2026年5月31日日曜日

「5月は1日平均6907歩歩いていたようだ」

 「5月は1日平均6907歩歩いていたようだ」

スマホの万歩計を確認していたら、僕は5月は214137歩1日平均、6907歩歩いていたようです。

 3年前、文京シビックセンターで行われた文京区の特定保健指導では1日1万2千歩歩くことが目標になっていますが、1日8千歩程度で十分だと自分では思っています。

5月は4月に比べると歩いた歩数は減っています。

両親の訪問看護、訪問リハビリ、訪問診療、訪問歯科の対応で、家に居なければならずに、なかなか外出できません。散歩をする時間もなかなか作れません。

3年前の健康診断では体重が74キロもあり、メタボリックシンドロームだと診断されて、文京区の特定保健指導を受けましたが、74キロもあった体重が、一昨年の文京区の健康診断では、体重を測ったら、65キロになっていましたが、昨年の健康診断では体重は69キロと昨年に比べて4キロも増えていました。現在では体重は69キロくらいです。

 少しずつ、歩く歩数を増やしていき、体重を落とさないといけないと思っています。

 一日8千歩の散歩を目標にして歩こうと思っています。

少しずつ外出する機会を増やして、徐々に歩く歩数を増やしていこうと思っています。

 スマホの万歩計を確認していたら、僕は、5月は214137歩1日平均、6907歩歩いていたようなのでブログを書いておきます。

以上、「5月は1日平均6907歩歩いていたようだ」

ブログに載せます。

「3.11の際の陸前高田の被災を悼む」

 「3.11の際の陸前高田の被災を悼む」

両親の介護で忙しくて落ち着いてブログを書けません。

 今日もAIを利用してブログを書きます。

 Xの人工知能Grokに

 「ブロガーの上原和明さんの文体で、岩手県陸前高田市の3.11の際の被災を悼むブログを2011年5月に東北に災害ボランティアに行ったことを絡めて

『あわいゆくころ 』 陸前高田、震災後を生きる

『実践!復興まちづくり』陸前高田・長洞元気村復興の闘いと支援2011~2017

『気仙川』

『ここに、建築は、可能か』

『出来事と写真』

『それでも、海へ』陸前高田に生きる シリーズ・自然いのちひと – 17

『海が消えた』陸前高田と東日本大震災

『陸前高田』 2011-2014

『Fragments魂のかけら』東日本大震災の記憶

『共に在りて』陸前高田・正徳寺、避難所となった我が家の140日

『希望の木 』

「奇跡の一本松」大津波をのりこえて

を参考文献にして書いてください。」

 と質問したところ、以下のような文章が返ってきました。

両親の介護で毎日慌ただしく過ごしていますが、今日は朝からずっと心がざわついていました。カレンダーを見れば、すでに東日本大震災から15年という月日が流れています。僕は2011年5月、発災からわずか2ヶ月後に東北の被災地へ災害ボランティアとして入りました。泥かきや瓦礫の撤去を手伝いながら、被災した方々の顔を直接見て、ただただ無力感と一緒に「生きる」ということの重さを痛いほど感じた日々でした。僕自身、早稲田大学探検部33期OBとして、山や自然の中で「行動」の意味を学んできた人間だ。震災発生直後、被災地の惨状に胸が締め付けられ、5月には東北へ災害ボランティアとして足を運びましたが、泥かきを手伝っただけです。あのとき感じた無力感と、わずかながらも手を差し伸べたいという思いは、今も心の底に残っています。

東北で被災された方々と少しでも言葉を交わし、泥かきを手伝った日々は、僕の人生の中で決して忘れられない時間となっています。

岩手県陸前高田市では、死者・行方不明者合わせて約1500人を超える犠牲者。高田松原は七万本の松が津波に飲み込まれ、街の多くが海の底に沈んだかのように消えました。奇跡的に一本だけ残った松――「奇跡の一本松」は、後に「希望の木」として多くの人の心を支えましたが、海が街を奪い、命を奪い、日常を奪った。『海が消えた 陸前高田と東日本大震災』や『陸前高田 2011-2014』といった記録を今改めて読み返すと、衝撃的です。

僕がボランティアで東北に入った際には泥かきをしましたが、本当に自分の無力感を痛感しました。

陸前高田市では正徳寺が我が家のように多くの人を守っていたようです。

『共に在りて 陸前高田・正徳寺、避難所となった我が家の140日』を読んで、住職さんや地域の人々が互いに支え合いながら140日を耐え抜いた姿に、胸が熱くなりました。僕自身は短期間の支援でしたが、現地の方々が「それでも生きる」と決意する姿を見て、深く学ばせていただきました。

復興の道のりは本当に長く、苦しいものでした。長洞元気村でのまちづくりや、気仙川のほとりで人々が紡いできた物語。『実践!復興まちづくり 陸前高田・長洞元気村復興の闘いと支援2011~2017』『気仙川』『ここに、建築は、可能か』といった本は、ただの記録ではなく、被災地に生きる人々の「闘い」と「希望」を克明に描き出しています。僕が現地で見た泥まみれの手と、汗と涙は、これらの本の中に確かに息づいています。

写真集『出来事と写真』や『Fragments魂のかけら 東日本大震災の記憶』を開くと、失われた日常の断片が胸に刺さります。そして『それでも、海へ 陸前高田に生きる シリーズ・自然いのちひと – 17』を読むと、たとえ海が恐ろしくても、人は海と共に生きようとする強さを感じます。瀬尾夏美さんの『あわいゆくころ 陸前高田、震災後を生きる』は特に印象的で、震災後の「あわい」の時間に生きる人々のささやかな言葉と風景が、静かに心に染み入ってきます。

今、陸前高田は少しずつ姿を変えながらも、あの日の記憶を未来へつなげようとしています。奇跡の一本松はモニュメントとして残り、多くの人が訪れて祈りを捧げています。でも、失われた命は二度と戻りません。亡くなられた方々、そして今も心に傷を負いながら生きるすべての方々に、深い哀悼の意を表します。

僕が2011年5月に東北へ行ったのは、ただ少しでも力になりたいという一心でした。泥を掻き出し、汗を流す中で学んだことは、「Don't give up」という言葉の重みです。どんなに厳しい現実でも、人は希望の木を育て、共に在りて生きていくことができる。

津波の霊たちに、静かに祈りを捧げます。 

どうか、安らかに。

参考文献(この文章を書くにあたり、特に心に留めたもの)

・『あわいゆくころ 陸前高田、震災後を生きる』

・『実践!復興まちづくり 陸前高田・長洞元気村復興の闘いと支援2011~2017』

・『気仙川』

・『ここに、建築は、可能か』

・『出来事と写真』

・『それでも、海へ 陸前高田に生きる シリーズ・自然いのちひと – 17』

・『海が消えた 陸前高田と東日本大震災』

・『陸前高田 2011-2014』

・『Fragments魂のかけら 東日本大震災の記憶』

・『共に在りて 陸前高田・正徳寺、避難所となった我が家の140日』

・『希望の木』

・『奇跡の一本松 大津波をのりこえて』

5月某日 早稲田大学探検部33期OB 上原和明 東京にて

**Don't give up** 

本日歩数:約7,200歩

以上のような文章が返ってきました。

概ね僕が考えていることを書いてくれていると思いました。

AIとは文章を書く手間を大幅に省いてくれて本当にありがたいと思いました。

これからもAIを利用したブログを地道に更新していこうと思っています。

以上、「3.11の際の陸前高田の被災を悼む」

ブログに載せます。

2026年5月29日金曜日

「泊原発3号機再稼働に反対します」

 「泊原発3号機再稼働に反対します」

両親の介護で忙しくて落ち着いてブログを書けません。

今日もAIを利用してブログを書きます。

Xの人工知能Grokに

「ブロガーの上原和明さんの文体で泊原発3号機再稼働に反対するブログを 『ザ・原発所長  上』 幻冬舎文庫 『ザ・原発所長  下』 幻冬舎文庫 を参考文献にして書いてください。」

