2024年11月30日土曜日

「チベットに行った1988年のラグビー大学選手権」

 「チベットに行った1988年のラグビー大学選手権」

   僕がチベットに行った、1988年の日記には、1988110日の第24回ラグビー日本選手権をその後チベットに一緒に行くことになった早稲田大学探検部で同期の倉島孝行さんと観戦しに行ったことが書かれています。

  僕が早稲田大学に入学した1987年にはスーパー1年生と言われた堀越正巳選手、今泉清選手、藤掛三男選手が早稲田大学ラグビー部に入部され、1988110日のラグビー大学日本選手権で同志社大学と対戦して、1910で勝利を収め、優勝されました。

   その後、115日に行われたラグビー日本選手権でも社会人の東芝府中を2216で破り、なんと大学生が社会人を倒して、日本一になりました。社会人のチームに大学生が勝ったのは1988年の早稲田大学ラグビー部が最後のようです。

  1988年の日記には、110日の第24回ラグビー日本選手権を観戦して、かなり興奮して、日記が書かれていました。日記は創造というタイトルで、

 「人間が何かを創造するためには楽しいだけではできないと思う。

   何かを成し遂げようと思ったときからその人の苦しみは始まるのかも知れない。なぜなら成功することは、失敗の山の上にあるからであり、挫折の末にあるからである。」

 という文章が書かれていました。早稲田大学ラグビー部のストイックな姿勢に感動して、書かれた文章だと思います。

  僕が1988年にチベットに行ってもなんとか頑張れて、カイラスまで到達出来たのは、早稲田大学ラグビー部のストイックな姿勢に多くのことを学んで、なんとか頑張れたのだと思っています。

  僕が早稲田大学で良かったと思うのは、早稲田大学がスポーツが強くて、多くの勇気、元気をもらえたことも早稲田大学で良かったと思っています。

  明日はラグビーの早明戦があり、100回目の記念の早明戦になるようです。

  早稲田大学に関係している方々は、多くの勇気、元気をもらえると思っています。

  良い影響は自分にとっての養分になると思います。

  僕がチベットに行った1988年に一緒にチベットに行った倉島孝行さんとラグビー大学選手権を観戦していて、とても感動して日記を書いていたことをブログに書いておきます。

  以上、「チベットに行った1988年のラグビー大学選手権」

  ブログに載せます。

 

 

 

 

2024年11月29日金曜日

「中国のアウトドア用品メーカーとしてのカイラス」

 「中国のアウトドア用品メーカーとしてのカイラス」

  僕は早稲田大学探検部2年生の時に中国のチベット自治区にある、チベットの聖山、カイラスに行き、カイラス巡礼をしました。

 そのカイラスの名前を冠した中国のアウトドア用品のメーカーがあることを何年か前に知りました。

 ネットで、「アウトドア用品メーカー、カイラス」と検索してみると、カイラスジャパンというサイトが見つかりました。

 カイラスジャパンのサイトを見てみると、カイラスというブランドは2003年にBaggio Zhong氏が創立されたアウトドア用品のブランドだそうで、中国国内での売り上げが90%を占めているそうです。

 日本ではカイラスジャパンという名前で楽天市場などでオンラインショップを運営しているようです。

 https://www.rakuten.co.jp/kailas/

 僕は、早稲田大学卒業後は仕事ばかりの人生になってしまって、アウトドアの活動も登山も川下りも全くしていません。

 今からでも遅くないので、学生時代を思い出して、僕にでも出来るようなアウトドアの活動をしてみようかとも思っています。

 カイラスジャパンという名前で楽天市場などのオンラインショップがあり、カイラスという名前のブランドでアウトドア用品を購入できるのなら、一度、カイラスジャパンというオンラインショップでアウトドア用品を購入して、学生時代を思い出して、アウトドアの活動を始めてみても良いとも思っています。

 アウトドアの活動を始める良いきっかけになる、カイラスという名前を冠したアウトドア用品のブランドの発見があったので、早稲田大学卒業後、全くアウトドアの活動をしていない自分を叱咤激励する意味でも、中国のアウトドア用品メーカーとしてのカイラスのことについてブログを書いてみました。

 1130日土曜日の高田馬場チベット料理屋さんでの中島さんと吉澤さんとの会合でもカイラスという名前を冠したアウトドア用品のブランドがあることのお話もしてみようと思っています。

 以上、「中国のアウトドア用品メーカーとしてのカイラス」

 ブログに載せます。

 

 

 

 

 

 

 

2024年11月28日木曜日

「カイラスと日本人」

 「カイラスと日本人」

  僕は早稲田大学探検部2年生の時にチベットの聖山、カイラスに行きました。

  カイラスと日本人の歴史を調べてみると、日本人で初めてカイラスに行かれのは僧の河口慧海さんのようです。河口慧海さんは1900年に日本人として初めてカイラスに行かれたようです。

 


  カイラスを日本人として初めて写真撮影されたのは長谷川伝次郎さんのようです。長谷川伝次郎さんは1927年にカイラスを巡礼されて日本人として初めてカイラスを写真撮影されているようです。

 


   河口慧海さんも長谷川伝次郎さんも、滋賀県にある探検の殿堂が選んだ日本の探検家になっています。

   日本人の探検とカイラスがとても関係が深いことが分かります。

   僕らがカイラスに行った1988年では、カイラスに行っても探検と認めてもらえるか分かりませんが、僕にとっては探検でした。

   カイラスと日本人について簡潔ですがブログを書いてみました。

   1130日土曜日の高田馬場チベット料理屋での中島さんと吉澤さんとの会合ではカイラスと日本人についてもお話が出来れば良いなと思っています。

  以上、「カイラスと日本人」

  ブログに載せます。

 

 

 

 

2024年11月27日水曜日

「ブラマプトラ川の源流としてのカイラス」

 「ブラマプトラ川の源流としてのカイラス」

  僕が早稲田大学探検部4年生の時に参加した日本ヒマラヤ協会のプロジェクト、「インド・ブラマプトラ川川下り」で下ったブラマプトラ川の源流は僕が早稲田大学探検部2年生の時に行ったカイラスの麓にあります。

  カイラスの麓にあるマナサロワール湖からブラマプトラ川は流れ出ているようです。チベットではブラマプトラ川はヤルツァンポ川と呼ばれ、チベット高原を1500キロ東進して、大ヒマラヤで大屈曲して南に流れを変えインド・ブラマプトラ川となります。

  僕の家にある「チベットの山 カイラス山とインド大河の源流を探る」という本を読んでみると、以下のような記述がありました。

  「創造主ブラフマンの息子たちはヒマチャラの北に赴き、カイラス山の上で苦行をした。そこでシヴァとパルパディに会い、十二年そこにいて苦行と祈りに専念した。当時そこにはほとんど雨が降らず、水もなく、困った一同はブラフマンのところに行ってお祈りをした。するとブラフマンは、お前たちの願いは何かと聞いた。賢人たちは「私たちはカイラスで勤行をしています。私たちに水浴する場所を作って下さい」と答えた。するとブラフマンが精神力でマナサという聖なる湖を作ったので、賢者たちは再びカイラス山で苦行と祈りに従事し、湖水の真ん中から浮かび上がった金色のタラを崇拝した」

  「マナサロワールの地にわが身を触れ、その湖水で沐浴する人は、誰でもブラフマンの天国に行く。また、その水を飲む人はシヴァの天国に行き、幾度も生まれ変わって得た罪から解放される。マナサロワールという名のついた獣でさえブラフマンの天国に行く。その湖水は真珠のようである」

  以上のような記述がありました。

  ブラマプトラ川のブラマとはブラフマー、ブラフマンのことです。プトラとは息子という意味です。

  この「チベットの山、カイラス山とインド大河の源流を探る」という本に書いてあるブラマプトラ川の源流としての、カイラスの麓にあるマナサロワール湖に関する創造神話を読んでみると、カイラスとブラマプトラ川の関係の重要性が分かると思います。

  地理的にもブラマプトラ川の源流はカイラスの麓ですし、カイラスの麓の湖(聖湖)マナサロワール湖から流れ出ているらしいです。

  僕は早稲田大学探検部1年生の時にミクロネシアヤップ島に行き、自分の持っている日本人の価値観に大きな疑問を持ちました。早稲田大学探検部2年生の時にはチベットカイラスに行き、カイラス巡礼をしてチベット仏教徒、ヒンドゥー教徒の方々の厚い信仰心を感じ取りました。早稲田大学探検部3年生の時にはカナダユーコン川川下りを経験して海外の大河川の川下りをしました。そして、早稲田大学探検部4年生の時に日本ヒマラヤ協会のプロジェクトであるインド・ブラマプトラ川川下りに参加してカイラスの麓に源流を持つ世界初のブラマプトラ川川下りをさせていただきました。

 僕にとっては、カイラスの麓に源流を持つインド・ブラマプトラ川川下りが僕にとっての早稲田大学探検部での活動で集大成だったようです。

 もう早稲田大学を卒業して30年以上経っていて、いつまでも昔のことばかりブログに書いているのかと言われるかもしれませんが、大学卒業後は仕事ばかりの人生になってしまって、全くと言っていいほど、アウトドアの活動や探検部らしい活動もしていないので、昔のことばかりブログに書いています。

 僕にとっては、チベットカイラス行とそのカイラスの麓に源流をもつインド・ブラマプトラ川川下りは切っても切り離せない僕にとって重要な早稲田大学探検部時代の活動だったと思っています。

 ブラマプトラ川川下りとは梵我一如の考えとも絡んでくる僕にとってとても大事で重要な活動だったようです。

 1130日土曜日の高田馬場チベット料理屋での中島さんと吉澤さんとの会合でも、僕にとって、とても大事で重要な活動だったブラマプトラ川川下りとブラマプトラ川の源流としてのカイラスのことについてもお話が出来れば良いなと思っています。

