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2021年4月20日火曜日

「筆無精の僕がたくさんのブログを書いている理由」

 「筆無精の僕がたくさんのブログを書いている理由」

  僕は筆無精です。

  僕は文章を書くのはめんどうで、出来ることなら文章など書かずに生きていければ良いと思っています。

  文章を書くとはものすごいエネルギーのいることで、ものすごい負荷が自分の体にかかります。

  僕は文章を書くのはめんどうで、出来ることなら文章など書かずに生きていければ良いと思っています。

  文章を書くことを生計の糧にしている方々は、原稿料という報酬があるので、辛い文章を書くことを自分の生活のためと割り切って、文章を書いていると思いますが、僕のような無料でブログを書いているような人間は、文章を書いても何の良いこともありません。

  僕の家では僕の父も僕の母も僕がたくさんのブログを書いていることを知っていますが、僕の両親からは、

 「ブログを書いて食べていけるの?」と辛辣な言葉が出ています。

  僕が無報酬であるにもあるにも関わらずにたくさんのブログを書いている理由は、僕は早稲田大学探検部で事故が起きて欲しくないからたくさんのブログを書いています。

  早稲田大学探検部で取り返しのつかない大きな事故が起きたら、もしかしたら早稲田大学探検部は廃部になるかもしれないと思っています。

  僕も是非、早稲田大学探検部関係者に色々な苦難にぶち当たっても、あきらめない気持ちを持って、自分たちの好きな探検冒険活動をして欲しいと思い、筆無精の自分を叱咤激励しながらたくさんのブログを書いています。

  僕が書いた文章ではありませんが、僕らが30年前に遠征に行ったインドブラマブトラ川川下りの記事は特に早稲田大学探検部関係者には探検・冒険活動をする際の参考になる記事だと思うし、是非、きちんと読んでいただきたい記事だと思っています。

  筆無精の僕が色々な苦難にぶち当たりながらも、たくさんのブログを書いている理由をブログに書いておきます。

  以上、「筆無精の僕がたくさんのブログを書いている理由」

  ブログに載せます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020年7月10日金曜日

「自分の書いた文章以外の本は処分しても良いと思っている」

「自分の書いた文章以外の本は処分しても良いと思っている」

 僕はこのところ、自分の読んできた本の整理をしています。

 本を整理していて、僕は自分の書いた文章以外の本は処分しても良いと思うようになっています。

 他者の言葉に影響されることなく、自分の書いた文章に忠実な生き方をしていけば良いと思うようになっています。

 本とは他者の言葉の集まりで、本を読んでためになることもありますが、所詮、他者の言葉です。

 他者の言葉に影響されるよりも、自分の書いた言葉に忠実に生きていった方が良いと僕は思うに至っています。

 僕ももう年齢も52歳なので、他者の言葉の集まりである本を読んでも感動することもないし、感激することもないし、おもしろがったりすることもないようようです。

 僕も若い頃は本を読むのが好きで、本を読んでいましたが、心の病気になってからは、昔のように本を読めなくなったし、パソコン、スマホが登場してからは、パソコン、スマホを見ている時間が長いようです。

 もう僕も52歳なので、自分の書いた文章以外の本は処分してしまっても良いと思っていることをブログに書いておきます。

 以上、「自分の書いた文章以外の本は処分しても良いと思っている」

 ブログに載せます。

 


 

 

2020年1月20日月曜日

「医者の書いた文章より患者の書いた文章を読んだ方が良いと僕は思っている」

「医者の書いた文章より患者の書いた文章を読んだ方が良いと僕は思っている」

 僕は医者の書いた文章より患者の書いた文章を読んだ方が良いと思っています。

 医者とは世間では先生、先生と呼ばれ、書く文章も先生のような文章を書きます。

 一方の患者は、常に医者という先生に怒られたり、注意されたり、諭されたりしていて、学校で言えば、出来の悪い生徒のようなものだと思います。

 医者からすると、こんなことも出来ないのか?こんなことも分からないのかと思われているかもしれません。

 患者の書いた文章を読む方が、自分に親近感も湧くと思うし、コンプレックス(劣等感)を感じることなく、生きていけると僕は思っています。

 所謂、先生、先生と呼ばれている方々の文章とは人間味が無く、ユーモアもなく、人を諭すような文章を書く方が多いと僕は思っています。

 僕の知り合いにも医者をやっている知り合いがいますが、医者の書く文章とは人間味が無く、先生のような文章を書くので、僕は医者の書く文章より患者の書く文章を読んだ方が良いと思っています。