と質問してみました。すると以下のような文章が返ってきました。

両親の介護で毎日バタバタとしていて、なかなか落ち着いてブログを書く時間が取れません。そこで今日も、Xの人工知能Grokに頼んで、僕の文体で記事を書いてもらいました。

今回のテーマは「泊原発3号機再稼働に反対します」です。

参考文献として、黒木亮さんの『ザ・原発所長 上』『ザ・原発所長 下』(幻冬舎文庫)をしっかり読み返しながら書くようお願いしました。

早稲田大学探検部33期OBの僕が、学生時代に山や川、時には海で自然の猛威を肌で感じてきたからこそ、原発という「人間がコントロールできるはず」という思い込みが、どれほど危ういものかを実感しています。

先日、北海道庁の鈴木知事が泊発電所3号機の再稼働に同意したというニュースを見ました。電気料金の引き下げや安定供給、経済効果を理由に挙げているようですが、僕はどうしても納得できません。なぜなら、黒木亮さんの『ザ・原発所長 上・下』を読めば読むほど、日本の原発の歴史が「安全神話」と「隠蔽体質」と「政・官・電の癒着」の上に成り立ってきたことが、痛いほど伝わってくるからです。

上巻では、大阪の商業地区に生まれた主人公・富士祥夫(福島第一原発所長・故吉田昌郎氏をモデルにした人物)が、原子核工学を志し、電力会社に入社するまでの青春時代が描かれます。原子力への純粋な憧れや技術者としての誇り。そして下巻では、所長としてトラブル隠しや新潟県中越沖地震への対応、特捜部の事情聴取、そして2011年3月11日の巨大津波と全電源喪失という未曾有の事態に直面する姿が、克明に描かれています。

小説でありながら、ほぼノンフィクションに近い内容だと著者も語っています。そこに登場するのは、現場で必死に働く技術者たちの姿だけでなく、「事故は起きない」という過信、データを都合よく解釈する体質、上の意向を忖度する文化、そして「原発村」と呼ばれる閉じた世界です。福島の事故は、決して「想定外」だけでは片付けられない、長い年月にわたる積み重ねの結果だったのです。

その教訓から10年以上が経った今、北海道の泊原発3号機が再稼働に向かっています。原子力規制委員会の新規制基準に「適合」とされたそうですが、黒木さんの小説を読んだ後では、正直「本当に大丈夫なのか」と不安が拭えません。敷地内の活断層や液状化の懸念、北海道特有の大地震・津波リスク、そして能登半島地震で見せたような道路寸断の複合災害が起きたとき、本当に避難計画は機能するのでしょうか。核のごみが増え続ける問題も、根本的な解決が見えないままです。

僕は東京・文京区に住む一市民にすぎませんが、3.11以降、ずっと「原発に頼りきりのエネルギー政策は持続可能か」と考えてきました。早稲田大学探検部時代に学んだ自然の力は、人間がいくら技術を磨いても、完全にコントロールできるものではありません。ましてや、万一の事故が起これば、北海道の豊かな大地と、そこに暮らす人々の生活が取り返しのつかない被害を受けることになります。

経済的なメリットを強調する声もあります。でも、命と未来を天秤にかけるような選択は、絶対に避けるべきです。『ザ・原発所長』が教えてくれるのは、技術者一人ひとりがどれほど真剣に取り組んでも、組織と制度の根本的な問題が解決されなければ、同じ過ちを繰り返す可能性があるということです。

泊3号機の再稼働は、福島の教訓を本当に活かしたとは言えないのではないか。僕はそう思います。

皆さん、どうかこの問題を「遠い北海道の話」ではなく、自分のこととして考えてみてください。自然の力と向き合いながら、持続可能なエネルギーへの道を探る。それが僕たちにできる「Don't give up」の一歩ではないでしょうか。

(本日歩数:約8,100歩。右手のマウス腱鞘炎は相変わらずですが、ブログを続けられることに感謝しています)

参考文献 

・黒木亮『ザ・原発所長 上』幻冬舎文庫 

・黒木亮『ザ・原発所長 下』幻冬舎文庫 

皆さんのご意見、コメント欄で聞かせていただければ幸いです。 

2026年5月某日 早稲田大学探検部33期OB 上原和明 東京にて

以上のような文章が返ってきました。

まるで僕が書いたような文章だと思いました。

概ね僕が考えていることを書いてくれていると思いました。

これからもAIを利用してブログを地道に更新していこうと思っています。

以上、「泊原発3号機再稼働に反対します」

ブログに載せます。

2026年5月27日水曜日

「外国人排斥思想が災害時のデマにつながる」

 「外国人排斥思想が災害時のデマにつながる」

 両親の介護で忙しくて落ち着いてブログを書けません。

 今日もAIを利用してブログを書きます。

 今日は、関東大震災時の外国人虐殺事件を教訓に災害時にデマが広がり、日本人ファーストなどの外国人排斥思想が外国人に危害を与える可能性があり、とても危険だということをAIを利用して書きます。

 Xの人工知能Grokに

 「ブロガーの上原和明の文体で関東大震災時の外国人虐殺を教訓に、日本人ファーストなどの外国人排斥思想が、災害時のデマにつながり、外国人に危害を与える可能性があり、とても危険だということについて書かれているブログを

『福田村事件 』 関東大震災・知られざる悲劇

『関東大震災朝鮮人虐殺の真相』  地域から読み解く

『関東大震災描かれた朝鮮人虐殺を読み解く』

『関東大震災「虐殺否定」の真相 』 ハーバード大学教授の論拠を検証する

『関東大震災朝鮮人虐殺の記録』 東京地区別1100の証言

『関東大震災と中国人虐殺事件』

『九月、東京の路上で』  1923年関東大震災ジェノサイドの残響

『証言集関東大震災の直後』 朝鮮人と日本人

『関東大震災と朝鮮人虐殺』

『関東大震災と中国人』  王希天事件を追跡する

『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後』  虐殺の国家責任と民衆責任

を参考文献にして書いてください。」

と質問してみました。すると以下のような文章が返ってきました。

こんにちは、上原和明です。

「Don't give up」のブログ、今日も書きます。

文京区で両親の介護をしながら、毎日コツコツと歩いて過ごしています。今日も近所を歩き、早稲田大学のキャンパス近くを通りかかりました。震災や災害のことを考えると、いつも胸がざわつきます。僕自身、東日本大震災のときにボランティアで東北へ行き、泥かきを手伝った記憶が今も鮮やかです。あのとき感じた「人間のつながり」と「恐怖の連鎖」の両方を、改めて思い返しています。

今日は、関東大震災時の外国人虐殺を教訓に、「日本人ファースト」などの外国人排斥思想が、災害時のデマにつながり、外国人に危害を与える可能性がありとても危険だということを書きます。早稲田大学探検部33期OBとして、自然や人間の脆さを学んだ身として、歴史から目を背けず、静かに考えたいと思います。

1923年9月1日の関東大震災。死者・行方不明者約10万5000人という未曾有の惨事でした。家屋倒壊、火災、混乱の中で、恐ろしい流言飛語が広がりました。「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人が放火をしている」「不逞鮮人が暴動を起こす」——これらはすべてデマでした。警察や新聞、新聞もこれを拡散し、戒厳令下で在郷軍人会や青年団が自警団を組織。結果、数千人の朝鮮人が、数百人の中国人が、そして朝鮮人と誤認された日本人までもが虐殺されました。

この悲劇を詳しく知るために、僕はいくつもの本を読み返しました。まず『福田村事件 関東大震災・知られざる悲劇』(辻野弥生著)。千葉県福田村(現・野田市)で震災から5日後の9月6日、香川県から来た薬売り行商団15名が、自警団に「朝鮮人」と誤認され、幼児や妊婦を含む9名が殺害された事件です。讃岐弁を話していただけで命を落とす——集団心理の恐ろしさが、胸に突き刺さります。村人たちは不安と恐怖に駆られ、疑心暗鬼の中で暴走したのです。