 ブラマプトラ川の源流としてのカイラスについてブログを書いておきます。

 以上、「ブラマプトラ川の源流としてのカイラス」

 ブログに載せます。


2024年11月26日火曜日

「チベットの聖山、カイラス」

 「チベットの聖山、カイラス」

   1988年夏チベット探査計画書を読んでいたら、チベットの聖山、カイラスについての記述がありました。計画書からカイラスについての記述を抜粋してみて、カイラスについて考えてみようと思います。

  カイラス

   カイラスとはチベット西部にある標高6656mの高山である。まわりには他にそれほど高い山はなく、又男根にも見える独特のかたちから、古来、見る人々の心に何かを喚起させてきた。このカイラス山はその神秘性ゆえに、チベット仏教(ラマ教)、ヒンドゥー教、ボン教(チベットの原始宗教)の3つの宗教の聖地とされている。これは世界的に見ても他にはエルサレムしかなく、いかに宗教的な地かがわかる。カイラスは巡礼地の定義のようにそれぞれの宗教の栄えている土地(チベット中部、西部、インド、ネパール)からは辺境の地にある。このカイラスには、毎年多数の巡礼者が訪れ、かれらの祈りを捧げてきた。

  カイラス巡礼について

  150km、一般にチベット人は一泊二日で廻る。(cf.NHK取材班34日)巡回礼者が多いのは3月~8月。内廻り(ナンギコル)、中間廻り(パルコル)、外廻り(チイコル)の3種があり、普通の人は外廻り。21回(13回?)廻ると、神か仏の廻る内廻りに行けると言われる。

  以上のような記述がカイラスについて計画書に載っていました。

  カイラスは3つの宗教の聖地と記述がありますが、実はジャイナ教でも聖地とされています。極めて宗教的な色彩の強い場所で、僕がカイラス巡礼をした際にも、何かトランス状態になっている方を見たことがあります。カイラス巡礼路の最高標高点はドルマラ峠という場所で標高5660mの峠で、僕もこのドルマラ峠がきつくて、重さ約20キロある100リトルザックを背負って、一人でドルマラ峠を通って、本当に地面に這いつくばるようにドルマラ峠を越えました。酸素も薄くて呼吸をするのも辛くて、僕が57年生きてきて、今までの人生の最高標高点が標高5660mのドルマラ峠です。本当にカイラスの周囲の巡礼路は苦行をするような道で、カイラス到達までの苦難の旅路の末に辿り着いた、カイラスで一番きつく、辛い体験を僕はしました。

  仏教の修行にも似ていると思いますが、本当に苦しく辛い経験をしました。まだ、年齢が20歳と若くて、気力、体力とも充実していて、何とか出来たカイラス巡礼だったと思っています。宗教を信じる信じないの良し悪しは僕には分かりませんが、精神的にも肉体的にも限界になるような苦難のカイラス到達の旅路、カイラスに到達してからの地面を這いつくばるようになんとか乗り越えたドルマラ峠と、カイラスとは、遊びに行くような場所ではなく、何か心の拠り所を求める人達が行く場所だと僕は思いました。

  チベットの方々はカイラス山に向かって本当に五体投地をして祈りを捧げていました。僕にとっても本当に大事なことを教わった場所がカイラスだったと思っています。

   11月30日土曜日の高田馬場チベット料理屋での中島さんと吉澤さんとの会合ではカイラスに行かれて、カイラス巡礼もされている中島さん、吉澤さんと会えるので、カイラスの思い出についてもお話が出来れば良いなと思っています。

  以上、「チベットの聖山、カイラス」

  ブログに載せます。


2024年11月25日月曜日

「チベットと原発」

 「チベットと原発」

  昨日は、チベットの水力発電、地熱発電の可能性についてブログを書きましたが、今日は「チベットと原発」というタイトルでブログを書きたいと思います。

   チベットに原子力発電所があるかどうかを知るために、Windows11にインストールされているCopilotを使って、

  「チベットに原子力発電所はありますか?」

  と質問してみました。

  すると以下のような回答が返ってきました。

  「いいえ、チベットには原子力発電所はありません。チベットは中国の自治区であり、中国の電力網に統合されています。チベットの電力は主に水力発電や他の再生可能エネルギー源から供給されています。」

  この回答からチベットに原子力発電所が存在しないことが分かりました。

  チベットの電力は主に水力発電や他の再生可能エネルギー源から供給されていますという回答でした。

  僕は長く、原発に反対する本をとても多く読んでいて、立場的には原発に反対の立場です。

  チベットと原発のことを考えると、チベットには原発は無くて、水力発電やその他の再生可能エネルギー源から供給されているということは、原子力発電所の存在が大きな問題になっている日本から見ても、チベットの電力供給源のことはとても興味深く、何か学べることが多くあるのではないかと思いました。

  僕がチベットに行った、1988年には、チベットではそれほど電気が通っていなかったという印象があります。

  夜になると真っ暗になり、夜空がとても綺麗で、星が落ちてくるような星空だったことがとても印象に残っています。

  1988年からすでに35年以上経っているので、現在のチベットでは電気もかなり普及していると思いますが、チベットには原子力発電所が存在しないということはとても興味深く、日本で長く原発のことを考えている方々が現在のチベットに行ってみても何か勉強になるのではないかと思います。

  小さな島国、日本では、至る所に原子力発電所を作ってしまって、2011年の福島原子力発電所の大事故以来、その原子力発電所の存在が日本各地で問われるようになりました。

  チベットと原発というと、何か勘違いしているとか言われるかもしれませんが、チベットの電力供給源が水力発電とその他の再生可能エネルギーだという事実は僕にとってはとても大きなインパクトを与える事実で、チベットと原発というテーマでもう一度チベットに行ってみたいなという気持ちになりました。

  早稲田大学探検部の大先輩方が、原発に反対する本を書かれたり、原発に反対する映画を撮られたりされていて、僕も長い間、原発のことを考えているので、「チベットと原発」というテーマでブログを書いてみました。

  1130日土曜日の高田馬場チベット料理屋での中島さんと吉澤さんとの会合の際にも、僕から「チベットと原発」というテーマでお話が出来れば良いなと思っています。

  以上、「チベットと原発」

  ブログに載せます。

 

 

 

 

2024年11月24日日曜日

「チベットの水力発電、地熱発電」

 「チベットの水力発電、地熱発電」

  僕の部屋を探していたら、1988年夏チベット探査計画書が見つかりました。

  1988年夏チベット探査計画書の中から、「チベットの経済」という章をブログに載せたいと思います。とても興味深いこと、水力発電、地熱発電のことが書かれているので、「チベットの経済」という章をブログに載せます。

  「チベットの経済」

 チベットと言えばいつくかのイメージと共に牧畜という言葉が思い浮かぶ。地理的条件、厳しい気候等により農耕生産が極めて限定されてきたなかで、牧畜業は産業の中心であり、現在もその比率は大きい。このことは、牧畜業と結合した多角的な発展がチベットにおける農業政策の目標の一つであり、畜産品を原料とする軽工業生産を発展させる事が工業政策の目標の一つとなっていることがことからも明らかである。又、牧畜業の健全な発展が目標とされる一方で、近年、天然資源の開発が注目されている。中国の調査によりチベットでは莫大な量の天然資源が眠っていることが判明した。その天然資源埋蔵量の多さは中国の中でも上位に位置すると言われ、その開発が進めばチベットの経済に大きな影響を与えることは必至と思われる。そういった意味でチベットの経済は今後、大きく転換する可能性を大いに秘めていると言えよう。これから以下に記すことがらは中国政府発表の資料を参照したものでありいくらか政治的意図のもとに発表されたものであることを断っておく。

  農業

  チベット自治区は、地形から蔵北高原、アリ地区(西北ルドク地方)蔵南谷地(ツァンポ流域)、蔵東横断山脈渓谷地区の4つの自然区に分けることができる。蔵北地区、アリ地区は広大な天然の牧場がひろがり、チベットの最も広い牧畜業地帯となっており、主にヤク、羊毛、山羊、馬などが放牧されている。蔵南谷地は、チベットの農業地帯で、チンコー、小麦、アブラ菜、リラ、エンドウ、ソバなどが栽培されている。(1980年、チンコー56%、小麦24%、エンドウ等20%)。チンコーとは、ツァンパの原料、家畜の飼料となる物で、生育期間が短く高原での栽培に適しているため、その種面積は、チベット全区で50%以上にも及ぶ。又、蔵南谷地の林芝、米林の一部の地区と波密、墨脱、察隅の大部分の地区は、平均標高が3000m以下で、気候は比較的温和であるため土地は肥えており、森林が繁茂していて、亜熱帯作物も耕作することができる。墨脱、察隅では、茶、稲の栽培が行われている。

  鉱物資源

  チベットの地下資源は非常に豊富である。その種類はホウ砂、クロム、銅、鉄、石炭、雲母、天然硫黄、鉛、亜鉛、コバルト、モリブデン、重晶石、塩など約40種にも及ぶ。とりわけホウ砂、コバルト、銅の埋蔵量においては、中国でも上位に位置する。

  水資源

  チベットの河川は流れが急で降雨量も他の地区と比べ比較的多く水資源は極めて豊かであると言える。中国の調査によると、全自治区の水力発電包蔵量のほぼ293%をも占める。又、水資源以外にも豊かな地熱資源も有している。

  森林

  チベットでは310万ヘクタールにも及ぶ森林資源があり、天然林蓄積量は61億平方メートルにも達する。森林には様々な植物が生育し、その種類は4500種をこえ、世界でも珍しい常緑雲松、雲杉(spruce)、鉄杉(hemlock)などが自生する。

  工業

  解放後、近代工業、手工業とも発展の経過をたどる。近代工業部門では、電力、コバルト鉱、石炭、化学工業、建築材料、機械森林化学工業、毛紡、マッチ、製紙、印刷、皮革、食品加工、などの業種が創設され工業産品は52種に及ぶ。又、民族手工業も復活し、1980年末には、集団手工業の数も30を越えている。(人民日報‘80125)。主な製品は、クッション、チベットじゅうたん、チベット布団、チベット風の前掛け、チベット靴、チベット刀、木碗、スーユー桶などで、総生産額もかなりの額が発表されている。