 患者の書いた文章を読んだ方が、自分にとってためになることも多いし、自分と近い人間だと親しみも湧くと僕は思っています。

 僕が医者の書いた文章より患者の書いた文章を読んだ方が良いと思っていることをブログに書いておきます。

 以上、「医者の書いた文章より患者の書いた文章を読んだ方が良いと僕は思っている」

 ブログに載せます。




 

 


 

 

2020年1月12日日曜日

「西木正明さんの怖さを知らない人間は痛い目に遭うと思う」

「西木正明さんの怖さを知らない人間は痛い目に遭うと思う」

 先日、Twitterで、西木正明で検索していました。

 検索していると西木正明さんが朝日新聞に寄稿している文章がありました。

 以下のような文章です。


 この文章を読んでみると、西木正明さんの知り合いの新聞記者の方がアラスカで射殺されたとのことが書かれています。

 新聞記者という仕事が命がけの仕事であることが分かります。

 アラスカで射殺されたアメリカ人の新聞記者と一緒に活動をしていた西木正明さんとは、文章を書くこと、記事を書くことに覚悟を持って臨んでいる方だと思います。

西木正明さんがこの文章の中でアラスカで射殺されたアメリカ人の新聞記者の好物がカレーライスだったことも書いていて、アラスカで射殺されたアメリカ人の新聞記者が日本人でも親しめる方だったこともきちんと書いていて、僕は好感を持って、この文章を読みました。

文章、記事を書くことが命がけで、時には文章を書く人間、記事を書く人間が命も狙われることが分かります。

西木正明さんは文章、記事を書くことが命がけであることを知っている方で、西木正明さんの怖さを知らない方は、僕は痛い目に遭うと思いました。

僕らの頃の早稲田大学探検部でも、西木正明さんのことを、「ニッキ」とか言って、茶化していた人間もいましたが、僕は、西木正明さんは命がけで、文章、記事を書いている方だと思います。

文章、記事を書くことの怖さを知っている西木正明さんの怖さを知らない人間は僕は痛い目に遭うと思うので、ブログを書いておきます。

 以上、「西木正明さんの怖さを知らない人間は痛い目に遭うと思う」

 ブログに載せます。




 

 



 

 

 

2019年12月22日日曜日

「現代社会へのアンチテーゼは小日向で書いた。ブラマの水の味は戸山で書いた。」

「現代社会へのアンチテーゼは小日向で書いた。ブラマの水の味は戸山で書いた。」

 僕は今では多くのブログを書いていますが、僕は昔も文章を書いていました。

 僕が書いた文章で、僕のWorksとしている文章に、「現代社会へのアンチテーゼ」という文章と、「ブラマの水の味」という文章があります。

 僕は「現代社会へのアンチテーゼ」という文章は文京区の小日向の実家で書きました。

 大学2年生の時の文章なので、小日向の実家で書きました。

 「ブラマの水の味」という文章は、僕が新宿区の戸山町で一人暮らしをしているときに書きました。

 新宿区戸山町のワカサ荘というアパートの4畳半の部屋で書きました。

 どこで文章を書くかによっても文章に違いが出てくると僕は思っています。

 文章とは文章を書いている場所の空気、雰囲気も醸し出すと僕は思っているので、どこで文章を書くかによって僕は文章も違ってくると思っています。

 ちなみに今、僕が多く書いているブログは僕の家の近所の茗荷谷のサンマルクカフェで書いています。

 茗荷谷のサンマルクカフェは、僕が銀杏企画関係者と待ち合わせして会って、お茶をしたり、おしゃべりをした思い出のある場所なので、僕にはなじみのある場所です。

 僕のWorksとしている文章で、「現代社会へのアンチテーゼ」という文章は小日向で書き、「ブラマの水の味」という文章は戸山で書いたことをブログに書いておきます。

 以上、「現代社へのアンチテーゼは小日向で書いた。ブラマの水の味は戸山で書いた。」

 ブログに載せます。







 

