも逃避というか気分転換の場所で、羊水のような場所でもありました。

   レーニンがよく水泳をしていたと本を読んで知っていたので、レーニンのようになろうとも思いながら、ゆっくりと平泳ぎをしていました。

  以上が、紫藤クリニックでのカウンセリングの際に女性の心理士の先生に読んでいただいた書類です。

  この文書では僕の就職活動のことが書かれています。

   一応、マスコミ志望で、毎日新聞と朝日新聞の願書はもらいにいったことが書かれています。

   毎日新聞と朝日新聞の願書をもらいにいったことから、僕の左翼的傾向が明らかになっていると思います。

   読売新聞も産経新聞も新聞社ですが、僕は毎日新聞と朝日新聞の願書をもらいに行っています。

  僕が左寄りの会社に行きたかったことが分かります。

  以上、「紫藤クリニック カウンセリング 23  就職」

 ブログに載せます。

 

 

2023年2月21日火曜日

「紫藤クリニック カウンセリング 22 目の上のたんこぶ 宮沢」

 「紫藤クリニック カウンセリング 22 目の上のたんこぶ、宮沢」

  昨年、自分の部屋の大掃除をしていたら、僕が統合失調症と診断されてから、僕が通院し始めた紫藤クリニックでのカウンセリングの際の書類が見つかりました。

  僕が31歳の頃に書いていた文書です。

  書類には紫藤クリニックでのカウンセリングの際に、女性の心理士の先生にカウンセリングの際の参考になるように僕が書いた書類がありました。

  僕の書いた書類を女性の心理士の先生に読んでいただき、カウンセリングを受けたようです。

  かなり、恥ずかしいことも書かれていますが、心の病気の診療に参考になると思うのでブログに載せていきたいと思います。

  紫藤クリ二ックでのカウンセリングの際書類、その22、書類のタイトルは「大学5年(23才~24才)」というタイトルでした。

  以下のようなことが書かれていました。

  『目の上のたんこぶ、宮沢』

   探検部の同期の宮沢という人間がいて、同期でしたが、大学2年から探検部に入ってきたので私より年は1つ上でした。

   長野の諏訪清陵高校の出身で野球部だったそうで、県大会でベスト4まで進んだと言って自慢していました。

  又、浪人中に土方をやっていたとのことで親近感もありました。

  私が実家に住んでいた頃は、宮沢が体調が悪いときなどうちに泊めたりしたこともありました。

  私が大学4年の4月に宮沢が部室で1人で酒を飲んでいて、泥酔し、

 「ちんこまんこ」

  と言い続け、部室から1人1人消えていき、私が面倒を見たのが印象に残っています。

  私が1人暮らしを始めると、よく電話をかけてきて、

  「話を聞いてくれ」と言われ、1時間ぐらいずっと愚痴を言っているので嫌でした。

  電話を受け、

 「宮沢です」と言われると、またかと思いました。

  又、私のアパートで宮沢が手に入れた覚醒剤のスピードを探検部の一つ下の後輩の前田と2つ下の後輩の河合と4人でやり、

  覚醒剤を銀紙に載せ、下からライターを当て、気化した煙を鼻から吸い、4人で順番に吸っていき、吸う度に自分の考えていることを話していくというようなこともしました。

  宮沢に言わせると、スピードをやると、リラックスして無意識のトラウマのようなものが出やすいそうです。

   宮沢は探検部の頃、ネパールやインドに行き、あらゆるドラッグをやり、又、クンダリーニ体験(尻からエネルギーが出て、脳に出るようなこと)もしたとのことでした。

   私も外国でマリファナやハシシはやりましたが、ケミカル系の薬物は初めてでかなり拒絶感がありましたが、怖がっていると思われる(宮沢にも、前田にも、河合にも)のが嫌でやりました。

  次の日、気分が悪くなったので、外に出て気を紛らしました。

  吸っているとき、どんな作用があったか、どんなことを話したかはあまりよく覚えていません。

   宮沢は酒が好きで、よく2人で、高田馬場の当たり矢という屋台のおでん屋に飲みに行きました。

  森ちゃんという40ぐらいのげっそり痩せた人が店をやっていて、顔を覚えられると

 「川上宗薫(ポルノ作家)先生」と呼ばれ始め、嫌でした。

  又、宮沢は酒癖が悪く、酔うと私にからんでくるので、宮沢の相手をするのも嫌でした。

  森ちゃんも飲みながら、仕事をするのでよく店の客と喧嘩をし、夜中に屋台の前を通ると、顔中血まみれになって、高田馬場のさくら銀行の前で倒れていたのが印象に残っています。

  又、宮沢は飲むと、帰りに私のアパートによく泊まり、一度、私の太ももを手で触られ、宮沢はそのまま寝てしまいましたが、私はこいつホモなのかと思い、眠れなかったのが印象に残っています。

   以上が、紫藤クリニックでのカウンセリングの際に女性の心理士の先生に読んでいただいた書類です。

  この文書では早稲田大学探検部で33期で同期だった宮沢信也のことが書かれています。

  この文書を読むと、僕が宮沢のことを嫌っていることが分かります。

  僕が宮沢のことを嫌っているにも関わらず、宮沢は僕のアパートに電話をしてきたり、一緒に飲みに行こうと誘われ、僕が嫌々、宮沢と飲みに行き、酔っ払った宮沢の相手をしていたことが分かります。

  又、覚醒剤の一種、スピードを僕の住んでいたアパートでやったことも書かれています。

   日本では違法なスピードを宮沢が入手し、僕のアパートに来て、宮沢に勧められて、僕が嫌々、スピードをやったことが書かれています。

   又、宮沢がインドやネパールに行って、クンダリーニ体験をしたことを僕に言っていることも書かれています。

   オウム真理教にも出てくる、「クンダリーニ」という言葉を宮沢が発していることが明らかになっています。

   何かこの宮沢に関する文書を読んでいると、宮沢とは危険人物で、警察にマークされてもおかしくない行動、言動をしていることが分かります。

 早稲田大学探検部が危険なサークルであることを表している文書だと思いました。

 以上、「紫藤クリニック カウンセリング 22 目の上のたんこぶ 宮沢」

 ブログに載せます。

2023年2月20日月曜日

「紫藤クリニック カウンセリング 21 バイト先での話」

 「紫藤クリニック カウンセリング 21 バイト先での話」

  昨年、自分の部屋の大掃除をしていたら、僕が統合失調症と診断されてから、僕が通院し始めた紫藤クリニックでのカウンセリングの際の書類が見つかりました。

  僕が31歳の頃に書いていた文書です。

  書類には紫藤クリニックでのカウンセリングの際に、女性の心理士の先生にカウンセリングの際の参考になるように僕が書いた書類がありました。

   僕の書いた書類を女性の心理士の先生に読んでいただき、カウンセリングを受けたようです。

  かなり、恥ずかしいことも書かれていますが、心の病気の診療に参考になると思うのでブログに載せていきたいと思います。

  紫藤クリ二ックでのカウンセリングの際書類、その21、書類のタイトルは「大学5年(23才~24才)」というタイトルでした。

  以下のようなことが書かれていました。

  『バイト先での話』

  この文章は基本的に当時の手帳をもとに書いているのですが、大学5年の手帳には、バイトの予定以外誰に会ったとか何があったとかの内容がほとんど記されていません。大学5年にバイト以外に何をしていたか、あまり思い出せんが、思い出せる範囲で書いていきます。