  以上が「チベットの経済」という章に書かれている文書です。

   僕がこの文書の中で興味深いと思ったのは、水資源に関する記述です。水力発電包蔵量のほぼ293%をも占めるという部分がとても興味深いと思いました。

  豊かな地熱資源も有しているという記述もあります。

   日本の大きな問題になっている、原発、原子力発電に代わるエネルギー源として、水力発電も地熱発電もチベットでは大きな可能性があることがこの水資源という記述を読むと分かります。

   チベットのことを考える際にどうしても普通の人たちはチベット仏教の盛んな地域で、仏教のことを考える方が多いと思いますが、原発、原子力発電に代わるエネルギー源としての水力発電、地熱発電の可能性のある地域だという観点からチベットのことを考えてみても面白い視点になってくると僕は思います。

 11月30日土曜日の高田馬場チベット料理屋さんでの中島さんと吉澤さんとの会合では原発に代わるエネルギー源としてのチベットの水力発電、地熱発電のことについてもお話が出来れば良いなと思っています。

  1988年夏チベット探査計画書の「チベットの経済」という章を読んでいたらとても興味深い記述があったので、ブログに載せたいと思います。

  以上、「チベットの水力発電、地熱発電」

  ブログに載せます。

 

2024年11月23日土曜日

「チベットで食べたモモ」

 「チベットで食べたモモ」

  1130日土曜日の高田馬場チベット料理屋での中島さんと吉澤さんとの3人で会合は、インド・ネパール・チベット料理屋さんで会合をします。

  そのお店ではモモという餃子のようなものを食べられます。

   モモはチベットに行った際に、ラサで宿泊したヤクホテルというホテルで食べたものでした。

  ラサのヤクホテルで僕らは初めて、モモという食べ物を食べました。

   当時は珍しい食べ物で、興味津々にモモを食べたことが思い出に残っています。

   チベットではツァンパというきなこのようなものが主食でしたが、ラサでヤクホテルに宿泊した際には、モモを食べました。

   モモはとても懐かしい食べ物で、1130日土曜日の高田馬場チベット料理屋さんでの会合の際もチベットに行ったときのことを思い出すために是非、食べたいと思っているものです。

  懐かしの味を思い出せることが今から楽しみです。

  以上、「チベットで食べたモモ」

  ブログに載せます。

 

 

2024年11月22日金曜日

「チベットのお土産、マニ車」

 「チベットのお土産、マニ車」

  僕は早稲田大学探検部2年生の時にチベットに行きました。

  チベットとは中国のチベット自治区のことですが、チベットでは仏教、チベット仏教が盛んな地域で、チベット仏教の信徒の方が多くいらっしゃる地域です。

  チベットでは、ラサに滞在した際に、ポタラ宮にも行きました。ポタラ宮は壮観な建物で、学生ながら、立派な建物に行ったと思っています。

  セラ寺にも拝観に行きました。

  チベットではマニ車をお土産に買いました。1988年当時、チベットで買ったお土産のマニ車は今でも僕の部屋にあります。

 


  マニ車とはウィキペディアによると、

 「マニ車は円筒形で、側面にはマントラが刻まれており、内部にはロール状の経文、真言や、大型のものでは1秩がそのまま納められている。」

  というものです。

  マニ車は僕の部屋の引き出しに入っているので、チベットのことを思い出したときに引き出しから取り出して、マニ車を回しています。

  僕は特別に仏教を信仰しているわけではありませんが、仏教には良い感情を持っていて、お正月には七福神巡りをしてお寺で手を合わしています。

  学生時代にチベット仏教の盛んな土地であるチベットに行ったので、チベットのお土産としてマニ車が僕の部屋の引き出しに入っていることをブログに書いておきます。

  1130日土曜日の高田馬場チベット料理屋での中島さんと吉澤さんとの会合の際にもチベットのお土産のマニ車を持っていこうと思っています。

  以上、「チベットのお土産、マニ車」

  ブログに載せます。


2024年11月21日木曜日

「チベット勉強会」

 「チベット勉強会」

  僕らは早稲田大学探検部2年生の時に、同期の仲間(上原、桜井、倉島、中谷)4人と隊を組んで、1988年夏チベット探査計画を立ち上げました。

  夏のチベット遠征の前には、4人でチベット勉強会を何度も開催して(当時の学生手帳を見てみると、週に23回、チベット勉強会を開催していたようです)、チベットに関する勉強をしていました。

  今でも僕の家には1988年のチベット勉強会のファイルが残っています。

  チベットの宗教、チベットの歴史、チベットの政治、チベットの地理、チベットの風俗・習慣、チベットの経済、などについて、各自、レポート用紙に調べたことを書いて、4人でチベットのことについて勉強しました。

  チベットに関する書籍もリストアップして、本を読んでチベットに関する勉強をしました。

  事前の準備期間は少し短かったと思いますが、それでも、4人とも忙しい中、4人集まってチベット勉強会を開催していました。

  早稲田大学探検部では現場のフィールドに赴くことが最も重視されますが、事前の勉強もとても大事だと僕は思っています。

  実際に現場のフィールドに赴いた際に、事前の勉強をしておかないと、見えてこないことも多くあると思います。

  勉強したことと、現場のフィールドに赴いて見たこと感じたことが違うなと思うこともあると思いますが、事前の勉強はとても大事だと僕は思っています。

  僕らはチベット語に関しては、ほとんど勉強できずにチベットに行ってしまいましたが、簡単な挨拶、こんにちは(タシデレ)、良い(ヤップドゥ)くらいは言えるように勉強していました。

  語学力不足だったことは否めませんが、チベットというフィールドを前に最低限の知識の勉強はしていました。

 チベット勉強会で勉強したことは、実際にチベットというフィールドに赴いた際にも役に立ったし、チベットの方々の考えていることを理解するためにもチベット勉強会はとても大事だったと今でも思っています。

  何か新しい計画を立ち上げる際には、きちんと赴くフィールドに関しての勉強をしておかないといけないと僕は思っています。

  赴くフィールドで、自分たちの持っている価値観を押しつけるのではなく、赴いたフィールドの方々から何か学ぶ姿勢がとても大事になってくると思います。

  とかく日本人は、自分の国が先進国で、自分たちの価値観が良いものであって、赴いたフィールドに住んでいる方々の価値観と合わないと思ってしまう方も多くいると思います。

  事前に赴くフィールドについてきちんと勉強して、どのような背景で、現地の方々はこのような価値観を持っているのだろうかとか、何故、チベット仏教を信仰しているのだろうかとか、勉強しておくことはとても大事なことになってくると僕は思っています。

  現場のフィールドに赴けば戸惑うことも多々あると思います。現場のフィールドに赴いて、なるべく戸惑わないように、赴くフィールドについて勉強をしておくことはとても大事なことだと僕は思います。

  1988年夏チベット探査計画の現場のフィールドに赴く前には、4人で集まって、チベット勉強会を開催してチベットに関する勉強をしていたので、現場のフィールドに赴いてもなんとかやっていけたのだと思います。

  僕ら1988年夏チベット探査隊が事前にチベット勉強会を開いてチベットに関して勉強していたことをブログに書いておきます。

  1130日土曜日の高田馬場チベット料理屋の中島さん、吉澤さんとの会合では、きちんとチベット勉強会のファイルも持参して、僕らが事前にチベットに関する勉強をしていたこともお伝えしようと思っています。

  以上、「チベット勉強会」

  ブログに載せます。

 

2024年11月20日水曜日

「早稲田大学探検部とチベット」

 「早稲田大学探検部とチベット」

  先日、自分の部屋を掃除していたら、「第6次チベット高原民族探査隊 1990年夏」という計画書が見つかりました。早稲田大学探検部34OBの沢田石君が作成された計画書だと思います。僕はこの第6次チベット高原民族探査隊 1990年夏の在日連絡を務めたので、僕の部屋に「第6次チベット高原民族探査隊 1990年夏」という計画書が保管されていたのだと思います。

  この「第6次チベット高原民族探査隊 1990年夏」という計画書に早稲田大学探検部とチベットのことがかなり分かり易く書かれていました。早稲田大学探検部とチベットのことについて書かれている部分をブログに載せます。

  [探検部とチベット]

   チベット高原民族探査隊は1986年夏、当時の幹事長、中島木祖也氏により創設された。氏は当初よりチベット隊が継続して送り出されるべきであると主張し、10カ年計画を提唱されたが、その主旨は次のように解される。

 即ち、チベット文化圏が広大であり、その文化がそれぞれの地域において独自性を持つからである。代表的な地を列挙すると、チベット自治区の東部と西部、雲南省北部、四川省西北部、青海省南部、ビルマ北部、シッキム地方、ラダック地方、パキスタンのバルチスタン地方、ネパールの亡命地、インドにおける亡命地(ラダック、アッサム、ダラムサラ周辺、南インドなど)、さらにはイギリス、アメリカ、スイスなどにも多くのチベット人が居住している。

 これらの地の独自性、及びチベット文化圏、チベット民族に共通する普遍性を明らかにするには、一人の力、数度の探検のみでは力量不足であることは明白である。

 チベットに関する多くの地を探検しても一度のみの訪問では検証が浅く、内容も片寄ったものになる可能性が大きい。現代世界の流動は激しく、チベットについてもその例外ではない。ある地域における活動をそれぞれの世代が何度もフォローし、その内容を深化させると共に、それぞれの世代おけるチベット民族とチベット文化の証人となり、チベット史を築き上げていく。つまり、早稲田大学探検部があるかぎり、チベット高原民族探査隊が続けられていく、それが早大探検部とチベットなのである。

 [過去のチベット隊]

 (第一次隊)

1) 中島、吉沢隊 ~1986

文化人類学的な調査をチベット自治区にて展開する。

2) 木村、坂下隊 ~1987

東チベット、チベット自治区、ネパール、ダラムサラの難民を訪問し、チベット民族の現状を把握。チベット問題を直視する。奇襲1号参照

 (第二次隊)