 



2019年12月16日月曜日

「ラーメン屋のせがれが現代社会へのアンチテーゼなんていう文章を書けるのか?」

「ラーメン屋のせがれが現代社会へのアンチテーゼなんていう文章を書けるのか?」

 僕はラーメン屋のせがれです。

 僕の父と母は、ラーメン屋をやっていました。

 僕は何故か勉強が出来て都立小石川高校、早稲田大学と名門コースを歩みました。

 僕は早稲田大学では早稲田大学探検部という名門サークルに入部しました。

 大学2年生の時に、同期の仲間とチベット遠征を計画して、僕が隊長を務めました。

 僕はチベット探査の計画書に、「現代社会へのアンチテーゼ」という文章を書いています。
 
 今年、チベット隊で集まったときも、チベット探査計画書を持ってきて、僕の書いた文章を皆さんに見せている方がいました。

 博士号を持っている方で、国の機関に勤めている方が僕の書いた文章を皆さんに見せていました。

 そんな立派な方から評価されるような文章をラーメン屋のせがれが書けるのかと僕も疑問に思っています。

 僕は二十歳の頃に、「現代社会へのアンチテーゼ」という文章を書いています。

 一ラーメン屋のせがれが、二十歳の頃に「現代社会へのアンチテーゼ」なんていう文章を書けるのかと僕も不思議に思っています。

 僕の書いた文章が立派な方から評価されているようなので、ラーメン屋のせがれが「現代社会へのアンチテーゼ」なんていう文章を書けるのと思っていることをブログに書いておきます。

 以上、「ラーメン屋のせがれが現代社会へのアンチテーゼなんていう文章を書けるのか?」

 ブログに載せます。



 

 

 

 

 

 
 

 

2019年10月25日金曜日

「ブログも記事も本も書かない人間は、文章を書く人間に文句も言えないと思う」

「ブログも記事も本も書かない人間は、文章を書く人間に文句も言えないと思う」

 世にはブログも記事も本も書かない人間が多くいると思います。

 人の書いた文章を読んで、つまらない文章だなとか文句を言う人間も多くいると僕は思っています。

 文章を書かない人間が文章を書く人間に文句を言うのは、僕は少しおかしいと思っています。

 文章を書く人間が文章を書いている人間に対してつまらない文章だなとか言うのは分かりますが、ブログも記事も本も書かない人間が文章を書く人間に文句を言うのは、僕はおかしいと思っています。

