2022年4月30日土曜日

「4月は1日平均7631歩歩いていたようだ」

 「4月は1日平均7631歩歩いていたようだ」

   スマホの万歩計を確認していたら、僕は、4月は1日平均、7631歩歩いていたようです。

   僕は1日8千歩歩くことを目標に歩いているので、目標は達成出来ませんでした。

   以前は1日平均9千歩以上歩いていましたが、少し歩く歩数が減ってしまっているようです。

  長期間のコロナ禍で慢性的な運動不足で、体調が悪いので、少しずつでも歩く歩数を増やしていきたいと思っています。

  こらからも少しずつ、歩く歩数を増やしていこうと思っています。

  出来れば11万歩を目標にしていきたいと思っています。

  毎月、毎月、 同じようなことを書いていますが、41日平均7631歩歩いていたようなのでブログを書いておきます。

    以上、「4月は1日平均7631歩歩いていたようだ」

   ブログに載せます。

2022年4月28日木曜日

「船戸与一さんを悼む」読売新聞 西木正明

 「船戸与一さんを悼む」読売新聞 西木正明

  2015423日に、早稲田大学探検部OB会より僕のメールアドレスに届いたメールに添付されていた読売新聞2015423日朝刊の記事ブログに載せます。

  早稲田大学探検部7OBで直木賞作家の西木正明さんの書かれた船戸与一さんを追悼する文章です。

  記事は以下のような記事です。

  「船戸与一さんを悼む」読売新聞 西木正明

  422日朝、同業者にして大学部活の仲間でもある船戸与一の訃報に接して、思わず「またかよ!」といそうになり、慌てて言葉を呑み込んだ。常識的には不謹慎極まりない応であることに気づいたからだった。しかし、同じような状況のもとで彼の訃報を告げられたら、また同じ反応をしてしまいそうだ。

 早大探検部なる、世の親御さんにとっては出来たら忌避させたい部活で出会い、二人だけでアラスカで越冬したこともある。出会いから早半世紀。その間年齢で四歳、学年では一年次上のわたしは、世間的意味合いにおいてはずっと先輩だった。

 だが実態は逆で船戸とわたしの関係は。終始下剋上的だったと言っていい。冒頭の「またかよ!」もその典型である。もうずいぶんと前、船戸の御尊父が亡くなられた時のこと。金融界の責任のある立場であった船戸の御尊父は、私ども仲間としても尊敬すべき存在であった。

 そこでせめて気持ちだけでもと、仲間内でわずかな香典を集めて船戸に託した。しかるにその貧者の一灯に対して、葉書一枚の反応もなかったのである。これはおかしいということになり、ある時安酒場で、仲間のひとりがさりげなく聞いた。

 「大変だっただろうが、落ちついたか?」

 船戸がうなずいて、

 「ああ、おかげさまで。頂いた志はまちがいなく仏前に報告しておいた」

 このひと言で、皆がぴんときた。

 「さてはお前」

 反応がないのは当然で、船戸はその香典袋をたずさえてゴールデン街あたりを徘徊し、ご尊父を偲んで一人暮らし弔い酒を飲んだというのが落ちだった。

 そこで冒頭の「またかよ」だが、およそ5年ぐらい前、突然船戸から封書が届いた。ふだん盆暮の挨拶も省略するような相手からの封書である。なにごとと思いつつ開封して、さっと目を通して仰天した。

 この度自分は医師によって肺がんを宣告され、余命は長くて半年と宣告された云々。

 驚きつつ電話をかけると、存外元気そうに淡々と自分の病状を話すのを聞いて、なんとなく安心した。結果的に彼は医師の宣告よりずっと長い年月を生き続け、全9巻におよぶ大作『満州国演義』(新潮社)を完成させた。

 この間の彼の病状と心情を思う時、その凄まじい精神力には、文句なしに脱帽せざるを得ない。ゆえにいまさら、船戸与一の訃報などに接しても実感がなく、「またかよ!」のひと言しか出てこないのだ。

  (作家)

 

以上、「船戸与一さんを悼む」読売新聞 西木正明

 

 ブログに載せます。

 

 

 

 