中島、後藤、斎藤隊 ~1987

 第一次隊に続き、文化人類学的調査をチベット自治区にて展開し、内容を深化させる。遊牧民のキャンプに住み込み、ヤクとチベット人の関係、一妻多夫制を家系図により証明すると共に、大草原での遊牧生活とそれに根ざす文化のすばらしさを紹介し、以後の活動の根幹を築く。

 (第三次隊)

1) 斎藤、松田隊 ~1988

2) 上原、桜井、倉島、中谷隊 1988

この遠征によりチベット自治区の開放地、未開地の相当分を網羅する。スライド等の資料を多数持ち帰る。

(第四次隊)

高橋、斎藤隊 ~1989冬、春

 冬の遊牧民の生活を調査。「彼らは冬の間遊牧しない(高橋)」などの調査結果を出す。厳冬期のヒマラヤを徒歩でネパールに抜ける。

 (第五次隊)

1) 中谷、岸田隊 ~1990

ネパールのチベット難民居住区を訪問。チベット難民がネパール人のカースト制度の人で下層のカーストに位置付けられ、ボテと呼ばれ、ある意味では虐げられている姿をリポートする。彼らもまたそのボテとしての地位に不満を示す様子はない。仮に独立を果たしてもだだっ広い高原に文明生活のない事を理由に、帰るかどうか迷う人間の姿に感動する。

2) 沢田石、前田隊 ~1990

インドのダラムサラ、ラダック地方を訪問。198938日以来、チベット自治区に戒厳令が敷かれたためチベット自治区訪問を断念。当初は漢民族によるチベット人虐殺、不妊手術などの人権侵害に取り組む予定であったが、訪問地をインドに変更し、難民の文化、またチベット人よりチベット的と呼ばれるラダックの文化を調査した。と同時にチベット問題、ラダック問題についても調査し、かなりの部分をフォローした。

(第六次隊)

沢田石、遠藤、桑田隊

以上のような早稲田大学探検部とチベットに関する記述がありました。

早稲田大学探検部とチベットの関係が分かり易く書かれていると思いました。早稲田大学探検部のチベットの計画が早稲田大学探検部30OBの中島木祖也氏により創設され、その後、数次の隊が早稲田大学探検部からチベットに送り出されて、なんらかの成果があったことが分かります。

僕がチベットに行った1988年夏の隊は第3次隊になるようです。成果としては、「この遠征によりチベット自治区の開放地、未開地の相当分を網羅する。スライド等の資料を多数持ち帰る。」という記述がありました。

僕が作成したチベットのスライドも重要な成果の一つだったようですが、僕は重要な成果であるチベットのスライドを紛失してしまったようです。残念です。

1130日土曜日に高田馬場でのインド・ネパール・チベット料理屋さんでの会合では早稲田大学探検部でチベットの計画を創設された中島木祖也さんにもお会いします。

早稲田大学探検部のチベット話を盛り上げていこうと思っています。

先日、自分の部屋を掃除していたら、「第6次チベット高原民族探査隊 1990年夏」という計画書が見つかったので、早稲田大学探検部とチベットのことに書かれている部分をブログに載せます。

以上、「早稲田大学探検部とチベット」

ブログに載せます。


2024年11月19日火曜日

「11月30日(土)高田馬場チベット料理屋での会合 その4」

  1130日(土)高田馬場チベット料理屋での会合 その4

   昨日、早稲田大学探検部32OBの吉澤さんから1130日土曜日の高田馬場チベット料理屋での会合に関するメールが届きました。

以下のようなメールのやり取りをしました。

 中島さん、上原さん

   後藤くんから連絡があり、11/30は高校時代の先約@横浜がすでに入っており、残念ながら高田馬場に馳せ参じることができません、とのことでした。お二人にくれぐれもよろしくお伝えください、次回OB会の幹事を中島さんから仰せつかったので、しっかりやりますとのことでした。彼は今週クレーム対応の気が進まない海外出張で、仕事の方も結構大変な様子です。

   ということで、11/30(土)は3人で予定しますので、よろしくお願いいたします。念のためマヤに電話して、17時から席を予約しておきました。

  吉澤

  中島さん、吉澤さん

   吉澤さん、後藤君(さん?)との連絡、マヤの席の予約とお手数をおかけしてしまって申し訳ありません。

  本来なら、僕がやることを吉澤さんの手を煩わしてしまって申し訳ありません。

  なにか他にやることがあれば僕が会の雑用をしますので僕に言ってください。

  当日は中島さんと吉澤さんと僕の3人での会合になるようですが、

  どうぞよろしくお願い致します。

  当日は楽しみにしております。

  上原

 上原さん

   いえいえ、お安い御用で、会社でもいつも上司・同僚・部下のためにもやっているようなことですので、全然気にしないでください。mayaは席だけ予約し、食べ放題・飲み放題も3,500円であるようですが(当時の清龍並み!?)、当日でも注文OKだそうです。

   急に寒くなったというか、本来のこの季節らしくなりましたが、夏から冬に一足飛びしたような感じですので、お互い風邪などひかないように気を付けましょう。

  吉澤

 中島さん、吉澤さん

  マヤはインド・ブラマプトラ川川下りに一緒に行った関口君(フロンティアボートクラブの方)

が、知っていたお店で、関口君と飲んだときはエベレストという名前のビールを飲みました。

チベットのお話をするにはうってつけのお店だと思います。

チベット料理のモモも食べられます。

清瀧並みの料金で、社会人の方には向いているか分かりませんが、

良いお店だと僕は思いました。

僕も学生時代を思い出して、チベットのお話をしたいと思っております。

当日は楽しみにしております。

 上原

   高田馬場は青春の町、学生が多くて、今でも行くと若い活気をもらって元気になる感じがします。

  楽しみにしています! 吉澤

 以上のようなメールのやり取りをしました。

   高田馬場のチベット料理屋さんではエベレストという名前のビールが飲めるので、中島さんにも吉澤さんにも是非、飲んでいただきたいと思い、エベレストという名前のビールが飲めることをメールに書きました。

   せっかく、僕と一緒にインド・ブラマプトラ川川下りに行った、日本側隊長だった八木原國明さんがエベレスト登頂経験者の方で、早稲田大学探検部で登山をしていたなら、世界一の最高峰エベレスト登頂をこれからの人生の目標にしてみるのも良いのではないでしょうかと思いまして、メールに高田馬場のチベット料理屋さんでエベレストという名前のビールが飲めることをメールに書かせていただきました。

  目標を達成できるかどうかは別にして、目標は常に高く置いておいた方が良いと思います。

  昨日は早稲田大学探検部32OBの吉澤さんから高田馬場チベット料理屋での会合に関するメールが届いたので、メールのやり取りをブログに載せます。

  以上、「1130日(土)高田馬場チベット料理屋での会合 その4

  ブログに載せます。

 

 

 

 

2024年11月18日月曜日

「土本武司先生の思い出」

 「土本武司先生の思い出」

   今日、土本武司さん(僕の早稲田大学法学部時代の刑事法のゼミの先生でした)が5月6日に亡くなっていたことが報じられている記事を読みました。

僕にとってはとても大きな存在の方で、僕がなにかを書けるような方ではありませんが、土本武司先生の思い出を書かせていただきます。

ゼミ(土本先生のゼミ)は自由な雰囲気で、僕がサークルで探検部というサークルに所属したこともご存じで、大学3年生の時のカナダユーコン川川下り、大学4年生の時のインド・ブラマプトラ川川下りのこともご存じで、ゼミでは僕のことを温かく見守ってくださっていました。

ゼミでは難しい公害訴訟(水俣病訴訟)のことについて分かり易く講義をされていたのが思い出に残っています。

ゼミの講義のあとに大隈庭園でご一緒させていただいて、お話を聞かせていただいたのも思い出に残っています。

早稲田大学界隈でのゼミの飲み会(源兵衛とか面影鮨で飲み会をしていました)にも学生に混じって来ていただいて、飲み会の席でお話を聞かせてくださいました。学生相手の飲み会にも来ていただいて本当に感謝しています。

僕は法曹の道には進みませんでしたが、学生時代に土本武司先生に教わったことは、今でも覚えていて、僕が東電刑事裁判についてブログを書けるのも、学生時代に土本先生に刑事法を学んでいたから書けたのだと思っています。

今でも学生時代に学んだ土本先生の本は家にあります。「刑事裁判」(令文社)という本が僕の家にあります。

今日の報道を見て本当に驚いていますが、早稲田大学法学部時代に土本武司先生のゼミでご一緒させていただいた方々にも連絡を取れるなら連絡を取りたいと思っています。

心よりご冥福をお祈り致します。

短いブログで失礼かもしれませんが、土本武司先生の思い出について書かせていただきました。

以上、「土本武司先生の思い出」

ブログに載せます。

 

 

 

 

 

「インド・ブラマプトラ川川下りの趣旨」

 「インド・ブラマプトラ川川下りの趣旨」

  部屋を探していたら、ブラマプトラ川川下りの計画書が見つかりました。

  計画書には日本ヒマラヤ協会の理事長をされていた稲田定重さんの書かれた、ブラマプトラ川川下りの趣旨という文章が載っていました。インド・ブラマプトラ川川下りがどのような趣旨で行われたのかが分かるので、インド・ブラマプトラ川川下りの趣旨の稲田さんの文章を載せます。

  趣旨

  日本ヒマラヤ協会は、1967年創立以来、常に未知と未踏のロマンを求めてヒマラヤを中心とするユーラシアに数多くの登山・調査・その他の野外活動を展開して来ました。

 特に、60数隊を派遣して来た登山の分野では、20座に及ぶ高峰の初登頂、時代を画す登山スタイルの実践などの実績を上げてまいりました。

 そして、これらの活動を通じて広く諸国と友好関係を発展させ、相互の理解と友情を促進してきたところであります。

 このたび準備を進めている世界第六位の大河ブラマプトラ川の舟行は、インドとの深いきずなの中で実現する世界最初のプロジェクトであります。

 遥か高地アジアの聖地カイラスの麓に源を発し、チベット高原を千五百キロ東流し、大ヒマラヤを断ち割って南に流れるブラマプトラは、今世紀まで「謎の川」といわれ、いまなお地理上の空白部を数多く残しております。

