「海外遠征ができなくても 早大探検部」
早大探検部は1959年、探検を志す学生が集まり探検研究会として誕生した。米ソ冷戦下の65年にベーリング海峡横断を試みたほか、97年タクラマカン砂漠の未踏部横断、2002年南米のギアナ高地の洞窟探検などその活動は異彩を放つ。創部以来の海外遠征は約160回。直木賞作家の船戸与一さん(故人)、ノンフィクション作家の高野秀行さん、角幡唯介さんら多くの作家も生んだ。
しかし猛威を振るうコロナの余波で身動きが取れなくなった。国内外の遠征や宿泊を伴う合宿を禁じる大学の方針もあり、計画は次々に中止や延期に追い込まれた。新4年生の田口はため息交じりに振り返る。「山や洞窟、無人島。どこかに長期で出かけるのが僕らの活動。宿泊するなと言われたら何もできない。活動できなくなり、外部に情報発信もできなくなった」
探検部では毎週火曜日、部員たちが計画を持ち寄り、内容を吟味するのが恒例だった。人と違うこと、新しいことをするのが基本理念。「これって本当に探検なの?新しい発見がないよね」「まるでバックパッカーの旅じゃん」。容赦ない指摘が飛び交う中、部員たちは競うように計画を提案し、練り上げた。内容は未踏峰の登山など骨太な探検や民俗学的な調査。宇宙人との交信といった荒唐無稽なものまでさまざまだ。
田口は昨夏、1年時に遠征したネパールを再訪し、ヒマラヤ山脈の奥地で氷河のデータを採取する計画を考えていた。ヒマラヤは南極、北極地域に次いで氷河が多いとされるが、近年は温暖化の影響で解け出す可能性が指摘される。衛星画像で見られるが、状況を確認するには足を運ばないと難しい。北海道大低温科学研究所などの専門家からそんな話を聞き、探検部員としての「魂」が揺さぶられた。
「頭を使うのが学者。足を使うのが探検家。だったら俺たちが足を使ってやろうじゃないか」
だがコロナのまん延で計画を断念せざるを得なかった。「目標が消えた。再開に向けて文献調査はしていたが、気持ちのスイッチが入らず、このまま終わるのかなと思った」毎週火曜日の会合はオンラインに切り替えて続けたが、熱が入らなかった。
「部室に集まり、ああでもない、こうでもないと話すことで新しいアイデアが生まれる。その機会がなくなったし、計画しても実現できるかどうかわからなくなった」
東京都出身の田口が探検部に入ったのは、探検家の関野吉晴さん(72)に憧れたからだ。関野さんは南米チリから人類発祥の地とされるアフリカ・タンザニアまでさかのぼる旅「グレートジャーニー」を、足かけ10年にわたって成し遂げ、「関野さんと同じような活動がしたかった」。小学生からボーイスカウトに励み、高校時代は地質などを研究する地学部に所属。関野さんのように医師を目指したが、医学部入学は果たせず、3浪の末、早大に入学した。「自分のやってきたことの意味を探したかった」と当時の心境を語る。
ノートや計画書を見直すと、探検のあり方は時代とともに変わってきたことが分かる。創部当初は日本人の海外渡航が厳しく禁じられ、外国に行くには学術的な調査目的が必要だった。70年代以降、自由に海外に行けるようになって活動範囲は広がる一方、何ができるかが問われるようになった。同じ地域で2次3次と遠征を繰り返せば調査の目的や手法も変わっていく。田口は「探検とは何か。早大探検部は60年間にわたり、そのことをひたすら問い続けてきた」と話す。
根底にある思いは変わらない。「現地に行かなければ分からないことがある。現地で自分たちの予想を上回る発見や新たな刺激を得て、面白いことを見つけていく。それが僕ら探検部のスタイル。それをどう実現するのか。
先輩たちの歩みに思いを巡らすと、コロナ禍で探検部の活動が変わるのもある意味当然と思えるようになった。
「探検と言えば海外。そう思い込み、視野が狭くなっていた。国内にも未知のものはたくさんある。探検とは何か。見直すいいきかっけになった」
田口が新たな夢として描くのが、日本への旅だ。日本列島に自分たちの祖先がどう渡来したのか。専門家は「北海道ルート」(約2万5000年前)、「対馬ルート」(約3万8000年前)、「沖縄ルート」(約3万5000年前)の三つを挙げる。その中で当時陸続きだったのが、シベリアから歩いて南下する「北海道ルート」。田口は「いつか当時の技術や装備でたどることはできないか」と語る。昨年は山中で黒曜石を探して石器を作り、その石器を使って動物の皮をなめす作業ができないかと考えた。動物の皮で衣装を作るためだ。夢の実現が遠いことは分かっているが、「このまま終わりたくない」と作業に没頭した。
新たな課題に取り組む田口の姿に触発され、部員たちも動き始めた。昨年、部全体で活動できたのは、大学近くの公園で読図の練習をしたり、応急手当の技術を学んだりと地味な作業ばかり。苦しい環境でも、ある部員は眼鏡を外した裸眼で、「サバイバル生活」に挑戦。新たな視点からの探検を試みた。別の部員は酒を主食とするエチオピアの民族を研究するとして1週間、酒だけで暮らすとどうなるか体を張って検証。自宅でできる探検を模索した。
今年3月から副幹事長を務める山崎菜月(20)は「以前も田口さんには探検部が苦しいときに救われた」と明かす。新入部員は例年10人程度のはずだが山崎らが入部した19年の入部希望者は20人を超えた。その前年、TBSの人気バラエティー番組だった「クレイジージャーニー」が早大探検部の活動を紹介。いつもなら常識にとらわれない「変わり種」が多く集まるが、「普通の人」が目立ち、部の雰囲気ががらりと変わった。
探検を単なる野外活動の延長と捉える新入生もいて、不満をのぞかせる部員もいた。互いの価値観がぶつかる中、橋渡し役となったのが田口だった。山崎は「どんな緩い内容の提案でも、どうすれば探検として成立するか懸命に考えてくれた」と振り返る。
今年3月30日。東京都内で部員総会が開かれた。探検部は3年生までが現役部員で4年生上は「現役OB」と呼ばれる。登山や沢登り、カヌーなど後輩に技術を伝えるため遠征に同行し、部の運営について助言はするが何かを命じることはしない。新3年生がリーダー役の幹事長を務めるのが恒例だが、今年は新4年生の田口が引き続き務めることに決まった。
新型コロナの収束はまだ見えないが、田口は懸命に探検を追い求める。「探検とは、ものの見方を変えて、新しい価値を発見する作業」。異例の4年生幹事長が率いる早大探検部が新たなスタートを切った。【田原和宏】
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