「チベットに行った1988年のラグビー大学選手権」
何かを成し遂げようと思ったときからその人の苦しみは始まるのかも知れない。なぜなら成功することは、失敗の山の上にあるからであり、挫折の末にあるからである。」
「チベットに行った1988年のラグビー大学選手権」
何かを成し遂げようと思ったときからその人の苦しみは始まるのかも知れない。なぜなら成功することは、失敗の山の上にあるからであり、挫折の末にあるからである。」
「中国のアウトドア用品メーカーとしてのカイラス」
そのカイラスの名前を冠した中国のアウトドア用品のメーカーがあることを何年か前に知りました。
ネットで、「アウトドア用品メーカー、カイラス」と検索してみると、カイラスジャパンというサイトが見つかりました。
カイラスジャパンのサイトを見てみると、カイラスというブランドは2003年にBaggio Zhong氏が創立されたアウトドア用品のブランドだそうで、中国国内での売り上げが90%を占めているそうです。
日本ではカイラスジャパンという名前で楽天市場などでオンラインショップを運営しているようです。
https://www.rakuten.co.jp/kailas/
僕は、早稲田大学卒業後は仕事ばかりの人生になってしまって、アウトドアの活動も登山も川下りも全くしていません。
今からでも遅くないので、学生時代を思い出して、僕にでも出来るようなアウトドアの活動をしてみようかとも思っています。
カイラスジャパンという名前で楽天市場などのオンラインショップがあり、カイラスという名前のブランドでアウトドア用品を購入できるのなら、一度、カイラスジャパンというオンラインショップでアウトドア用品を購入して、学生時代を思い出して、アウトドアの活動を始めてみても良いとも思っています。
アウトドアの活動を始める良いきっかけになる、カイラスという名前を冠したアウトドア用品のブランドの発見があったので、早稲田大学卒業後、全くアウトドアの活動をしていない自分を叱咤激励する意味でも、中国のアウトドア用品メーカーとしてのカイラスのことについてブログを書いてみました。
11月30日土曜日の高田馬場チベット料理屋さんでの中島さんと吉澤さんとの会合でもカイラスという名前を冠したアウトドア用品のブランドがあることのお話もしてみようと思っています。
以上、「中国のアウトドア用品メーカーとしてのカイラス」
ブログに載せます。
「カイラスと日本人」
「ブラマプトラ川の源流としてのカイラス」
「チベットの聖山、カイラス」
11月30日土曜日の高田馬場チベット料理屋での中島さんと吉澤さんとの会合ではカイラスに行かれて、カイラス巡礼もされている中島さん、吉澤さんと会えるので、カイラスの思い出についてもお話が出来れば良いなと思っています。
「チベットと原発」
「チベットの水力発電、地熱発電」
チベットと言えばいつくかのイメージと共に牧畜という言葉が思い浮かぶ。地理的条件、厳しい気候等により農耕生産が極めて限定されてきたなかで、牧畜業は産業の中心であり、現在もその比率は大きい。このことは、牧畜業と結合した多角的な発展がチベットにおける農業政策の目標の一つであり、畜産品を原料とする軽工業生産を発展させる事が工業政策の目標の一つとなっていることがことからも明らかである。又、牧畜業の健全な発展が目標とされる一方で、近年、天然資源の開発が注目されている。中国の調査によりチベットでは莫大な量の天然資源が眠っていることが判明した。その天然資源埋蔵量の多さは中国の中でも上位に位置すると言われ、その開発が進めばチベットの経済に大きな影響を与えることは必至と思われる。そういった意味でチベットの経済は今後、大きく転換する可能性を大いに秘めていると言えよう。これから以下に記すことがらは中国政府発表の資料を参照したものでありいくらか政治的意図のもとに発表されたものであることを断っておく。