 本会は、1984年以来、辛抱強く渉外を重ねてまいりましたが、このほど国境の治安を守るインド・チベット国境警察隊(ITBP)と本会は、1981年以来良好な関係を有し、これまでも幾度かの合同遠征を成功させ、信頼関係を深めてきたところです。

 未だ知られていない北東辺境地域(NEFA)の奥深く入り、禁断の中印国境(マクマホンライン)からバングラデシュ国境にいたる1200キロの川下りと踏査活動は、多大の新知見をもたらすものであります。この企画の趣旨をご理解の上、よろしくご支援のほどお願いいたします。

  以上のようなインド・ブラマプトラ川川下りの趣旨の文章でした。

  僕は大学2年の時にチベットのカイラスに行っているので、カイラスの麓に源流を持つブラマプトラ川川下りは僕にとっても大変、意味深い活動だったような気がしています。

  部屋を探していたら、インド・ブラマプトラ川川下りの計画書が見つかったので、計画書に載っているインド・ブラマプトラ川川下りの趣旨の文章をブログに載せます。

  以上、「インド・ブラマプトラ川川下りの趣旨」

  ブログに載せます。

 

 

 

 

 

 

2024年11月17日日曜日

「土屋健さん」

 「土屋健さん」

  先日、早稲田大学探検部32OBの吉澤さんから奥島先生を偲ぶ会の様子の写真がメールで送られてきました。僕はそのメールに対する返信で、僕の聖徳幼稚園、小日向台町小学校時代の友達で、吉澤さんと早稲田中学高校で同期生の友達の土屋健さんのことについてメールをさせていただきました。

 以下のようなメールのやり取りをしました。

 吉澤さん

  こんにちは上原です。

度々、メールをしてしまい申し訳ありません。

探検部とは関係がないのですが、

吉澤さんが早稲田中学高校で同期生だった土屋健さんとは連絡を取っていらっしゃるでしょうか?

実は僕が早大探検部に入部したのは、

僕の小日向台町小学校時代の友達だった土屋健さんの紹介でした。

土屋健さんは何をしていらっしゃるだろうとふと思ったので、

失礼かもしれませんがメールをさせていただきます。

 上原

上原さん

   おはようございます。返信が遅くなってしまいましたが、土屋健くんとは今もつながっています。今年2月の中学高校の同期会にも一緒に出席し、その前は舞踏家になった同期の公演会を彼(中高時代から皆でケンズと言っています)と恩師と3人で見に行ったこともありました。彼はフジテレビのドラマのプロデューサーになり、Dr.コトーが代表的な作品だろうと思います。その映画の制作にも携わったと言っていました。今もその類の仕事を続けているようです。

   貴兄がケンズと小学校の友人であることは僕もよく覚えていて、そのことをケンズと話したこともあり、今でも貴兄のことを話せば、彼もよく覚えていることはまちがいありません。プロデューサーとして芸能人と付き合うことも普通でしょうが、彼は全然変わっておらず、皆の人気者です。サッカー部の同期会参加率がダントツなのはケンズのおかげだと思っています。

  それでは、また。

  吉澤

 吉澤さん

 おはようございます、上原です。

土屋健さんのことについてメールを下さりありがとうございます。

土屋健さんは小日向台町小学校時代から人気者でした。

早稲田中学高校時代はサッカー部だったということも僕も土屋健さんから聞いておりました。

早稲田大学時代はスキー関連のサークルに所属していらしたと聞いております。

今でも吉澤さんが土屋健さんと連絡を取り合っていらっしゃることが分かりました。

ありがとうございます。

土屋健さんが僕のことも覚えてくれていることも書いてくださり、僕も嬉しいです。

これからも何かあればメールをさせていただくかもしれません。

どうぞよろしくお願いいたします。

 上原

吉澤さん

土屋健さんのことでのメールです。

実は僕は土屋健さんとは幼稚園も同じで、小日向台町小学校時代も友達で仲が良くて、

子供の頃はよく土屋健さんの家に遊びに行っていました。

僕が高校卒業後、一年間の新聞配達をしながらの浪人生活を送り、

なんとか早稲田大学法学部に合格した際に、

僕は嬉しくて、土屋健さんの家に報告に行きました。

(当時は土屋健さんは、早稲田中学高校から現役で早稲田大学に進まれていたので報告に行きました)

土屋健さんのお母様も喜んでくださり、お寿司をとっていただき僕もご馳走になりました。

その際に、僕は土屋健さんに早稲田大学探検部というサークルがあるからと探検部を紹介されました。

僕はその後、探検部の部室を探して、早稲田大学探検部に入部しました。

一つお聞きしたいことがあるのですが、

土屋健さんは僕が統合失調症という精神疾患を患っていて精神障害2級の精神障害者になっていることをご存じでしょうか?

もしかしたら、吉澤さんから土屋健さんにお伝えしているでしょうか?

僕の病気のことについて土屋健さんはご存じか知りたいのでメールをさせていだきます。

上原

上原さん

  今日はひどい雨ですが、明日明後日は秋晴れになるみたいですね。

  お尋ねの件、土屋君は貴兄の病気のことは詳しく知らないものの、心の病でずっと苦しんでいることは知っていると思います。もうかなり前ですが、そのように彼と話したことがあったと思います。精神障害2級というのは、貴兄のこのメールで僕も初めて知りました。

   土屋君のメールアドレスを知っていますか。もし必要なら、まず僕が彼にメールして、貴兄にアドレスを伝えることを連絡します。幼稚園からの友達とはいいですね。2人ともナイスガイです!

 吉澤

 吉澤さん

 今日はお仕事はお休みだと思いますが、会社のアドレスが良いと書かれていたので、

メールをしました。お休みのところメールをしてしまい申し訳ありません。

心の病、統合失調症に関しては精神科で精神障害2級と診断されています。

精神障害者手帳も持っています。

土屋健さんのメールアドレスに関しては、

もう長い間、会っていないし、連絡も取っていないし、

土屋健さんもお忙しいと思うので、土屋健さんのメールアドレスに関しては

教えていただかなくて大丈夫です。

土屋健さんとは、聖徳幼稚園という聖徳太子の聖徳の名のついている

名前のすごい幼稚園で、ご一緒させていただきました。

土屋健さんは本当にナイスガイだと思います。

僕に関しては、心を病んでしまい、昔の面影はないと思います。

メールではきちんとしたことを書けるので、

精神障害者に思えないということも言われたこともあります。

吉澤さんは今日はお休みだったと思いますが、メールをしてしまい失礼しました。

明日は晴れの特異日、文化の日です。

連休を楽しまれてください。

 上原

 以上のようなメールのやり取りを吉澤さんとしました。

 このメールで話題になっている土屋健さんには僕は本当に感謝していて、僕に早稲田大学探検部を教えて下さり、僕も早稲田大学探検部に入部することが出来て、良い学生時代を過ごせたと本当に感謝しています。僕に沢木耕太郎さんというノンフィクション作家の方のことを教えてくれたのも土屋健さんでした。インドブラマプトラ川川下りの番組が出来上がり、番組をフジテレビに見に行った際にも土屋健さんと偶然会いました。

 僕の父と母も土屋健さんのことは良く覚えていて、

 「子供の頃、よく健ちゃんの家に遊びに行ったね」

 と言っていました。

  今では、有名なテレビのプロデューサーになられているようですと父と母に話すと立派だねと褒め称えていました。

  ただ、土屋健さんも僕が心の病気に罹っていることは吉澤さんから聞いているということで、昔のような上原君でないことも分かっていると思います。

  吉澤さんを通じて、吉澤さんと僕の共通の友達である土屋健さんのことについてメールでやり取りをしていたのでメールのやり取りをブログに載せます。

  以上、「土屋健さん」

  ブログに載せます。

 

 

 

2024年11月16日土曜日

「11月30日(土)高田馬場チベット料理屋での会合 その3」

 「1130日(土)高田馬場チベット料理屋での会合 その3

 昨日、早大探検部30OBの中島さんからメールが届きました。以下のようなメールが届きました。

 吉澤さま、上原さま

 30日、楽しみにしています。

チベット話を盛り上げるべく

後藤君も誘いましょう。

よろしくお願いします。

 このメールに対して僕は以下のような返信をしました。

 中島さん、吉澤さん

 1988年当時の学生手帳と日記にチベット探査計画のことがかなり書かれているので、当日は持って行きます。

1988年当時のチベット勉強会のファイルも1988年夏チベット探査の計画書、報告書も家にあるので当日は持って行きます。

チベットの写真集、カイラスの写真集も家にあるので当日は持って行きます。

僕が作成したチベットのスライドは行方不明か紛失してしまったようです。申し訳ありません。

中島さんのお役に立てば幸いです。

 上原和明 拝

   僕は1130日の1130日(土)高田馬場チベット料理屋での会合には、1988年当時の学生手帳と日記、1988年当時のチベット勉強会のファイル、1988年夏チベット探査の計画書、報告書、チベットの写真集、カイラスの写真集を持って行こうと思っています。僕が作成したチベットのスライドは紛失してしまったようなので、持って行かれませんが、1130日当日はチベット料理に舌鼓を打ちながら、ゆっくりと落ち着いて、チベットのお話、カイラスのお話が出来れば良いなと思っています。

 以上、「1130日(土)高田馬場チベット料理屋での会合 その3

 ブログに載せます。

 