「船戸与一さんを悼む」西木正明

 「船戸与一さんを悼む」西木正明

  2015426日に、早稲田大学探検部OB会より僕のメールアドレスに届いたメールに添付されていた東京新聞2015424日夕刊の記事ブログに載せます。

  早稲田大学探検部7OBで直木賞作家の西木正明さんの書かれた船戸与一さんを追悼する文章です。

  記事は以下のような記事です。

 「船戸与一さんを悼む」西木正明

  かれこれ半世紀前、早大探検部の一員だった船戸与一とわたしは、アメリカ大陸の西端、ベーリング海峡に面したエスキモー村ウェールズの、波打ち際から百メートル足らずの所に建っているちっぽけな小屋で冬を過ごした。海峡は北極海から太平洋へと通ずる水の回廊であると同時に、風の回廊でもあった。冬場の気温は、時にマイナス50度以下になった。

 ここでの暮らしは文字通りのサバイバルだった。とりわけ大変だったのは排泄物の始末。

 エスキモーをはじめとする北方少数民族は基本的に固定トイレを持たない。夏場はともかく、冬は凍りついて汲み取り不可能になるからだ。わたしたちも地元の流儀に従い、部屋の片隅に置いた石油缶を、おまる代わりにして用を足した。

 満タンになると、指定された場所に捨てに行くのだが、これがなかなか大変だった。ウェールズの場合、冬場は岸辺から百メートルほど沖合の海上が捨て場で、凍結して滑りやすい海氷上を、重い石油缶をぶら下げて歩く。晴天でも風の強い日は、一つ間違うと横転して飛沫をかぶることになる。ましてブリザードが吹き荒れる荒天下ではおおごとだった。

 たったふたりで日課の気象観測と沖合の海氷調査を行いながら、こうした日常の雑事もこなした。文字通り鼻面突き合わせての日々だったのに、まったく揉めなかったのは、生来おおらかだった船戸と、鈍感の権化のようなわたしという組み合わせだったからだと思う。

 前年から二冬連続の越冬だったわたしは、酷寒が少し緩んだ三月はじめ、交代要員と入れ替わりに、一足早く帰国することになった。

 凍結した海氷を滑走路代わりにして到着したブッシュプレーン(郵便飛行)に乗り込む時、わたしは船戸に尋ねた

 このやりとりですべて通じた。ノームはウェールズからおよそ百五十キロほど東の人里で、十九世紀末のゴールドラッシュ時は人口が二万人を越えた。スーパーでナニを購入し、翌日朝のブッシュプレーンに託すつもりで、船戸宛に電報を打った。

 当時アラスカ北極圏の電報は独特の方法で配信された。毎日夕方六時半から十五分ほどかけて、地元ラジオ局の「ターミガン(雷鳥)テレグラム」なる番組が、その日託された電文を、およそ北海道ほどの広さの地域全域に向かって読み上げたのだ。

 ここから先は後日、日本に帰国した船戸から聞いた話。会うなりあの温厚な船戸が舌鋒鋭く詰問した。

「ターミガンテレグラムでマサさんがグッドスタッフ(いいもの)を送ったなどと流したものだから、沖合に飛行機が着く度に酒飲みの親父どもが押しかけてきて、ケンジ、俺にも飲ませろと攻めたてる。しかも肝心のナニはついに着かずじまいだった。ひどいよ」

 当時エスキモー村は、酒類持ち込み禁止の所が多かった。そこに「グッドスタッフを送った」という放送が流されたのだから大変だったと思う。ナニ未着の理由は買ったわたしが全部飲んでしまったから。ちなみにマサはわたしの愛称で、ケンジは船戸の本名のファーストネーム。

 船戸は物事にこだわらない恬淡とした性格だったが、この一件についてはとても執念深く、

 物書きとしての船戸与一は見事な生きざまを全うした。最後の五年余りは病魔との壮絶な戦いの最中、全九巻にも及ぶ大作『満州国演義』(新潮社)を書き上げた。わたしも遠からずそっちへ行くから、またナニを飲もうぜ。合掌。

 (にしき・まさあき=作家)

作家船戸与一さんは22日、胸腺がんのため71歳で死去。

 

早稲田大学探検部創設経緯

 「早稲田大学探検部創設経緯」


 2010年2月22日に早稲田大学探検部OB会から届いたメールに故惠谷治さんの書かれた「早稲田大学探検部創設経緯」が添付されていました。

 以下のようなものでした。


 「早稲田大学探検部創設経緯」


                            2010221日第3稿

                            2010212日第2稿

                            201029日第1稿

資料と証言で再現する探検部OB会の創設から現在まで

(「資料でみるOB会の創設経緯と不明点」を改題)

                                   惠谷 治

 