   バイトは先輩から引き継いだ、上野の同伴喫茶でバイトをしたり、たまに夜中に川崎で道路の清掃の仕事をしたりしていました。

  同伴喫茶でよく一緒にバイトをしていた森山憲一とは4年以上の付き合いで話しやすく、よく私は「疲れた、疲れた」と言っていました。

 森山は私のことを良く見ていたのか、

 「上原は甘え上手にならなきゃダメなんだよ」

 とよく言われていました。

  又、今一番何がしたいかと聞かれ、「セックス」

 二番目はと聞かれ、「セックス」

   三番目はと聞かれ、「セックス」

   四番目は皆で集まって飲むことなどと答え、

 「俺は日本一の性欲溜まり男だ」

  と言って、大笑いされたことがあります。

  森山が「山と渓谷」という会社に就職したいと言っていたときも、

 「俺は女体の山と渓谷だ」と言って、

  女性の乳首をつまむポーズと女性の性器をいじるポーズをして、森山に大笑いされました。

  それから、何色がどの女性に当てはまるかと聞かれ、赤、青、白、黄緑、黄色、黒、紫を出され、探検部の女性くらいしか、森山と共通に知っている女性はいなかったので、赤は大西(3つ下の後輩)、青は村山(一つ下の後輩、西表に一緒に行った後輩)、白は浅井(一つ下の後輩、ユーコンに一緒に行った後輩)、黄緑は山田珠美(一つ下の後輩、山田は2人いた、秋合宿に一緒に行った後輩)、黄色は野崎(3つ下の後輩、新歓合宿に一緒に行った後輩)、黒は内田さん(2つ上の先輩)、紫は渡辺(3つ下の後輩)と答えました。

  森山の回答によると、

  「赤は気になる女性、青は結婚したい女性、白は尊敬している女性、黄緑は自分のことが好きな女性、黄色は友達になりたい女性、黒は彼女にしたい女性、紫はセックスしたい女性」

  とのことで、私は化粧や服装から連想して答えたので、そんなものかと思いました。

  ただ黒の内田さんという女性は上級生で、私と同じ法学部で、頭のいいフランス人形みたいなきれいな顔をした広尾に住んでいる(探検部の先輩から内田さんの話は散々聞かされていて、家が不動産屋で家に招待されるとフルコースの料理が出てくるそう。先輩も皆、内田さんのことが好きだったようだった。)お金持ちのお嬢さんだったので、皆の憧れの的みたいな人で、私も実際、探検部に入った頃は、同じ東京都内出身で親近感もあり憧れていました。

   以上が、紫藤クリニックでのカウンセリングの際に女性の心理士の先生に読んでいただいた書類です。

この文書では、早稲田大学探検部の活動終了後に僕の当時のアルバイト先だった上野の同伴喫茶、城での話が出てきます。

早稲田大学探検部の同期の森山憲一とのやり取りが書かれています。

僕の早稲田大学探検部時代の同期生の森山憲一から、

「上原は甘え上手にならないといけない」

とアドバイスされていたことが分かります。

その他にも色による精神分析のようなことが行われていたようです。

この紫藤クリニック、カウンセリング文書が、僕の当時の手帳を基に作成されていることも書かれています。

僕がこれだけ詳細に、カウンセリング文書を作成出来たのも、学生時代のことを手帳に記録していたから、作成出来たのだと思います。

以上、「紫藤クリニック カウンセリング 21 バイト先での話」

 ブログに載せます。

 

 

 

2023年2月9日木曜日

「紫藤クリニック カウンセリング 20 ブラマプトラ川川下り」

 「紫藤クリニック カウンセリング 20 ブラマプトラ川川下り」

  昨年、自分の部屋の大掃除をしていたら、僕が統合失調症と診断されてから、僕が通院し始めた紫藤クリニックでのカウンセリングの際の書類が見つかりました。

  僕が31歳の頃に書いていた文書です。

  書類には紫藤クリニックでのカウンセリングの際に、女性の心理士の先生にカウンセリングの際の参考になるように僕が書いた書類がありました。

  僕の書いた書類を女性の心理士の先生に読んでいただき、カウンセリングを受けたようです。

  かなり、恥ずかしいことも書かれていますが、心の病気の診療に参考になると思うのでブログに載せていきたいと思います。

  紫藤クリ二ックでのカウンセリングの際書類、その20、書類のタイトルは「大学4年(22才~23才)」というタイトルでした。

  以下のようなことが書かれていました。

  『ブラマプトラ川川下り』

  大学4年の10月になると、日本ヒマラヤ協会という団体から、インドのブラマプトラ川という川の川下りに参加しないかとの要請が早稲田大学探検部を通じて私のところにあり、12月からのプロジェクトに参加することになりました。

  当時は、知人が2人亡くなり、探検部にも嫌気がさし、初デートした女性とも連絡が無くなり、気分が落ち込んだ状態でしたが、何かやれば気が晴れるだろうとの気持ちでこのプロジェクトに参加することにしました。

  又、旅費、装備など全額向こう持ちということで、それも参加する理由の一つの要因でした。

  プロジェクトで下る地域は中国とインドが国境の問題で揉めているところで、なかなか川下りの許可が下りず、かなりの激流部があり、危険ということで、川自体もチベットのカイラス山の麓に源流部を持ち、チベット東部で大屈曲し、インド東部を経て、ベンガル湾に注ぐという川で、世界最深の峡谷部を持ち、謎の川とも呼ばれ、今回が世界初のプロジェクトでした。

  準備期間が短く、日本ヒマラヤ協会がどんなところかもわからず、おそるおそる高田馬場の日本ヒマラヤ協会の事務所に行ってみると、ヒマラヤの8000メートル級の山に数多くの登山隊を派遣し、過去、何人も遭難死しているとのことで、今回、同行する日本側隊長の八木原さんという人はエベレスト登頂経験を持つ、当時44才のおじさんで、副隊長の八嶋さんという人は山ばかりやっていて、奥さんに逃げられ、一人娘と一緒に暮らしているという40才のおじさんでした。

  二人とも川下りの経験はないということで、私も自信がなく不安になりました。

  学生側は早稲田の探検部から私と同期の中谷という一緒にチベットやユーコンに行った人間の2人で、もう一人は、関口君という私より一つ年下のフロンティアボートクラブという川下り専門のサークルの人間で、計3人でした。

  かなりの激流ということを聞いていたので、学生側で、四国の吉野川で転覆の練習をしたりしましたが、出発までどんな川か不安でした。

  1220日に日本を出発し、デリーに到着し、高級ホテルに泊まりましたが、私と同室になったのは八嶋さんで、逃げられた奥さんのことや、ヒマラヤ協会の悪口など愚痴を散々聞かされ、一緒にいて嫌でした。

  その後、ガンジス川の上流で川に落ちる練習をしてから、再び、デリーに戻りました。

  インド側の隊員はほとんど軍人でした。インドは完全な階級社会で、インド側の隊員からおまえの家はなにをしているのかと散々聞かれ、中華料理屋と答えると、バカにされ落ち込みました。

  14日からヘリで川下りの出発点まで行き、川下りが開始しました。

  乾期で岸から見ると、あまりわからないのですが、かなりの激流が多く、川を巻くことが多くあり、10人乗りのボートを岩場の多い岸で運ばなければならず、肉体的に疲れました。

   世界初のプロジェクトで、今までの探検部の活動とは違い本格的で緊張感があり、又、フジテレビのムツゴロウさんの番組チームが取材のために同行し、その人たちの相手もしなければならず、インド側隊員とのコミュニケーションも不足しがちで、亡くなった仲間のことも忘れられず、プロジェクトに集中できず、精神的にもかなり疲れ果てました。

  結局、途中で体調を崩し、抗生物質を飲んで、テントでウーウー唸りながら寝る羽目になりました。

  ムツゴロウさんにも手を握られ、

 「頑張れ」

  と励まされましたが、個人的にムツゴロウさんは嫌いだったのでなんとも思いませんでした。

  このとき、山が崩れる夢を見て、非常に恐ろしかったのが印象に残っています。

  又、出発の前日、しばらく、禁欲生活が続くと思い、新大久保のニュードールというヘルス(ファッションマッサージ)に行こうとしたところ、私のアパートの斜め前の家の前で、おばあちゃんが、うつぶせになって倒れていて、救急車を呼んだのが印象に残っています。

  1991年の1月下旬から大学の試験があったので、私は途中で隊と別れ、1人、1月中旬にインドから帰国しましたが、学費値上げ闘争で試験は中止になっていて、各科目レポートを提出することになっていました。