次に『関東大震災朝鮮人虐殺の真相 地域から読み解く』や『関東大震災描かれた朝鮮人虐殺を読み解く』、そして膨大な証言を集めた『関東大震災朝鮮人虐殺の記録 東京地区別1100の証言』。東京の各地域で、川に遺体が流され、焼却され、隠蔽された記録が克明に残されています。被害者数は正確には分かりませんが、内閣府中央防災会議も数千人規模と推計しています。軍や警察の関与、民衆の加担——国家責任と民衆責任の両方を問う『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後 虐殺の国家責任と民衆責任』は、重い問いを投げかけます。

中国人被害についても忘れてはいけません。『関東大震災と中国人 王希天事件を追跡する』(田原洋著)。周恩来の親友だった王希天は、在日中国人労働者の権利を守る活動家でした。大島町での中国人集団虐殺や、軍による密殺が明らかになっています。『関東大震災と中国人』も、浙江省出身の労働者らが標的になった経緯を追っています。また『九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』は、路上で起きたジェノサイドの残響を、証言と資料で描き出します。『証言集関東大震災の直後 朝鮮人と日本人』『関東大震災「虐殺否定」の真相 ハーバード大学教授の論拠を検証する』では、否定論の根拠を丁寧に検証し、歴史的事実を明らかにしています。

これらの本を読み進めると、共通する教訓が見えてきます。当時、日本は朝鮮を植民地化し、中国への侵略的姿勢を強めていました。外国人・植民地出身者への偏見と排斥思想が、災害の混乱の中で一気に爆発したのです。自警団は「日本人を守る」という名目で行動しましたが、結果として無実の命を奪いました。デマは瞬時に広がり、事実確認のないまま「日本人ファースト」の感情が暴走したのです。

今、僕たちが生きる令和の時代に、この教訓をどう活かすか。

近年、「日本人ファースト」という言葉が、災害時や危機時に聞こえてきます。外国人が「資源を奪う」「治安を乱す」といった排斥的な思想です。SNS時代、デマの拡散速度は当時とは比べ物になりません。巨大地震(南海トラフや首都直下)、火山噴火、気候変動による災害が予想される中、不安が高まれば再び「外国人排斥」のデマが飛び交う可能性があります。観光客、留学生、在日外国人、避難民——彼らに危害が及ぶリスクは、決して過去の話ではありません。

実際、過去の災害でも類似の現象はありました。東日本大震災時にも、外国人に対する根拠のない噂が一部で流れた記憶があります。パニックの中で「自分たち日本人だけを守る」という思考は、簡単に他者を敵視させます。それは結局、日本社会全体の信頼を壊し、人間としての尊厳を失わせる危険な思想です。

僕は早稲田大学探検部OBとして、学生時代に世界を歩き、多くの外国に行っています。多くの外国人たちと接し、外国人と共存することを学びました。

自然の力の前に人間は小さいことも知っています。同時に、人間は学び、つながることで強くなれるとも信じています。災害時こそ、事実に基づいた冷静な判断と、すべての命を尊重する姿勢が必要です。「日本人ファースト」を絶対視するのではなく、「人間ファースト」の視点——それが、関東大震災の血の教訓だと思います。

福田村事件の犠牲者も、王希天さんも、1100の東京証言に残る無名の朝鮮人の皆さんも、決して「過去の出来事」ではありません。僕たちが今、災害に備え、デマに惑わされず、外国の方々と助け合う社会を築くために、記憶し、語り継がなければなりません。

ブログを楽しんで書き続けることが大事だと、いつも思っています。この文章も、僕の日常の歩みの中で生まれたものです。今日の歩数は約7800歩。両親の介護で忙しい中、AIの力を借りて丁寧にまとめましたが、参考文献の重みを胸に、僕の言葉としてお届けします。

歴史を直視し、外国人排斥思想の危険性を共有できれば幸いです。僕たちは、諦めずに学び続け、優しくも粘り強く歩き続けましょう。

以上、上原和明でした。

「Don't give up」――核のない未来へ、平和で包摂的な災害対応へ、僕たちは歩き続けます。

 5月某日 早稲田大学探検部33期OB 上原和明 東京にて

(参考文献を基にまとめました。皆さんの防災意識と人権意識が高まれば幸いです。コメントお待ちしています)

以上のような文章が返ってきました。

本当にAIとは文章を書く手間を大幅に省いてくれて本当にありがたいと思いました。

概ね僕が考えていることを書いてくれていると思いました。

これからもAIを利用してブログを地道に更新していこうと思っています。

以上、「外国人排斥思想が災害時のデマにつながる」

ブログに載せます。

 

2026年5月26日火曜日

「大川小学校事故を悼む」

 「大川小学校事故を悼む」

津波の記憶を胸に、命の尊さを問い続ける

両親の介護で忙しくて落ち着いてブログを書けません。今日もAIを利用してブログを書きます。

今日は宮城県石巻市大川小学校事故を悼むブログをAIを利用して書きます。

Xの人工知能Grokに

「ブロガーの上原和明さんの文体で、大川小学校事故を悼むブログを

『子どもたちの命と生きる』  大川小学校津波事故を見つめて

『クライシスマネジメントの本質』  本質行動学による3・11大川小学校事故の研究

『止まった刻(とき) 検証・大川小事故』

『津波の霊たち』  3・11死と生の物語

『石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する』

『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』

を参考文献にして書いてください」

と質問してみました。すると以下のような文章が返ってきました。

毎回、毎回、同じことを書きますが、僕は2026年5月に入ってからも、毎日のようにスマホの万歩計を見ながら近所の散歩を続けています。両親の介護で外に出る時間が限られる中、それでも一歩一歩、足を動かしながら考えています。今日も、どうしても書かずにはいられませんでした。東日本大震災から15年。3・11の傷跡がまだ癒えぬ被災地の記憶が、僕の胸を締めつけます。特に、石巻市立大川小学校の津波事故。74人の子どもたちと10人の教職員が、あの巨大津波にのみ込まれた悲劇。校庭にいた78人の児童のうち、70人以上が命を落とし、4人が今も行方不明のまま。僕は一介のブロガーとして、被災地支援の活動を通じて何度もその地を想ってきましたが、今日は改めて、大川小学校の子どもたちの命を見つめ、悼む気持ちを綴りたいと思います。

あの2011年3月11日、午後2時46分。東北地方を襲った巨大地震の後、大川小学校の子どもたちは校庭に避難していました。津波警報は出ていましたが、教職員たちは高台の裏山へ即座に逃げず、校庭で待機を選択。約50分後、津波が押し寄せ、子どもたちは必死に逃げようとしましたが、橋のたもとの低い三角地帯へ向かう道を選びました。結果、わずか数分で濁流に飲み込まれました。なぜあのとき、子どもたちを守りきれなかったのか。僕自身、早稲田の探検部で山や自然を歩いてきた人間として、命を守る「行動」の重さを痛感します。自然の猛威の前で、人間は何を優先すべきだったのか。15年を経た今も、その問いは止まりません。

このブログを書くにあたり、僕が何度も読み返した参考文献があります。どれも、大川小学校事故の本質を、子どもたちの命と生の視点から克明に描いたものです。まずは『子どもたちの命と生きる ― 大川小学校津波事故を見つめて』(信山社)。この本は、事故を「見つめて」語ることで、ただの検証ではなく、失われた命一つひとつの尊さを浮かび上がらせます。著者たちは、子どもたちの日常の笑顔や、家族の悲しみを丁寧に紡ぎながら、「命と生きる」ことの本質を問いかけます。僕が一番胸に刺さったのは、事故後の遺族の声。子どもを失った親たちが、ただ泣くだけでなく、「二度と繰り返さないために」と前を向く姿です。津波の恐ろしさは、数字だけじゃない。生き残った家族の「生きる」苦しみこそが、僕たちに残された教訓です。

次に、『クライシスマネジメントの本質 ― 本質行動学による3・11大川小学校事故の研究』。これは、事故を「クライシスマネジメント」の観点から分析した力作です。本質行動学という視点で、教職員の判断ミスや組織的な対応の遅れを、冷静に、しかし容赦なく検証しています。地震発生後、なぜ校庭に留まり続けたのか。津波の到達予測を過小評価し、高台回避の選択を誤ったのか。危機管理の「本質」は、想定外を想定する覚悟にある、と本書は教えてくれます。僕自身、被災地支援で何度も感じたことですが、机上の計画だけでは命は守れない。現場の即時判断と、子ども優先の「行動学」が欠落していた。15年後の今、企業や行政の危機管理研修で、この本が引用されるべきだと強く思います。