 早大探検部(探検研究会)出身のOBOGたちが、大学を出た後に創設した最初のOB組織は、残存する以下の資料から、発足した「探友会」だったことが明らかである。

「翌日〔1965518日〕、早稲田戸塚町の珈琲店『ナポリ』において理事の職務を決め、探友会発足2年目を迎えて、ますます活動の充実をはかることを確認した次第である」(探友会旬報『アポロ1号』ガリ版刷り。発行年月は記載されていないが1965年であることは明らかで、文面から6月頃発行と推定される)

 発足時期は明示されていないが、昭和391964)年4月だったことは、ほぼ間違いないだろう。

  探友会は発足2年目に、ガリ版刷りの会報『アポロ』を発行するようになったと思われるが、10日毎の発行(旬報)という非現実的な計画だったためか、現在のところ『アポロ1号』しか、現物は確認されていない。

 『アポロ1号』の冒頭には、次のような記述がある。

「昭和40年度第1回探友会総会は、517日、母校大隈会館で開かれた。和田理事長から、39年度の活動報告、神村理事から会計報告等が行われた後、39年度理事会を解散した(ここでビール乾杯)。ひき続き、40年度新理事を投票によって選出した」

 総会で選出された新役員は以下の通りである。

  理事長 和田匡弘、副理事長 神村敏夫(会計)、岩崎雅典

  理事 西野佳秀(企画)、川瀬浩邦(渉外)、占部圀弘(書記)、塚田紀昭(会報)

     竹内 謙(庶務)、並木瑛一郎(庶務)

  監査 梶川道夫、市川公一

  以上の記述から、探検部のOB組織は、19644月に探友会として発足し、和田匡弘氏(山の会1期)が初代理事長となり、翌年度も再選された、ということになる。

  探友会に関する資料は、今のところ『アポロ1号』以外には見つからず、OB組織に関する次の情報は、4年の空白をおいて、以下のような書面のなかに登場する。

「拝啓

 OB会員の皆様には、益々御清栄のことと御慶び申し上げます。先にお知らせした『探検部OB会総会』は去る927日、虎ノ門葵会館で盛大に行われました。出席者は、鳥取、長野、新潟、札幌の遠方から駆けつけてくれた山枡(旧姓田中)、塚田、小坂、渡辺の4会員を含め49名を数えました。

 しかし、この数年のOB会の沈滞を反映してか、会長選出(神原前会長のボルネオ転勤以来空席となっていた)に先だって、OB会のあり方に関して議論が紛糾し、混乱状態のまま各期互選の代表幹事会に一任することで解散となりました。

 その後、1028日、第1回幹事会が新宿イノヤマに於いて行われ、次の事項を討議決定致しました。

1)      会長選出及びOB会の組織について、まず会長候補を選出し、幹事会において十分な討議を重ねた上、新組織を発足させる。

2)      会員名簿作成の件及び新役員・総会の通知について。

3)      富士川事故対策費援助の件(別紙)

出席者 1期 石原、2期 田辺、3期 岩崎、4期 佐藤(和)、5期 原田、6期 竹内、

    7期 中井、8期 伊藤

 以上、報告します。

敬具

 1127日               早稲田大学探検部OB

OB各位」

  手書きの青焼きコピーの通知文には年度が書かれていないが、富士川事故があった1969年であることは明らかである。文面から判明することは、「探友会」という名称は登場せず、すでに現在の「探検部OB会」となっていることから、1965年から1969年の間に探友会は探検部OB会に改編していることになる。

  また、探検部OB会は「1969年までの数年間沈滞」という表現は、探検部OB会が設立したのは前年の1968年ではなく、1967年以前だったことを示している。1968年であれば、「昨年来」といった表現になるからである。

  そして、「数年間沈滞」する前の探検部OB会長は神原達氏(アジア学会出身1期)だったと書かれているが、神原氏がボルネオ島に転勤以降、会長は選出されないまま、196911月時点で会長職は空席になっていたことが文面から確認できる。

  神原氏が寄せてくれた手記(2010212日付メール)では、1965年から69年当時の職歴が次のように書かれている。

19653月に、私は3年のネパール滞在を終えて帰国しました。ネパールでの研究を1年かけて『ネパールの歴史と社会』という題名でまとめ、外務省に報告を提出しました。これは、幸いに外務省が認めるところとなり、『外務省調査月報』に3回にわたり発表されました。