11月30日土曜日の高田馬場チベット料理屋さんでの中島さんと吉澤さんとの会合では原発に代わるエネルギー源としてのチベットの水力発電、地熱発電のことについてもお話が出来れば良いなと思っています。
「チベットで食べたモモ」
「チベットのお土産、マニ車」
「チベット勉強会」
チベット勉強会で勉強したことは、実際にチベットというフィールドに赴いた際にも役に立ったし、チベットの方々の考えていることを理解するためにもチベット勉強会はとても大事だったと今でも思っています。
「早稲田大学探検部とチベット」
即ち、チベット文化圏が広大であり、その文化がそれぞれの地域において独自性を持つからである。代表的な地を列挙すると、チベット自治区の東部と西部、雲南省北部、四川省西北部、青海省南部、ビルマ北部、シッキム地方、ラダック地方、パキスタンのバルチスタン地方、ネパールの亡命地、インドにおける亡命地(ラダック、アッサム、ダラムサラ周辺、南インドなど)、さらにはイギリス、アメリカ、スイスなどにも多くのチベット人が居住している。
これらの地の独自性、及びチベット文化圏、チベット民族に共通する普遍性を明らかにするには、一人の力、数度の探検のみでは力量不足であることは明白である。
チベットに関する多くの地を探検しても一度のみの訪問では検証が浅く、内容も片寄ったものになる可能性が大きい。現代世界の流動は激しく、チベットについてもその例外ではない。ある地域における活動をそれぞれの世代が何度もフォローし、その内容を深化させると共に、それぞれの世代おけるチベット民族とチベット文化の証人となり、チベット史を築き上げていく。つまり、早稲田大学探検部があるかぎり、チベット高原民族探査隊が続けられていく、それが早大探検部とチベットなのである。
1) 中島、吉沢隊 ~1986夏
文化人類学的な調査をチベット自治区にて展開する。
2) 木村、坂下隊 ~1987春
東チベット、チベット自治区、ネパール、ダラムサラの難民を訪問し、チベット民族の現状を把握。チベット問題を直視する。奇襲1号参照
中島、後藤、斎藤隊 ~1987夏
第一次隊に続き、文化人類学的調査をチベット自治区にて展開し、内容を深化させる。遊牧民のキャンプに住み込み、ヤクとチベット人の関係、一妻多夫制を家系図により証明すると共に、大草原での遊牧生活とそれに根ざす文化のすばらしさを紹介し、以後の活動の根幹を築く。
1) 斎藤、松田隊 ~1988夏
2) 上原、桜井、倉島、中谷隊 1988夏
この遠征によりチベット自治区の開放地、未開地の相当分を網羅する。スライド等の資料を多数持ち帰る。
(第四次隊)
高橋、斎藤隊 ~1989冬、春
冬の遊牧民の生活を調査。「彼らは冬の間遊牧しない(高橋)」などの調査結果を出す。厳冬期のヒマラヤを徒歩でネパールに抜ける。
1) 中谷、岸田隊 ~1990春
ネパールのチベット難民居住区を訪問。チベット難民がネパール人のカースト制度の人で下層のカーストに位置付けられ、ボテと呼ばれ、ある意味では虐げられている姿をリポートする。彼らもまたそのボテとしての地位に不満を示す様子はない。仮に独立を果たしてもだだっ広い高原に文明生活のない事を理由に、帰るかどうか迷う人間の姿に感動する。
2) 沢田石、前田隊 ~1990春
インドのダラムサラ、ラダック地方を訪問。1989年3月8日以来、チベット自治区に戒厳令が敷かれたためチベット自治区訪問を断念。当初は漢民族によるチベット人虐殺、不妊手術などの人権侵害に取り組む予定であったが、訪問地をインドに変更し、難民の文化、またチベット人よりチベット的と呼ばれるラダックの文化を調査した。と同時にチベット問題、ラダック問題についても調査し、かなりの部分をフォローした。
(第六次隊)
沢田石、遠藤、桑田隊
以上のような早稲田大学探検部とチベットに関する記述がありました。