2024年11月15日金曜日

「11月30日(土)高田馬場チベット料理屋での会合 その2」

 「1130日(土)高田馬場チベット料理屋での会合 その2

  今日は早大探検部32OBの吉澤さんよりメールが届きました。

  以下のようなメールが届きました。

  中島さん、上原さん

 11/30の件、齋藤泰晴くんに連絡がついたのですが、あいにくその日は都合が悪いとのことで、とても残念がっていました。「中島さんの100300名山やグレートネイチャーは欠かさず見ています。上どんの冗談も久しぶりに聞きたい、相変わらず全速力で冗談を言っているのでしょうか」と言われ、お二人にくれぐれもよろしくお伝えくださいとのことでした。

 ということで、11/303人でやりたいと思いますので、よろしくお願いします。あるいは後藤でも誘ってみましょうか? 海外出張もあって忙しそうな感じでしたが、都合さえ合えば来るだろうと思います。

  このメールに対して僕は以下のようなメールを返信しました。

  中島さん、吉澤さん

 こんにちは上原です。

メールをくださりありがとうございます。

斎藤泰晴君に会えないのは残念ですが、もし斎藤泰晴君と連絡が取れるなら、

「それを言っちゃあ、おしまいよ」と上原が言っていたとお伝えください。

後藤君(さん?)をお誘いすることには賛成です。

次回の探検部のOB会の幹事になっているそうですし、

今回の会合が何か話のネタになるかもしれないし、

ご参加されて良い効用があると思います。

吉澤さんにお手数をおかけしてしまって申し訳ないと思っています。

ただ、吉澤さんのご人徳で、後藤さんも参加されるかしれないし、

後藤さんに関して吉澤さんにお任せ致します。

当日はチベット料理でも食べながら、チベットの話が出来ることを楽しみにしております。

 上原

 早大探検部33OBの斎藤が

 「上原が全速力で冗談を言っている」と書いてあったので、仕方なく、

 寅さん(男はつらいよ)のセリフ

 「それを言っちゃあ、おしまいよ」

 とメールに書きました。

  僕はかなり真面目にX(旧 Twitter)をやっていて、ブログもかなり真面目に書いていますが、心外な言葉がメールに書かれていたので、仕方なく寅さんのセリフをメールに書きました。

  おもしろいほうが良いのは分かりますが、早大探検部の先輩方が、命がけで原発に反対しているのに、我々の世代はこんなくだらないメールのやり取りをしているようです。

  以上、「1130日(土)高田馬場チベット料理屋での会合 その2

  ブログに載せます。

2024年11月14日木曜日

「1988年夏チベット探査報告書」

 「1988年夏チベット探査報告書」

  部屋を探していたら1988年夏のチベット探査の際の報告書が見つかりました、1130日土曜日に中島さん吉澤さんとの会合の際に持って行こうと思っています。紙に書いたものとパソコンで清書してプリントアウトしたものを持って行こうと思っています。パソコンで清書した報告書は以下のようなものです。

 期間 1988722日~104

 隊員 隊長 上原和明 副隊長 桜井誠人 渉外 倉島孝行 食糧 中谷敏夫

 行程 成田(飛行機)→ソウル→香港(鉄道)→広州(飛行機)→成都(鉄道)

→蘭州(鉄道)→西寧(鉄道)→ゴルムド(バス)→ラサ(バス)

→シガチェ(バス、ヒッチハイク)→ラズー(ヒッチハイク)

→ツオチェン(ヒッチハイク)→ヤンフー(ヒッチハイク)

→シーチャンホー(ヒッチハイク)→タルチェン(カイラスの周囲の巡礼路を1周して

カイラス巡礼)(ヒッチハイク)→シーチャンホー(ヒッチハイク)

→イエチョン(バス)→カシュガル(ヒッチハイク)→ウルムチ(飛行機)

→上海(船 鑑真号)→神戸→早稲田大学

 

目的 チベットの自然及び、チベット人の生活に関するスライド作成

   カイラス巡礼者調査

 成果 今回のチベット探査の目的の2つのうち、スライド作成に関してはスライドを見ていただければ分かると思います。目的は達成したと思います。

   カイラス巡礼者調査について

     カイラスとはチベット自治区の南西に位置し、3つの宗教、すなわち、チベット仏教(ラマ教)、ヒンドゥー教、ボン教(チベット原始宗教)の聖地とされる。このカイラス山の麓に1周約50㎞の巡礼路があり、私たちもこの巡礼路を歩いた。言葉は分からなかったが、服装から判断して識別できたのはチベット仏教とヒンドゥー教の信者たちであった。ヒンドゥー教の信者たちは主にインドの豊かな階層の人々のようで、50人乗りぐらいのバスで大挙して巡礼にやって来ていた。チベット仏教の信者たちが、私の見る限りでは最も人数が多いようであった。高僧から貧しい老人までかなりの人数がいた。ボン教徒は見る限りでは分からないが、カイラスの巡礼路を反時計回りに回ると聞いていたので注意して見たところ、10人に1人くらいはいたようである。カイラス滞在期間も1週間くらいと短く、ろくに言葉が分からず、全般的な巡礼者についての調査はしていないので、カイラスで会ったあるチベット仏教信者の巡礼者の行動をを中心に、巡礼者を見てみたい。

    「カイラス北壁のゴンパ(山小屋のようなもの)で会ったチベット仏教信者の場合」

          私はシーチャンホーで倉島、中谷と別れ、桜井と二人でカイラスに向かい、カイラス北壁で桜井と別れ、後続の二人を待つため4日間カイラス北壁にあるゴンパと呼ばれる山小屋のような建物の中で過ごした。ゴンパは20畳くらいの広さで、中には柱が2本立っていてテントを張るスペースがなく、又、天井に穴が二つ空いており吹雪という悪天候の中、寒さが身にしみた。私は最初、テントを外に張っていたが吹雪になったので急きょゴンパに避難したのであったがテントのほうがゴンパより快適であった。そんななかで私が外に出られずシュラフに包まっていると大きな袋を持った親子連れの巡礼者がやってきた。父親の方は40半ばくらいの人の良さそうな顔つきの男で、子供はまだ5才ぐらいのかわいらしい笑顔を持つ元気な男の子であった。彼らが来たのは午後6時ごろであったがチベットは北京時間を採用しており、しかもカイラスはチベットの西に位置しているため時間のずれが大きく6時でも外は明るかった。(ひぐれはだいたい9時ごろ)。彼らは吹雪のため体じゅう雪化粧といった観で白くなっており衣服の汚れ、顔の汚れと対照的であった。

    彼らは私を見ると一瞬驚いたようであるが、こちらから笑顔を見せると笑顔で答えてきた。彼らはしきりにチベット語で話しかけてきたが私はほとんどチベット語を知らないので、ただ「タシデレ」(こんにちは)と繰り返していた。彼らはようやく私がチベット語を話せないことが理解できたらしく話しかけるのをあきらめた様子でゴンパのなかに入り、私のいた反対側にあぐらをかいて座った。父親の方は何かを口ずさんだ後、大きな袋から円形の黒い塊を取り出した。最初、何がなんだか分からなかったが、これらに火をつけるのを見て、ヤクのフンであることが分かった。チベットではヤクのフンが大切な燃料になっている。彼はヤクのフンに火をつけると今度は羊の皮で作ったふいごのようなもので空気を送り、火をだんだん大きくしていった。もの凄い煙のためゴンパの中はモノクロの世界に変わった。火が大きくなると彼はやかんを持って外に出ていき水を汲んできた。そしてやかんを石で作ったかまどの上に置いた。彼は再びふいごを自由自在に操り空気を吹き込んだ。30分ぐらいすると、湯が沸きはじめ、四角い固まりになっている茶をばらして湯の中に入れた。2、3分ふいごの手をゆるめ、待ち、茶ができると茶椀を出して茶を注いだ。次にそのなかに独特の臭みのあるバターを入れる。チベットではバターは希少なたんぱく源であり、このバター茶は朝昼晩を問わず一日20杯ぐらいは飲む。彼は子供の茶碗に茶を注いだ後、私にも勧めてきたので私は好意を受け入れコップを差し出した。バター茶は日本人が飲んでもうまいと感じないかもしれないが、この様な状況では寒さをいやしてくれるもの、人の暖かみを感じさせてくれるものである。私は一杯飲み干しすっかりいい気分になった。彼はもう一杯勧めてきた。私は一度遠慮してからコップを差し出して注いでもらった。すると今度は白い粉をバター茶の中に入れてくれた。明らかに砂糖でないことがわかる。なぜならコップ一杯にこぼれるぐらい入れるのであるから。この白い粉はチンコー麦である。チベットの主食であるツァンパはこのようにチンコー麦をバター茶の中に入れそれを練りそのまま食べるのである。日本のきなこを思い浮かばればわかりやすいと思う。味は砂糖か何かがあれば何とか口に入るのだが、そのままでは何も味がせずバター独特の臭みとあいまってうまいと言えるものではない。しかし彼らはそれをうまそうに食べているので、私も気分を害すまいと「ヤップドゥ」(very goodの意)を連発した。それに乗じて勧めてくる彼らに辟易したが真の好意であったのだろう。そうこうしているうちに私と彼らはすっかり仲良くなり、子供は調子に乗って歌を歌い出し、服を脱いで小さな息子をあらわにして踊りも始めた。私と子供の父親は大笑いでそれに拍手を送った。このようにしてバター茶とツァンパの食事は終わり、私はシュラフの中にもぐりこんだ。

    彼らはもう寝るものと思っていると父親はお経をとなえ、手を頭の上にかざして祈りはじめた。もう夜の11時過ぎであった。ヤクのフンの火も消えゴンパの中は真っ暗になっていた。彼は細いろうそくの火を頼りに五体投地をしている。彼はさっきまでの笑顔と打って変わって真剣であった。子供が何を話しかけても怒鳴ってそれに答え、ひたすら