 その後、わたくしは何らかネパール関係の仕事をしたいと思っていたのですが、何もなく、結局、石油関係の職につきました。これは、わたくしが尊敬していた叔父の推薦によるものです。『石油資源開発』という通産省系の会社に、196612月に途中入社したのです。石油資源開発(株)では、海外本部契約課というところで、石油産業のいろはから勉強しました。幸い私の隣の席に、早稲田大學文学部出身のさる先輩がいられ、親身に教えていただいたのです。

 石油資源開発に入社した私は、石油関連の勉強をすると、まずは現場を経験してこいと言われ、1967年の4月にインドネシア、東カリマンタン州に新設された同社の東カリマンタン鉱業所に転勤となりました。鉱業所といっても何もなく、国営の石油会社であるプルタミナ社の事務所、住居を間借りしていた先遣隊4名の1人でした。そこから帰任したのは、1968年の夏でしたが、その後、子会社のインドネシア石油(株)で働き、そして19694月に石油開発公団(のちの石油公団)に移籍となったのです」

  1965年に探友会理事長に和田氏が再選されているが、『アポロ1号』から推測すると、その任期は19663月までと考えられる。神原氏がボルネオ転勤になったのは19674月であり、転勤以前に探検部OB会長であったことを考えれば、和田氏からの引き継いで神原氏が会長になったのは、19664月だったと考えるのが自然である。

  神原氏は探検部OB会長だったことに関し、手記で次のように書いている。

「探検部OB会会長として何をしたかの記憶は、ほとんどありません。期間は19664月から1年間でしょう。19674月には私はボルネオ島に行っています。1966年には私は報告書まとめで忙しく、また、同年12月からは石油関係で多忙であり、ほとんどお役にたたなかったと思われます」

  以上のことから、神原氏が会長になった19664月に、「探友会」は何らかの事情で「探検部OB会」に改編され、神原氏が探検部OB会の初代会長になったに違いない。しかし、1年後の19674月、神原氏がボルネオ転勤になった際、探検部OB会は適切な処置をとらず、「会長空席」のまま「数年の沈滞」、つまり2年間が経過し、富士川事故が起きた後の1969927日、虎ノ門の葵会館で49人が参加した探検部OB会総会を、久しぶりに開催した、ということになる。

  通知文にある「1028日の第1回幹事会」で討議決定した「会員名簿作成の件」については、翌1970年に「19706月現在」の初めての『早稲田大学探検部OB会名簿』が作成されている。この名簿を作成したのは、当時の探検部OB会事務局を担当していた伊藤幸司氏(11期)だった。

  通知文では、現在は11期とされている伊藤幸司氏は8期になっており、第1回幹事会に出席した石原寿一(雄弁会出身2期)は探検研究会創設メンバーだったため1期とされ、探検研究会として初の会員勧誘の際に2年生で入会した田辺三郎氏(5期)は2期、岩崎雅典氏(6期)は3期、佐藤和也氏(7期)は4期、原田建司氏(8期)は5期、竹内広弥氏(9期)は6期、中井実氏(10期)は7期と単純に3期ずつずれている。いずれにせよ、伊藤幸司氏の尽力によって、OB会の「期」が現在のように整理されたのだった。

  このOB名簿が発行されたことは、1970年度初頭(4月から6月の間)に、探検部OB会総会が開かれたと考えられ、この総会で初代の神原会長に次ぐ2代目会長に川瀬浩邦氏(6期)が選出されたことは疑いない。川瀬氏は、「会長に就任した時期については記憶にないが、富士川事故の時だったと思う」と証言している。

  探検部OB会は富士川事故(19696月)を契機に新たに結束し、1970年度の川瀬新体制になってから、『OB会名簿』OB 通信』を発行するなどして活性化したのだった。『OB 通信』は2号、4号、6号の3冊が現存している。

  川瀬会長の次の3代目会長は、鈴木正昭(西木正明)氏(7期)になったが、その当時の資料がなにもなく、鈴木氏の記憶にもなく、就任年は不明である。

  川瀬氏は1965年に双葉社に入社し、ノンフィクション・マガジンである月刊誌『世界の秘境』の編集者となったが、『世界の秘境』は88号からは月刊ではなく季刊となり、川瀬氏は1969年に季刊『世界の秘境』の編集長となっている。