   せっかく早く帰国したのにとも思いましたが、心身共に疲れ果てていたのでレポートで良かったです。

  なんとか全科目レポートを書き上げ、全科目単位を取れました。

  レポートを書き上げるとそれまでの疲れが出たのか、バイト以外はしばらくアパートでぐったりしていました。

  以上が、紫藤クリニックでのカウンセリングの際に女性の心理士の先生に読んでいただいた書類です。

この文書にはインドブラマプトラ川川下りのことが書かれています。

インドブラマプトラ川川下りは取材されて記事になるほどのラフティングエクスペディションだったようですが、僕が31歳の頃に書いていた文書を読んでみると、そんなにすごい活動だったのかなと思わせるようなことが書かれています。

僕の文書の書き方が、稚拙なのだと思いますが、僕の書いた文書を読んでみると、インドブラマプトラ川川下りの緊張感が伝わってきません。

一緒に川下りに行った、日本ヒマラヤ協会の八木原さん、八嶋さんに対しても敬意が感じられない文書となってしまっています。

ムツゴロウさん(畑正憲さん)に対しても敬意が感じられない文書になってしまっています。

ただ、インドブラマプトラ川川下りで体調を崩して、テントでウーウー唸りながら寝込んでいたときに、山が崩れる夢を見たことが書かれています。

実は、インドブラマプトラ川川下りをしていた時期に、中国雲南省の梅里雪山に挑んでいた京都大学学士山岳隊の参加した日中合同登山隊の雪崩による大量遭難事故が起きています。

関係があるのか関係がないのか僕にも分かりませんが、時間的には199114日から川下りが始まったと書かれてあります。

梅里雪山の大量遭難事故が起きたのが、199114日です。

僕が川下りをしていたのはインドのアルナチャルプラデシュ州という地域で、梅里雪山はとても近い地域でした。

何か特殊な力が働いて、僕が、山が崩れる夢を見た可能性もあるかもしれません。

ここまで僕が統合失調症と診断されてから通院し始めた紫藤クリニックでのカウンセリングの際の僕の書いた書類をブログに載せてきましたが、僕の体の具合が悪く(逆流性食道炎と過敏性腸症候群でお腹がものすごく痛い状態が続いています)、ちょうど、インドブラマプトラ川川下りのことについて書いた書類までブログに載せたので、これからは体の具合が良いときに、紫藤クリニックでのカウンセリングの際の書類を随時、ブログに載せていきます。

以上、「紫藤クリニック カウンセリング 20 ブラマプトラ川川下り」

 ブログに載せます。

 

 

2023年2月8日水曜日

「紫藤クリニック カウンセリング 19 杉並区水泳大会」

 「紫藤クリニック カウンセリング 19 杉並区水泳大会」

  昨年、自分の部屋の大掃除をしていたら、僕が統合失調症と診断されてから、僕が通院し始めた紫藤クリニックでのカウンセリングの際の書類が見つかりました。

  僕が31歳の頃に書いていた文書です。

  書類には紫藤クリニックでのカウンセリングの際に、女性の心理士の先生にカウンセリングの際の参考になるように僕が書いた書類がありました。

  僕の書いた書類を女性の心理士の先生に読んでいただき、カウンセリングを受けたようです。

  かなり、恥ずかしいことも書かれていますが、心の病気の診療に参考になると思うのでブログに載せていきたいと思います。

  紫藤クリ二ックでのカウンセリングの際書類、その19、書類のタイトルは「大学4年(22才~23才)」というタイトルでした。

  以下のようなことが書かれていました。

  『杉並区水泳大会』 

  探検部4つ上の当時大学8年の佐藤さんから、杉並区の水泳大会に探検部の連中で、「河童団」というチーム名で出場しないかと私が誘われ、7月ぐらいから先輩5人ぐらいとプールに行き練習していました。

  佐藤さんは以前、私が大学3年の秋頃に幹事会の時に突然部室を訪れ、

  「探検部にはメシア(救世主)が必要だ」

 と言って、私たちを絶句させ、変な人だなと思いましたが、物凄くイイ男で、現役の時は幹事長だったそうで、先輩に聞いてみると探検部中興の祖とまで呼ばれた人だそうで探検部も奥が深いなと思いました。

  水泳の練習では新たに探検部4つ上の戸崎さんというやはり大学8年の人やテレビ番組の制作会社に勤めていた探検部4つ上の竹村さんという人に初めて出会い、皆、それまで会ってきた探検部の先輩たちとは感じが違って大人びて見えました。

  又、練習時期に平の遭難事故があり、その話をするとあまり動じず、冷静な人たちだなと思いました。

   9月の水泳大会では先輩たちも含めて全種目ビリでしたが、私の出場した50メートル平泳ぎでは練習の時より5秒以上タイムが良くなり、

 「上原、よくやった」

  と褒められました。

  大会の帰りに皆で飲みに行って、その時、やはり探検部の4つ上の女性の今瀬さんという人に初めて出会い、この人は子供っぽく見えておとなしく、あまり印象に残りませんでした。

   佐藤さんは水泳の練習の帰りに一度、高円寺の佐藤さんのアパートに泊まり、ミルクコーヒーで一晩中、探検部のことを話していました。

  極地法などを真剣に説明してくれました。

  上原は一体、何がしたいんだと聞かれ、

 「目標を持つのが怖いんです」

  と答え、佐藤英一さんがニヤリとしたのが印象に残っています。

   以上が、紫藤クリニックでのカウンセリングの際に女性の心理士の先生に読んでいただいた書類です。

この文書では、僕が大学4年生のときに、当時、早稲田大学8年生だった故佐藤英一さんに誘われ、杉並区の水泳大会に出場したことが書かれています。

故佐藤英一さんが「河童団」と探検部のチーム名を考え、「河童団」の名前で、杉並区の水泳大会に出場しました。

故佐藤英一さんは、僕が探検部3年生のときに、探検部の部室に来て、

「探検部にはメシア(救世主)が必要だ」

と発言していたこともこの文書には書いています。

変わった人で、発言も少し変だったようですが、外見はものすごいイイ男で、探検部にはいないようなタイプの人でした。

杉並区の水泳大会に出場したときも、佐藤さんの裸を見ましたが、ものすごい良い体をしていて、筋骨隆々で、スタイルも良く、彫刻のような体をしていました。

今から思うと、何故、あんなに物凄いイイ男が探検部のようなうざったい人間が集まるようなサークルにいたのかとも考え込んでしまいます。

本当に探検部とは不思議なサークルだと今でも思っています。

以上、「紫藤クリニック カウンセリング 19 杉並区水泳大会」

 ブログに載せます。

2023年2月7日火曜日

「紫藤クリニック カウンセリング 18 私が入部を勧めた人間の遭難死」

 「紫藤クリニック カウンセリング 18 私が入部を勧めた人間の遭難死」

  昨年、自分の部屋の大掃除をしていたら、僕が統合失調症と診断されてから、僕が通院し始めた紫藤クリニックでのカウンセリングの際の書類が見つかりました。

  僕が31歳の頃に書いていた文書です。

  書類には紫藤クリニックでのカウンセリングの際に、女性の心理士の先生にカウンセリングの際の参考になるように僕が書いた書類がありました。

  僕の書いた書類を女性の心理士の先生に読んでいただき、カウンセリングを受けたようです。

  かなり、恥ずかしいことも書かれていますが、心の病気の診療に参考になると思うのでブログに載せていきたいと思います。

  紫藤クリ二ックでのカウンセリングの際書類、その16、書類のタイトルは「大学4年(22才~23才)」というタイトルでした。

 以下のようなことが書かれていました。 

 『私が入部を勧めた人間の遭難死』

 8月中旬になると、同期の元副幹事長、清水博之から連絡があり、私が探検部の再入部を説得した、平が7月に青森県の白神山地の赤石川という沢の途中の5メートルくらいの滝で滑落し、頭から落ちたらしく、頸椎(けいつい)骨折で死亡したらしいとのことでした。