 自分の出来ないことをしている人に対して、文句を言うのは、僕はおかしいと思っています。

 文章を書く人が、他人の文章をつまらない文章だと言うのは、自分の方がおもしろい文章を書けるという自信があるから、他人の文章をつまらない文章だと言うのだと思います。

 全く文章を書かない人が、他人の文章をつまらない文章だとか言うのは、僕はおかしいと思っています。

 僕がブログも記事も本も書かない人が、文章を書く人に文句も言えないと思っていることをブログに書いておきます。

 以上、「ブログも記事も本も書かない人間は、文章を書く人間に文句も言えないと思う」

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2019年9月8日日曜日

「自己流でも文章を書ける」

「自己流でも文章を書ける」

 僕は誰かから文章について教わったことがありません。

 僕の文章は自己流です。

 世には誰かに師事して文章を学んだりする人も多くいるようですが、僕の文章は自己流です。

 若い頃に本を読んでいたことなどから文章が書けるのだと思いますが、僕は誰かに文章を教わったこともありません。

 僕は自己流でも文章を書けると思っています。

 僕は中学生の頃から塾に通い、成績もどんどん良くなり、学区内で一番勉強の出来る都立高校に進みました。

 浪人時代も中学校の頃に通っていた塾に通わせていただき、早稲田大学に進むことが出来ました。

 僕の勉強の恩師はおそらく、中学時代、浪人時代に通っていた塾の先生だと思います。

 ただ、僕は塾の先生に文章の書き方を教わりませんでした。

 僕の通っていた塾の先生がいなかったら僕も早稲田大学まで行けなかったと思いますが、塾の先生には文章の書き方は教わりませんでした。

 僕は自己流でも文章は書けると思っています。

 特別に誰かに師事しなくても僕は、文章は書けると思っています。

 僕の文章が自己流の文章で、僕が自己流でも文章を書けると思っていることをブログに書いておきます。

 以上、「自己流でも文章を書ける」

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2019年8月9日金曜日

「銀杏企画関係者もブログを書くようになり、文章を書くことの大変さが分かるようになったと思う」

「銀杏企画関係者もブログを書くようになり、文章を書くことの大変さが分かるようになったと思う」

 僕が昔、通っていた精神障害者作業所、銀杏企画で、何年か前からブログを書くようになったようです。

 銀杏企画関係者もブログを書くようになってから、文章を書くことの大変さが分かるようになったと僕は思っています。

 文章など、読むのはあっという間に読めてしまいますが、文章を書くのにはそれなりの手間と時間がかかります。

 手間をかけた文章を読むのは、手間をかけた料理を食べるのと同じ事です。

 文章を読むのが専門で、文章を書かない人間は、料理を作ることもなく、食べるのが専門の人間と同じだと僕は思っています。

 銀杏企画関係者もブログを書くようになり、文章を書くことの大変さが分かり始めていると僕は思っています。

 手間をかけた文章を読むのか、インスタントラーメンのように簡単に出来る文章を読むのかで、病んでいる心の状態も変わってくるような気がします。

 手間をかけた文章を読むことにより、病んでいる心の状態が少しずつでも良くなれば良いと思っています。

 以上、「銀杏企画関係者もブログを書くようになり、文章を書くことの大変さが分かるようになったと思う」

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2019年6月21日金曜日

「高校1年生の時に書いていた文章 生命とは何か」

「高校1年生の時に書いていた文章 生命とは何か」

 今日、部屋の引き出しを開けたら、僕が小石川高校1年生の時に書いていた文章がありました。

 文章のタイトルは、「生命とは何か」というタイトルでした。

 僕も何でこの文章を書いたのか覚えていませんが、「生命」のことについて書いている文章なので、おそらく生物の授業で書いた文章だと思います。

 参考文献は、「生命の起源」NHKブックスでした。

 僕が高校1年生の時に書いていた文章は以下のような文章でした。

 生命というのが何かといっても自分にはわからない。しかし、自分にとっては、生命はどういうものかは考えられるので、生命について考えてみることにする。
 生命というものについて考える時、3つの角度から見ることができると思う。一つは宇宙全体から生命というものを考えることである。又、もう一つは生物全体から生命というものを考えることである。そして最後の一つは人間という現実的な目から生命というものを考えることである。
 宇宙的な雄大なスケールで生命を考えると二つの観念が生まれてくる。一つは生命がどれほど神秘的で素晴らしいというかということである。岩石などの荒涼とした無機物ばかりの世界から、なぜか有機物ができて、そこからバクテリアというような今ではあまり気にもされないような生命が生まれたのである。これは、この宇宙においてまさに奇跡だったのではないかと思う。その生命は海で生まれたとか、宇宙で胎生したとかいろいろ言われている。科学的に言えば、タンパク質がなんだかんだとかさっぱり分からないが、私から言わせてもらえば、これは一つの運命だったと考えている。(あまりにも非科学的だが)
