2024年12月31日火曜日

「12月は8万2145字入力していたようだ」

 「11月は82145字入力していたようだ」

   ATOKマンスリーレポートを見ていたら、僕は、202412月は82145字パソコンで入力していたようです。

  ブログを書くこと、Twitterをやることで、パソコンのキーボードで入力しているので、入力した文字数が一月、8万字を超えていたのだと思います。

一日平均2649字くらいです。

  入力時間は131時間、原稿用紙206枚分入力していたようです。

   1日平均、42時間、1日平均原稿用紙にすると66枚分、パソコンに向かってキーボードで入力しているようです。

   相当、長い時間、パソコンに向かい、キーボードをカチカチ打っているようです。

   8万字を超える文字を入力していたとは、かなり多い入力数だと思います。

   パソコンに向かって、キーボードで文字を入力していると、逆流性食道炎も良くならないと思っています。以前、お医者さんにパソコンに向かっている限り、逆流性食道炎は良くなりませんと言われたことがありました。

   何度も同じ事を書いていますが、パソコンに向かう仕事以外の、体を動かす仕事をした方が良いと自分でも思っています。

   毎月、毎月同じようなブログを書いていますが、今日、ATOKマンスリーレポートを見ていたら、202412月は82145字入力していたようなので、ブログを書いておきます。

   以上、「12月は82145字入力していたようだ」

   ブログに載せます。

「12月は1日平均7694歩歩いていたようだ」

 「12月は1日平均7694歩歩いていたようだ」

   スマホの万歩計を確認していたら、僕は、12月は238523歩、1日平均、7694歩歩いていたようです。

   文京シビックセンターで行われた文京区の特定保健指導では112千歩歩くことが目標になっていますが、18千歩で十分だと自分では思っています。

   12月は寒くなり散歩の歩数は減ってしまったようです。

   昨年の健康診断では体重が74キロもあり、メタボリックシンドロームだと診断されて、文京区の特定保健指導を受けましたが、74キロもあった体重が、先日の文京区の健康診断では、体重を測ったら、65キロになっていました。

   もう112千歩歩かなくても、十分に体重は落ちたので、これからは無理のない散歩くらいにしておこうと思っています。

   本格的に寒くなっているので、散歩の歩数は減ってしまうと思いますが、無理に多くの歩数を稼ごうと散歩をするつもりはありません。18千歩程度の散歩で十分だと内科の先生も仰っていたし、気楽な気持ちで気分転換のつもりで散歩をしようと思っています。