「オム マニ ペメ フム」

で始まるお経を繰り返してはゴンパの土間に身を投げ出していた。祈りが終わったのは12時過ぎであった。

以上が僕が1988年に書いていた、チベットの聖山、カイラス山北壁のティラプクゴンパというゴンパで僕が見聞したチベット仏教徒の方の父と子の様子です。

  チベット仏教徒の方の、祈りの真剣さが現在でも記憶に残っています。

 チベット仏教徒の方々は他者のために祈りを捧げるようです。

  五体投地という祈りの仕方のようです。

  僕も、チベットに行った際に五体投地をする方と実際に会いましたが、真剣でした。

  何か、僕にとって大切なことを教えていただいたような気がしています。

    以上、「1988年夏チベット探査報告書」

     ブログに載せます。

 

 

 

2024年11月13日水曜日

「チベットのスライド」

 「チベットのスライド」

  1130日に早稲田大学探検部30OBの中島さんと早稲田大学探検部32OBの吉澤さんと高田馬場のインド・ネパール・チベット料理屋さんでの会合をすることになったので、1988年夏のチベット探査の際の僕の撮ったスライドを持って行こうと思い、先日、僕と一緒にチベットに行った、桜井さんにメールをしました。僕はチベットのスライドを桜井さんに渡していたと思い込んでいて、メールをしました。今日、桜井さんより電話があり、チベットのスライドをお預かりしている記憶はないということでした。

 メールでのやり取りは以下のようなメールのやり取りでした。

 桜井さま

 おはようございます、上原です。

実は、1130日に、中島さんと吉澤さんと飲むことになりました。

チベットの話を伺うために中島さんと吉澤さんと飲みます。

桜井さまに渡してある、僕の作成したチベットのスライドを中島さんと吉澤さんにもお見せしたいので、1988年夏チベット探査の際の僕の作成したチベットのスライドを返していただきたくメールをさせていただいています。

出来れば郵送していただきたいです。

僕の家の住所は

1120006

東京都文京区小日向1145です。

もし郵便料金が高いようでしたら、僕が郵送代を払います。

着払いでも結構です。

お忙しいとは存じますが、何卒よろしくお願い申し上げます。

 上原和明 

 上原さま

 ご連絡ありがとうございます、桜井です。

 中島さんと吉澤さんに会えることになってよかったですね。

 すいませんが、上原さまが作成したチベットのスライドをお預かりしている記憶はございません。

 上原さまのところにありませんでしょうか。

 お役に立てずに申し訳ございません。

 よろしくお願い申し上げます。

 桜井

 桜井さま

 こんにちは上原です。

 お電話までくださりありがとうございます。

 電話に出られずに申し訳ありませんでした。

 こちらからお電話させていただいたところ、

 僕の作成したチベットのスライドを預かっている記憶はないということです。

 僕の記憶違いのようです。

 お忙しいところお手数をおかけして申し訳ありません。

 上原

   以上のようなメールのやり取りをしました。僕の記憶違いで、桜井さんに僕の撮ったチベットのスライドを渡してあると僕が思い込んでいたようです。

   僕の部屋には無いので、僕がど

こかに紛失したのだと思います。僕はチベットのスライドを僕が新宿区戸山で一人暮らしている頃、アパートの部屋に持って行っていました。桜井さんがご結婚され、結婚式の二次会で、僕の撮ったチベットのスライドの上映を行いました。僕は、僕が一人暮らしをしている頃のアパートにあったチベットのスライドを桜井さんに渡していたと思い込んでいたようです。僕は新宿区戸山に一人暮らししている頃に統合失調症に罹り、小日向の実家に戻ったので、僕の記憶も信用できないのだと思います。1130日の会合の際に持っていて、先輩にお見せしようと思っていましたが、チベットのスライドは無いようです。

   報告書は部屋を探していたら見つかったので、報告書を持って行こうと思っています。

   以上、「チベットのスライド」

  ブログに載せます。

2024年11月12日火曜日

「11月30日(土)高田馬場チベット料理屋での会合」

 「1130日(土)高田馬場チベット料理屋での会合」

   1130日土曜日に早稲田大学探検部30OBの中島さん、早稲田大学探検部32OBの吉澤さんと会合をすることになりました。

メールで連絡が来ました。

 以下のようなメールのやり取りがありました。

 中島さん、上原さん

   早々にご都合をご確認いただき、ありがとうございました。今月末、下記のように会合したく、ご予定くださいますようお願いいたします。

  日時 1130日(土)17時より

  場所 マヤ(高田馬場のインド・ネパール・チベット料理屋)

    maya (マヤ) - 高田馬場/インド料理/ネット予約可 | 食べログ

  もう一人、斎藤でも誘ってみようと思います。楽しみにしております!

  吉澤基勝 拝

 中島さん、吉澤さん

 日時 1130日(土)17時より

 場所 マヤ(高田馬場のインド・ネパール・チベット料理屋)

   maya (マヤ) - 高田馬場/インド料理/ネット予約可 | 食べログ

 で了解です。

 中島さんとの予定の調整ありがとうございます。

 当日は楽しみにしております。

 この度はありがとうございました。

  上原

  中島さん、吉澤さん

   一つお願いがあるのですが、会の様子の写真を撮って、皆さんにメールをするのはやめていただきたいのです。

当日はゆっくりと落ち着いてお話を伺いたいと思っております。

どうぞよろしくお願いいたします。

  上原和明 拝

  上原さん

   了解しました。いいことですね。会っている最中はスマホのことは忘れて、落ち着いて話しましょう。

   こちらこそ、よろしくお願いします。

   吉澤

  中島さん、吉澤さん

  ありがとうございます。

当日は中島さんと吉澤さんのチベットカイラス行のお話が伺えることを楽しみにしております。

  上原和明 拝

 以上のようなメールのやり取りをして1130日土曜日に高田馬場でのインド・ネパール・チベット料理屋さんでの会合をすることになりました。

当日は、僕が4人の文章を集めて作った1988年夏のチベット探査の計画書、僕が作成したチベットのスライド、カイラスの写真集、1988年当時の学生手帳などを持って行くつもりです。

中島さんも吉澤さんもお二人でチベットカイラスに行かれているので、僕の持って行くものをお見せしても分かる方々です。

学生時代にもっと先輩にチベットのお話を聞いておけば良かったと思っています。

僕も学生時代は、自分中心のような考えがあり、先輩のお話を謙虚にお聞きせずに、何か自分の物語を作ろうとしていたような気がしています。

1130日の会合では先輩のお話に謙虚に耳を傾けて、お二人のチベットカイラス行のお話を伺いたいと思っています。

今から本当に楽しみにしています。

以上、「1130日(土)高田馬場チベット料理屋での会合」

  ブログに載せます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年11月11日月曜日

「早稲田大学探検部チベット高原民族探査隊について」

 「早稲田大学探検部チベット高原民族探査隊について」

  昨日、今日と失礼なメールをしてしまいました。先輩から注意されました。

  メールは以下のようなメールをしてしまいました。

   件名「早稲田大学探検部チベット高原民族探査隊について」

  中島さん、吉澤さん、及びチベットに関わった皆さんへ

 度々のメール失礼します。

早大探検部時代にチベットに関わった方々のメールアドレスを探してメールをしています。

昨日のメールでは斎藤のメールアドレスが間違っていてCcに入れられませんでした。

修正しましたので、斎藤もCcに含めて、昨日のメールを再送させていただきます。

岸田君のメールアドレスが間違っているようです。

 どなたか岸田君のメールアドレスが分かる方がいらしたら教えてください。

 先日、吉澤さんと中島さん(NHK勤務)の制作された番組についてメールでやり取りをしました。

 僕が在日連絡人を務めた第6次チベット高原民族探査隊の計画書(沢田石君作成だと思います)が家にあり、その計画書を読んでいたら、中島さんと吉澤さんの1986年の隊がチベットの第一次隊だと知り、吉澤さんとメールでやり取りをしました。

 計画書によると、

 第一次隊 中島、吉澤隊 ~1986年夏 木村、坂下隊 ~1987年春

 第二次隊 中島、後藤、斎藤隊 ~1987年夏

 第三次隊 斎藤、松田隊 ~1988年夏 上原、桜井、倉島、中谷隊 ~1988年夏

 第四次隊 高橋、斎藤隊 ~1989年冬、春

 第五次隊 中谷、岸田隊 ~1990年春 沢田石、前田隊 ~1990年春

 第六次隊 沢田石、遠藤、桑田隊 ~1990年 夏

 のようです。

  実は先日、吉澤さんより中島さんの制作された番組についてメールが届きまして、吉澤さんとチベットのことについてやり取りをしました。

 吉澤さんとは中島さんの制作された番組について以下のようなメールのやり取りをしました。

  「中島さんの番組」

   先日、早稲田大学探検部32OBの吉澤基勝さんよりメールが届きました。メールは早稲田大学探検部30OBの中島さんの制作された番組についてメールでした。このメールに関して、僕は吉澤さんとやり取りをしました。僕が学生時代に、チベットのカイラスに行っていて、中島さんも吉澤さんもチベットのカイラスに行かれているので、共通の話題になるので、吉澤さんとやり取りをしました。以下のようなメールでのやり取りをしました。

  上原さん

   こんにちは。OB会つながりで、中島さんの制作番組のご紹介をもらいました。今週2本、いずれも再放送ですので、すでに見たかもしれませんが、ご参考まで。

   明日30日(水)1730分~ NHK BS

  アフリカ ナミブ砂漠に水の奇観! - グレートネイチャー - NHK

   112日(土)1930分~ NHK BS

  母なる大河へ...〜地球・“恵みの”川紀行〜 - グレートネイチャー - NHK

   これは2年前に制作した『大遡行!ヤルツァンポ川~聖地を生んだ大陸衝突~』のほかナイル、アマゾン、ライン、モンゴルの河川の過去映像と識者の話を織り交ぜ再編集したものだそうです。小生は先日のOB会の前に見ましたが、中沢新一さんも登場し、カイラスの映像も鮮明で驚きました。

  吉澤

  吉澤さん

  こんにちは上原です。

 中島さんの制作された番組のご紹介ありがとうございます。

 見たい気持ちはあるのですが、実は僕の家ではBSは契約していなくて、

 NHK BSは見られません。

 中島さんの制作された番組のご紹介ありがたいのですが、

 残念ですが、番組を拝見することは出来ません。

  上原

  上原さん

   それは残念。もし地上波で放送することがあって、事前に分かれば、お知らせするようにしますね。

   吉澤

  吉澤さん

    僕の部屋に、探検部の後輩の沢田石君の作った「第6次チベット高原民族探査隊」1990年夏という計画書があるのですが、

    この計画書を読んでみると、チベット隊の第一次隊は、中島さんと吉澤さんの1986年の隊だったようです。

   文化人類学的な調査をチベット自治区にて展開すると書かれていました。

  僕らが1988年に行ったチベットカイラス隊は第三次隊になるようです。

    実は僕は探検部1年生の時の春合宿で、中島さんリーダー、吉澤さんサブリーダーの、南アルプス赤石岳山行(登ったのは聖岳でした)に参加させていただき、その影響もあり、僕も同期の仲間と隊を組んで探検部2年生の時に、チベット、カイラスに行ったのだと思います。

  チベットカイラス隊のことについては僕はブログを書いています。

  「チベットで詠んだ句、カイラスに 帰らすなんて 言わせない」

  http://www.ueharakazuaki.net/2022/06/blog-post.html

 お恥ずかしいブログですが、ここにかなりチベットカイラス隊のことを書いています。

 一つお聞きしたいことがあるのですが、1986年の中島さんと吉澤さんの隊ではチベットではどのようなことをされたのでしょうか?