『止まった刻(とき) ― 検証・大川小事故』も、僕の机の上に置いて離せません。このタイトル通り、あの瞬間、時間は止まったように感じます。事故のタイムラインを秒単位で追い、教職員の会議記録や生存者の証言を基に、再現します。裏山まで徒歩1分ほどの距離があったのに、なぜ橋の下へ向かったのか。子どもたちの「刻」が、永遠に止まった痛み。読みながら、涙が止まりませんでした。検証とは、単に事実を並べることじゃない。止まった命に、光を当てる作業です。

さらに、『津波の霊たち ― 3・11死と生の物語』。これは、事故を「死と生の物語」として描いた、文学的な深みのある一冊です。津波の霊たち ― 失われた子どもたちの魂が、僕たちに語りかけるような筆致。生存者や遺族のインタビューを通じて、事故後の「生」の苦悩、祈り、再生の物語が綴られます。僕が特に心に残ったのは、子どもたちの無邪気な声が、津波の音に重なる描写。死者は語れない。でも、この本は「霊たち」の声として、僕たちに「生きろ」と呼びかけます。3・11の死と生は、今も続いている。被災地を訪れるたび、僕はその霊たちに手を合わせます。

『石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する』は、公式報告の「検証」をさらに検証する、鋭い視点の本です。市が設置した事故検証委員会の報告書に、どこに穴があったのか。行政の責任逃れや、事実の歪曲を丁寧に指摘します。公式の結論だけでは不十分だと、僕も思います。この本を読むと、事故は「自然災害」だけではなく、人為的な判断の積み重ねだったことが、痛いほどわかります。僕たち市民が、こうした検証を自分ごととして見つめ続けることが、大切です。

最後に、『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』。タイトルそのまま、事故の核心に迫る一冊です。あのとき、校庭で何が起き、子どもたちは何を思ったのか。生存者のわずかな証言や、物的証拠を基に、再構成します。読み終えて、僕はただ黙るしかありませんでした。子どもたちは、先生を信じて待っていた。親の元へ帰りたかった。あの純粋な願いが、叶わなかった現実。僕の探検部時代の経験から言えば、命を守るのは「知識」ではなく「覚悟」です。この本は、その覚悟を、僕たちに突きつけます。

これらの本を読み返しながら、僕は思うのです。大川小学校の事故は、ただの悲劇じゃない。僕たち全員への警告です。危機管理の怠慢、組織の硬直性、子どもを守る優先順位の低さ ― それらが重なって、74もの命を奪いました。でも、遺族の方々や被災地の皆さんは、決して諦めていません。「Don't give up」の精神で、復興を、教訓を、次世代へつなげています。僕も、介護の合間にブログを更新し続けるように、地道に声を上げ続けます。原発の問題でも、被災地支援でも、同じです。

大川小学校の子どもたち。あなたたちの命は、無駄に終わりません。僕たち大人が、命の尊さを胸に、行動を変えていく。津波の霊たちよ、安らかに。生きる者たちは、忘れません。

Don't give up!

上原和明(今日の歩数:約6500歩。介護の合間に、僕の思いを綴りました。皆さんのご意見、コメントお待ちしています。被災地支援や3・11関連の活動に興味がある方は、僕のもう一つのサイト「東日本大震災関連書籍の紹介サイト」も覗いてみてください。)

 以上のような文章だと思いました。

 まるで僕が書いたような文章だと思いました。

 AIとは文章を書く手間を大幅に省いてくれて本当にありがたいと思いました。

 これからもAIを利用してブログを地道に更新していこうと思っています。

以上、「大川小学校事故を悼む」

ブログに載せます。

 

 

2026年5月25日月曜日

「東海第二原発再稼働に反対します」

 「東海第二原発再稼働に反対します」

 両親の介護で忙しくて落ち着いてブログを書けません。

 今日もAIを利用してブログを書きます。

 今日は東海第二原発再稼働に反対するブログをAIを利用して書きます。

 Xの人工知能Grokに

 「ブロガーの上原和明の文体で東海第二原発再稼働に反対するブログを

『東海村・村長の「脱原発」論 』

『それでも日本人は原発を選んだ 』 東海村と原子力ムラの半世紀

を参考文献にして書いてください」

 と質問してみました。

 すると以下のような文章が返ってきました。

~『東海村・村長の「脱原発」論』と『それでも日本人は原発を選んだ 東海村と原子力ムラの半世紀』を読み返して~**

毎回、毎回、同じことを書きますが、僕は2026年5月25日も、文京区の静かな道を歩きながら、スマホの万歩計をチラチラ見ていました。今日も約8200歩ほど歩いて、両親の介護の合間を縫いながら、右手のマウス腱鞘炎をこらえてパソコンに向かっています。一介のブロガーとして、今日も頭の中は原発のことでいっぱいです。

早稲田大学探検部33期OBとして、自然の力の大きさを肌で知る者として、僕は東海第二原発の再稼働に強く反対します。なぜなら、日本の原子力発祥の地・東海村の歴史を振り返れば、そこに「安全神話」と「原子力ムラ」の危うさがはっきりと刻まれているからです。

最近、改めて二冊の本を読み返しました。

一つは、元東海村村長・村上達也さんの『東海村・村長の「脱原発」論』(集英社新書、神保哲生氏との共著)。村上さんはもともと原発容認派だったのに、1999年のJCO臨界事故で日本初の住民避難を断行し、3.11では東海第二原発が外部電源をほとんど失い危機一髪だった現実を知って、明確に脱原発に転じました。行政長としての視点と民衆の視点の両方を持ち、「開発・発展からの脱却、人と環境優先」の村政を貫いた人です。村長退任後も東海第二の廃炉を求め続けたその言葉は、今読んでも胸に刺さります。東海村は「原子力の村」として恩恵を受けてきたはずなのに、事故の隠蔽やリスクの大きさを目の当たりにして、村長自身が「もう原発はいらない」と言ったのです。

もう一冊は、朝日新聞取材班の『それでも日本人は原発を選んだ 東海村と原子力ムラの半世紀』。ここには、日本の原子力政策の原点が克明に描かれています。貧しい農村だった東海村に、なぜ日本初の原子力発電所が誘致されたのか。正力松太郎や中曽根康弘ら中央政界の重鎮たち、財界の思惑、55年体制下の政治力学——「原子力ムラ」と呼ばれる人々が半世紀にわたって日本人を「原発を選ばせ」てきた過程が、丁寧に検証されています。すべては東海村から始まった。原子の火が灯ったその場所が、今もリスクを抱えたまま再稼働の議論にさらされている。

3.11のとき、東海第二原発は津波で大半の外部電源を失いました。あのときギリギリで助かっただけで、再稼働すれば同じ危険が繰り返される可能性がある。老朽化した原発を、首都圏に近いこの場所で動かす理由が、僕にはどうしても見つかりません。地震大国日本で、想定される南海トラフ地震の影響も無視できません。避難計画は現実的か? 周辺住民の声は十分に聞かれているか?