早稲田大学探検部とチベットの関係が分かり易く書かれていると思いました。早稲田大学探検部のチベットの計画が早稲田大学探検部30期OBの中島木祖也氏により創設され、その後、数次の隊が早稲田大学探検部からチベットに送り出されて、なんらかの成果があったことが分かります。
僕がチベットに行った1988年夏の隊は第3次隊になるようです。成果としては、「この遠征によりチベット自治区の開放地、未開地の相当分を網羅する。スライド等の資料を多数持ち帰る。」という記述がありました。
僕が作成したチベットのスライドも重要な成果の一つだったようですが、僕は重要な成果であるチベットのスライドを紛失してしまったようです。残念です。
11月30日土曜日に高田馬場でのインド・ネパール・チベット料理屋さんでの会合では早稲田大学探検部でチベットの計画を創設された中島木祖也さんにもお会いします。
早稲田大学探検部のチベット話を盛り上げていこうと思っています。
先日、自分の部屋を掃除していたら、「第6次チベット高原民族探査隊 1990年夏」という計画書が見つかったので、早稲田大学探検部とチベットのことに書かれている部分をブログに載せます。
以上、「早稲田大学探検部とチベット」
ブログに載せます。
「11月30日(土)高田馬場チベット料理屋での会合 その4」
以下のようなメールのやり取りをしました。
本来なら、僕がやることを吉澤さんの手を煩わしてしまって申し訳ありません。
なにか他にやることがあれば僕が会の雑用をしますので僕に言ってください。
当日は中島さんと吉澤さんと僕の3人での会合になるようですが、
どうぞよろしくお願い致します。
当日は楽しみにしております。
が、知っていたお店で、関口君と飲んだときはエベレストという名前のビールを飲みました。
チベットのお話をするにはうってつけのお店だと思います。
チベット料理のモモも食べられます。
清瀧並みの料金で、社会人の方には向いているか分かりませんが、
良いお店だと僕は思いました。
僕も学生時代を思い出して、チベットのお話をしたいと思っております。
当日は楽しみにしております。
「土本武司先生の思い出」
僕にとってはとても大きな存在の方で、僕がなにかを書けるような方ではありませんが、土本武司先生の思い出を書かせていただきます。
ゼミ(土本先生のゼミ)は自由な雰囲気で、僕がサークルで探検部というサークルに所属したこともご存じで、大学3年生の時のカナダユーコン川川下り、大学4年生の時のインド・ブラマプトラ川川下りのこともご存じで、ゼミでは僕のことを温かく見守ってくださっていました。
ゼミでは難しい公害訴訟(水俣病訴訟)のことについて分かり易く講義をされていたのが思い出に残っています。
ゼミの講義のあとに大隈庭園でご一緒させていただいて、お話を聞かせていただいたのも思い出に残っています。
早稲田大学界隈でのゼミの飲み会(源兵衛とか面影鮨で飲み会をしていました)にも学生に混じって来ていただいて、飲み会の席でお話を聞かせてくださいました。学生相手の飲み会にも来ていただいて本当に感謝しています。
僕は法曹の道には進みませんでしたが、学生時代に土本武司先生に教わったことは、今でも覚えていて、僕が東電刑事裁判についてブログを書けるのも、学生時代に土本先生に刑事法を学んでいたから書けたのだと思っています。
今でも学生時代に学んだ土本先生の本は家にあります。「刑事裁判」(令文社)という本が僕の家にあります。
今日の報道を見て本当に驚いていますが、早稲田大学法学部時代に土本武司先生のゼミでご一緒させていただいた方々にも連絡を取れるなら連絡を取りたいと思っています。
心よりご冥福をお祈り致します。
短いブログで失礼かもしれませんが、土本武司先生の思い出について書かせていただきました。
以上、「土本武司先生の思い出」
ブログに載せます。