  1972年に発行された早稲田大学探検部OB会名簿』の改訂版は、「19726月現在」となっているが、奥付によれば、この名簿を作成したのは「探検部OB会事務局、藤野孝博(13期)」となっている。藤野は1970年から1年間アメリカに遊学し、1972年に5年生で卒業した後、第二文学部に学士入学した。藤野はOB会名簿』を作成したことは覚えていないというが、「学士入学したのなら、時間があるだろう」と言われ、川瀬会長からOB 会報かOB 通信を作れ」と言われたことを記憶している。そんなある日、なんらかの事情で、午前中に川瀬会長に電話したら、寝ていたためか「お前、何時だと思っているんだ!!」と怒鳴られたことをよく覚えているという。この事実は、『OB会名簿』が発行された19726月に時点で、OB会長は川瀬氏だったことは疑いない。

  川瀬氏が編集長をしていた季刊『世界の秘境』は、19727月に100号で休刊となり、川瀬氏は『週刊大衆』編集部に異動となった。季刊から週刊になり多忙となったため、川瀬氏は19733月でOB会長を退任した可能性も考えられた。しかし、川瀬氏に再確認したところ、「会長は78年はやっていたと思います」という回答を得た。つまり、1977年前後に、OB会長は川瀬氏から鈴木氏になったというのが、現在のところの結論である。

  鈴木氏から4代目OB会長に梶川氏になった年度も不明だが、1987年に『早稲田大学探検部OB会名簿』が発行されており、その名簿(198712月現在)では、梶川氏の欄に「OB会長」と付記されている。また、私が198710月のOB会において、ベーリング計画を再提唱したときの会長は、梶川氏だったような記憶がある。従って、梶川氏がOB会長になったのは、1987年以前、つまり19864月以前であることは間違いない。19864月には、奥島先生が探検部部長に就任しており、その時点で誰がOB会長だったか明らかになれば、梶川氏の就任年はある程度推定可能になるかもしれない。

  梶川会長の期間に、偶数月の第2木曜日にサロン的なOB会の例会である「二木会」が開催されるようになった。

  梶川氏から5代目OB会長を岩崎雅典氏(6)が1998年に引き継いだ際に関しては。以下のような文書がある。

「早大探検部OBOG1998年度総会のお知らせ

 <略>今回は、長年にわたりOB会活動にご尽力いただきました梶川道夫氏(1期生)が諸般に事情により、会長を退かれることになりました。ついては、これを機に会長他の役員体制を本総会において一新する所存です。<略>

  1. 日時 63日(水)18302100

  2. 会場 大隈会館30号室   

 <略>

 なお、探検部長の島田征夫先生(法学部教授)は983月末でもって退任され、4月か宮口侗廸先生(教育学部教授)が部長に就任されました。」

  現在の6代目OB会の矢作和重氏(12期)が就任したのは、皆の記憶が新しい20074月である。

 早大探検部OB会の歩み

1959年 探検部初代部長に関根吉郎理工学部教授(19594月〜19863月)

1964年 探友会初代理事長に和田匡弘氏(19644月〜663月)

1966年 探友会が探検部OB会に改編、初代会長に神原達氏(19664月〜673月)

1969年 628日、富士川川下りで2年の松井久が遭難死

1970年 探検部OB2代目会長に川瀬浩邦氏(19704月〜1977年?)

1970年 早稲田大学探検部OB会名簿(19706月現在)発行

1972年 早稲田大学探検部OB会名簿(19726月現在)発行(事務局:藤野孝博)

1973年?探検部OB会ラグビーチーム「ゴルゴ」を結成

1977?探検部OB3代目会長に鈴木正昭氏(1977年?〜?)

1981年 早稲田大学探検部OB会名簿(19811月現在)発行(発行人:事務局)

1980年 西木正明が『オホーツク諜報船』で第7回日本ノンフィクション賞新人賞受賞

1985年 船戸与一が『山猫の夏』で第6回吉川英治文学新人賞を受賞

???  探検部OB4代目会長に梶川道夫氏(?〜19983月)

1986年 探検部2代目部長に奥島孝康法学部教授(19864月〜19943月)

1987年 早稲田大学探検部OB会名簿(198712月現在)発行

1987年 ペレストロイカの下でOB会と現役の合同でベーリング海峡横断を再計画

1988年 西木正明が『凍れる瞳』『端島の女』で第99回直木賞受賞

1990年 創部30周年記念『早稲田大学探検部30年史』(19904月)発行

1990年 早稲田大学探検部OB名簿(19904月現在)発行

1990年 白神山地沢登りで平泰則(33期)が個人単独活動中に滑落死(8月)