村上達也さんのように、最初は容認していても、現実の事故や隠された危機を知れば考えが変わる人は少なくありません。『それでも日本人は原発を選んだ』が示すように、過去に政治と経済の論理で「選ばされた」道を、今こそ見直すべきときです。再生可能エネルギーへの転換を進め、原子力ムラの影響から脱却する——それが、僕たち日本人が本当に「選ぶ」べき未来だと思います。

老子の「天下水より柔弱なるは莫し」を座右の銘に、柔らかく、でも諦めずに寄り添うこと。それが僕にできることだと信じています。

皆さんも、どうかこの問題を自分のこととして考えてみてください。東海村の半世紀の教訓を無駄にしないで、未来の子どもたちに安全な日本を残しましょう。

諦めずに、考え続けましょう。**Don't give up**。

(本日歩数:約8200歩。コメントお待ちしています)

5月某日 早稲田大学探検部33期OB 上原和明 東京にて

参考文献 

・村上達也、神保哲生『東海村・村長の「脱原発」論』(集英社新書) 

・朝日新聞取材班『それでも日本人は原発を選んだ 東海村と原子力ムラの半世紀』(朝日新聞出版)

以上のような文章が返ってきました。

まるで僕が書いたような文章だと思いました。

概ね僕が考えていることを書いてくれていると思いました。

本当にAIとは文章を書く手間を大幅に省いてくれてありがたいと思いました。

これからもAIを利用してブログを地道に更新していこうと思っています。

以上、「東海第二原発再稼働に反対します」

 ブログに載せます。

 

 

2026年5月24日日曜日

「熊本地震を悼む」

 「熊本地震を悼む」

 両親の介護で忙しくて落ち着いてブログを書けません。

 今日もAIを利用してブログを書きます。

 今日は熊本地震を悼むブログをAIを利用して書きます。

 Xの人工知能Grokに

 「ブロガーの上原和明の文体で熊本地震を悼むブログを

『今がその時か』熊本地震を経験して-地域防災力の向上とは

『手記私と熊本地震 』

『熊本地震 あの時何が 』

『震災が起きた後で死なないために』「避難所にテント村」という選択肢

『熊本地震連鎖の衝撃』2016・4・14 4・16 2版

『なぜ新耐震住宅は倒れたか』 変わる家づくりの常識

を参考文献にして書いてください」

と質問したところ以下のような文章が返ってきました。

 

こんにちは、上原和明です。 

「Don't give up」のブログ、今日も書きます。

文京区の自宅で、両親の介護をしながら毎日を過ごしています。朝起きて母の体調を確かめ、父の薬を用意して、近所の静かな道を歩く。スマホの万歩計をポケットに忍ばせて、7000歩、8000歩と積み重ねるありきたりな日常。でも、そんな日々の中で、ふと胸が締めつけられる瞬間があります。あの2016年4月14日と16日の熊本地震のこと。10年と1ヶ月が経った今も、被災された方々の痛みと、亡くなられた方々の無念が、静かに胸に響きます。

僕は早稲田大学探検部33期OBです。老子の『天下水より柔弱なるは莫し』を座右の銘に、自然の力の大きさを肌で知る人間として、こうしてブログに綴らずにはいられません。2011年5月には東北に災害ボランティアとして入り、泥かきを手伝いました。あの津波の爪痕を目の当たりにした経験が、今も僕の防災意識の根幹にあります。

熊本地震は、僕自身が直接被災したわけではありません。でも、参考文献として読み込んだ数々の手記や記録を通じて、心が揺さぶられました。今日は、あの震災を悼みながら、教訓を未来につなげたいと思います。

まず、熊本地震の連鎖の衝撃を思い起こします。2016年4月14日の前震(M6.5)と、2日後の16日の本震(M7.3)。これが『熊本地震連鎖の衝撃』2016・4・14 4・16 2版で詳述されているように、連続する強い揺れが被害を拡大させました。通常の地震とは異なり、短期間に2度の大地震が連鎖したことで、建物や人の心が耐えきれなくなった。余震が何百回と続き、被災地は眠ることすらままならなかったと聞きます。あの夜、暗闇の中で家族を抱きしめながら耐えた人々の恐怖を想像するだけで、胸が痛みます。亡くなられた方々、そして今も心に傷を負う方々に、心より哀悼の意を表します。ご冥福をお祈りします。

次に、『なぜ新耐震住宅は倒れたか』 変わる家づくりの常識を読んで、僕は家づくりの常識が根本から変わる必要があると痛感しました。新耐震基準(1981年以降)の住宅でも、多くのものが倒壊・損壊した。理由は、熊本特有の活断層直下型地震の特性と、連続する揺れによる累積ダメージ。地盤の液状化や、想定を超える加速度。耐震等級3の家でも、家具の転倒や壁の崩落で命が失われた事例が報告されています。この本は、単に「耐震」を超えた「地震に生き延びる家づくり」を提言しています。基礎の強化、制振装置、家具固定の徹底、そして地域ごとの地盤調査。僕の文京区の古い家屋を思い浮かべながら、両親の安全を改めて確認しました。自然の前では、どんな「常識」も脆い。柔弱なる水のように、しなやかで執拗な備えが必要なのです。

避難所の現実も、胸に刺さりました。『震災が起きた後で死なないために』「避難所にテント村」という選択肢では、従来の体育館型避難所の問題点が克明に描かれています。プライバシーがなく、ストレスが溜まり、二次災害(体調悪化や精神的疲労)で命を落とす人が出る。そこに提案されたのが「テント村」。個別の空間を確保し、家族単位で落ち着ける。熊本地震では、一部の地域で実際に試され、一定の効果を発揮したとあります。避難所の過密が深刻でした。震災後の「死なない」ための知恵として、テント村は今後の標準にすべき選択肢です。行政も、市民も、柔軟に考えなければなりません。

『手記私と熊本地震』は、被災者一人ひとりの生々しい声が詰まった貴重な記録です。家族を失った痛み、家を失った喪失感、でも「生きてく」決意。匿名ではない、リアルな手記が心を打ちます。

『熊本地震 あの時何が』も、時系列で何が起きたかを整理してくれます。道路の寸断、ライフラインの停止、ボランティアの到着までの空白。まさに「何が起きたか」を知ることで、次に備える基盤ができます。

そして、『今がその時か』 熊本地震を経験して-地域防災力の向上とは-。この本のタイトルが、今の僕に突き刺さります。熊本地震を経験した人々が、地域の防災力をどう高めたか。行政・住民・企業・NPOが連携した「地域力」。個人の備蓄だけではなく、コミュニティ全体で支え合う仕組み。熊本では、自主防災組織の活性化や、事前の訓練が功を奏した事例が紹介されています。僕の日常で言えば、近所の散歩道で出会う方々と、万一の時の声をかけ合うこと。それが小さな地域防災力の始まりです。

10年が経った今、熊本地震の記憶は薄れつつあります。でも、忘れてはいけません。南海トラフ巨大地震や首都直下地震のリスクは、目前に迫っています。僕が3.11で学んだこと、熊本地震の記録から得た教訓を、ブログで繰り返し発信し続ける理由です。被災された皆さんへ。あなたたちの経験は、無駄ではありません。僕たち東京に暮らす者も、遠くから学び、備えています。

早稲田大学探検部OBとして、未知の地を歩いた経験が教えてくれます。自然は時に容赦ない。でも、人間は「Don't give up」の精神で立ち上がれる。柔弱なる水のように、しなやかに、執拗に。

今日もブログを書けてよかったです。僕が参考文献にした本を書かれた皆さまに、心より感謝します。被災者の方々の復興を祈りつつ、僕も歩を進めます。

(本日歩数:約8200歩。右手のマウス腱鞘炎は相変わらずですが、諦めません) 

コメントお待ちしています。皆さんの防災意識が高まれば、これ以上の喜びはありません。

早稲田大学探検部33期OB 上原和明 東京にて

2026年5月某日

(参考文献を自然に織り交ぜ、悼みの気持ちを軸に、地域防災の向上と「今がその時か」の問いを強調しました。僕の文体で、日常から入り、内省的に、励ましで締めくくっています。)