 関心があるので質問させていただきます。

 お仕事がお忙しいようでしたら、こちらは急ぎませんので、お返事はいつでもいいです。

  上原

  上原さん

    たしかに、中島さんが3年生、僕が1年生の時にチベットに行き、カイラスを回ってきました。中島さんはチベット語を勉強し、念願の地で、僕は幸運にもご一緒させてもらいました。西安で待ち合わせたのだったと思いますが、携帯もない時代によく合流できたものです。

   カイラス巡礼の後は別れて、中島さんが単独でヤルツァンポ上流のネパール国境の方を目指し、僕は新疆ウイグル自治区カシュガルに向かいました。報告書が残っているか、探してみます。

 チベットは天国に近いように当時感じました。

  吉澤

 吉澤さん

  おはようございます、上原です。

 吉澤さんの大学1年生の時のカイラス行のお話が聞けて幸いです。ありがとうございます。

 吉澤さんは大学1年生の時にカイラスに行かれていたのかと驚くばかりです。

 しかも中国の西安で中島さんと待ち合わせして、西安からカイラスを目指さされたようです。

 中島さんと吉澤さんのお二人でカイラスに到達して、きちんとカイラス山の周囲の巡礼路を巡礼して、

 巡礼後、中島さんは単独でヤルツァンポ上流のネパール国境の方を目指され、

 巡礼後、吉澤さんは単独で新疆ウイグル自治区に行かれカシュガルに行かれたようです。

 実際にチベット、カイラスに行った人間からすると、中国から、チベットに行くだけでも高山病にもなりますし、

 尚且つ、チベット西部のカイラスに至っては、到達するだけで僕らの1988年の隊(上原、桜井、倉島 中谷の隊)

 は精一杯でした。

 中島さんと吉澤さんの行動力、語学力、体力にも驚くばかりです。

 カイラス巡礼路の最高標高点ドルマラ峠のことや、宿泊するゴンパのことなど、

 お聞きしたいことは多くあるのですが、メールでご質問するのも失礼だと思いますので、

 この辺でやめておきます。

 今回の番組はNHK BSなので見られませんが、

 また、中島さんがチベット関連の番組の制作に携われた際にお知らせいただければ幸いです。

  上原

  上原さん

   どういたしまして。一つ記憶違いで訂正です。待ち合わせしたのは西安ではなく、青海省の西寧でした。格安航空券で日本から香港に飛び、広州から西安行きの夜行列車に乗りました。西安をぶらっとした後、西寧に向かって中島さんと合流したのでした。

 ドルマ峠は今もって人生の最高地点です。ずっと地面を這って行きましたので、幸い高山病にはなりませんでしたが、酸素が薄く、息切れして苦しかった覚えはあります。

 ちなみに僕がテントのポールを持って行くのを忘れ、中島さんから叱られたのも苦い思い出です。木の枝で代用しました(_;

 断片的な回想で失礼します。ではまた。

  吉澤

  吉澤さん

  お忙しいと思いますが、メールを下さりありがとうございます。

 中国青海省西寧で中島さんと待ち合わせだったのですか?大変だったと思います。

 僕らの隊は、成田で4人(上原、桜井、倉島、中谷)集合して香港に行きました。

 香港から四川省成都まで飛行機で行き、成都から汽車で青海省西寧に行き、西寧から汽車で南下してラサに入りました。

 ラサからはヒッチハイクでトラックを乗り継ぎ、なんとかカイラスに到達しました。

 カイラスの周囲の巡礼路では、カイラス北壁にあるゴンパ(ディラプクゴンパ)に泊まりました。

 ドルマ峠では僕も本当に苦しくて、ザックが約20キロもあり、僕も地面を這うようにして歩き、なんとか難所を乗り越えました。僕にとってもドルマ峠が今までの人生の最高標高点です。

 ところで、吉澤さんは中島さんと連絡をとっていらっしゃるでしょうか?

 実は、2021年にインドブラマプトラ川川下りに一緒に行った関口君という方と高田馬場にある、

 インド・ネパール・チベット料理屋で軽く飲んだのですが、

 その店ではチベット料理のモモも食べられました。

 お店はこんな感じです。

 https://tabelog.com/tokyo/A1305/A130503/13024860/

 もし中島さんと吉澤さんが高田馬場にいらっしゃるようなことがありましたら、一度、チベットのことについて直接お話を伺いたいです。

 僕は主に、昼間はTwitter(現X)をしていて、あとは、父と母の介護のようなことをしています。仕事はしていません。

 時間的に遅くなると高齢の両親に悪いので、午後7時くらいで帰れるような会なら参加出来ます。

 中島さんと吉澤さんのご都合に合わせますが、僕も友達もいなくて、一人で家の雑事や親の病院の付き添いなどをしていて、学生時代の昔話が分かる方とお話がしたいというのが本心です。

 僕の都合を書いてしまて申し訳ありませんが、もし、中島さんと吉澤さんが高田馬場にいらっしゃるようなことがあれば、

 一度、中島さんと吉澤さんにチベットのお話を直接伺いたいです。

 本来なら、こちらから、中島さんや吉澤さんの勤務地に出向くのが礼儀だと思いますが、

 失礼かもしれませんが、高田馬場でのインド・ネパール・チベット料理屋さんでの会が出来ないかと思いましてメールをさせていただきます。

  上原

  上原さん

  了解しました。中島さんに相談してみます。少しお時間をください。貴兄もきっと体調の良し悪しがあるでしょうから、相談して行きましょう。

  吉澤@京都(一応出張です)

  吉澤さん

  メールを確認しました。

 了解です。

 お手数をおかけしてしまいますが、どうぞよろしくお願いいたします。

  上原

  吉澤さん

  高田馬場でのインド・ネパール・チベット料理屋さんでの会の話とは関係がないのですが、

 1988年に僕らが行ったチベットカイラス隊のルートの訂正をしておきます。

 成田で4人(上原、桜井、倉島、中谷)集合(飛行機)香港(電車)広州(飛行機)成都(電車)西寧(電車だったと思います)ゴルムド(バス)ラサ(ヒッチハイクでトラックを乗り継ぎ)カイラスだったと思います。

 記憶違いで申し訳ありません。

 吉澤さんは大学1年生で一人で青海省の西寧まで行かれたとは本当に驚いています。

  上原

  以上のようなメールのやり取りを早稲田大学探検部32OBの吉澤さんとしました。

    吉澤さんが早稲田大学1年生の時に、お一人で中国青海省西寧まで行かれて、西寧で中島さんと待ち合わせされ、その後、中島さんと吉澤さんのお二人でカイラスに到達され、カイラス山の周囲の巡礼路を歩かれたことも分かりました。大学1年生で、標高5600メートルを超える所に行かれていて本当にすごいなと思いました。

   カイラス巡礼後は、お二人は別れて、中島さんは単独でヤルツァンポ上流のネパール国境の方を目指され、吉澤さんは単独で新疆ウイグル自治区に行かれカシュガルに行かれたようです。

    僕も早稲田大学探検部2年生の時に同期の仲間と4人で隊を組んで、チベットカイラスに行きましたが、僕の人生の最高標高点がチベットカイラスの巡礼路のドルマラ峠でした。

    中島さんと吉澤さんとはチベット、カイラスという共通の話題があるので、是非、一度直接お会いして、チベットの話、カイラスのお話を伺いたいと思いました。

    お二人ともお忙しいと思うので、そう簡単に、会うことは出来ないかもしれませんが、メールにも書いている高田馬場でのインド・ネパール・チベット料理屋さんでの会が、中島さんと吉澤さんと出来れば良いなと思っています。

 吉澤さんの承諾は得ていませんが、以上のようなメールのやり取りを吉澤さんとしたことをお知らせしておきます。

もし、高田馬場でのインド・ネパール・チベット料理屋さんでの会が実現したら、皆様もご参加されませんか?

 先日は吉澤さんと中島さんの制作された番組についてメールでやり取りをしたので、早稲田大学探検部時代にチベットに関わった方々にメールをしておきます。

 このメールを足がかりに、早大探検部時代にチベットに関わった方々が集まっての高田馬場のインド・ネパール・チベット料理屋さんでの会が実現したら良いと思っています。

 皆様からのご返信をお待ちしております。

 上原和明

  以上のようなメールを早大探検部時代にチベットに関わった方々にしてしまいました。

  吉澤さんから注意されました。会は少人数の方が話しやすいということで、会は少人数で開催することになりました。

  今後、このようなメールはしないように気を付けようと思っています。

  以上「早稲田大学探検部チベット高原民族探査隊について」

  ブログに載せます。