2015年4月24日金曜日

「ブラマの水の味」

「ブラマの水の味」

 199012月~19912月にかけて、インド領チベット文化圏のアルナチャルプラデシュ州に赴き、アルナチャルプラデシュ州を流れるブラマプトラ川の川下り遠征に参加した時に書いた文章が、日本ヒマラヤ協会から、出版されている、

「神の河 ブラマプトラの激流を下る」

 という小冊子に掲載されています。

 以下、僕の書いた文章です。

「ブラマの水の味」というタイトルで文章を書いています。

 ブラマの水の味

 その日は朝から嫌な予感のする日だった。川下りメンバーである関口君が腹痛のために朝になって急にボートに乗れないと言い出したのである。私と関口君は、2漕あるボートのうちの一方のボートに日本側隊員として一緒に乗っていた。彼は早稲田大学フロンティアボートクラブの幹事長を務めただけあって、川下りに関しての知識は1歳年上の私よりも豊富であり、それゆえに正確な判断の下せる頼りになる男だった。その彼が、早朝、何度もきじうちのために草むらに向かい、様子が変だった。結局、腹痛の状態は悪いらしく、ボートに乗らないことになった。
 考えてみると、関口君の腹痛の原因は、昨日、トゥティンという町に滞在した際に食べた、豚肉の脂身だと私は思った。アルナチャル・プラデシュと呼ばれるこの地域においては、現地の人間は、日本人と容姿が似ており、それ故かどうか判断できないが、性質も似ているように思われ、客人が来訪した際のもてなしぶりは非常に良い。しかし、「過ぎたるは及ばざるがごとし」、という格言が当たっているのか、たいそうなもてなしというのは時には閉口するものである。チャンに始まるこの地方のもてなしは、それほど食べ物が豊富でないせいかい、食べ過ぎで辟易するということはない。何が困るかと言えば、慣れない食べ物を、これはご馳走だといって勧められるときである。
 私たちもそうであった。私と関口君は、トゥティンに滞在した際には、チベット仏教(ラマ教)のゴンパのある、コミュニティ(現地の人がそう呼んでいた)に遊びに行った。そして、そこで知りあった人の家に招待された、私たちはその親切に嬉しくなり、彼らのもてなしを喜んで受けた。まず、チャンから始まり、みかんが出て来て、次に日本酒に似ているアポンという酒が出て来た。私たちが夜に備えて(夜には村の若い女性たちとのダンスが控えていた。)チビリチビリとゆっくりと飲んでいると、壁にダライ・ラマの写真と一緒に何か獣の皮が掛けられているのが目に入った。私と関口君が、「あれは何かな」と言い合っていると、その家の夫婦がそれを見せてくれて、「これを食べるか?」と聞いてきた。私たちは食べていみたいと思い、「食べる」と返事をした。彼らは、それをナイフで切ってくれて、私たちに勧めた。皮が付いているそれは豚の脂身だった。少々、生臭い匂いがするが、せっかく勧めてくれたものだと思い、ちょっと噛んで飲み込んだ。
 それが迂闊であった。彼らはそれがうまくてすぐに食べてしまったのか、又、新たに、先ほどの2倍位の大きさの脂身の切れ端を勧めてきた。私は生臭さが鼻につき、食べるのをためらっていたが、関口君が気合いで一思いに食べてくれた。おそらく、この豚の脂身(結構、生に近かったと思う)が、関口君の腹痛の原因となったと思う。
 このようなことから、関口君はボートに乗らないで、インド側の予備隊員が代わりに乗ることになった。その日、空はどんよりとした曇り空で、私も少々下痢をしていて、朝から気分は悪かった。ラフティングガイドが、「カズ(私のニックネーム)今日は元気がないな」と声をかけてきたが、私は面倒臭く「静かなのは日本人の心だ」といい加減な返事をした。川は余り大きな瀬もなく、のんびりと進んでいた。昼を過ぎた頃に、瀬が見えたので、下見のため、ボートを岸につけた。岸から見るとその瀬は4級程度に見えた。
 私は。ラフティングガイドのコース選択についての説明も詳しく聞かないで、この程度なら下れるだろうと思っていた。総隊長であるチャモリさんが写真を撮りたいというので岸に残し、ボートを出した。
 激流を下る前の、勇気を鼓舞するかけ声を皆で叫び、いつものようにガイドの誘導で瀬の前のトロ場を漕ぎ出した。この瀬を下る際には、私の乗っていたボートが先に行った(今回の川下りでは、転覆する際の安全確保ために2漕で下っていた。)
 瀬の入り口から、思っていたより波は大きかった。この時点から、私はパドリングで必死で、何も考えていなかった。波は大きくなる一方だった。左前のポジショニングであった私の目の前には、水の壁が出来ては消えしていた。瀬に入り込むとパドルは役に立たなくなった。ガイドは、「オーバーフロント!」と叫んだ。私は身をボートの先端部に移動させた。波に操られるままでボート操作は不可能な状態だったのだ。
 次にガイドは「オーバーライト!」と叫んだ。私は身をボートの右側の縁に移動させた。4回目くらいの大きな波が迫ってきた時、ガイドは、「ドロップ」(身をボートのそこに沈めて、川に投げ出されないようにすること)と叫んだ。私は、右側から、自分のポジションの左前に移動して、身を沈めた。ボートが右斜の状態で、もろに波に突っ込んでいった時、ボートが大きく左側に傾いた。気がついてみると、私はボートから投げ出され、波に飲み込まれていた。
  何とか、ボートは転覆しないで、私の前にあることがわかったので、身をゆすらせて水をかき、ボートにつかまった。周りを見ると、7人全員、川に投げ出されていた。まず、2人をトロ場で助け、残る一人に右側の岸に泳いで上陸しろといって、私たちは左側の岸にボートを着けて後発隊を待った。
 後発隊も3人が川に投げ出された。そのうち2人は、日本側隊員である八島さんと中谷であった。八嶋さんは本来ヒマラヤ登山をしている方だが、今回、はじめて川下りに参加したのである。私は、その八嶋さんが川に投げ出されたので心配したが、それほどショックの表情も見せないで、私たちのボートまで流されてきた。やはり山で修羅場を経験している人は、この程度のことでは動じないものかと感心していた。八嶋さんは流されてきたが、もう一人の中谷は流されてこない。
 彼は私と同じサークルの同期であるが、体力はかなりのものを持っている。中谷は大丈夫だろうと思ったが、なかなか流れてこない。彼は、流れが渦を巻いているところにはまりこみ、抜け出せないのでいたのである。なおかつ、川に投げ出された際に痛めていた踵を岩にぶつけたらしく動けない様子だった。彼がはまり込んでいる、渦を巻いている場所の手前までインド側の隊員が岩づたいにいって中谷を救出した。中谷はかなり水を飲んだらしく、しばらくは口も聞かずにいて、気分が悪そうだった。しかし、インド側隊員の苦笑いから嵩じた大きな笑い声に、苦笑いで返事をしているうちに中谷も元気になった。
 中谷もプラマプトラの水をかなり飲んだが、私も川に落ちた時にかなり飲んだ。チベットのカイラス山の麓に源流を持つこの川の水は聖なる水なのかもしれない。しかし、信仰のないものにとっては単なる水である。そのような自分が見えたとき、急に自分のやっている川下りが恐ろしくなった。