 もう一つの観念というのは、生命がなんともむなしく、別に大したものでもないということである。生命の誕生の舞台として、今もすばらしい星と言われている地球だって数億年後には存在しないのである。また生命のために大きく貢献してきた太陽でさえも時の流れには勝てないのである。こんなことを考えたとき生命というものは何の意味もないものに思えてくる。
 生物全体で生命を考えると人間は果たして正しいことをしているのかと疑問を抱いてしまう。生物が何万年もかけて作ってきたすばらしい自然や生物同士の関係を、別に罪の意識もなく破壊していくのである。酸素を合成しているたくさんの木々をどんどん切り倒している私たち、容姿が悪いものはその理由で殺してしまう私たち、それらのために多くの生物たち(生命)はなくなっていく。一つの流れとして生命をここまですばらしいものしてきてくれた進化の流れさえも、人間は自分たちの手で変えようとしている。世に神がいたなら天の上でなげているに違いない。しかし、正直なところ、自分も偉そうなことを言っているわりには実は自然破壊に参加している一人である。紙を無駄に使い、企業の営利のために太らされたブタの肉を食べているのである。大きな矛盾が出てきてしまうが生まれたときからこの生活に慣らされてしまっている。自分には何の活動もできず、一人で考えるのみである。とにかく、少しでも自然と共存していくために、もっともっと自然を大切にしていこう。それが生命がすばらしいものであると考える者の行うべきことであると思う。
 人間的すなわち現代の社会の目から生命を考えた場合、生命とは人間の生命に限定されていると思う。生命は尊いものであると考えられている。人の死に対する異常なほどの恐怖がそのもっとも大きな原因となって、生命は尊いと考えられていると思う。しかし、その生命の尊さについてもいろいろな問題がある。例えば尊厳死などの問題である。又、人工授精や遺伝子組み換えの問題も大きなことである。しかし、それらのことはほとんど世界の豊かな人間の問題だ。本当に生命が尊いものと考えるならば、そんなことよりも何も食べられず死んでいく人や戦争の犠牲になっていく人たちの生命についてもっと考えていくべきだ。人間の生命は平等なはずである。
 最後になるが生命について科学的に解明するよりも人は神を信じて生きていく方が、もしかしたら幸せなのかもしれないと思った。

 以上のような文章を僕は高校1年生の時に書いていたようです。

 高校生らしい生意気な知ったかぶりのような文章を書いていますが、生物の先生からはAをもらったようです。

 僕も高校生の頃は生意気な知ったかぶりのような文章を書いていたことが分かったので、ブログに載せておきます。

 以上、「高校1年生の時に書いていた文章 生命とは何か」

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2019年6月20日木曜日

「理系の人間も文章を書けないといけない時代になっていると思う」

「理系の人間も文章を書けないといけない時代になっていると思う」

 僕は、早稲田大学時代は法学部の文系で、文章は書ける人間でした。

 文系だったら文章を書けるのは当たり前だし、文章も書けない文系の人間がいたら文系失格だと思います。

 時代はTwitterFacebookを始め、SNSが全盛の時代です。

 文章を書くことが多くの場面で求められると思います。

 今の時代は理系の人間も文章を書けないとやっていけない時代だと僕は思っています。

 理系で学んだ難しいことを庶民にも分かり易く、噛み砕いた文章を書ける人間が必要な時代だと思っています。

 難しいことを難しく書く人間なら世に山ほどいます。

 難しいことを庶民にも分かり易く、噛み砕いて文章を書ける人間はわずかだと僕は思っています。

 本当に勉強をしている人は、自分の学んだ難しいことを噛み砕いて分かり易く文章を書けるように努力していると僕は思っています。

 理系の方々も自分たちの学んだ難しいことを噛み砕いて分かり易く文章に書けるようになることが求められている時代になっていると僕は思っています。

 以上、「理系の人間も文章を書けないといけない時代になっていると思う」

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2019年6月1日土曜日

「現代社会へのアンチテーゼなんて書かなければ良かった」      

「現代社会へのアンチテーゼなんて書かなければ良かった」

 僕は早稲田大学探検部在籍中に、チベット探査計画書の現代社会へのアンチテーゼという文章を書きました。

 僕の書いた文章の真意を理解出来る人も少ないと思うし、僕は現代社会へのアンチテーゼという文章を書かなければ良かったと思っています。

 まだ、学生だったので難しい言葉も使っていて、いかにも頭が良さそうなように文章を書いていますが、今から思うと、現代社会へのアンチテーゼという文章は書かなければ良かったと思っています。