 血液型や身長、体重は一致しており、すでに荼毘に付しているとのことでした。

 清水博之に平の住んでいたアパートに行って、指紋を採取してくれと依頼されました。

 平の住んでいた吉祥寺のアパートに行くと、藤原新也の「メメントモリ(死を想え)」という本が机の上にあり、当時、私もその本を読んでいたので、同じようなことを考えていたんだなと思いました。

 その本を持って、後輩と現場に急行し、現地の警察に本に付いた指紋を届けました。

 指紋は照合され、本人と確認され、滝壺に落ちて土左衛門になった写真を見せられました。

 生前と様子が完全に違い、水死するとこんな姿になるんだなと思い、気分が悪くなりました。

 その後、先輩2人と私を含めた同期3人で白神山地の平が遭難した現場の沢まで行き、ザックや寝袋などの遺留品を捜索し、偶然見つかり、それをご遺族に届けました。

 この時、マタギのおじさんからまいたけをもらって、炒めて食べて、うまかったのが印象に残っています。

 又、8月の下旬には、同期の高橋と亡くなった平のご両親を白神山地の赤石川の見えるところまで、お連れしました。

 お父さんがそこで、

 「泰則(平の名前)」と叫んで、

 曇り空でしたが、その時だけ日が差したことが印象に残っています。

 私が何とか部を説得して再入部を許可してもらった人間が再び、一人で活動し遭難死したので、現役の後輩と揉め、事故の処理もしなければならず、その後も部では動揺したのか部員の事故も相次ぎ、それ以来、私は探検部がイヤになり、逃げるように探検部の部室には行かなくなりました。

 私が入部を勧めなければ、このような死亡事故は起きず、部は揉めなかったと思うので、探検部の後輩に対し非常に申し訳なく思いました。

 9月には、平の出身が福岡だったので、福岡での葬儀に出席しました。

 それまでは本心では

 「参ったな。自分で行動して死んじゃったんだから、しょうがないじゃないか」

  と思っていましたが、葬儀に出席してみると、彼の昔の友達もたくさんいて、私が再入部を勧めなければこんなことにならなかったと思い、本人に非常に申し訳なく思いました。

  特にご両親には非常に申し訳なく思っています。

  葬儀の直後に、ゼミ合宿があり、長野の蓼科まで行かなければならず、途中、岐阜で下車して、金津園という風俗街(探検部の友達が風俗好きで良く金津園の話を聞いていました)の一番安いソープランド(14千円、入浴料込み)を探して、そこで、性交初体験をしました。

  初めての風俗で、店の名前は今でも覚えています。「思い出」という店でした。

  それまでは、いい女性を見つけ(出来れば処女、自分も童貞だったので)性交できるような関係になれるようになろうと思い、ずっと我慢していた風俗でしたが、葬儀の厄を落とすようなつもりで、岐阜金津園の風俗、ソープランドに行きました。

  相手をしてくれた女性は、色白の、背の高いスリムな20歳くらいの女性でピアノの先生をしているそうで、むしゃぶりつくように性交をしました。

  性交自体は初めてで、とりあえず気持ち良かったです。

  確かコンドーム無しだったと思います。

  性交初体験が風俗になってしまいましたが、蓼科までの電車の中で人生こんなもんだと思い、直後に落ち込むようなことはありませんでした。

  むしろ、平の葬儀の後、一体、自分は何をしているんだろうと思い気が滅入りました。

  ゼミ合宿ではあまり元気が無く、疲れた疲れたと、皆に言っていました。

  9月には平のお父さんにも同行してもらって、遺骨を分骨して、山梨県の大菩薩峠の見晴らしの良いところに埋め、私たちの同期で、皆で石を積んでケルンを建てました。

  お父さんが、さかんに

  「色即是空、空即是色」

  と私たちに言っていて、非常に悲しそうだったので、外国の山の話などをし、

  「ご飯だけは食べて下さい」

  と言いました。

  初デートした女性とは平の一件以来、こちらからも向こうからも全く連絡しなくなり、それ以後、彼女も喫茶店のバイトを辞め、全く会うことがありませんでした。

  さっぱり別れられ、彼女のことはいい思い出になっています。

  以上が、紫藤クリニックでのカウンセリングの際に女性の心理士の先生に読んでいただいた書類です。

  この文書を読んでみると、僕が長い間、心のトラウマになっている、僕が探検部への再入部を勧めた平泰則君の白神山地での遭難事故のことが書かれています。

  僕が平君に再入部を勧めなければ、こんな事故は起きなかったと思い、今でも僕は心から反省しています。

  僕の責任が追及されても仕方ない事故で、僕は本当に平君、平君の親御さんに悪いことをしてしまったと思っています。

  僕が自分の探検部員としてのスキルも無いのに、平君に再入部を勧めてしまったことは本当に僕の責任で、僕が平君のご遺族から法的に訴えられても仕方ないような事故だったと思っています。

  この事故で探検部の後輩たちにも、多大な迷惑をかけてしまって、本当に申し訳なく思っています。

  探検部とは、命を落とす可能性もある活動もするので、安易に探検部は面白いから、入部してみたらとか軽々しく言えないサークルだと思っています。

  僕ももう探検部の活動から離れて長いし、体力も学生時代に比べたら、がた落ちだし、もう、僕は登山も川下りもやらないと思います。

  大きな事故が起きてからでは手遅れになってしまうので、僕は軽々しく探検部の活動に口出しできません。

  僕の探検部に対する認識の甘さが露呈されている文書だと思います。

  本当に本当に、探検部とは命に関わる活動もするので、厳しい認識で探検部に対して考えていかないと思っています。

  以上、「紫藤クリニック カウンセリング 17 私が入部を勧めた人間の遭難死」

  ブログに載せます。

 

 

 

2023年2月6日月曜日

「紫藤クリニック カウンセリング 17 結核上がりの先輩とアパートを借りる」

 「紫藤クリニック カウンセリング 17 結核上がりの先輩とアパートを借りる」

  昨年、自分の部屋の大掃除をしていたら、僕が統合失調症と診断されてから、僕が通院し始めた紫藤クリニックでのカウンセリングの際の書類が見つかりました。

  僕が31歳の頃に書いていた文書です。

  書類には紫藤クリニックでのカウンセリングの際に、女性の心理士の先生にカウンセリングの際の参考になるように僕が書いた書類がありました。

  僕の書いた書類を女性の心理士の先生に読んでいただき、カウンセリングを受けたようです。

  かなり、恥ずかしいことも書かれていますが、心の病気の診療に参考になると思うのでブログに載せていきたいと思います。

  紫藤クリ二ックでのカウンセリングの際書類、その16、書類のタイトルは「大学4年(22才~23才)」というタイトルでした。

 以下のようなことが書かれていました。 

 『結核上がりの先輩とアパートを借りる』

 探検部の一つ上の先輩の船越さんという人のアパートに居候していた友人の秋山さんという人が、私が大学3年の秋くらいから結核で中野の国立療養所に入院しており、そこにもよくお見舞いに行っていました。

 以前、一緒に麻雀をしたりしたことがあったので知り合いでした。

 早稲田を2年で中退し、その後、塾の先生をしたりしながら、生計を立てていたそうですが、不摂生がたたり結核になったらしいです。

 げっそりと痩せ、頬はこけ、何か影があるような人でしたが、私もちょうど探検部の活動が一段落したところで、これからどうしていくかと思い、誰かと話したくて、失礼だったかも知れませんが、病気と言うことで暇だろうと思っていました。