1992年 船戸与一が『砂のクロニクル』で第5回山本周五郎賞を受賞

1994年 探検部3代目部長に島田征夫法学部教授(19944月〜983月)

1994年 西木正明が『夢幻の山旅』で第14回新田次郎文学賞受賞

1994年 岩崎雅典が『サシバ』で第36回科学技術映像祭内閣総理大臣賞受賞

1996年 早稲田大学探検部OB会員名簿(19968月現在)発行

1997年 OB会が現役2人をベーリング海峡偵察に派遣(214日〜325日)

1997年 アマゾン河筏下り隊の伊東千秋と宮下尚大がぺルー軍兵士に殺害(1017日)

1998年 ぺルー事件に関し橋本首相の糾弾公告を『週刊ポスト』(26日号)に掲載

1998年 早稲田大学探検部アマゾン河筏下り隊合同慰霊祭(314日) 大隈小講堂

1998年 探検部4代目部長に宮口侗廸教育学部教授(19984月〜現在)

1998年 探検部OB5代目代会長岩崎雅典氏(19984月〜20073月)

1999年 創部40周年記念事業として企画コンペを実施

1999年 船戸与一の呼びかけで「北海道ラーメン探検行」(829日〜30日) 

2000年 船戸与一が『虹の谷の五月』で第123回直木賞受賞

2000年 西木正明が『夢顔さんによろしく』で第13回柴田錬三郎賞受賞

2000年 創部40周年記念事業の「探検部収集品展」を早稲田文化週間(5月)に開催

2002年 奥多摩(峰谷沢・長久保沢)で2年の佐々木鉄矢が滑落死(512日)

2003年 奥島前総長慰労会で鶏冠山(1716m)登山(125日〜26日)19名参加

2003年 知床・羅臼岳(1660m)登山(920日〜23日)

2004年 屋久島・宮之浦岳(1936m)登山(1030日〜111日)

2005年 台湾・玉山(3952m)登山(910日〜13日)

2006年 ボルネオ・キナバル山(4095m)登山(53日〜8日)

2006年 白神山地・白神岳(1235m)縦走登山(1027日〜29日)

2007年 探検部OB6代目代会長矢作和重氏(20074月〜現在)

2007年 岩崎前会長慰労会で入笠山(1716m)登山(929日〜30日) 

2007年 故・佐藤和也氏(7期)を偲ぶヒマラヤトレッキング(1117日〜25日)

2008年 創部50周年記念神津島新人歓迎合宿に参加(54日〜6日)

2008年 創部50周年記念知床岬探訪(919日〜23日)

2009年 創部50周年記念探検部映像史『夢を食らい続けて50年』を制作

2009年 創部50周年記念モンゴル行(919日〜27日) 31名参加

2009年 創部50周年記念『早大探検部物語』をSAPIO誌で連載開始(1014日号〜)

 早大探検部OB会の出版物・映像作品リスト

□探友会旬報『アポロ1号』(1965発行日不明だが5月発行と推定)OB会事務局

1970年度早稲田大学探検部OB会名簿(19706月現在)OB会事務局

1972年度早稲田大学探検部OB会名簿(19726月現在)OB会事務局 藤野孝博

□早稲田大学探検部OB通信(2-B)(1970525日発行)中井・伊藤

□早稲田大学探検部OB通信(4)(19701225日発行)中井・伊藤

□早稲田大学探検部OB通信(6)(1971712日発行)手書き青焼き

OB名簿 早稲田大学探検部(198712月)奥付なし

□早稲田大学探検部30年史(19904月発行)編集 OB会部史編集委員会

□早稲田大学探検部OB名簿(19904月現在)

□早稲田大学探検部OB会員名簿(19968月現在)OB会事務局・群像舎気付

04 in 屋久島(2004年)製作 岩崎雅典

05 in 台湾 早稲田大学探検部OB会玉山登山隊2005年)製作 岩崎雅典

KINABALU20062006年)製作 一瀬徹夫

06 in ボルネオ・キナバル登山(20068月)製作 岩崎雅典

08 in 知床 50周年記念知床岬探訪記(2008年)製作 岩崎雅典

早稲田大学探検部OB知床岬探訪記録(2008919日〜23日)製作 天野猛仁

□創部50周年記念早稲田大学探検部OBモンゴル隊報告書(2009121日発行) 

 早大探検部OB会の歴代会長と役員

探友会初代理事長 和田匡弘(山の会出身1期)19644月〜19663

  1965年度 副理事長 神村敏夫(会計)、岩崎雅典

    理事 西野佳秀(企画)、川瀬浩邦(渉外)、占部圀弘(書記)、塚田紀昭(会報)

        竹内 謙(庶務)、並木瑛一郎(庶務)

     監査 梶川道夫、市川公一

OB会初代会長  神原達(アジア学会出身1期)19664月〜19673

OB2代目会長 川瀬浩邦(6期)19704月〜1977年?

