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2024年8月11日日曜日

「8月11日、山の日に思う」

 「811日、山の日に思う」

  今日811日は山の日です。

  僕は早稲田大学時代に探検部というサークルに所属していて、山登りもしていました。

   僕は小学生の頃から山登りはしていましたが、僕が本格的な山登りをするようになったのは早稲田大学探検部に入部してからです。

   早稲田大学探検部時代には、南アルプスの聖岳、荒川岳、群馬県の谷川岳、などの山登りをしました。海外ではチベットのカイラス山の周りの巡礼路歩きも体験して、最高標高5630メートルのドルマ峠にも行ったことがあります。

  小学生の頃は奥多摩の山登りをしていました。

  早稲田大学卒業後は、全くと言っていいほど、山登りはしていません。

  大学卒業後は、仕事、仕事で忙しくなり、山登りに行くこともなくなりました。

   早稲田大学探検部時代を思い出して、山登りをするのも良いのだと思いますが、登山靴、トレッキングシューズも無いし、リュックサックもありません。山登りをするための装備がありません。

   地形図の読み方も分からないし、コンパスの見方も分からないし、天気図の読み方も分かりません。 

 早稲田大学探検部時代には、山登りのための勉強をしたことがありますが、現在ではほとんど忘れてしまっています。

  運動不足解消を目指して、アウトドア活動である、山登りをするのも良いのだと思いますが、山登りをするための装備も無いし、スキルもありません。

 お気軽なハイキング気分の低山の山登りなら出来るのかもしれませんが、このところ、東京都文京区から出ることも無くなり、家に引きこもり気味で高齢の両親のことばかり考えていて、自分のための気晴らしというか、気分転換というか、リフレッシュする機会が無くなってしまいました。

 せっかく、山登りを推奨する山の日まで制定されているのだから、リフレッシュとしてのアウトドア活動の山登りをしても良いのだと思っています。

  なんとか時間を作って、リフレッシュとしてのアウトドア活動の山登りをしてみようと思っています。

  今日、811日は山の日なので、山の日に僕が思ったことをブログに書いてみました。

  以上、「811日、山の日に思う」

  ブログに載せます。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

2024年6月16日日曜日

「荒川岳山行」

 「荒川岳山行」

僕は早稲田大学在学中に名門サークル「探検部」に所属していていました。

  「探検部」では20キロ近い、ザックを背負って、3000m級の山の登山をすることがあるので、東京にいるときも、山行を想定してトレーニングをしていました。

  僕らの学生時代も重い荷物を背負ってのウォーキングの練習(歩荷)がありました。

  僕が大学2年生の時の秋合宿で南アルプスの名峰群、荒川岳山行の合宿があり、僕もその合宿に参加することになり、歩荷の練習を東京で行いました。

   荒川岳山行の際の写真はこちら

 


  早稲田大学の近所にはなかなか、歩荷の練習が出来る場所がありませんでしたが、荒川岳山行の際にリーダーになった先輩、早稲田大学探検部32期の船越通暁さんは、プレ合宿として、東京都新宿区にある早稲田大学から、横浜の港の見える丘公園までを、重さ20キロのザックを背負っての歩荷を言い出しました。

  当時はグーグルマップなどなかったので、どのくらいの距離があるのかも分かりませんでした。

  現在ではグーグルマップで調べられるので、調べてみましたが、約35kmほどあるみたいです。

  人間の歩く速さは時速4kmくらいと言われていますから、単純計算で、新宿区の早稲田大学から神奈川県横浜市の港の見える丘公園までの35kmを歩くのに、約9時間かかるということになります。