 文章を読む人によっては、僕の真意を曲解する人もいると思うし、僕は現代社会へのアンチテーゼという文章は書かなければ良かったと思っています。

 僕はネットにも自分の書いた文章を公開していますが、現代社会へのアンチテーゼという文章は書かなければ良かったと思っています。

 以上、「現代社会へのアンチテーゼなんて書かなければ良かった」

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2019年5月20日月曜日

「国立国会図書館に自分の書いた文章が所蔵されている人間が心の病気の不思議」

「国立国会図書館に自分の書いた文章が所蔵されている人間が心の病気の不思議」

 僕の書いた文章の中には、国立国会図書館に所蔵されている本に載せた文章もあります。

 国立国会図書館に自分の書いた文章が所蔵されている人間が統合失調症という心の病気に罹っていることがとても不思議なことだと自分でも思っています。

 僕がある程度、認められている人間であることが分かります。

 にも関わらずに、僕が統合失調症という心の病気に罹っていることがとても不思議なことだと思っています。

 現在でもブログは書けるし、文章を書くのには困りません。

 何か、僕が心の病気になったことがとても不思議なことだと僕は思っています。

 僕の書いた文章が国立国会図書館に所蔵されているにも関わらずに、僕が心の病気、統合失調症になってしまっていることがとても不思議なことだと思っているのでブログを書いておきます。

 以上、「国立国会図書館に自分の書いた文章が所蔵されている人間が心の病気の不思議」

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2019年3月21日木曜日

「一人にならないと文章は書けないようだ」

「一人にならないと文章は書けないようだ」

 何度もブログに書いていますが、323日に、早稲田大学探検部チベット隊とチベットで会った方々と集まります。

 僕はチベットに行ったときのことも、カイラス山北壁で一人になり、カイラス山北壁で一人になった時のことを文章にしています。

 カイラス山北壁以外のことでも、何か文章を書こうと思えば書けたのかもしれませんが、カイラス北壁で一人になったときの事以外には僕はチベットに行ったときのことは文章を書いていません。