OB3代目会長 鈴木正昭(71977年?〜?

  事務局(会計) 渡辺知子

OB4代目会長 梶川道夫(1期)?〜19983

  副会長 岩崎雅典  

  1998年度 事務局 岩崎雅典、会計 中本信義

OB5代目会長 岩崎雅典(6期)19984月〜20073

  副会長 上幸雄、石田哲郎

  事務局 高橋丈夫、会計 中本信義

OB6代目会長 矢作和重(12期)20074月〜

  副会長 石田哲郎、太田肇

  事務局 高橋丈夫、会計 中本信義

 早大探検部OB会点鬼簿

松井 久(14期) 1969628日遭難死

西野佳秀(6期)  1977×月×日事故死

竹内憲治(13期) 1983×月×日病没

松本憲一郎(会友) ××××年×月×日病没

横田 清(1期)  ××××年×月×日病没

加藤久彰(2期)  ××××年×月×日病没

石原寿一(2期)  ××××年×月×日病没

鈴木達治(5期)  ××××年×月×日病没

今村公明(11期) ××××年×月×日事故死

橋本 隆(12期) ××××年×月×日

塩崎拓二(16期) ××××年×月×日病没

平 泰則(33期) 19908×日遭難死

関根吉郎(部長)  1994125日病没

伊東千秋(41期) 19971018日遭難死

宮下尚大(41期) 19971018日遭難死

木下誠一(8期)  1999124日病没

古城 泰(18期) 20005×日病没

駒井勇太郎(7期) 2001×月×日病没

岡本則男(6期)  2001216日病没

佐々木鉄矢(47期)2002512日遭難死

渡辺知子(12期) 2004110日病没(胸腺ガン)

佐藤和也(6期)  20061215日病没

坂野 13期) 2006313日病没

梶川道夫(1期)  2008125日病没

古賀美岐(32期) 2008428日病没(高山病)日本電波ニュース

境祐一郎(10期) 20085×日病没

山口昌之(3期)  2009718日病没(膵臓ガン)

 早大学探検部歴代役員名簿

1959年度(1期)初代幹事長 和田匡弘(山の会出身1期)

  副幹事長 梶川道夫(アジア学会出身1期) 

  幹事庶務係 佐藤文一(東南アジア研究会出身1期)

  幹事企画係 戸原文雄(早大生協出身1期)

  幹事渉外係 石原寿一(雄弁会出身1期)

  幹事研究係 神村敏夫(ラテンアメリカ協会出身1期)

  幹事記録係 羽島禎紀(海外移住研究会) 

1960年度(6期)2代目幹事長 戸原文雄早大生協3期)、副幹事長 武安誠正(4期)

1961年度(7期)3代目幹事長 武安誠正(4期)、副幹事長 田中(現・山枡)實4期)

1962年度(8期)4代目幹事長 西野佳秀6期)、副幹事長(庶務担当)川瀬浩邦(6期)、副幹事長(研究部門担当)中本信義(6期)2人制

1963年度(9期) 5代目幹事長 鈴木正昭7期)、副幹事長 竹内謙(7期)

1964年度(10期)6代目幹事長 二名良日(8期)、副幹事長 ______

1965年度(11期)7代目幹事長 安藤進(9期)→木下誠一(9期)、副幹事長 ___

1966年度(12期)8代目幹事長 木下誠一(9期)、副幹事長 ______

1967年度(13期)9代目幹事長 中井実10期)、副幹事長 山崎篤(10期)

1968年度(14期)10代目幹事長 伊藤雅彦12期)、副幹事長 ______

1969年度(15期)11代目幹事長 惠谷治13期)7月辞任、副幹事長 坂野皓(13期)

1970年度(16期)12代目幹事長 小川渉13期)、副幹事長 小寺重利(14期)

1971年度(17期)13代目幹事長 天野猛仁15期)、副幹事長 成川順(15期) 