 よくコーヒーを飲みながら話をしていた食堂がある一階が薄暗く、いかにも古い病院っぽく、気味が悪かったですが、何かホッとするところでした。

 又、肝炎で入院して以来、病気に関心があったり身近になっていました。

 秋山さんが、私が大学4年の3月に退院し、

 「上原の自立を助けてやる」

 と言い出して、二人で新宿区の戸山に4畳半のアパートを借りることになり、大学4年の8月から二人で、アパートに住むことになりました。

 先輩でしたが、結核上がりということで、私も先輩の自立を助けてあげたかったのでした。

 当時は私も大学を4年で卒業することが出来ないと分かり、親からは特に何も言われていませんでしたが、両親、兄ともに働いており、家にいづらくなっていて、そろそろ、自分でこれからどうやって生きていくかでも考えようと、ちょうど良い機会だと思い、アパートに住むことにしました。

 一階で日の当たらない湿気の多い、冬でも蚊が出る、4畳半のアパートでしたが、私は家族から解放されたようで、又、探検部からも解放されたような感じで、ようやく本来の自分に戻れるようで、何か面白いことがありそうな気がしていました。

  先輩は、私といてもつまらなかったのか、本ばかり読んでいて、特に「噂の真相」という雑誌ばかり読んでいました。

  私にも、これは面白いから読めと勧められ、実際、読んでみると面白く、しばらく、毎月読んでいました。

  秋山さんは貧乏暮らしが嫌だったのか、その後、1ヶ月でアパートを出て、姉のところに帰ることになりましたが、以後も私はそこに、今年の3月まで10年近く住み続けることになりました。

  壁が薄く、隣の部屋の音はジュースの缶を開ける音まで聞こえるのですが、隣の人は気を使ってくれる人で、テレビもイヤホンをつけて見ていました。

  又、夜は電気をつけっぱなしにして寝ていたので、革マル派という過激派のセクトの人で、内ゲバを恐れていたのかと思っていました。

  私もかなり左翼的傾向があり、学生運動をしていた人には尊敬の念もあって、いまだに安アパートに住んでいて肉体労働をして生活していたので、ますます、尊敬の念がわき、中核派が内ゲバに来たら、守ってやろうと思っていました。

  今年、アパートを引っ越すときに、お世話になりましたと、初めてきちんと話をしましたが、話を聞いてみると、私と同じ早稲田の法学部で共産党の下部組織の民青というでセクトで学生運動をしていたそうです。

  又、早稲田中退後は司法浪人をしていたそうです。

  夜、電気をつけっぱなしにして寝ていたことを聞いてみると、嘘か本当か、若い奴らが、夜中にアパートの横の庭のようなところで、リンチでもするのではないかと思っていたそうです。

  今年で、45歳になるという方で、

  「俺みたいにはなるなよ」

  と言っていましたが、私より、一回り体格が良く、月曜から金曜まで、毎日、肉体労働の仕事をしているそうで、立派な人だと思いました。

  また、私の病気のことを言うと、

  「なるようになるから、あまり心配するな」

  と言ってくれたのが、印象に残っています。

  以上が、紫藤クリニックでのカウンセリングの際に女性の心理士の先生に読んでいただいた書類です。

  この文書を読むと、僕が結核上がりの先輩、秋山さんとアパートを借りたことが書かれています。

  僕が10年近く住み続けることになったアパート、新宿区戸山のワカサ荘は、結核上がりの先輩の秋山さんと一緒に探して見つけた物件だったようです。

  日の当たらない、湿気の多い、一階の部屋で、薄暗いアパートでした。

  冬でも蚊が出ていたとも書かれています。

  さらには、日の当たらない、湿気の多い薄暗いアパートの隣に住んでいた人は、早稲田大学中退で、日本共産党の下部組織、民青で学生運動をしていた人で、当時もう40半ばだったにも関わらずに、月曜から金曜まで肉体労働をしていたようです。

  この文書を読むと、隣の人は、夜は、電気を消さずに電気をつけっぱなしにして寝ていたようです。

  僕が、隣の人とほとんど話をせずに、隣の人は革マル派の人で、中核派からの内ゲバを恐れて、夜中も電気をつけっぱなしにして、寝ていたのだろうと勝手に想像していたことが分かります。

  この文書を読むと、僕の中に僕の部屋の隣に住んでいた人に対して何らかの妄想があったことが分かります。

  ろくに話もせずに、勝手に、隣の人は革マル派の人だと思い込んでいたことが分かります。

  僕に妄想があったと分かる文書だと思いました。

  以上、「紫藤クリニック カウンセリング 17 結核上がりの先輩とアパートを借りる」

  ブログに載せます。

 

 

 

 

 

 

 

2023年2月5日日曜日

「紫藤クリニック カウンセリング 16 生まれて初めてのデート」

 「紫藤クリニック カウンセリング 16 生まれて初めてのデート」

  昨年、自分の部屋の大掃除をしていたら、僕が統合失調症と診断されてから、僕が通院し始めた紫藤クリニックでのカウンセリングの際の書類が見つかりました。

  僕が31歳の頃に書いていた文書です。

  書類には紫藤クリニックでのカウンセリングの際に、女性の心理士の先生にカウンセリングの際の参考になるように僕が書いた書類がありました。

  僕の書いた書類を女性の心理士の先生に読んでいただき、カウンセリングを受けたようです。

  かなり、恥ずかしいことも書かれていますが、心の病気の診療に参考になると思うのでブログに載せていきたいと思います。

  紫藤クリ二ックでのカウンセリングの際書類、その14、書類のタイトルは「大学4年(22才~23才)(サークル・バイト編)4」というタイトルでした。

 以下のようなことが書かれていました。 

『生まれて初めてのデート』

  早稲田の喫茶店、Coffee Spot Reyで白血病の友人、室越正明君が亡くなるのと前後するように3つ下の大学1年生の鹿児島県出身の女性がバイトに新たに来て、私が探検部だったというと興味があったのか、積極的に話しかけられ、仲良くなり、早稲田界隈を案内したり、大隈講堂の前で夜を明かして話し込んだりしました。

  二人で早稲田界隈を歩いているときに探検部の一つ下の後輩、秋山に出会いましたが、

  「美人を見つけましたね」

  などとも言われ、舞い上がるような気分でした。

  年下でしたが、私のことを「上ドン」と呼んでいて、あまりいい気分になりませんでしたが、美人だったので我慢していました。

  電話をするときはなるべく、どもらないよう、言葉を選び、小さな声で話していました。

  7月になると、彼女に

  「東京は人がたくさんいて疲れる。海が見たい」

  と言われ、一緒に北鎌倉から鎌倉までハイキングし、材木座海岸に出て砂浜で、ぼけっと二人で海を見ていました。

  その日の帰りに、彼女の家でご飯をごご馳走してもらいました。ドイツ料理のザワークラフトでしたが、あまりおいしくなく、天は二物を与えずなどとも思いました。

  又、食事をとってから、彼女がテレビをつけ、ちょうど日曜日で、「裸の大将放浪記」が放映されていたのも印象に残っています。

  「裸の大将」は芦屋雁之助が吃音の役で出てくるので嫌な気持ちになり、ドラマの途中で帰りました。

  女性と二人でデートするのも初めてで、女性の部屋に入るのも初めてで、女性にご飯を作ってもらって、ご馳走してもらうのも初めてで、白血病で亡くなった友人が天国から願いを叶えてくれたのかななどと思い、チャンス到来とも思い、とにかく、焦るなと自分に言い聞かせていました。

  しかし、翌日、バイト先の人が彼女は

  「私は上原さんのことを特別に思っていないから、誤解しないでください」

  と伝えてくださいと言われたそうで、そのことを聞き落ち込みました。

  後からバイト先の人に聞くと、彼女も別に付き合っていた東大生の男性がいたようで、よく巨人戦などを一緒に観戦していたようです。

  結構な美人で私には高嶺の花だったんだなと思いました。

  又、鎌倉でデートしたときは材木座海岸の上の丘に、私が大学2年の時に一つ下の八尋という後輩が北海道にツーリングしに行く途中、東北で交通事故死し、彼の墓があり、そのことを思い出したりしていました。

  あまり、話をしなかったので嫌われたのかななどとも思いました。

  その後もしばらく、一緒にライブなどに行ったりして、友達みたいにしていましたが、私には以前のような恋愛感情は無く、半分、いやいや、半分、未練で彼女の相手をしていました。