 仲間と楽しく一緒に活動していると文章も書けないのだと思っています。

 文章を書くとは、一人になり孤独な気持ちで、目にしたこととか、感じたことを文章に書いているような気がしています。

 仲間と楽しく一緒にいるときは、辛い気持ちになったり、何かを感じ取ったりすることもないようです。

 仲間と一緒にいれば楽しいし、辛い思いをしなくても済みますが、自分の内面を照射したような文章は書けないようです。

 僕が思うに、文章を書くとは孤独だから文章を書くのだと思っています。

 文章を書く人間が、仲間と楽しく一緒に活動してれば、自分の内面を照射するような文章は書けないと思っています。

 仲間と楽しく一緒に活動することももちろん良いことだと思いますが、時には一人になり、自分の内面を照射するような文章を書いてみるのも良いことだと僕は思っています。

 僕がチベットに行ったときに、カイラス山北壁で一人になり、その時のことを文章にしているので、文章とは一人にならないと書けないのだと思いブログを書いてみました。

 以上、「一人にならないと文章は書けないようだ」

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2019年1月21日月曜日

「僕の家で人気があるのは瀬戸内寂聴さん」

「僕の家で人気があるのは瀬戸内寂聴さん」

 僕の家では瀬戸内寂聴さんが人気があります。

 僕の両親より高齢にも関わらずに、文章を書いていてすごい人だと家族で話しています。

 年を取ると、脳の働きも落ちてきて文章などを書くのは大変だろうなと話しています。

 瀬戸内寂聴さんは96歳のようですが、いまだに文章を書いていて、本当にすごい人だと家族で話しています。

 僕も医者からは精神障害と診断されていますが、精神障害でも文章を書けることを証明したくて、僕も長くブログを書いています。

 親からは瀬戸内寂聴さんも文章を書けるのだからおまえも本でも書きなさいとも言われます。

 僕には本は書けませんが、ブログを書いています。

 精神障害、統合失調症になると、認知機能が落ち、文章などを書くのが困難になる方もいらっしゃると思いますが、僕にとってはブログ(=文章)を書くことがリハビリになるようです。

 頭の体操としてブログを書くことが僕にとっては良いことのようです。

 僕の家では96歳という高齢にも関わらずに文章を書いていらっしゃる瀬戸内寂聴さんが人気があり、僕も医者から精神障害と診断されているが、脳の働きが落ちないようにブログを書いていることを書いてみました。
 
 以上、「僕の家で人気があるのは瀬戸内寂聴さん」

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2018年8月19日日曜日

「物書きの人とか辛い生活を送っているような気がする」

「物書きの人とか辛い生活を送っているような気がする」

 僕はブログを書いています。

 ブログを書くだけでも、胃が痛み、体にこたえます。

 これがプロの物書きとかだと締め切りとかもあり、文章を書くのが本当に苦行のようになると思います。

 文章を書くとは労力のかかることで、趣味で文章を書く程度なら良いですが、小説を書くとか、ルポルタージュを書くとかすると本当に大きな労力のかかるものだと思います。

 僕も文章を書くようになってから、何気ない音とかも気になるようになり出し、とても神経質な状態になっています。

 前は大して気にならなかったことも、気になりだし、文章を書くようになってから、精神状態はあまりよくありません。

 文章を読むのはあっという間に文章を読めてしまいますが、文章を書くのにはそれなりの時間と労力がかかります。

 文章を書くことが予想以上に辛いことで、精神をある程度集中して文章を書かないと文章を書けないことなどから、物書きの人とか本当に辛い生活を送っているような気もしています。

 ブログを書くようになり文章を書くことの大変さも分かり始めたので、プロの物書きの人とかは大変だろうなと思いブログを書いてみました。

  以上、「物書きの人とか辛い生活を送っているような気がする」

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2018年7月2日月曜日

「手書きで文章が書ける人間が偉いとかいう世の中が変わって欲しい」

「手書きで文章が書ける人間が偉いとかいう世の中が変わって欲しい」

 僕はパソコンでブログを書いています。

 精神障害者でも文章を書けることを証明したくて長い間、ブログを書いています。

 文章を書くとは、子供の頃の読書体験とか、学生時代の読書量とかで良い文章を書けるとか決まっているような気がします。

 僕は文章を書く人間に恨みもありませんが、文章を書くとはきちんと漢字が書けたり、ある程度の教養を必要とする作業であることが分かります。

 僕はパソコンでブログを書いているので、漢字もすぐに変換されて出てくるし、手書きで文章を書くのとは大きな違いがあることが分かります。

 世の中では、ワープロ文ではなく手書きできちんとした文章を書ける人が評価されているようですが、手書きで文章を書ける人が偉いとか評価される世の中が変わって欲しいとも思っています。