「インド・ブラマプトラ川川下りの趣旨」
特に、60数隊を派遣して来た登山の分野では、20座に及ぶ高峰の初登頂、時代を画す登山スタイルの実践などの実績を上げてまいりました。
そして、これらの活動を通じて広く諸国と友好関係を発展させ、相互の理解と友情を促進してきたところであります。
このたび準備を進めている世界第六位の大河ブラマプトラ川の舟行は、インドとの深いきずなの中で実現する世界最初のプロジェクトであります。
遥か高地アジアの聖地カイラスの麓に源を発し、チベット高原を千五百キロ東流し、大ヒマラヤを断ち割って南に流れるブラマプトラは、今世紀まで「謎の川」といわれ、いまなお地理上の空白部を数多く残しております。
本会は、1984年以来、辛抱強く渉外を重ねてまいりましたが、このほど国境の治安を守るインド・チベット国境警察隊(ITBP)と本会は、1981年以来良好な関係を有し、これまでも幾度かの合同遠征を成功させ、信頼関係を深めてきたところです。
未だ知られていない北東辺境地域(NEFA)の奥深く入り、禁断の中印国境(マクマホンライン)からバングラデシュ国境にいたる1200キロの川下りと踏査活動は、多大の新知見をもたらすものであります。この企画の趣旨をご理解の上、よろしくご支援のほどお願いいたします。
「土屋健さん」
度々、メールをしてしまい申し訳ありません。
探検部とは関係がないのですが、
吉澤さんが早稲田中学高校で同期生だった土屋健さんとは連絡を取っていらっしゃるでしょうか?
実は僕が早大探検部に入部したのは、
僕の小日向台町小学校時代の友達だった土屋健さんの紹介でした。
土屋健さんは何をしていらっしゃるだろうとふと思ったので、
失礼かもしれませんがメールをさせていただきます。
上原
上原さん
おはようございます。返信が遅くなってしまいましたが、土屋健くんとは今もつながっています。今年2月の中学高校の同期会にも一緒に出席し、その前は舞踏家になった同期の公演会を彼(中高時代から皆でケンズと言っています)と恩師と3人で見に行ったこともありました。彼はフジテレビのドラマのプロデューサーになり、Dr.コトーが代表的な作品だろうと思います。その映画の制作にも携わったと言っていました。今もその類の仕事を続けているようです。
土屋健さんのことについてメールを下さりありがとうございます。
土屋健さんは小日向台町小学校時代から人気者でした。
早稲田中学高校時代はサッカー部だったということも僕も土屋健さんから聞いておりました。
早稲田大学時代はスキー関連のサークルに所属していらしたと聞いております。
今でも吉澤さんが土屋健さんと連絡を取り合っていらっしゃることが分かりました。
ありがとうございます。
土屋健さんが僕のことも覚えてくれていることも書いてくださり、僕も嬉しいです。
これからも何かあればメールをさせていただくかもしれません。
どうぞよろしくお願いいたします。
吉澤さん
土屋健さんのことでのメールです。
実は僕は土屋健さんとは幼稚園も同じで、小日向台町小学校時代も友達で仲が良くて、
子供の頃はよく土屋健さんの家に遊びに行っていました。
僕が高校卒業後、一年間の新聞配達をしながらの浪人生活を送り、
なんとか早稲田大学法学部に合格した際に、
僕は嬉しくて、土屋健さんの家に報告に行きました。
(当時は土屋健さんは、早稲田中学高校から現役で早稲田大学に進まれていたので報告に行きました)
土屋健さんのお母様も喜んでくださり、お寿司をとっていただき僕もご馳走になりました。
その際に、僕は土屋健さんに早稲田大学探検部というサークルがあるからと探検部を紹介されました。
僕はその後、探検部の部室を探して、早稲田大学探検部に入部しました。
一つお聞きしたいことがあるのですが、
土屋健さんは僕が統合失調症という精神疾患を患っていて精神障害2級の精神障害者になっていることをご存じでしょうか?