  以上が、紫藤クリニックでのカウンセリングの際に心理士の先生に読んでいただいた書類です。

  この文書では、僕がアルバイトしていた喫茶店で知り合った女性と僕が生まれて初めてデートをしたことが書かれています。

  文書を読み返してみると、恥ずかしくも懐かしい思い出だったと思います。

  文書を読むと、僕がかなり本気になって、彼女に迫っていたことも分かりますが、彼女には僕とは別に東大生とも付き合っていて、東大生ともデートをしていたようです。

  彼女は本当に美人で、僕からしたら、本当に高嶺の花の女性で、僕と釣り合うような女性ではなかったようです。

  ただ、僕にとっては今となっては本当に懐かしい思い出で、大隈講堂の前で夜を明かして、語り合ったこととか、鎌倉でハイキングデートをしたことや、材木座海岸(由比ヶ浜?)で海を一緒に見たことなど僕も今でも覚えています。

  良い思い出が出来て良かったと今では思っています。

   以上、「紫藤クリニック カウンセリング 16 生まれて初めてのデート」

  ブログに載せます。

 

 

 

 

 

 

 

2023年2月4日土曜日

「紫藤クリニック カウンセリング 15バイト仲間の白血病の人間の死(5月)」

 「紫藤クリニック カウンセリング 15 バイト仲間の白血病の人間の死(5月)」

  昨年、自分の部屋の大掃除をしていたら、僕が統合失調症と診断されてから、僕が通院し始めた紫藤クリニックでのカウンセリングの際の書類が見つかりました。

  僕が31歳の頃に書いていた文書です。

  書類には紫藤クリニックでのカウンセリングの際に、女性の心理士の先生にカウンセリングの際の参考になるように僕が書いた書類がありました。

  僕の書いた書類を女性の心理士の先生に読んでいただき、カウンセリングを受けたようです。

  かなり、恥ずかしいことも書かれていますが、心の病気の診療に参考になると思うのでブログに載せていきたいと思います。

  紫藤クリ二ックでのカウンセリングの際書類、その14、書類のタイトルは「大学4年(22才~23才)(サークル・バイト編)4」というタイトルでした。


 以下のようなことが書かれていました。

『バイト仲間の白血病の人間の死(5月)』

 連休が終わり、神津島から帰京すると、512日に大学2年から同じ早稲田のCoffee Spot REYという喫茶店でバイトをしていた白血病の友達、室越正明君が亡くなりました。

 室越君は中学の同期生で、偶然、同じ喫茶店でバイトをしていて白血病のことはバイト先の人から聞いていて、余命いくばくもないないことは知っていました。

 外出許可が出ていた頃は、私から見ると元気そうで、一緒にバイトをし、彼の車で自宅まで送ってもらったり、一緒に映画を見たり、うちで裏ビデオを見たりしていました。

  又、私が外国に行った時には、よく絵はがきを出していました。

  医者からは禁煙と言われていたそうですが、一緒に煙草を吸っていました。

  私が大学3年の秋頃から、もうダメということで、完全な入院状態になり、入院していた大塚の癌研に何度もお見舞いに行くようになりました。

  末期にはよく手を握られ

  「上ドン(私のあだ名)死にたくないよ」

  などと言われ、私もどうして良いか分からず、仕方なく、探検部のバカ話をしたり、

 「ムロ(彼のあだ名)が中学の頃、一番運動神経が良かった」

  などと言って場を繕っていました。

  帰りたくも帰れず、つらかったです。

  新種の抗ガン剤を投与され、顔や体は薄黒く膨れ上がり、髪の毛は無く、医者に

  「先生、この薬、何なの?」

 などと聞いていて、いくら医療の進歩のためとはいえ、死ぬと分かっている人間に新種のどんな副作用があるか分かっていない薬を投与し、中学の時とは別人のようになった姿を見ると、何か別の治療法がないものかとも思いました。

  医者は患者をモルモットぐらいにしか見ていなんだなとも思いました。

  葬式に出席し、久しぶりに中学の頃の友達が大勢いて、なにか抑圧されるような感じでした。

  帰りに私の耳から膿の混じった血が出てきて、家に戻ってもしばらく止まりませんでした。

  お墓が白山にあるので、小日向の実家から近く、今年の2月下旬に私が幻覚妄想状態になったときにドイツから帰国してきて、うちに様子を見に来てくれたチベットに一緒に行った桜井と、一緒に墓参りに行き、又、3月下旬の幻覚妄想状態からの回復期には京大の大学院に行っている倉島(チベットに一緒に行った)が帰京し、彼と一緒に墓参りに行きました。

  彼らから墓参りに行こうと言われ、二人とも無言で、墓参りをしました。

 その時は、私もほんやりした感じであまり感情がわきませんでしたが、今から思うと二人とも何か私に伝えようとしたのかもしれませんでした。

  以上が、紫藤クリニックでのカウンセリングの際に心理士の先生に読んでいただいた書類です。

  この文書では、僕が学生時代に早稲田界隈の喫茶店で一緒にアルバイトしていた、僕の茗台中学校時代の同期生、室越正明君が白血病で亡くなったことが書かれています。

  室越正明君は、あだ名は、「ムロ」で喫茶店で一緒にアルバイトしているときも「ムロ」と呼んで、一緒に仕事をしていました。

  室越君は中学時代はバレーボール部で、運動神経が良くて、目立っていた人でした。

  僕が学生時代に、ムロは白血病になっってしまい、病気でも、喫茶店でアルバイトしていましたが、余命いくばくもないことは、僕は知っていて、辛かったです。

  僕が探検部の活動で、海外に行ったときは、喫茶店に絵はがきを書いていました。

  早稲田大学探検部でチベットに行ったときも、チベットの様子を撮影したスライドの上映会を喫茶店で行ったりして、ムロにも見せました。

  僕も当時はまだ若く、精神的に強かったので、ムロのことを思う気持ちも持てて、サービス精神旺盛に、ムロに探検部の活動での写真を見せたりしていました。

  本当に辛かったですが、一緒にバイトをしていて、中学時代の同期生だったので、ムロのことを考えていました。

  何度も何度も大塚にある癌研にお見舞いに行きました。

  今から思い出しても、辛かったと思います。

  この文書を読み返して、ムロのことを急に思い出したので、文京区白山の是照院というお寺にムロのお墓があるので機会があればお墓参りに行こうと思っています。

  以上、「紫藤クリニック カウンセリング 15バイト仲間の白血病の人間の死(5月)」

  ブログに載せます。

 

 

 

2023年2月3日金曜日

「紫藤クリニック カウンセリング 14 探検部4年春」

 「紫藤クリニック カウンセリング 14  探検部4年春」

  昨年、自分の部屋の大掃除をしていたら、僕が統合失調症と診断されてから、僕が通院し始めた紫藤クリニックでのカウンセリングの際の書類が見つかりました。

  僕が31歳の頃に書いていた文書です。

  書類には紫藤クリニックでのカウンセリングの際に、女性の心理士の先生にカウンセリングの際の参考になるように僕が書いた書類がありました。

  僕の書いた書類を女性の心理士の先生に読んでいただき、カウンセリングを受けたようです。

  かなり、恥ずかしいことも書かれていますが、心の病気の診療に参考になると思うのでブログに載せていきたいと思います。

  紫藤クリ二ックでのカウンセリングの際書類、その13、書類のタイトルは「大学4年(22才~23才)(サークル・バイト編)3」というタイトルでした。

  以下のようなことが書かれていました。

  『探検部4年春』

  大学4年になると、本来なら探検部は終了することになるのですが、探検部に対する愛着もあり、たまに部室に顔を出したり、新歓コンパに長老面して出席したりしていました。

  大学4年の4月中旬ぐらいに、1年の時に個人行が原因で部をやめさせられた平という人間が探検部をもう一度やり直したいと悩んだような表情で部室を訪れ、私もそこに居合わせ、久しぶりで懐かしく、一緒に食事をしに行き、相談に乗り、彼に再入部を勧め、再入部を許可してもらうよう部に働きかけました。