  僕たちは土曜日の夜の9時ころに早稲田大学の大隈講堂の前を出発して、横浜の港の見える丘公園を目指して歩き始めました。

  途中までは、参加者全員、仲良く歩いていましたが、歩く距離が増えるにつれ、参加者の疲労度も変化してきます。

  そもそも、体力には個人差があり、35kmの行程を、皆で同じスピードで歩くことは無理がありました。

  途中から、参加者はそれぞれの体力に合わせて歩くことになり、34kmのウォーキングは個人行となりました。

  僕も個人行になりましたが、途中で眠くなったので、公園で野宿。

  翌朝、起きて、国道1号線をとぼとぼと歩き始めました。

  神奈川県に入ると、京浜東北線の駅が目に入り、歩くのを止めて電車に乗りたいという思いに駆られましたが、なんとか、歩き通して、横浜の港の見える丘公園に到達。

  横浜の港の見える丘公園に到着したのは、午前11時頃だったと思います。

  港の見える丘公園に到達しても、探検部員は見当たりません。

  そのまま、京浜東北線に乗り、帰京しました。

  山行のためには、やはり、きちんとしたトレーニングは大事なのだなと思いました。

  山は地形も複雑で、地形図を読む技術も必要ですし、天気も変わりやすく、天気図を読む技術も必要です。様々な技術があってこその山行が多いと思います。

  山行をしたい人は多いとは思いますが、やはり、きちんと準備しての山行でないとトラブルに巻き込まれる可能性はあると思います。

  ひ弱な東京人が南アルプスの3000m級の名峰、荒川岳のような山行をする際には、東京都内での山行の準備は、必要でした。

  以上、「荒川岳山行」

  ブログに載せます。

2022年6月21日火曜日

「チベットで詠んだ句、カイラスに 帰らすなんて 言わせない」

 「チベットで詠んだ句、カイラスに 帰らすなんて 言わせない」

  僕は早稲田大学探検部2年生の時(1988年夏)に同期の仲間とチベットの聖山カイラス山に赴きました。

   チベットカイラス隊では僕が隊長を務めました。

   隊長である僕が早稲田大学探検部’88夏チベット探査計画書に書いていた文章は以下です。

  「‘88 夏 チベット探査計画書 はじめに」

  「現代社会へのアンチテーゼ」

  「チベットその魅力」

   チベットの聖山カイラス山(標高6656メートル)とは未踏峰で到達困難峰とされていて、チベットではカイラスまでの行程の途中で、カイラスに到達出来ないのではないかという状況が幾度かありました。

  カイラスに到達出来ないのではないかという際にメンバーの1人である中谷敏夫さんが、僕に

 「ここで一句」と僕に言ってきたので、

  僕はメンバーの前で

  「カイラスに 帰らすなんて 言わせない」

  という句を詠みました。

  大学2年生の時の句なので稚拙な句ですが、僕は隊長として、メンバーの前で、

  「カイラスに 帰らすなんて 言わせない」

  と詠みました。

  チベットでの集合写真はこちら

                                  ↓

 


 左から、上原、倉島、中谷、桜井です。

  ラサに滞在した際の僕がロンリープラネットのTravel Survival Kit(トラベルサバイバルキット)を読んで、カイラスにどうやって行こうかと悩んでいる様子を撮った写真はこちら。ちなみにラサでは、「カイラス行かれません」と日本人旅行者の方に言われていました。

  


 ラサで宿泊したホテルで、チベットの現地の少女の子と日本から持参した線香花火をしている様子を撮っている写真はこちら。

       


       


  チベットに行った翌年の1989年にカナダユーコン川川下りに行き、ユーコン川川沿いの先住民の方々のインディアンの方々の居留区に行った際の写真はこちら

 


 カナダユーコン川川下りについて書いているブログこちらです

 「紫藤クリニック カウンセリング カナダ・ユーコン川川下り」

  この句の通り、僕らは多くの困難に遭いながらも、チベットの聖山、カイラスに到達しま
した。

   どのような困難に遭ったかというと分かり易く言えば、ヒッチハイクしたトラックがスタック(立ち往生)してしまって前に進めなくなるような事態です。

 どのような状況が分かり易い写真はこちら

                  ↓


  左から中谷、倉島、上原です。 
 
  このようにスタック(立ち往生)したトラックを皆で押したりしていました。
 
  チベットカイラス遠征では、遠征に費やした期間は約2ヶ月半。チベットの現地では食べ物もあまりなく、本当に苦しい遠征でした。チベットカイラス隊のメンバーである副隊長の桜井誠人、渉外の倉島孝行、食糧の中谷敏夫の3名も、チベットで食べ物があまりなく、激ヤセ(痩せ)してしまいました。

 隊長であった僕、上原和明は、チベットの食べ物であるツァンパに干しぶどうを入れたものを食べて、太りました。何故か僕だけ、チベットの食べ物である、ツァンパに干しぶどうを入れたものを食べて太りました。

 当時のチベットは、中国の監視下に置かれていて、入域するのも困難との情報も出回っており、チベットの首都であるラサに入ることさえ難しいと言われていました。

 まして、西チベットのカイラス山に至っては、外国人が足を踏み入れるのも極めて難しい聖なる山でした。

 世界中の探検・冒険愛好家の憧憬の山でした。

  チベットではマリオ(MARIO BLASEVICH)というカナダ人(カナダのブリティッシュコロンビア州に住んでいたカナダ人)に会いました。マリオとは中国四川省の魔の山と言われる、ミニヤコンガに挑んだことがあり、凍傷で手の指が無い部分もあった探検家であり冒険家でした。

 僕が早稲田大学探検部3年生の時にカナダユーコン川川下りに行った際に、マリオのカナダブリティッシュコロンビア州の自宅を訪ねたことがあります。(留守でした、チベットでカナダブリティッシュコロンビア州のマリオの自宅の住所を教えてもらいました。)

マリオの姿の写っている写真はこちら

              ↓

 


一番右にいるのがマリオです。

左から中谷、倉島、上原、マリオです。

 僕らは多くの困難に遭いながらもなんとか、憧憬の山カイラスに到達しました。

 チベットの聖山、カイラス山に到達してからは、標高5630メートルのドルマ・ラ峠のあるカイラス山の周囲の巡礼路約52キロを重さ約20キロある100リットルザックを背負って2日かけて歩きました。

 チベットの信仰の山、聖山カイラス山の周囲の巡礼路では、巡礼するチベット仏教徒の方々、ヒンドゥー教徒の方々が多くいらっしゃいました。

 信仰の山の巡礼路は標高5600メートルを超えるドルマ・ラ峠を最高標高点に、本当に苦行をする道のようでした。

 僕はチベットのカイラス山の周囲の巡礼路を2日かけて歩いて、仏教徒の方々やヒンドゥー教徒の方々の厚い信仰心を感じ取りました。

 カイラス山の周囲の巡礼路の地図は以下です。

 

 