もしかしたら、吉澤さんから土屋健さんにお伝えしているでしょうか?
僕の病気のことについて土屋健さんはご存じか知りたいのでメールをさせていだきます。
上原
上原さん
今日はひどい雨ですが、明日明後日は秋晴れになるみたいですね。
お尋ねの件、土屋君は貴兄の病気のことは詳しく知らないものの、心の病でずっと苦しんでいることは知っていると思います。もうかなり前ですが、そのように彼と話したことがあったと思います。精神障害2級というのは、貴兄のこのメールで僕も初めて知りました。
メールをしました。お休みのところメールをしてしまい申し訳ありません。
心の病、統合失調症に関しては精神科で精神障害2級と診断されています。
精神障害者手帳も持っています。
土屋健さんのメールアドレスに関しては、
もう長い間、会っていないし、連絡も取っていないし、
土屋健さんもお忙しいと思うので、土屋健さんのメールアドレスに関しては
教えていただかなくて大丈夫です。
土屋健さんとは、聖徳幼稚園という聖徳太子の聖徳の名のついている
名前のすごい幼稚園で、ご一緒させていただきました。
土屋健さんは本当にナイスガイだと思います。
僕に関しては、心を病んでしまい、昔の面影はないと思います。
メールではきちんとしたことを書けるので、
精神障害者に思えないということも言われたこともあります。
吉澤さんは今日はお休みだったと思いますが、メールをしてしまい失礼しました。
明日は晴れの特異日、文化の日です。
連休を楽しまれてください。
今では、有名なテレビのプロデューサーになられているようですと父と母に話すと立派だねと褒め称えていました。
「11月30日(土)高田馬場チベット料理屋での会合 その3」
チベット話を盛り上げるべく
後藤君も誘いましょう。
よろしくお願いします。
1988年当時のチベット勉強会のファイルも1988年夏チベット探査の計画書、報告書も家にあるので当日は持って行きます。
チベットの写真集、カイラスの写真集も家にあるので当日は持って行きます。
僕が作成したチベットのスライドは行方不明か紛失してしまったようです。申し訳ありません。
中島さんのお役に立てば幸いです。
「11月30日(土)高田馬場チベット料理屋での会合 その2」
メールをくださりありがとうございます。
斎藤泰晴君に会えないのは残念ですが、もし斎藤泰晴君と連絡が取れるなら、
「それを言っちゃあ、おしまいよ」と上原が言っていたとお伝えください。
後藤君(さん?)をお誘いすることには賛成です。
次回の探検部のOB会の幹事になっているそうですし、
今回の会合が何か話のネタになるかもしれないし、
ご参加されて良い効用があると思います。
吉澤さんにお手数をおかけしてしまって申し訳ないと思っています。
ただ、吉澤さんのご人徳で、後藤さんも参加されるかしれないし、
後藤さんに関して吉澤さんにお任せ致します。
当日はチベット料理でも食べながら、チベットの話が出来ることを楽しみにしております。
「1988年夏チベット探査報告書」
→蘭州(鉄道)→西寧(鉄道)→ゴルムド(バス)→ラサ(バス)
→シガチェ(バス、ヒッチハイク)→ラズー(ヒッチハイク)
→ツオチェン(ヒッチハイク)→ヤンフー(ヒッチハイク)
→シーチャンホー(ヒッチハイク)→タルチェン(カイラスの周囲の巡礼路を1周して
カイラス巡礼)(ヒッチハイク)→シーチャンホー(ヒッチハイク)
→イエチョン(バス)→カシュガル(ヒッチハイク)→ウルムチ(飛行機)
→上海(船 鑑真号)→神戸→早稲田大学
目的 チベットの自然及び、チベット人の生活に関するスライド作成
カイラス巡礼者調査
カイラス巡礼者調査について