  食事に同席していた、同期の元幹事長、森山や、副幹事長、高橋はブランクがあり危険だということで再入部に反対しましたが、代が変わっていて、当時の幹事長、森田には結構、発言力が強かったようで、上原先輩の言うことなら仕方ないということで、1年の新入部員という形で再入部を許可してもらいました。

  本来なら、大学3年の2月で探検部員としての籍はなくなり、私も追い出しコンパで送別品をもらいましたが、私が再入部を部に働きかけた手前、再入部を許可してもらった平が探検部に溶け込めるか見届けようと、4月から5月の連休中に神津島で行われる新歓合宿に急遽、参加することになりました。

  半分、面倒くさかったですが、半分、懐かしさもあって参加しました。

  新歓合宿ではオリエンテーリングをするのですが、パーティーは幹事が決め、私は一度、就職し早稲田の文学部に入り直した24歳の野崎さんという女性の新入生と同期のやはり、留年の決まっていた森山と3人でオリエンテーリングをすることになりました。

  後輩たちからは、「シルバーチーム」などと言われ、からかわれ、自分の探検部の活動も終わったんだなと少し寂しく思うと同時に、何か肩の荷が下りたようで、ホッとしました。

  野崎さんは新歓コンパの時、服装もきちんとしており、しっかりしていて、今風の感じの女性で、私が探検部で何をしたいのかと聞くと、「ジプシーになりたいんです」などと答えたり、私の顔を見て、「ムツゴロウさんみたい」などと言っていて、内心、なめられているなとは思いましたが、私は女性が苦手で、男子の新入生に対するように出来ず、どうせ途中で部をやめるだろうと思いながら、真面目に彼女の話を聞いていませんでした。

  オリエンテーリングの時は、野崎さんは小柄で細身であまり体力がなく、食欲がなくなったりしましたが、笑い話をしたりして、食事をとらせ3日間のオリエンテーリングを終了しました。

  私は、再入部を許可してもらった平のことが気になっていましたが、オリエンテーリングも無難にこなし、これで平も又、探検部に溶け込んでうまくやっていけるだろうと思い、私の役目も終わったと思い、ホッとしました。

  又、探検部最後の活動で、天気も良く、けが人も出ずにいい合宿でした。

  以上が、紫藤クリニックでのカウンセリングの際に心理士の先生に読んでいただいた書類です。

  この文書を読んでいると、探検部1年生の時に探検部をやめた、平という人間が、僕が大学4年の時に、部に顔を出し、探検部に再入部したいと言ってきたことが書かれています。

  後に青森県と秋田県の県境の白神山地での個人行で遭難死する平泰則君が探検部をもう一度やり直したいと探検部に来たことが書かれています。

  僕と、森山と高橋宏治と食事に行き、相談に乗ったことが書かれています。

  僕の当時の探検部に対する認識が甘く、僕は平君の再入部を勧めてしまったことが書かれています。

  一緒に食事をした森山と高橋宏治はブランクがあり、危険だと言っていたことも書かれています。

  この文書を読むと僕の探検部に対する認識の甘さが分かり、本当に当時は悪いことをしてしまったと今でも僕は自分の心にトラウマを抱えています。

  何か事故があってからでは手遅れで、探検部に対して軽々しく発言してはいけないことが分かります。

  僕も平君のことがあってから、自分の探検部に対する認識の甘さを認め、本当に心から反省しています。

  人の命に関わる活動をする早稲田大学探検部に対して、慎重に接して、取り返しのつかない事故が起きないように細心の注意を払っていかないといけないと思っています。

  何かパソコンのワープロソフトで入力しているだけでは、何も反省していないようにも思われるかもしれませんが、本当に心から反省して、平君、平君の親御さん、探検部に悪いことをしてしまったと申し訳ない気持ちでいっぱいです。

  本当に申し訳ありませんでした。

  以上、「紫藤クリニック カウンセリング 14 探検部4年春」

  ブログに載せます。

 

 

 

 

2023年2月2日木曜日

「紫藤クリニック カウンセリング 13 安い名画座」

 「紫藤クリニック カウンセリング 13 安い名画座」

  昨年、自分の部屋の大掃除をしていたら、僕が統合失調症と診断されてから、僕が通院し始めた紫藤クリニックでのカウンセリングの際の書類が見つかりました。

  僕が31歳の頃に書いていた文書です。

  書類には紫藤クリニックでのカウンセリングの際に、女性の心理士の先生にカウンセリングの際の参考になるように僕が書いた書類がありました。

  僕の書いた書類を女性の心理士の先生に読んでいただき、カウンセリングを受けたようです。

  かなり、恥ずかしいことも書かれていますが、心の病気の診療に参考になると思うのでブログに載せていきたいと思います。

  紫藤クリ二ックでのカウンセリングの際書類、その13、書類のタイトルは「大学4年(22才~23才)(サークル・バイト編)2」というタイトルでした。

 以下のようなことが書かれていました。

『安い名画座』

  大学3年の秋ぐらいから気分転換によく一人で今はなき文芸座や並木座などの安い名画座に行き、3本立てくらいの古い日本映画を見ていました。

  それまではビデオでいろいろな映画を見ていましたが、探検部の活動も終わり、この頃から安い名画座で、日本の古い映画を見始めました。

  黒澤、小津、成瀬、など日本映画黄金時代の映画でしたが、お客さんもあまりいなくて、のんびりでき、白黒の作品が多く目も疲れず、いい休息の場所でした。

  映画はその当時の日本映画やハリウッド系の映画よりはるかに面白く、リアリティがあり、なぜ、みんな、こんな面白い映画を見ないのかなどとも思い、又、自分だけこんな映画を見れて得したような気になりました。

   昔の俳優は三船敏郎などはスクリーンから出てくるような存在感があり、顔つきも私たちの世代の人間とは違い骨太で迫力があり、その他の俳優もそれぞれ個性的で、又、昔の日本の女優は顔つきも喋り方も穏やかでいいなあと思ったりしながら見ていました。

  大学4年になると、早稲田のACTという名画座の1年会員になり、映画創世記からの世界各国の名画や日本の名画を数多く見ました。

   名画と言っても、いろいろで何を表現したいのか分からない映画から、愚作じゃないかと思えるような映画までたくさんあり、寝ることも多くありましたが、一通り、現在に至る映画の歴史が分かったような気がして、1年間会員になり、良かったと思いました。

  ACTで大島渚や増村保造などの松竹ヌーベルバーグなどと言われる当時の前衛的な映画もかなり見ましたが、それまで見ていた古い日本映画に比べると抽象的で俳優の存在感もなく、あまり面白いとは思いませんでした。

  その他、いろいろと映画館に行き、古い日本映画や外国の映画を見て、映画も本と一緒

で芸術作品と言われるものから娯楽作品と言われるものまであり、大して変わらないと思いましたが、テレビのビデオで見るより、映画館のスクリーンで見た方が精神的にいいと思いました。

当時のアメリカやヨーロッパの映画よりも中国などアジアの映画の方がリアリティがあって面白いと思いました。

以上が、紫藤クリニックでのカウンセリングの際に心理士の先生に読んでいただいた書類です。

この文書を読んでみると、僕が学生時代に安い名画座に通っていたことが書かれています。

僕にとっては、白黒の古い日本映画を観るのは至福の時で、今から思い出しても、本当に楽しい時間だったと思います。

今では、ネットで、パソコンとかスマホで、本当にくだらない動画を見ていることを考えると、僕が学生の頃は、本格的な白黒の古い日本映画を観られて、幸せだったと思います。

僕らが学生だった頃は良かったなと思わせる文書だと思います。

以上、「紫藤クリニック カウンセリング 13 安い名画座」

ブログに載せます。

 

 

 

 

 