チベット カイラス山6:~カイラス山巡礼2日目:最大難関5660mドルマラ峠でチベタンと触れ合う感動の1日~)


 より引用させていただきました。

 心から、カイラス山に辿り着いたことを喜び、一生の思い出にする人々もいらしたと思います。

 1988年夏チベット探査報告書はこちら

 → 1988年夏チベット探査報告書」

 チベットの聖山、カイラスについて書いているブログはこちら

 →「チベットの聖山、カイラス」

 僕の撮ったチベットのスライドは紛失してしまったようです。

 → 「チベットのスライド」

    僕らの1988年夏の隊が早稲田大学探検部チベット第三次隊であったことを書いているブログはこちら

 →「早稲田大学探検部とチベット」 

 僕らがチベットに行く前にチベットについて勉強会を開いていたことを書いているブログはこちら

 →「チベット勉強会」

 僕がチベットの水力発電、地熱発電のことについて書いているブログはこちら

 →「チベットの水力発電、地熱発電」

 僕がチベットには原発が無いことを書いているブログはこちら

 → 「チベットと原発」

 僕がカイラス巡礼路のドルマラ峠が本当に苦しかったことを書いているブログはこちら

 → 「チベットの聖山、カイラス」

 僕がブラマプトラ川の源流としてのカイラスについて書いているブログはこちら

 →「ブラマプトラ川の源流としてのカイラス」 

 僕がカイラスと日本人について書いているブログはこちら

 → 「カイラスと日本人」

   早稲田大学探検部の先輩、中島木祖也さんと吉澤基勝さんとインド・ネパール・チベット料理屋さんでの会合をしたことについて書いているブログはこちら

 →「インド・ネパール・チベット料理屋さんでの会合」

  「インド・ネパール・チベット料理屋さんでの会合後のメールのやり取り」

  「インド・ネパール・チベット料理屋さんでの会合でお話ししたカイラスについての話」

   チベットの聖山、カイラスに到達して、カイラス巡礼路の途中の宿泊するゴンパのあるカイラス北壁での様子を書いた報告書のようなものはこちら

 →「チベットの聖地、カイラス山北壁にて」

  このカイラス北壁のことについては1988年の早稲田大学の学生手帳には以下のようなことが書かれていました。

 "I stayed the north of Kailas for 4 days,a lot of snow,snow."

  "I was waiting for my friends for a week,but not coming here.

  Maybe tyey got sick,I must go back to Ali. Because I am a captain of our party."

 "I went to Kailas Sep 5. I was waiting for my 2 friends for a week,but not

   appear, I thought  they  got sick,so I come back here,Sep 13,and they 

had just gone to"

 以上のような英語の言葉が1988年の早稲田大学の学生手帳に書かれていました。

 以下のような中国語も載っていました。

 ”你去神山嗎?” (カイラス山に行きますか?)

   学生手帳にはカイラスの巡礼路についての簡単な絵も載っていました

 


    


  僕は言葉の力とは大きいものだと思っています。

  困難に直面した際にどのような言葉を発するかで、リーダーとしての資質が明らかにされると思います。

  僕がチベットで、カイラスまで到達出来ないと思われるような苦境に立たされた際に、

  「カイラスに 帰らすなんて 言わせない」

  と詠んでいたことをブログに書いておきます。

  ちなみにカイラスに到達し、カイラスから無事日本に帰ってきてから、関西に遊びに行き、神戸の中華街、南京町に行ったときの4人の様子を撮った写真はこちら

                            ↓


 左から倉島、桜井、上原、中谷です。

 チベットカイラス隊の4人とも日本に帰ってくると普通の大学生でした。

   関西では大阪の新世界にも行きました。

  大阪の新世界に行った際の写真はこちら。

 


 左から 中谷、上原、倉島、桜井です。

 新世界では、僕は生まれて初めて、ストリップ劇場に入場して、女性のストリップショーを見ました。

 2019年3月23日(土曜日)に約30年ぶりにチベットカイラス隊の4人とチベットで会った吉竹俊之君(近畿大学探検部OB)、田中智秀君(中国語の専門家)と6人で高田馬場の居酒屋で飲み会をした際の集合写真はこちら