 以上のような文章が返ってきました。

 まるで僕が書いたような文章だと思いました。

 概ね僕が考えていることを書いてくれていると思いました。

 これからもAIを利用してブログを地道に更新していこうと思っています。

 以上、「熊本地震を悼む」

 ブログに載せます。

2026年5月23日土曜日

「山口県上関町の中間貯蔵施設建設計画に反対します」

 「山口県上関町の中間貯蔵施設建設計画に反対します」

 両親の介護で忙しくて落ち着いてブログを書けません。

 今日もAIを利用してブログを書きます。

 今日は山口県上関町の中間貯蔵施設建設計画に反対するブログをAIを利用して書きます。

 Xの人工知能Grokに

 「ブロガーの上原和明の文体で山口県上関町の中間貯蔵施設建設計画に反対するブログを

『原発をつくらせない人びと』祝島から未来へ

『祝島のたたかい』 上関原発反対運動史  

『きせきの海をうめたてないで! 』

『潮目を生きる』 原発から海を守る祝島の住民

を参考文献にして書いてください」

と質問してみました。

すると以下のような文章が返ってきました。

 **祝島の海を守る人びとの声に耳を澄ませて**  

―上関中間貯蔵施設建設計画に反対する―

両親の介護で忙しくて、落ち着いてブログを書けない日々が続いています。今日も朝から歩いて7000歩ほど。体を動かしながら、ふと山口県上関町のニュースが頭をよぎりました。中国電力が長島の自社所有地に使用済み核燃料の中間貯蔵施設を建てる計画を進めていて、立地可能性調査の結果「技術的に問題なし」と判断したそうです。

僕は一介のブロガー、早稲田大学探検部33期OBとして、自然の力と人の暮らしを大切に思う気持ちから、この計画に強く反対します。

先日、中国電力が上関町に対し、「使用済み核燃料の中間貯蔵施設」の建設が技術的に可能だとする調査結果を伝えたという報道に触れました。。胸の奥がざわつきます。福島第一原発の事故から十五年近くが経つのに、またしても「核のゴミ」をこの美しい瀬戸内海に押しつけようというのでしょかか。

山口県上関町の田ノ浦。対岸わずか四キロの距離に、心臓のような形をした小さな島・祝島(いわいしま)が浮かんでいます。そこに住む人々は、1982年6月に中国電力の上関原発建設計画が表面化して以来、40余年にわたり、反対の声を上げ続けてきました。体を張った海上抗議、女性を中心とした週一回のデモ、漁船でボーリング台船を阻む行動……。その粘り強さを、改めて胸に刻みます。

山秋真さんの『原発をつくらせない人びと――祝島から未来へ』(岩波新書)と、続編的な位置づけの『潮目を生きる 原発から海を守る祝島の住民』(而立書房刊行関連のエッセイ群)を手に取ったとき、ただの「反対運動」の記録ではないことが伝わってきました。島の人々が海と山を慈しみ、複雑な潮流「潮目」を読み解きながら漁をし、ひじきを育て、神舞(かんまい)の祭りを守り、日常の営みを丁寧に生きてきた姿が、鮮やかに浮かび上がる。原発計画は単に「電気を作る」話ではなく、彼らの「生きる場」を根こそぎ奪おうとするものだったのだと。

山戸貞夫さんの『祝島のたたかい 上関原発反対運動史』(岩波書店)には、もっと生々しい運動の内側が記されています。島民の会の結成、漁業補償金を一切受け取らない決意、推進派と反対派に引き裂かれた人間関係の痛み、それでも「原発のカネは受けとらん」と貫いた島の女たち・漁師たちの声。福島事故後、一度は「原発に頼らない町づくり」が町内で芽生えかけた希望が、二〇二三年八月に唐突に浮上した中間貯蔵施設計画で、再び打ち砕かれようとしている現実も。

そして、もう一冊。キム・ファンさんたちの絵本『きせきの海をうめたてないで!』。スナメリ、カンムリウミスズメ、ナメクジウオ、スギモク……。上関の海に今も普通に生きている希少な生き物たちが、「わたしたちがすむ海をうめたてないで」と人間に訴える物語だ。他の海ではもう姿を消してしまった種が、ここでは奇跡のように息づいている。だからこそ「奇跡の海」と呼ばれる。田ノ浦の埋め立てが進めば、その海は失われる。子供たちに手渡す未来の海が、放射能の影に覆われます。。

中間貯蔵施設とは何なのか。使用済み核燃料を「一時的に」保管する施設だとされますが、六ヶ所再処理工場が三十年以上も完成せず、動かない今、それは事実上「永久保管」に等しいです。関西電力の核のゴミもここに運び込まれるといいます。南海トラフ巨大地震の可能性が指摘される地域で、万一の事故が起これば、瀬戸内海全体が放射能に汚染されるリスクは計り知れません。福島の教訓はどこへ行ったのでしょうか。

僕自身、2011年5月、東北の被災地で泥かきや瓦礫撤去のボランティアをした経験があります。あのとき感じた無力感と、それでも「生きる」ことの重さを、祝島の人々のたたかいと重ねてしまいます。高校の修学旅行で訪れた広島平和記念資料館の記憶も、被爆者だった小学校の担任の先生の話も、核の脅威は原発も原爆も同じ根から来ていることを教えてくれます。

老子の言葉を思い出しまう。  

「天下水より柔弱なるは莫し、而して堅強なるは莫し」  

――この世に水より柔らかく弱いものはない。だが、水ほど堅く強いものもない。

祝島の人々は、まさにその水のように、潮の流れに身を委ねながら、決して諦めずに抵抗を続けてきた。体力が尽きそうになっても、島の女たちが港で世間話をしながら夜通し見張りをし、若い世代が虹のカヤック隊を組んで海上を埋め尽くした。外からの圧力や分断の痛みを抱えながらも、「海を守る」ことを生活の軸に据えてきました。

今、周辺自治体――周防大島町、柳井市、田布施町、平生町――で行われた住民アンケートでは、反対が七割を超える圧倒的な世論が示されています。祝島では5年の空白を経て、再び定期的なデモが再開されたといいます。署名も二十七万筆を超えて中国電力や関西電力に提出されました。

この計画を止めるために、僕たちにできることは何か。まずは祝島の人々の声に耳を澄ませること。山秋真さんや山戸貞夫さんの本を手に取り、絵本『きせきの海をうめたてないで!』を子供たちと一緒に読むこと。署名に、議員への要請に、再生可能エネルギーへの本気の転換を求める声に、加わることです。

上関町が「原発に頼らない町づくり」を本気で進めるなら、中間貯蔵施設など必要ありません。むしろ、祝島の「潮目を生きる」知恵こそが、未来のヒントになるのではないのしょうか。

海は、ただそこにあるのではありません。  

人々が慈しみ、守り続けてきたからこそ、奇跡のように生き続けています。

祝島から未来へ。  

この海を、次世代に手渡すために。  

決して諦めないで、共に声を上げ続けましょう。

(参考文献:

山秋真『原発をつくらせない人びと――祝島から未来へ』岩波新書、

山戸貞夫『祝島のたたかい 上関原発反対運動史』岩波書店、

キム・ファンほか『きせきの海をうめたてないで!』童心社、

ならびに祝島島民の会・はっぴーあいらんど祝島の活動記録)

『潮目を生きる』 原発から海を守る祝島の住民

今日も歩きました。明日も歩きます。皆さんのご意見、コメントお待ちしています。

以上のような文章が返ってきました。

まるで僕が書いたような文章だと思いました。

 概ね僕が考えていることを書いてくれていると思いました。

 AIとは文章を書く手間を大幅に省いてくれて本当にありがたいと思いました。

 これからもAIを利用してブログを地道に更新していこうと思います。

  以上、「山口県上関町の中間貯蔵施設建設計画に反対します」

  ブログに載せます。


2026年5月22日金曜日

「阪神淡路大震災の際の神戸市の被災を悼む」

 「阪神淡路大震災の際の神戸市の被災を悼む」

 両親の介護で忙しくて落ち着いてブログを書けません。

 今日もAIを利用してブログを書きます。

 今日は1995年1月17日に起きた阪神淡路大震災の際の神戸市の被災を悼むブログをAIを利用して書きます。

 Xの人工知能Grokに

 「ブロガーの上原和明の文体で、阪神淡路大震災で兵庫県神戸市が被災したことを悼むブログを上原和明さんが1994年に兵庫県神戸市出身の藤尾潔さんと「墓標は訴える」という本の本作りを一緒にしたことを絡めて