2023年2月1日水曜日

「紫藤クリニック カウンセリング 12 同伴喫茶でバイトを始める・風俗カメラマンの助手」

 「紫藤クリニック カウンセリング 12 同伴喫茶でバイトを始める・風俗カメラマンの助手

  昨年、自分の部屋の大掃除をしていたら、僕が統合失調症と診断されてから、僕が通院し始めた紫藤クリニックでのカウンセリングの際の書類が見つかりました。

  僕が31歳の頃に書いていた文書です。

  書類には紫藤クリニックでのカウンセリングの際に、女性の心理士の先生にカウンセリングの際の参考になるように僕が書いた書類がありました。

  僕の書いた書類を女性の心理士の先生に読んでいただき、カウンセリングを受けたようです。

  かなり、恥ずかしいことも書かれていますが、心の病気の診療に参考になると思うのでブログに載せていきたいと思います。

  紫藤クリ二ックでのカウンセリングの際書類、その12、書類のタイトルは「大学4年(22才~23才)(サークル・バイト編)1」というタイトルでした。

 以下のようなことが書かれていました。

 『同伴喫茶でバイトを始める』

 大学3年の秋合宿で探検部の活動は終了し、これから先に何とか5年で大学を卒業することが出来るようになろうと思っていました。

 又、それまで女性ときちんと交際したことがなく、まだ童貞でしたので、なんとかいい女性を見つけて性交出来るような関係にまでなれるようになろうと思っていました。

 まだ、学生気分で就職のことや将来のことはあまり真剣に考えていませんでした。

 同伴喫茶でバイトを始める

 大学3年の冬くらいから、上野の「城」という同伴喫茶でバイトをするようになりました。

 探検部の一つ上の先輩の戸部さんがそこでバイトをしていて、就職が決まり、卒業するとのことで、私がその後輩ということでバイトをすることになりました。

 同伴喫茶ということで何か怪しげな感じがし、最初は変な仕事だなと思いましたが、仕事が楽だったので結局、大学5年の11月まで探検部の後輩に譲るまで続け、主な収入源になりました。

 仕事は2人でやり、中でコーヒーを入れたり水割りを作ったりする仕事と、外で飲み物など運ぶウェイターをする仕事でした。

 社長に自己紹介した時に、こんな店を経営している人だから悪人かとも思いましたが、話を聞くと在日の韓国人の人で、若い頃はボクサーだったそうで、店番は私たちに完全に任せてくれて、自分はパチンコしていて勝つと今川焼きなどを買ってきてくれていい人でした。

 コーヒーの注文6杯分に1杯を伝票をごまかして、ネコババするのがバイトの常識になっていて、基本給は5千円でしたが、コーヒー1拝千円でしたので、大体、日給8千円~1万円といったところでした。

 犯罪行為でしたが、それほど精神的負担になりませんでした。

 よく一緒に仕事をしていた人がプロのカメラマンの鈴木さんという人で、何か学べるかなとも思い、こちらから積極的に話しかけ、最初は話をするのが面倒くさそうでしたが、だんだん気に入られ、芸術の話や、写真の話などを熱心に話してくれました。

 私も良く本を読んでいたので、写真と文章は表現としてどう違うのですかなどと聞いていました。

 鈴木さんに言わせると写真とは現実を認識するものだそうです。

 当時、30才くらいでちょうど勝負時の時期で鈴木さんからも、若い頃撮った浮浪者の写真などを見せられ、どう思うかなどと聞かれていました。

 8✕10(エイトバイテン)という大型カメラでモノクロの人物のポートレートを撮っている人で、安アパートに住んで頑張っている人で、私が大学5年の時に東北沢のアパートに連れて行ってもらい、私のポートレートを撮ってもらいました。

 出来上がった写真を見ると、

「おまえ文豪みたいだな」

と言われ、作家になる気はありませんでしたが、そんなことは初めて言われたので嬉しく思いました。

又、仕事に関しては厳しく、どんな仕事でも気持ちを込めてやれと言われ、普段やらない階段の拭き掃除などをよくやらされていました。

同伴喫茶の店内は薄暗く、店の中には客の体臭と精液と愛液の混じったような臭いが立ち込め、又、ウェイターの仕事をするときは客が性交していところや、愛撫しているところを見たりするので、まだ、綺麗な若い女性なら良いのですが、年輩の客が多く、中にはおかまもいて気持ち悪かったでした。

又、店で出会った他人同士がスワッピングなどをしているので、見ず知らずの人同士で相手の性器を舐め合ったり、キスしたりよく出来るなと思いました。

又、70ぐらいの夫婦の客が来て、必死に性交している姿を見て、何か感動しました。

(うちの親もまだ、こんなことやってんのかとも思いました)

基本的に客はそれほど来ず、本を読んだり、話をしたり出来るので、精神衛生上は悪かったかも知れませんでしたが、良くも悪くも面白く、今まで経験した仕事の中では一番楽な仕事でした。

出勤前、「今日も仕事か、やだな」と思わない唯一の仕事でした。

 

●風俗カメラマンの助手

大学3年の頃、赤羽のテレクラでバイトしていて、そこの経営に参画していた風俗カメラマンの富田さんに、「ウー君」と呼ばれ、

「そんなに口の周りにニキビがあったんじゃ女の子がキスする気にならないじゃないか」

と言われ落ち込みました。

富田さんは鈴木さんと同じ写真学校の同期生だそうで、以前は同伴喫茶でもバイトしていたそうです。

大学4年になると、よく富田さんの取材の助手をして、変わった料理店の取材や、風俗店の取材にカメラマンの助手としてバイトしていました。

一度、鶯谷のニューハーフクラブの取材に同行し、パイプカット(ペニスを切断すること)した男性?たちに会い、顔つきも体つきもどうみても女性のようで、変な世界もあるものだなと思い、印象に残っています。

以上が、紫藤クリニックでのカウンセリングの際に女性の心理士の先生に読んでいただいた書類です。

この文書では、探検部の活動が一段落してから、上野の同伴喫茶でアルバイトをしたことや、風俗カメラマンの助手をしたことが書かれています。

上野の同伴喫茶、城のアルバイトは、早稲田大学探検部32OBの戸部大に誘われ、アルバイトを始めたものです。

僕が探検部の後輩に今でも追及されるのもこの上野の同伴喫茶でアルバイトをしていたことが、後輩に追及されます。

探検部の後輩は悪いところ探しの後輩が多いので、この上野の同伴喫茶でアルバイトしていたことが追及されるのだと思います。

その他にも風俗カメラマンの助手をしたことも書かれています。

このように僕らの頃の早稲田大学探検部は、清廉潔白な探検部ではなく、いかがわしいこともしていたようです。

早稲田大学探検部で犯罪行為をするアルバイトが黙認され、先輩から後輩に受け継がれ、早稲田大学探検部の活動資金になっていたようです。

今から考えると、早稲田大学探検部の連中は、何か、社会を小馬鹿にして、自分たちは、他の人間とは違うんだと思い込み、社会のルールである法律さえ守らない行為さえ行っていたようです。

間違った選民意識が早稲田大学探検部にはあり、自分勝手な行いが横行していたようです。

早稲田大学探検部内でも、先輩、後輩の間違った行いを正そうとする人間はおらずに、金欠、金欠と言って、法律に反する行為をしていたようです。

こんな犯罪行為を行う、同伴喫茶で働いていたカメラマンが、早稲田大学探検部の活動である、コンゴ隊に参加し、探検部に影響を及ぼしていたと思うと、ゾッとします。

早稲田大学探検部でもいかがわしいことも行われていたので、悪いところ探しの探検部の後輩から今でもいろいろと追及されるのだと思います。

本当に僕らの頃の探検部は、間違った選民意識を持った部員が多くて、自分たちの行いを正当化していたので、今から思い返すと、本当に怖い探検部だったと思います。

以上、「紫藤クリニック カウンセリング 12 同伴喫茶でバイトを始める・風俗カメラマンの助手」

ブログに載せます。