                          ↓


 左から吉竹、桜井、上原、田中、倉島、中谷です。

 チベット遠征から30年以上経っても皆、元気でした。

 飲み会のことを書いているブログはこちら

    → 「2019年にチベットカイラス隊で飲み会をした際のメールのやり取り」

 →30年以上前にチベットに遠征した男たちはとても元気だった」

   →「高田馬場にんじん屋に見た背中に鉄板入れられる幻覚」

 →「高田馬場のにんじん屋で自らの罪を自白した倉島孝行、桜井誠人」

 →「高田馬場にんじん屋に見た早稲田大学探検部3.5軍」

  →「高田馬場にんじん屋に見た小沢一郎も小石川だな」

 →「高田馬場にんじん屋に見た博士」

 →「高田馬場にんじん屋に見た船戸与一みたいだな」

 →「高田馬場にんじん屋に見たおまえが麻原彰晃だったんじゃないか?」

 →「高田馬場にんじん屋に見たバビロンシステム」

 →「西川口式をキューポラのある街で止めた」

 →「今日はカイラスの写真集を持って行こうと思っている」

 →「明日は変なことを言わないように気をつける」

 →「チベットに行ったときのことを思い出せば大抵のことは乗り越えられると思っている」

 「一人にならないと文章は書けないようだ」

 →「チベット隊はすぐに集まるのに、ユーコン隊は全く集まりがないと思っている」

 →30年以上前にチベットに挑んだ男たちが集うことになった」

 →「チベットで会った人間から連絡があった」

 →「早稲田大学探検部、チベット隊とコンゴ隊の仲の悪さ」

 →「早稲田大学探検部チベット隊でクレイジージャーニーを見ている人間はいないようだ」

  →「早稲田大学探検部で計画書を作れたところで何の力も持たない」

  →「現代社会へのアンチテーゼなんて書かなければ良かった」

 →「ラーメン屋のせがれが現代社会へのアンチテーゼなんていう文章を書けるのか?」

 僕がチベット隊のことについて書いているブログはこちら

 「紫藤クリニック カウンセリング  チベット・カイラス山への遠征」

「障害者福祉施設での安いから発言」

「学生時代の舞台、箱根駅伝、チベット」

「早稲田大学探検部チベット隊の隊長なんて務めなければ良かった」

「早稲田大学探検部チベット隊は隊長より、メンバーの方が偉くなっている」

「早稲田大学探検部で隊長を務めると辛いよ」

「昨日、カイラスのYou Tubeを見たが、すごい場所に行っていたと思った」

「チベット、ラサのサッカー」

kailas  OSとか作ってくれないかと思っている」

 「チベットで出会った田中智秀君にプレゼントされた男宝(ナンパオ)」

 「チベットカイラス隊では僕だけマナサロワール湖に行っていない」

「小日向台町小学校の卒業文集、個人文集、『チョモランマ』」

僕が僕の人生の中で早稲田大学時代が人生の頂点だったことを書いているブログはこちら

「早稲田大学時代が人生の頂点だった人生」

  ちなみに

   僕がチベットに行く前にリストアップしていた書籍は以下です。

 →「チベットに行く前にリストアップしていた書籍」

 僕がチベット行きの遠征資金を貯めるためにしていたアルバイトのことについて書いているブログはこちら

 →「チベットに行く遠征資金を貯めるためにしていたアルバイト焼き鳥屋さん   でのアルバイト」

 僕がチベットに行く前に「探検部」のことを考えてみた文章が載っているブログはこちら

 → 「チベットに関する書類、探検部とは何か」

      僕がチベットに行く前に日記に書いていたものは以下です。

    「チベットに行く前の198817日の日記 混沌」

 →「チベットに行く前の1988110日の日記 創造」

 → 「チベットに行く前の1988113日の日記 混沌」

  → 「チベットに行く前の1988119日の日記 幸福」

 →チベットに行く前の1988127日の日記 価値観 アンチテーゼ」

 →「チベットに行く前の1988225日の日記 アンチテーゼ」

 → 「チベットに行く前の1988227日の日記」

 →「チベットに行く前の198831日の日記」

 → 「チベットに行く前の198839日の日記 情報化社会」

 → 「チベットに行く前の1988325日の日記 価値観」

 →「チベットに行く前の1988328日の日記 百聞は一見に如かず」

 →「チベットに行く前の1988512日の日記 チベット」

 → 「チベットに行く前の1988526日の日記 チベット」

 → 「チベットに行く前の198863日の日記 チベット」

 「チベットに行く前の1988619日の日記 チベット」

 足になってしまいますが、チベットカイラス遠征の際に僕がチベットに持っていた本の中の1つは旅行ガイドブックのロンリープラネットのチベットトラベルサバイバルキット(lonely planet Tibet a trabvel  survival kit)という英語の旅行ガイドブックでした。

 

  僕がチベットカイラス隊の4人とチベットで会った吉竹君、田中君と約30年ぶりに飲み会をした際に僕が持っていたカイラスの写真集は、僕が早稲田大学探検部4年生の時にインドブラマプトラ川川下りに行った際に、インドニューデリーで購入した、

 「THE SACRED MOUNTAIN OF TIBET」

 Kailas: On Pilgrimage to the Sacred Mountain of Tibet)

 という英語の写真集でした。

 

 

 今でも僕の家にあるチベットのカイラスに関する本は。

 「チベットの山」 カイラス山とインド大河の源流を探るという本です。

 

 

  僕の家に今でもあるヒマラヤの写真集は

 「ヒマラヤ 満天星」という写真集です。

 


 

 

2021年12月23日木曜日

「昨日はインドブラマプトラ川川下りに一緒に行った関口君と飲みに行った」

 「昨日はインドブラマプトラ川川下りに一緒に行った関口君と飲みに行った」

  僕は、昨日は、インドブラマプトラ川川下りに一緒に行った関口君と飲みに行きました。

  高田馬場のBIG BOX前で待ち合わせして、高田馬場のインド料理屋(正確にはインド・ネパール・チベット料理のようです)に行きました。

  高田馬場の早稲田通り沿いの雑居ビル3階にあるインド料理屋で飲みました。

  お店は関口君が知っていて、関口君が若い頃に、志岳会という山岳会に所属して登山をしていた頃に、志岳会の人と一緒に行ったことのあるお店のようです。

  インド料理屋ではエベレストという名前のビールを飲みました。

  つまみはシーザーサラダ、タンドリチキンを注文しました。

  ナンとかも食べようと思いましたが、僕も関口君もお腹いっぱいになりナンに辿り着かずに、飲み会は終了しました。

  2時間くらい、インド料理屋で飲んでいました。

  僕  が日本ヒマラヤ協会の八木原さんから送っていただいた、HIMALAYAという冊子を持っていて、HIMALAYAに掲載されているインドブラマプトラ川川下りの記事、「White water(白い水)」を関口君に見せました。