1972年度(18期)14代目幹事長 辻本成昭16期)、副幹事長 塩崎拓二16期)

1973年度(19期)15代目幹事長 塩崎拓二16期)、副幹事長 _____

1974年度(20期)16代目幹事長 丸門俊夫(18期)、副幹事長 高岡 護(18期)

1975年度(21期)17代目幹事長 井草和幸(退部)→伊藤和典(19期)、副幹事長 _____

1976年度(22期)18代目幹事長 窪田吉孝(19期)、副幹事長 鹿沼貞良(20期)

1977年度(23期)19代目幹事長 水谷直樹(21期)、副幹事長 加藤典康21期)と荒内美子(21期。現姓・高岡)の2人制

1978年度(24期)20代目幹事長 渡辺光二(22期)、副幹事長 斎藤勝美22期)と中西賢二22期)の2人制

1979年度(25期)21代目幹事長 宮原克弘(23期)、副幹事長 太田 肇(23期)

1980年度(26期)22代目幹事長 大倉正寿(24期)、副幹事長 綾部昌利(24期)

1981年度(27期)23代目幹事長 矢島良久(25期)、副幹事長 馬場孝一(25期)

1982年度(28期)24代目幹事長 鈴木新介(26期)、副幹事長 重信秀年(26期)

1983年度(29期)25代目幹事長 田辺 泰(27期)、副幹事長 細沼信彦(27期)

1984年度(30期)26代目幹事長 美野真司(28期)、副幹事長 _______

1985年度(31期)27代目幹事長 佐藤英一(29期)、副幹事長 _______

1986年度(32期)28代目幹事長 中島木祖也(30期)、副幹事長 _______

1987年度(33期)29代目幹事長 高野秀行(31期)副幹事長 高橋洋祐(31期)内田真利子(31期)の2人制

1988年度(34期)30代目幹事長 向井 徹(32期)、副幹事長 吉澤基勝(32期) 

1989年度(35期)31代目幹事長 森山憲一(33期)、副幹事長 清水博之33期)と

田村修(33期)の2人制

1990年度(36期)32代目幹事長 森田健一(34期)、副幹事長 四倉幹木34期)

1991年度(37期)33代目幹事長 小林竜夫(35期)、副幹事長 _______ 

1992年度(38期)34代目幹事長 遠藤史朗(36期)、副幹事長 ________ 

1993年度(39期)35代目幹事長 ________、副幹事長 _______ 

1994年度(40期)36代目幹事長 杉山栄一(38期)、副幹事長 水野真隆38期)

1995年度(41期)37代目幹事長 ________、副幹事長 _______

1996年度(42期)38代目幹事長 大倉良太40期)、副幹事長 鈴木修一郎40期)

1997年度(43期)39代目幹事長 蔀 竜夫41期)、副幹事長 島田陽磨41期)

1998年度(44期)40代目幹事長 角幡唯介42期)、副幹事長 黒澤 力(42

1999年度(45期)41代目幹事長 井上博登43期)、副幹事長 野川貴史43期) 

2000年度(46期)42代目幹事長 佐藤友彦44期)、副幹事長 丸中太郎(45期)

2001年度(47期)43代目幹事長 丸中太郎(45期)、副幹事長 宮崎善輝45期) 

2002年度(48期)44代目幹事長 友松裕介(46期)、副幹事長 牧 淳46期)と荒井龍二(46期)2人制

2003年度(49期)45代目幹事長 梅津悠紀(47期)、副幹事長 高橋恒太郎47期)

2004年度(50期)46代目幹事長 馬上 寛(48期)、副幹事長 名真大気48期)

2005年度(51期)47代目幹事長 鈴木邦和(49期)、副幹事長 米田有三49期)

2006年度(52期)48代目幹事長 安藤 航(50期)、副幹事長 下村今日子52期)

 ※探検部が弱体化していたため、幹事長よりも上位の「主将」を特設し、当時、早大探検部に属していた東京理科大の山田雅子が主将という実質的な幹事長だった

2007年度(53期)49代目幹事長 光永奏者(51期)、副幹事長 ________

2008年度(54期)50代目幹事長 大平祐嗣(52期)、副幹事長 ________

2009年度(55期)51代目幹事長 奥野将章(53期)→佐野洋輔(54期)、副幹事長 前澤陽平(54期)

2010年度(55期)52代目幹事長 

以上、「早稲田大学探検部創設経緯」

ブログに載せます。