 パソコンを使ってブログを書く人間もある程度評価されるような世の中になって欲しいと思っています。

 以上、「手書きで文章が書ける人間が偉いとかいう世の中が変わって欲しい」

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2018年6月30日土曜日

「理系と文系で書く文章が違うような気がする」

「理系と文系で書く文章が違うような気がする」

 僕は、大学時代は文系の法学部で、大学時代はノンフィクションものを中心に多くの本を読みました。

 今ではネット上でブログを書いていますが、僕の書く文章は文系の文章だと思います。

 文章とは読書経験や読書量が大きな影響を及ぼすもので、どんな本を読んでいたかが分かるものだと思います。

 現代のネット時代では理系の人も文章を多く書いているような気がしますが、やはり理系と文系では書く文章も大きく違うような気がします。

 読んでいる本が違うから書く文章も違うのだと思います。

 僕は個人的には文系の人が書く文章が好きです。

 僕が文系の人間なので文系の人が書いた文章の方が読みやすいし、親近感も湧きます。

 理系の人が書く文章でも、人間味のある文章はまだ良いですが、理屈ばかり書いているような文章は好みません。

 僕も東日本大震災を契機に、原発関連の本も多く読んでいるので、理系の方が書いた本も多く読んでいますが、本を読んでもちんぷんかんぷんの時もあるし、どうも理系の方が書いた文章が分かりにくいと感じることがあります。  

 理系の方々も、文学作品とかも読んで、自分の文章をより良くするとか考えれば良いのになと思うこともあります。

 東日本大震災以来、理系の方々が書いた本も多く読むようになり、理系と文系では書く文章が違うような気がしているのでブログを書いてみました。

 以上、「理系と文系で書く文章が違うような気がする」

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2018年6月26日火曜日

「文章を書くことは良いことだと思うのだが、文章を書く人が嫌いな人もいるのだと思う」

「文章を書くことは良いことだと思うのだが、文章を書く人が嫌いな人もいるのだと思う」

 僕はブログでもなんでも文章を書くことは良いことだと思っています。

 自分の考えていることを文章にしてみることは良いことだと思っています。

 ただ、世の中には文章を書く人は嫌いだという人もいると思います。

 特に政治的な批判をしている文章を書いている人は嫌いだという人もいると思います。

 現在の政権を支持している人にとっては、政治的な批判をしている文章を書く人は嫌だと思います。

 僕も福島原発事故に関することをブログに書いているので、僕のブログも嫌だという人もいると思います。

 政治的な意見は世間話でもするし、政治的な批判を文章に出来ないとは息苦しいと僕は思っています。

 文章を書く人も、何か考えることがあって文章を書いていると思います。

 根拠のないことは文章に書かないと思うし、ある程度、文章を書くだけの根拠があって文章を書いていると思います。

 おもしろい文章、お笑いの文章などを好む人も多いと思いますが、政治的批判の文章も文章の一つです。

 世の中には政治的批判の文章が嫌いな人もいると僕は思っていますが、僕は政治的批判の文章を含めて文章を書くことは良いことだと思っています。

 以上、「文章を書くことは良いことだと思うのだが、文章を書く人が嫌いな人もいると思う」

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2018年6月2日土曜日

「障害者雇用の間、銀杏企画三丁目の掲示板に書き込みをしていて良かったと思う」

「障害者雇用の間、銀杏企画三丁目の掲示板に書き込みをしていて良かったと思う」

 僕は、昔、障害者雇用で勤務していた頃、銀杏企画三丁目の掲示板というネット掲示板に書き込みをしていました。

 職場では文章を書くこともほとんどありませんでしたが、仕事から帰ってきてから銀杏企画三丁目の掲示板に書き込みをしていて、僕も文章を書く習慣がつきました。

 社会に出ると、職場によってはほとんど文章を書かないような職場もあるかと思います。

 文章も書いていないと、文章を書けなくなると思います。

 仕事に追われて忙しいと、文章を書く時間もないと思うし、自分の考えをまとめる時間もなくなるかもしれません。

 文章を書くことは自分の頭の中を整理することにもなるし、自分で何を考えているのかが文章を書くことによって分かると思います。

 書いていた文章の中には、当時、自分はこんなことを考えていたのかというような文章もありますが、何も書かないよりは何か書いていた方が良いと思っています。

 僕も障害者雇用の間、仕事に追われて忙しい日々を送っていましたが、銀杏企画三丁目の掲示板に書き込みをしていて文章を書く習慣がつき良かったと思っています。

 以上、「障害者雇用の間、銀杏企画三丁目の掲示板に書き込みをしていて良かったと思う」

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