彼らは私を見ると一瞬驚いたようであるが、こちらから笑顔を見せると笑顔で答えてきた。彼らはしきりにチベット語で話しかけてきたが私はほとんどチベット語を知らないので、ただ「タシデレ」(こんにちは)と繰り返していた。彼らはようやく私がチベット語を話せないことが理解できたらしく話しかけるのをあきらめた様子でゴンパのなかに入り、私のいた反対側にあぐらをかいて座った。父親の方は何かを口ずさんだ後、大きな袋から円形の黒い塊を取り出した。最初、何がなんだか分からなかったが、これらに火をつけるのを見て、ヤクのフンであることが分かった。チベットではヤクのフンが大切な燃料になっている。彼はヤクのフンに火をつけると今度は羊の皮で作ったふいごのようなもので空気を送り、火をだんだん大きくしていった。もの凄い煙のためゴンパの中はモノクロの世界に変わった。火が大きくなると彼はやかんを持って外に出ていき水を汲んできた。そしてやかんを石で作ったかまどの上に置いた。彼は再びふいごを自由自在に操り空気を吹き込んだ。30分ぐらいすると、湯が沸きはじめ、四角い固まりになっている茶をばらして湯の中に入れた。2、3分ふいごの手をゆるめ、待ち、茶ができると茶椀を出して茶を注いだ。次にそのなかに独特の臭みのあるバターを入れる。チベットではバターは希少なたんぱく源であり、このバター茶は朝昼晩を問わず一日20杯ぐらいは飲む。彼は子供の茶碗に茶を注いだ後、私にも勧めてきたので私は好意を受け入れコップを差し出した。バター茶は日本人が飲んでもうまいと感じないかもしれないが、この様な状況では寒さをいやしてくれるもの、人の暖かみを感じさせてくれるものである。私は一杯飲み干しすっかりいい気分になった。彼はもう一杯勧めてきた。私は一度遠慮してからコップを差し出して注いでもらった。すると今度は白い粉をバター茶の中に入れてくれた。明らかに砂糖でないことがわかる。なぜならコップ一杯にこぼれるぐらい入れるのであるから。この白い粉はチンコー麦である。チベットの主食であるツァンパはこのようにチンコー麦をバター茶の中に入れそれを練りそのまま食べるのである。日本のきなこを思い浮かばればわかりやすいと思う。味は砂糖か何かがあれば何とか口に入るのだが、そのままでは何も味がせずバター独特の臭みとあいまってうまいと言えるものではない。しかし彼らはそれをうまそうに食べているので、私も気分を害すまいと「ヤップドゥ」(very goodの意)を連発した。それに乗じて勧めてくる彼らに辟易したが真の好意であったのだろう。そうこうしているうちに私と彼らはすっかり仲良くなり、子供は調子に乗って歌を歌い出し、服を脱いで小さな息子をあらわにして踊りも始めた。私と子供の父親は大笑いでそれに拍手を送った。このようにしてバター茶とツァンパの食事は終わり、私はシュラフの中にもぐりこんだ。
彼らはもう寝るものと思っていると父親はお経をとなえ、手を頭の上にかざして祈りはじめた。もう夜の11時過ぎであった。ヤクのフンの火も消えゴンパの中は真っ暗になっていた。彼は細いろうそくの火を頼りに五体投地をしている。彼はさっきまでの笑顔と打って変わって真剣であった。子供が何を話しかけても怒鳴ってそれに答え、ひたすら
「オム マニ ペメ フム」
で始まるお経を繰り返してはゴンパの土間に身を投げ出していた。祈りが終わったのは12時過ぎであった。
以上が僕が1988年に書いていた、チベットの聖山、カイラス山北壁のティラプクゴンパというゴンパで僕が見聞したチベット仏教徒の方の父と子の様子です。
チベット仏教徒の方の、祈りの真剣さが現在でも記憶に残っています。
チベット仏教徒の方々は他者のために祈りを捧げるようです。
五体投地という祈りの仕方のようです。
僕も、チベットに行った際に五体投地をする方と実際に会いましたが、真剣でした。