 White water(白い水)」には関口君や八木原さん、八嶋さん、中谷、僕の写真も載っていました。

 インドブラマプトラ川に行ったときの思い出話などをずっと2人でしていました。

  八木原さん、八嶋さん、ヒマラヤ協会の山森さん、尾形さんたちの話などをしていました。

  八木原さん(八木原国明さん)にとっては、インドブラマプトラ川川下りは息抜きみたいなものだったでしょうね、インドブラマプトラ川川下りの後のサガルマータ(エベレストのネパール語での呼び方)南西壁での八木原さんの真剣な顔つきを見たら、インドブラマプトラ川川下りなんて息抜きみたいなものでしょうねと八木原さんについて話しました。

 八嶋さん(八嶋寛さん)については、八嶋さんは長く銀行に勤めていて仕事を辞めてヒマラヤ登山をしていた人で、八嶋さんは、仕事を辞めないと一人前と言えないと言っていたとか話しました。

  山森さん(山森欣一さん)については、高田馬場のヒマラヤ協会の事務所に尾形さんといつもいて、ひげを伸ばして、東京農業大学探検部みたいでしたねと話しました。

  インドブラマプトラ川川下りに一緒に行った中谷敏夫については日本テレビでアンパンマンなどの仕事をしていて、以前、早稲田大学探検部チベット隊で飲んだときに、心臓が悪くて体調が悪そうだった。中谷はチベットでもインドブラマプトラ川川下りでも元気だったのに、テレビの仕事で大変なんだろうと話しました。

  関口君と2人で飲みながら、思い出話に花を咲かせました。

  僕も昨日は久しぶりに懐かしいインドブラマプトラ川川下りの思い出話を関口君と出来たので楽しかったです。

  以上、「昨日はインドブラマプトラ川川下りに一緒に行った関口君と飲みに行った」

  ブログに載せます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021年12月16日木曜日

「皆川さんという方にはおれもうつ病って言いたいよと言われていた」

 「皆川さんという方にはおれもうつ病って言いたいよと言われていた」

  僕の早稲田大学探検部時代の同期の倉島孝行が東南アジアで知り合った人に皆川さんという方がいます。

 僕も倉島孝行に紹介されて皆川さんと知り合いました。

  皆川さんは駒澤大学卒で、学生時代は学生運動をしていて、国会に突っ込んでいこうとして官憲に取り押さえられた経験を持っているようです。

  皆川さんは東京から離れて、群馬県の嬬恋村で、キノコなどを販売する仕事をしていたようです。

  現在でもキノコなどを販売する仕事をしているかは分かりません。

  僕が統合失調症になってから、皆川さんが住んでいる群馬県に遊びに行き、浅間山の登山をしたことがありました。

  皆川さんの家ではすき焼きをご馳走になりました。

  僕は、当時は精神状態がとても悪くて、皆川さんの家に遊びに行っても、精神状態が悪いことを皆川さんに話していたと思います。

  皆川さんは僕の話を聞いて、

  「おれもうつ病って言いたいよ」と仰っていました。

  皆川さんから見ると、僕の病気の話を聞いてもそれほど深刻なことだと思わなかったようです。

  皆川さんのように若い頃に国会に突っ込んでいったような人からすると、僕程度の心の病気の話を聞いても大したことないと思ったようです。

  僕が早稲田大学探検部時代の同期の倉島孝行の知り合い皆川さんに

 「おれもうつ病って言いたいよ」と言われていたことをブログに書いておきます。

 以上、「皆川さんという方にはおれもうつ病って言いたいよと言われていた」

  ブログに載せます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021年12月5日日曜日

「茗台中学時代のバスケットボール部の同期生のこと」

 「茗台中学時代のバスケットボール部の同期生のこと」

   僕は、中学校は文京区の文京区立茗台中学校という中学校に通っていました。

   僕は、中学時代はバスケットボール部に所属していました。

   中学時代のバスケットボール部の同期生に、茗台中学校から都立青山高校に進み、大学は信州大学に行った山口貴士君という人がいます。

  僕は都立小石川高校から早稲田大学に進み、早稲田大学では探検部で登山とかもしていたので、長野県松本市にある信州大学に遊びに行ったことがあります。

  中学校のバスケットボール部の同期生は、信州大学から三菱製紙に就職して、紙を作る仕事に就いたようです。

  実は、僕の母は、江戸川橋にあるラーメン屋さんをやめてから湯島にあった三菱製紙の研修の寮の清掃の仕事をしていて、三菱製紙の研修の寮での清掃の話を家でしていましが、その際に、僕の中学時代の同期生で三菱製紙に就職された山口貴士君の話を盛んにしていました。