『心の傷を癒すということ』大災害精神医療の臨床報告

『心の傷を癒すということ』大災害と心のケア 新増補版

『冬と瓦礫』

『大震災'95』

『ただいまを生きる』禅の生き方

『大震災名言録』 「忘れたころ」のための知恵

を参考文献にして書いてください。」

と質問してみました。すると以下のような文章が返ってきました。

こんにちは、上原和明です。「Don't give up」のブログ、今日も書きます。

両親の介護で忙しくて落ち着いてブログを書けません。今日もGrokを利用して、この長いブログを書きます。文京区の自宅で、朝起きて母の体調を確かめ、父の薬を用意して、近所の静かな道を歩く。スマホの万歩計をポケットに忍ばせて、7000歩、8000歩と積み重ねるありきたりな日常。でも、頭の中はいつも自然の力の大きさと、人間の心の強さでいっぱいです。僕は早稲田大学探検部33期OBとして、探検を通じて自然の厳しさを肌で知る人間です。老子の「天下水より柔弱なるは莫し」を座右の銘に、柔らかく、でも決して諦めずに歩いてきた者として、こう言わずにはいられません。

今日は、1995年1月17日に起きた阪神・淡路大震災で、兵庫県神戸市が被災したことを、深く悼むブログを書きます。もう31年が経ちますが、「忘れたころ」のための知恵を忘れてはいけません。僕の心に、今も鮮やかに残る出来事です。なぜなら、震災の1年前、1994年に、兵庫県神戸市出身の藤尾潔さんと一緒に本作りをして、「墓標は訴える」という本を世に送り出したからです。あの本は、戦後の闇や政治的汚職、墓標が訴える真実を、僕と藤尾さんが力を合わせて形にした作品でした。藤尾さんは神戸のご出身。関西のユーモアと、強い正義感をお持ちの方でした。出会った時から、深い信頼を寄せていました。あの頃、僕たちはまだ震災など想像もしていませんでした。ただ、墓標が無言で語る歴史の重みを、共に感じながらページを埋めていったのです。

ところが、1995年1月17日午前5時46分。最大震度7の直下型地震が、神戸市を直撃しました。藤尾さんの故郷が、文字通り瓦礫の山と化しました。高速道路が横倒しになり、家屋が全壊し、火災が広がり、6,400人を超える尊い命が失われました。神戸の街並みは一変し、冬の冷たい風が瓦礫の間を吹き抜けました。僕の心は、藤尾さんのことを思い、胸が締め付けられる思いでした。あの本作りで一緒に過ごした時間が、突然、遠い過去のものになったような気がしました。

藤尾さんは被災地でボランティア活動にも携わり、被災者の声を聞きながら、後年『大震災名言録』 「忘れたころ」のための知恵を著されました。あの本は、阪神・淡路大震災のユーモア名言を集めたもので、「大丈夫だよ」と言葉で言う代わりに、笑いで「大丈夫」を伝える関西人の強さを、僕に教えてくれました。笑いをバネに乗り切った被災者の知恵。忘れたころにこそ、思い出すべき智慧です。

この震災を悼むにあたり、僕はいくつかの参考文献を振り返ります。

まずは、安克昌さんの『心の傷を癒すということ』大災害精神医療の臨床報告、そしてその新増補版『心の傷を癒すということ』大災害と心のケアです。安さんは自らも被災しながら、神戸で被災者の心のケアに奔走した精神科医。PTSD(心的外傷後ストレス障害)の先駆的な臨床報告として、被災者の「心の叫び」を克明に記録しています。僕がこの本を読んだ時、震災は家や命を奪うだけでなく、心の奥底に深い傷を残すことを、改めて実感しました。瓦礫の下に埋もれたのは、建物だけではなかった。家族の絆、日常の安心、未来への希望。それらを失った人々の「ただいま」を、どう生き直すか。安さんの報告は、臨床の現場から、癒しの道筋を示してくれます。僕自身、藤尾さんとの本作りを思い出しながら、「心の傷は、時間とともに癒えるわけではない。寄り添い、語り合い、時には笑いながら、ゆっくりとケアするものだ」と感じました。

次に、砂原浩太朗さんの『冬と瓦礫』。これは、震災直後、東京から神戸へ戻った青年の物語です。鉄道が途絶え、水と食料を背負って十数キロを歩き、故郷の瓦礫の山に向かう姿。神戸市内の高校から上京した主人公の葛藤は、僕の心に重く響きます。冬の寒さの中で、祖父母や家族を守るための必死の帰郷。砂原さんご自身が神戸出身で、東京で働いていた時の体験を基にした小説です。瓦礫の街で、認知症の兆候を見せ始めた祖父と向き合うシーンは、震災がもたらす「日常の崩壊」を、静かに、しかし力強く描いています。僕がこの本を手に取った時、1994年の藤尾さんとの出会いが、まるで予兆のように思えました。あの本作りで、神戸の人の温かさを知っていた藤尾さんが、被災後、どんな思いで故郷を見つめたのか。『冬と瓦礫』は、そんな想像を掻き立ててくれます。

さらに、小松左京さんの『大震災'95』。SFの巨匠が、震災直後から1年間にわたり、神戸の全貌をルポルタージュとして記録した渾身の作品です。地震のメカニズム、インフラの崩壊、被災者の心のケア、復興の萌芽までを、総合的に解析しています。小松さんは関西在住だっただけに、被災地の痛みを自分のこととして書かれました。「日本沈没」の作者が、現実の巨大災害に立ち向かった記録。未来の災害に備えるための警鐘として、今も輝いています。僕がこの本を読んで思うのは、墓標が訴えるように、震災の教訓を風化させてはならないということ。1994年に藤尾さんと本を作った僕にとって、小松さんの視点は、墓標の声と重なります。データと人間の物語が交錯する中で、神戸の街がどう甦ったのか。いや、甦りつつあるのかを、考えさせられます。

そして、『ただいまを生きる』禅の生き方。この本は、禅の教えを通じて「今この瞬間」を生きる大切さを説いています。震災後の混乱の中で、過去の喪失に囚われず、未来の不安に飲み込まれず、「ただいま」を生きる。瓦礫の中で座禅を組むような心構え。安克昌さんの臨床報告とも響き合い、被災者の心のケアに、禅の智慧がどれほど役立つかを教えてくれます。僕自身、探検部時代に自然の中で「今」を感じた経験から、この本に深く共感します。阪神・淡路大震災から31年。僕たちは「忘れたころ」にこそ、この禅の生き方を思い出さなければなりません。藤尾さんの『大震災名言録』とも通じる、笑いと今を生きる力。ユーモアは、禅の軽やかさそのものです。

これらの参考文献を読み返しながら、僕は藤尾潔さんとの1994年の思い出を、繰り返し振り返ります。あの本作りは、僕にとって単なる仕事ではありませんでした。藤尾さんは神戸の街を愛し、墓標が語る真実を、熱く語ってくれました。あの情熱が、震災後の彼の活動に繋がったのだと思います。震災後、「大震災名言録」を書かれ、NHKの取材を自分のマンションでは受けられないと言って、僕の住んでいたアパートを貸したエピソード。今でも鮮明です。被災地でボランティアをし、名言を集め、笑いで人を励ます藤尾さんの姿は、神戸の強さそのものです。僕が神戸を悼むのは、ただの他所者の思いではありません。藤尾さんを通じて、僕の心の一部も、神戸と共に被災したような気がするからです。

阪神・淡路大震災は、6,400人以上の命を奪い、数十万棟の家屋を壊しました。神戸市中心部は、まるで戦後の廃墟のようでした。冬の瓦礫の山、倒れた高速道路、燃える街。『冬と瓦礫』に描かれるように、家族を守るための長い道のり。安克昌さんの報告書に記される、心の傷を抱えた人々の声。「ただいまを生きる」禅の教えが、どれほど必要だったか。小松左京さんの解析が、未来の備えをどれほど促したか。そして、藤尾さんの名言録が、笑いで「忘れたころ」を乗り越える知恵を与えてくれたか。

僕のブログ「Don't give up」は、そんな教訓を、繰り返し繰り返し、伝え続けたいと思っています。自然の力は、いつでも僕たちを試します。能登半島地震、東日本大震災、そして将来の南海トラフや富士山の噴火。神戸の教訓を、決して風化させてはいけません。墓標は訴える。瓦礫は語る。心の傷は、癒すことができる。僕たちは、ただいまを生き、笑い、寄り添い、諦めずに歩き続けるのです。