何か、僕にとって大切なことを教えていただいたような気がしています。
以上、「1988年夏チベット探査報告書」
「チベットのスライド」
実は、11月30日に、中島さんと吉澤さんと飲むことになりました。
チベットの話を伺うために中島さんと吉澤さんと飲みます。
桜井さまに渡してある、僕の作成したチベットのスライドを中島さんと吉澤さんにもお見せしたいので、1988年夏チベット探査の際の僕の作成したチベットのスライドを返していただきたくメールをさせていただいています。
出来れば郵送していただきたいです。
僕の家の住所は
〒112-0006
東京都文京区小日向1-14-5です。
もし郵便料金が高いようでしたら、僕が郵送代を払います。
着払いでも結構です。
お忙しいとは存じますが、何卒よろしくお願い申し上げます。
お電話までくださりありがとうございます。
電話に出られずに申し訳ありませんでした。
こちらからお電話させていただいたところ、
僕の作成したチベットのスライドを預かっている記憶はないということです。
僕の記憶違いのようです。
お忙しいところお手数をおかけして申し訳ありません。
こかに紛失したのだと思います。僕はチベットのスライドを僕が新宿区戸山で一人暮らしている頃、アパートの部屋に持って行っていました。桜井さんがご結婚され、結婚式の二次会で、僕の撮ったチベットのスライドの上映を行いました。僕は、僕が一人暮らしをしている頃のアパートにあったチベットのスライドを桜井さんに渡していたと思い込んでいたようです。僕は新宿区戸山に一人暮らししている頃に統合失調症に罹り、小日向の実家に戻ったので、僕の記憶も信用できないのだと思います。11月30日の会合の際に持っていて、先輩にお見せしようと思っていましたが、チベットのスライドは無いようです。
「11月30日(土)高田馬場チベット料理屋での会合」
メールで連絡が来ました。
日時 11月30日(土)17時より
場所 マヤ(高田馬場のインド・ネパール・チベット料理屋)
maya (マヤ) - 高田馬場/インド料理/ネット予約可 | 食べログ
中島さんとの予定の調整ありがとうございます。
当日は楽しみにしております。
この度はありがとうございました。
当日はゆっくりと落ち着いてお話を伺いたいと思っております。
どうぞよろしくお願いいたします。
当日は中島さんと吉澤さんのチベットカイラス行のお話が伺えることを楽しみにしております。
当日は、僕が4人の文章を集めて作った1988年夏のチベット探査の計画書、僕が作成したチベットのスライド、カイラスの写真集、1988年当時の学生手帳などを持って行くつもりです。
中島さんも吉澤さんもお二人でチベットカイラスに行かれているので、僕の持って行くものをお見せしても分かる方々です。
学生時代にもっと先輩にチベットのお話を聞いておけば良かったと思っています。
僕も学生時代は、自分中心のような考えがあり、先輩のお話を謙虚にお聞きせずに、何か自分の物語を作ろうとしていたような気がしています。
11月30日の会合では先輩のお話に謙虚に耳を傾けて、お二人のチベットカイラス行のお話を伺いたいと思っています。
今から本当に楽しみにしています。
以上、「11月30日(土)高田馬場チベット料理屋での会合」
「早稲田大学探検部チベット高原民族探査隊について」
早大探検部時代にチベットに関わった方々のメールアドレスを探してメールをしています。
昨日のメールでは斎藤のメールアドレスが間違っていてCcに入れられませんでした。
修正しましたので、斎藤もCcに含めて、昨日のメールを再送させていただきます。
岸田君のメールアドレスが間違っているようです。
もし、高田馬場でのインド・ネパール・チベット料理屋さんでの会が実現したら、皆様もご参加されませんか?