三菱製紙に就職された方が研修のために来ることはないのかなと言って、盛んに話をしていました。

三菱製紙に就職された方とは、東京外語大学の文化祭を一緒に見に行ったこともありました。

もう何十年も会っていませんが、中学校時代の同期生のことを思い出したのでブログを書いておきます。

以上、「中学時代のバスケットボール部の同期生のこと」

 ブログに載せます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021年11月23日火曜日

「僕と一緒にブラマプトラ川下りに行った関口君は音羽の熱海湯という銭湯に行っていた」

 「僕と一緒にブラマプトラ川下りに行った関口君は音羽の熱海湯という銭湯に行っていた」

  僕と一緒にインドブラマプトラ川下りに行った関口君は、大学卒業時NHKに合格していましたがNHKに就職せずに早稲田界隈のアパートに住んでいました。

  関口君は一人暮らしをしている頃に、北アルプスに行き山で遭難しました。

  遭難して大ケガをして足にボルトも入れました。

  その後、関口君は、江戸川橋にある駐車場で、駐車場の管理人のアルバイトをしていたことがありました。

  江戸川橋にある駐車場でアルバイトしているときに、関口君は江戸川橋の駐車場の近所にある音羽の熱海湯という銭湯に風呂に入りに行っていました。

  音羽の熱海湯は今ではありませんが、僕も昔は文京区の水道に住んでいたので音羽の熱海湯には良く行っていました。

  僕と一緒にインドブラマプトラ川下りに行った関口君が音羽の熱海湯に風呂に入りに行っていたことをブログに書いておきます。

 以上、「僕と一緒にブラマプトラ川下りに行った関口君は音羽の熱海湯という銭湯に行っていた」

 ブログに載せます。

 

 

 

 

 

 

2021年7月26日月曜日

「早稲田大学探検部とオリンピック」

 「早稲田大学探検部とオリンピック」

  東京オリンピックが開幕し、競技も行われ、日本人選手もメダルを獲得しています。

  僕は、早稲田大学時代は探検部というサークルに所属していましたが、早稲田大学探検部とオリンピックとはどんな関係があるのかなと思っています。

  登山とか川下りがスポーツ的な要素が強く、スポーツクライミングとかカヌーなどはオリンピックの競技になっています。

  僕が参加したインドブラマプトラ川川下りでも、参加者はメダルをもらったようだし、早稲田大学探検部の活動がスポーツ的な要素が強いことが分かります。

  一方で早稲田大学探検部では、文芸(本を書くことなど)や映像などの分野での創作活動も盛んで、文化的な活動もするのも早稲田大学探検部のようです。

  文化的な活動をしている早稲田大学探検部関係者からすると、早稲田大学探検部とは体育会ではなく、文連サークルだというかもしれません。

  実際に早稲田大学探検部とは体育会ではありません。

  早稲田大学探検部OBには直木賞作家がいたりして、知的で文化的な活動をするのが早稲田大学探検部のようです。

  早稲田大学探検部関係者内でも、オリンピックについて賛否両論があると思います。

  早稲田大学探検部時代に、登山でロッククライミングをしていたり、川下りで激流のラフティングをしていたような人間は、早稲田大学探検部の活動はスポーツ的な要素が強く、オリンピックに賛成している人間も多くいると思います。

  一方で、本を書いたりしているような連中は、オリンピックに反対している人間も多くいると思っています。

早稲田大学探検部とオリンピックについてブログを書いてみました。

以上、「早稲田大学探検部とオリンピック」

ブログに載せます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021年4月16日金曜日

「僕は早稲田大学探検部関係者には『重き荷を負いて』は歌えないと思っている」

 「僕は早稲田大学探検部関係者には『重き荷を負いて』は歌えないと思っている」

  僕が、家にいて、何もやる気が起きずに、無気力になっているときに元気を出すために聴く音楽は中島みゆきの「重き荷を負いて」です。

  何もせずに自分の人生を終わらせたくないので、中島みゆきの「重き荷を負いて」を聴いてから、ノートパソコンの電源を入れて、頑張ってブログを書いています。

  ブログを書くとは他人が思うほど、楽なことではなく、体に重い負荷がかかります。

  僕も長く、「震災本を 集めて早し 神田川」を詠んでいたので、もう体はボロボロです。

  自分のボロボロな体になおかつ過重な負荷をかけるように、毎日ブログを頑張って書いています。

  僕の心身はもうすでに過重な負荷に耐えられるだけの状態ではありませんが、何もせずに自分の人生を終わらせたくないので、中島みゆきの「重き荷を負いて」を聴いて、頑張って毎日ブログを書いています。