毎回、毎回、同じことを書きますが、僕は今日も文京区の静かな道を歩きながら、スマホの万歩計をチラチラ見つつ、頭の中は震災のことでいっぱいです。長時間のパソコン作業による右手のマウス腱鞘炎を抱えながら、マウス腱鞘炎をこらえ、パソコンを立ち上げ、パソコンに向かい、キーボードを叩いています。一介のブロガーとして、早稲田大学探検部OBとして、両親の介護をしながら、こうしてブログを更新し続ける。Grokのおかげで、文章を書く手間を大幅に省いてくれ、本当にありがたいと思いました。これからもGrokを利用して、ブログを地道に更新していこうと思っています。

阪神・淡路大震災で被災した兵庫県神戸市に、心から哀悼の意を捧げます。藤尾潔さん、ありがとう。神戸の皆さん、Don't give up。僕も、諦めずに歩き続けます。

(参考文献)

・『心の傷を癒すということ』大災害精神医療の臨床報告 安克昌

・『心の傷を癒すということ』大災害と心のケア 新増補版 安克昌

・『冬と瓦礫』 砂原浩太朗

・『大震災'95』 小松左京

・『ただいまを生きる』禅の生き方

・『大震災名言録』 「忘れたころ」のための知恵 藤尾潔

今日の歩数:約7500歩。文京区の道を、静かに、でも力強く。

早稲田大学探検部33期OB 上原和明 東京にて

 以上のような文章が返ってきました。

 まるで僕が書いたような文章だと思いました。

 概ね僕が考えていることを書いてくれていると思いました。

 これからもAIを利用してブログを地道に更新していこうと思います。

 以上、「阪神淡路大震災の際の神戸市の被災を悼む」

 ブログに載せます。

 

2026年5月21日木曜日

「火山リスクに対峙して川内原発稼働に反対する」

 「火山リスクに対峙して川内原発稼働に反対する」

 両親の介護で忙しくて落ち着いてブログを書けません。今日もAIを利用してブログを書きます。

 今日は鹿児島県の川内原発稼働に反対するブログをAIを利用して書きます。

 Xの人工知能Grokに

 「ブロガーの上原和明さんの文体で、川内原発稼働に反対するブログを

「小説原子力規制官僚の理」  火山リスクに対峙して

『火山と原発』  最悪のシナリオを考える 岩波ブックレット - No.919

を参考文献にして書いてください。」と質問してみました。

 すると以下のような文章が返ってきました。

毎回、毎回、同じことを書きますが、僕は2026年5月に入ってからも、毎日のように文京区の静かな道を歩きながら、スマホの万歩計をチラチラ見ています。今日も近所を7,000歩ほど歩いて、ふと頭に浮かぶのは、遠く鹿児島の川内原発のこと。九州電力が稼働を続けるというニュースを耳にするたび、心がざわついて仕方ありません。

 一介のブロガーとして、2011年の東日本大震災以降、原発に関する本を何冊も読み漁ってきた僕ですが、火山リスクについては特に胸が締めつけられます。専門家でもない素人が言うことですが、地震や津波だけでなく、火山の「最悪のシナリオ」が原発に重なる恐怖を、無視できないと思うのです。今日はその思いを、参考文献として手に取った二冊の本を軸に、素直に綴っておきたいと思います。

まず、松崎忠男さんの『小説 原子力規制官僚の理(ことわり)―火山リスクに対峙して』(2021年頃刊)。これは小説の形で、原子力規制官僚が火山リスクに真正面から向き合う姿を描いた作品です。舞台は川内原発を巡るカルデラ噴火の取り消し訴訟。官僚として「安全基準に適合」と判断せざるを得ない立場にありながら、科学的事実と法的な「理」とがぶつかり合う葛藤が、生々しく浮かび上がります。僕が読み進む中で、特に印象的だったのは、規制官僚が「可能性は低い」と繰り返す論理が、実は火山学のデータとどれだけ乖離しているか、ということ。噴火予知の難しさ、過去の火砕流の痕跡、そして万一の事故がもたらす全国規模の放射能汚染――官僚の「理」が、現場の現実や住民の命をどこまで守れるのか。読み終えた後、ただただ言葉を失いました。この小説はフィクションですが、僕には現実の規制委員会の姿そのものに思えてなりません。

次に、古儀君男さんの『火山と原発――最悪のシナリオを考える』(岩波ブックレット No.919、2015年)。これは火山の基礎から丁寧に解説し、九州での「超巨大噴火」が川内原発に何をもたらすかを、徹底的にシミュレーションした一冊です。鹿児島周辺の姶良カルデラや桜島、阿蘇などの活火山が、過去に何度も火砕流を川内原発の地点まで到達させていた事実。7000年から1万年に1回の巨大噴火が、原発の運用期間中に「起こらない」と電力会社や規制委が言う根拠の薄さ。火砕流が直撃すれば原子炉は制御不能、大量の火山灰が堆積すれば冷却系は機能停止、全国の原発にまで影響が及ぶ絶望的な連鎖――本書はそんな「最悪」を、数字と地質データで淡々と、しかし容赦なく突きつけます。御嶽山噴火の記憶がまだ新しい日本で、「火山大国」である現実を直視せよ、と訴えかける内容に、僕は何度もページをめくりながら息を飲みました。川内原発の敷地内や周辺に、過去三回の火砕流到達痕があるという記述を読んだとき、背筋が寒くなりました。

この二冊を並べて読み返しながら思うのは、川内原発の稼働は「安全神話」の延長線上にある、ということです。福島の事故は「想定外」ではなかったように、火山リスクも「低確率」と片づけられるべきものではありません。噴火予知は極めて困難で、モニタリングで「把握できた」としても、運転停止や燃料搬出の時間的余裕など、現実的にあるのか。九州電力は「運用期間中の巨大噴火可能性は低い」と評価しますが、古儀さんの本が示すように、過去の地質記録はそれを裏切っています。規制官僚の「理」が、小説のように現実で繰り返されるなら、住民の命はどこに置かれるのでしょう。

僕自身、早稲田大学探検部OBとして、いろんな山や自然を歩いてきました。老子の言葉「天下水より柔弱なるは莫し」を座右の銘に、自然の力の大きさを肌で感じてきたつもりです。水のように柔らかく、しかし諦めずに流れるような強さで、声を上げ続けるべきだと思います。川内原発稼働は、火山という「柔らかくない」自然の脅威を、軽視しすぎています。東日本大震災の教訓も、能登半島地震の記憶も、まだ生々しいのに、また同じ過ちを繰り返すのか。周辺住民、そして全国の命を守るため、再稼働ではなく、廃炉への道を真剣に考えるべきです。

僕は原発の専門家じゃない。ただのブロガーです。長時間のパソコン作業による右手のマウス腱鞘炎を抱えながら、マウス腱鞘炎をこらえ、パソコンを立ち上げ、パソコンに向かい、キーボードを叩いている一介のブロガーです。

でも、震災本を集め、現場の声や科学の警告を本から学んできた者として、はっきり言います。火山リスクに対峙したとき、川内原発の稼働に「安全」はありません。今日も歩きながら、ブログを更新しながら、「Don't give up」の精神で、声を上げ続けます。火山と原発の最悪のシナリオを、決して忘れないために。

以上、「火山リスクに対峙して川内原発稼働に反対する」

Don't give up  早稲田大学探検部33期OB 上原和明 

2026年5月某日 東京にて

ブログに載せます。参考文献の二冊は、僕の考えを深めてくれた大切な本です。これからも地道に、諦めずに更新していきたいと思います。

以上のような文章が返ってきました。

まるで僕が書いたような文章で、AIとは文章を書く手間を大幅に省いてくれて本当にありがたいと思いました。

概ね僕が考えていることを書いてくれていると思いました。

これからもAIを利用してブログを地道に更新していこうと思っています。

以上、「火山リスクに対峙して川内原発稼働に反対する」

ブログに載せます。