以上が、「神の河 ブラマプトラの激流を下る」という冊子の、P36,37に掲載されている僕の1991年の文章です。

現地の方々にとっては、山などは山岳信仰の対象でした。
僕は早稲田大学探検部で海外の山などにも行きましたが、現地の方々に比べると装備などでは上回りますが、体力、土地勘、自然に対する五感などでは到底及ばないと痛感しました。

現地を流れるプラマプトラ川も現地の方からすると、貴重な生活用水でした。

普段、僕らが飲んでいる水も、水源はあると思います。

気軽に飲んでいる水も、貴重な水だと思って、有り難みを感じて、口にした方が良いかもしれません。

このプラマプトラ川川下りのことは朝日新聞にも取り上げられ、朝日新聞のスポーツ欄の記事にも僕の名前が掲載されました。


以下、朝日新聞 1990年(平成2年)12月19日水曜日のスポーツ欄に掲載された記事です。


「未踏峰登山・“なぞの川”下り」日印隊、ヒマラヤ挑戦

 日本ヒマラヤ協会(HAJ)は今冬から来春にかけて、ヒマラヤに二つの登山・探検隊を派遣する。世界第三位の高峰カンチェンジュンガ(8,598)に未踏の東壁新ルートから無酸素で挑む一方、もう一隊は世界第六位の大河プラマプトラの未踏査地区を含めた1,200㌔をゴムボートで下る。いずれも、世界初の試みで、インド・チベット国境警備隊(インド)と合同隊を組む。
 カンチェンジュンガ東面(シッキム側)は政治的理由で、戦後、インド隊を除いてはずっと外国隊の立ち入りが禁止されてきた。このため、各国隊はネパール側から挑んできたが、HAJは十数年にわたってインド政府に打診を続けて、今回ようやくシッキム側からの登山許可を取得した。
 隊員は日印双方とも女性二人を含め各十一人。日本側は尾形好雄隊長(42)、名塚秀二副隊長(36)が率いる。明年二月末、ガントク(シッキム州)に集結し、三月上旬、ゼム氷河グリーンレークにベースキャンプを設営したあと五月上旬の登頂を目指す。
 HAJ隊は81年、五つの峰から成るカンチェンジュンガ連峰の初縦走を試みたことがある。縦走には失敗したものの、主峰と西峰に同時登頂を果たしている。尾形隊長はこのとき縦走隊の指揮をとり、西峰に登ったほか、マモストンカンリ(7,526)、ギャラペリ(7,151)などの未踏の難峰に初登頂。名塚副隊長も今夏、チョゴリ(K2=8,611)に困難な北西壁から登頂したベテラン。隊員も世界の高峰登頂者を数多くそろえている。
 プラマプトラ川はチベットに源を発し、ヒマラヤ東端を貫通してベンガル湾に注ぐ。いまも、地図上の空白部を残し“なぞの川”といわれる。下降はインド7人、日本4人の編成。エベレスト登頂者の八木原圀明氏(44)が副隊長として参加するほか、アラスカのユーコン川などの下降歴を持つ上原和明さん(23)ら三人の早大生も激流に挑む。
 一行は一月初旬、中印国境から、下降を開始し、一月末、バングラデシュ国境に到着の予定。

 可能なルートは探す
 稲田定重HAJ理事長の話
 カンチェンジュンガ東壁は、だれも手を触れたことがない未知のカベ。写真でみた限り、険しすぎて登れそうもない感じだが、なんとか登頂可能なルートを見つけ、日印で力を合わせて成功させたい。こんどのシッキム側からの入山は特例で、解禁になったわけではない。

以上、『プラマの水の味

くだらない内容ですが、ブログに載せます。

ヒマラヤ協会から出版された冊子、「神の河 プラマプトラの 激流を下る」は国会図書館に所蔵されています。

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