  中島みゆきの「重き荷を負いて」を聴いていると、登山のことを思い出しますが、僕は早稲田大学探検部関係者には、「重き荷を負いて」は歌えないと思っています。

  僕は早稲田大学探検部関係者は、「重き荷を負いて」を歌えるほどの気合いも無ければ根性も無いと思っています。

  僕は日本ヒマラヤ協会のヒマラヤ登山を経験している方々は「重き荷を負いて」は歌えるような気がします。

  僕も日本ヒマラヤ協会のプロジェクトである、インドブラマプトラ川川下りに参加して、日本ヒマラヤ協会の方々の命がけの登山に対する姿勢を知りました。

  日本ヒマラヤ協会の方々の登山に対する姿勢は、早稲田大学探検部関係者の登山に対する姿勢とは大きく違いました。

  早稲田大学探検部関係者の登山に対する姿勢では僕は中島みゆきの「重き荷を負いて」は歌えないと思っています。

 僕が早稲田大学探検部関係者には「重き荷を負いて」は歌えないと思っていることをブログに書いておきます。

  以上、「僕は早稲田大学探検部関係者には『重き荷を負いて』は歌えないと思っている」

  ブログに載せます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021年4月9日金曜日

「海外遠征ができなくても 早大探検部」

 「海外遠征ができなくても 早大探検部」

  昨日、早稲田大学探検部OB会よりメールが届きました。

  僕が早稲田大学時代に所属していた早稲田大学探検部の現在を取材した毎日新聞の44日の記事をスキャンしてPDFとして保存された状態のものがメールに添付されて送られてきました。

  なかなかおもしろい内容だったので記事全文ワープロソフトで入力してみました。

  記事は以下のような記事です。

 「海外遠征ができなくても 早大探検部」

  早大探検部

  19594月、東南アジア研究会などの複数の団体から学生が集まり探検研究会として発足。62年に探検部に名称変更。97年にはタクラマカン砂漠の未踏部横断。2002年には南米のギアナ高地の洞窟探検をした。17年にロシアのカムチャッカ半島の未踏峰を登頂し、「ワセダ山」と命名。直木賞作家の船戸与一さん(故人)、ノンフィクション作家の高野秀行さん、写真家の石川直樹さんら多くの才能を育んだ。現在は約50人が所属する。

 「足を使う」意味見直す。

 新型コロナウィルスの緊急事態宣言が解除された3月下旬、早大探検部の幹事長、田口慧(24)は東京から約2000キロ近く離れた沖縄・西表島にいた。第二次世界大戦前まであった炭鉱跡を探る仲間の活動を見守るためだが、久しぶりの遠出に心が躍った。この1年、世界中の未知を求める彼らの活動は制限され、今も部としての遠征はできず活動は個人の範囲にとどまる。その中で新たな探検の意味を探り続けている。

早大探検部は1959年、探検を志す学生が集まり探検研究会として誕生した。米ソ冷戦下の65年にベーリング海峡横断を試みたほか、97年タクラマカン砂漠の未踏部横断、2002年南米のギアナ高地の洞窟探検などその活動は異彩を放つ。創部以来の海外遠征は約160回。直木賞作家の船戸与一さん(故人)、ノンフィクション作家の高野秀行さん、角幡唯介さんら多くの作家も生んだ。

しかし猛威を振るうコロナの余波で身動きが取れなくなった。国内外の遠征や宿泊を伴う合宿を禁じる大学の方針もあり、計画は次々に中止や延期に追い込まれた。新4年生の田口はため息交じりに振り返る。「山や洞窟、無人島。どこかに長期で出かけるのが僕らの活動。宿泊するなと言われたら何もできない。活動できなくなり、外部に情報発信もできなくなった」

探検部では毎週火曜日、部員たちが計画を持ち寄り、内容を吟味するのが恒例だった。人と違うこと、新しいことをするのが基本理念。「これって本当に探検なの?新しい発見がないよね」「まるでバックパッカーの旅じゃん」。容赦ない指摘が飛び交う中、部員たちは競うように計画を提案し、練り上げた。内容は未踏峰の登山など骨太な探検や民俗学的な調査。宇宙人との交信といった荒唐無稽なものまでさまざまだ。

田口は昨夏、1年時に遠征したネパールを再訪し、ヒマラヤ山脈の奥地で氷河のデータを採取する計画を考えていた。ヒマラヤは南極、北極地域に次いで氷河が多いとされるが、近年は温暖化の影響で解け出す可能性が指摘される。衛星画像で見られるが、状況を確認するには足を運ばないと難しい。北海道大低温科学研究所などの専門家からそんな話を聞き、探検部員としての「魂」が揺さぶられた。

「頭を使うのが学者。足を使うのが探検家。だったら俺たちが足を使ってやろうじゃないか」

だがコロナのまん延で計画を断念せざるを得なかった。「目標が消えた。再開に向けて文献調査はしていたが、気持ちのスイッチが入らず、このまま終わるのかなと思った」毎週火曜日の会合はオンラインに切り替えて続けたが、熱が入らなかった。

「部室に集まり、ああでもない、こうでもないと話すことで新しいアイデアが生まれる。その機会がなくなったし、計画しても実現できるかどうかわからなくなった」

東京都出身の田口が探検部に入ったのは、探検家の関野吉晴さん(72)に憧れたからだ。関野さんは南米チリから人類発祥の地とされるアフリカ・タンザニアまでさかのぼる旅「グレートジャーニー」を、足かけ10年にわたって成し遂げ、「関野さんと同じような活動がしたかった」。小学生からボーイスカウトに励み、高校時代は地質などを研究する地学部に所属。関野さんのように医師を目指したが、医学部入学は果たせず、3浪の末、早大に入学した。「自分のやってきたことの意味を探したかった」と当時の心境を語る。

 発見や刺激 国内にも

 コロナ禍で田口の支えになったのは、部室の本棚や倉庫に雑然と積まれていた過去の連絡ノートや計画書だった。現在はコロナの影響で施設は閉鎖され、資料は部員宅などに移して保管しているが、以前から田口は暇さえあれば部室に立ち寄り、ノートを読み返してきた。その中には、作家の高野さんが探検部時代の活動をつづり、出世作となった「幻獣ムベンベを追え」の計画書もあった。

 ノートや計画書を見直すと、探検のあり方は時代とともに変わってきたことが分かる。創部当初は日本人の海外渡航が厳しく禁じられ、外国に行くには学術的な調査目的が必要だった。70年代以降、自由に海外に行けるようになって活動範囲は広がる一方、何ができるかが問われるようになった。同じ地域で23次と遠征を繰り返せば調査の目的や手法も変わっていく。田口は「探検とは何か。早大探検部は60年間にわたり、そのことをひたすら問い続けてきた」と話す。

 根底にある思いは変わらない。「現地に行かなければ分からないことがある。現地で自分たちの予想を上回る発見や新たな刺激を得て、面白いことを見つけていく。それが僕ら探検部のスタイル。それをどう実現するのか。

 先輩たちの歩みに思いを巡らすと、コロナ禍で探検部の活動が変わるのもある意味当然と思えるようになった。

 「探検と言えば海外。そう思い込み、視野が狭くなっていた。国内にも未知のものはたくさんある。探検とは何か。見直すいいきかっけになった」

 田口が新たな夢として描くのが、日本への旅だ。日本列島に自分たちの祖先がどう渡来したのか。専門家は「北海道ルート」(約25000年前)、「対馬ルート」(約38000年前)、「沖縄ルート」(約35000年前)の三つを挙げる。その中で当時陸続きだったのが、シベリアから歩いて南下する「北海道ルート」。田口は「いつか当時の技術や装備でたどることはできないか」と語る。昨年は山中で黒曜石を探して石器を作り、その石器を使って動物の皮をなめす作業ができないかと考えた。動物の皮で衣装を作るためだ。夢の実現が遠いことは分かっているが、「このまま終わりたくない」と作業に没頭した。

 新たな課題に取り組む田口の姿に触発され、部員たちも動き始めた。昨年、部全体で活動できたのは、大学近くの公園で読図の練習をしたり、応急手当の技術を学んだりと地味な作業ばかり。苦しい環境でも、ある部員は眼鏡を外した裸眼で、「サバイバル生活」に挑戦。新たな視点からの探検を試みた。別の部員は酒を主食とするエチオピアの民族を研究するとして1週間、酒だけで暮らすとどうなるか体を張って検証。自宅でできる探検を模索した。

 今年3月から副幹事長を務める山崎菜月(20)は「以前も田口さんには探検部が苦しいときに救われた」と明かす。新入部員は例年10人程度のはずだが山崎らが入部した19年の入部希望者は20人を超えた。その前年、TBSの人気バラエティー番組だった「クレイジージャーニー」が早大探検部の活動を紹介。いつもなら常識にとらわれない「変わり種」が多く集まるが、「普通の人」が目立ち、部の雰囲気ががらりと変わった。

 探検を単なる野外活動の延長と捉える新入生もいて、不満をのぞかせる部員もいた。互いの価値観がぶつかる中、橋渡し役となったのが田口だった。山崎は「どんな緩い内容の提案でも、どうすれば探検として成立するか懸命に考えてくれた」と振り返る。

 今年330日。東京都内で部員総会が開かれた。探検部は3年生までが現役部員で4年生上は「現役OB」と呼ばれる。登山や沢登り、カヌーなど後輩に技術を伝えるため遠征に同行し、部の運営について助言はするが何かを命じることはしない。新3年生がリーダー役の幹事長を務めるのが恒例だが、今年は新4年生の田口が引き続き務めることに決まった。

 新型コロナの収束はまだ見えないが、田口は懸命に探検を追い求める。「探検とは、ものの見方を変えて、新しい価値を発見する作業」。異例の4年生幹事長が率いる早大探検部が新たなスタートを切った。【田原和宏】

  以上が現在の早稲田大学探検部を毎日新聞社の記者の方が取材した記事です。

  記事を読むとコロナ禍で現在の早稲田大学探検部が苦しんでいることが分かります。

  僕も記事を入力していて、辛い気持ちになりました。

  コロナ禍のために早稲田大学探検部で思うような活動が出来ないようです。

  貴重な学生時代を思うように過ごせないもどかしさを感じました。

  僕から何か出来ることもありませんが、コロナ禍でも出来る活動を見つけていくしかないと思います。

  現在のコロナ禍のような事態の時は、地味な作業、トレーニングをこつこつと積み重ねていくしかない時期だと僕は思います。地味な作業、トレーニングがもしかしらた何か大きな活動につながるかもしれないし、腐らずに、基本的な作業、トレーニングをこつこつ積み重ねていくしかないと思います。地味な作業、トレーニングが探検活動をする際の大きな財産になる可能性もあります。

  先が見えない状況で、モチベーションも下がると思いますが、今はこの苦しい時期を乗り切ることを考えるしかない時のようです。

  昨日、早稲田大学探検部OB会よりメールが届き、現在の早稲田大学探検部を取材した毎日新聞の44日の記事が添付されていたので記事全文を入力するととも、記事を読んで僕が思ったことをブログに書いておきます。

  以上、「海外遠征ができなくても 早大探検部」

  ブログに載せます。