   スマホの万歩計を確認していたら、僕は、12月は238523歩、1日平均、7694歩歩いていたようなのでブログを書いておきます。

  以上、「12月は1日平均7694歩歩いていたようだ」

   ブログに載せます。

2024年12月27日金曜日

「日経新聞文化欄のチベット関連記事」

 「日経新聞文化欄のチベット関連記事」

  1224日に早稲田大学探検部32OBの吉澤さんからメールが届きました。

  以下のようなメールが届きました。

  中島さん、上原さん

  おはようございます。毎日寒いですね。

  今日の日経新聞にチベットのことが載っていました。元気な美容師さんがいるものだと感心しました。ご参考まで。

  今年も残り1週間となりました。どうぞよいお年をお迎えください。

  吉澤

  中島さん、吉澤さん

   昨日は本当にありがとうございました。

   中島さん、近々集まる機会があるのでしたら、是非、お声かけください。

   何かお力になれることがありましたら協力させていただきます。

  チベット話の続きにも参加させていただきたいです。

  吉澤さんの当時の手帳にも興味があります。

  上原 和明

  このメールに僕は以下のような返信をしました。

  中島さん、吉澤さん

 おはようございます、上原です。寒さも厳しくなってきました。

   朝起きて、外に出ると、寒さが厳しくなっているのが分かります。

  さて、稲葉香さんについての日経新聞の記事を送っていただきありがとうございます。

  さっそく、添付されていた記事を読ませていただきました。

   稲葉香さんに影響を与えた河口慧海さんは、リウマチを抱えてのヒマラヤ行、カイラス行だったようで、僕も驚きました。

   実は僕の母も関節リウマチで痛みがあるようです。

   何かしていれば(読経も良いのかもしれません)痛みを紛らわすことが出来るのかもしれないと思いました。

  中島さん、吉澤さんにおかれましても良いお年をお迎えください。

  上原 和明

  以上のようなメールのやり取りをしました。

  吉澤さんのメールには1224日の日経新聞文化欄の記事が添付されていました。

   ヒマラヤのドルポで越冬して植村直己冒険賞を受賞された稲葉香さんについての記事でした。

 記事は以下のような記事です。

 


  僕も稲葉香さんも河口慧海さんもリウマチを抱えてのヒマラヤ行ということで本当に感心しました。

 チベットに行ったことのある人間からすると、本当に素晴らしい活動だと思い、僕も何か頑張らないといけないなという気持ちになりました。

 12月24日に早稲田大学探検部32期OBの吉澤さんからメールが届いたので、メールのやり取り、添付されていた記事をブログに載せます。

 以上、「日経新聞文化欄のチベット関連記事」

 ブログに載せます。

 

 


 

 

2024年12月21日土曜日

「ビキニ水着と原発」

 「ビキニ水着と原発」

  僕は長い間、原発に反対する本を多く読んでいます。

  原発に反対する本を読んでいると、原発と原爆が表裏一体のもので、原発に反対している方の多くが原爆、核兵器にも反対していることが分かりました。

   日本の広島と長崎が狙われた原爆で、甚大な被害をもたらした悪魔のような原爆ですが、日本が唯一の原爆の被爆国で、ノーベル平和賞受賞の被団協のことが大きくニュースで取り上げられ、核廃絶の機運は日本でも高まっていると思います。

  そこで、今回は、女性の肌の露出度の非常に高いビキニ水着と原発というブログを書いてみたいと思います。

  先ず、Windows11にインストールされているCopilotで「ビキニ水着と原爆についておしてください」と質問してみました。すると以下のような回答が返ってきました。

 「ビキニ水着と原爆」

   ビキニ水着と原爆には、意外なつながりがあります。1946年、アメリカがビキニ環礁で行った核実験にちなんで、フランスのデザイナー、ルイ・レアールが新しい水着を「ビキニ」と名付けました。彼は、この水着が「原爆のように衝撃的である」と考えたのです。

   ビキニ水着は、その大胆なデザインとともに、ファッション界に大きな影響を与えました。一方で、ビキニ環礁の住民は核実験の影響で故郷を追われ、健康被害に苦しむこととなりました。

   このように、ビキニ水着と原爆には、ファッションと歴史の複雑な交差点が存在します。興味深いですね。

以上のような回答が返ってきました。アメリカのビキニ環礁での核実験にちなんでフランスのデザイナー、ルイ・レアールが新しい水着を「ビキニ」と名付けたようです。

次にGoogleで、「なぜ、ビキニと言うのか」と検索してみました。すると以下のようなことが書かれていました。

ビキニ (水着) - 水着の一種、ビキニ環礁での実験で用いられた原爆のように「小さくて破壊的」との意味が込められた。 類似の下着にも用いられる。

以上のようにアメリカのビキニ環礁での核実験にちなんでフランスのファッションデザイナーが考案した水着がビキニ水着のようです。

ちなみにアメリカもフランスも第2次世界大戦の戦勝国です。

次にWindows11にインストールされているCopilotで「ビキニ水着と原発について教えてください」と質問してみました。すると以下のような回答が返ってきました。

「ビキニ水着と原発」

   ビキニ水着と原発には直接的な関係はありませんが、興味深い点があります。ビキニ水着は、1946年にビキニ環礁で行われた核実験にちなんで名付けられました。一方、原発(原子力発電所)は、核分裂反応を利用して電力を生成する施設です。

   ビキニ環礁での核実験は、核兵器の威力を示すために行われましたが、その後の放射能汚染や住民の健康被害が問題となりました。原発も同様に、放射能漏れや事故が発生した場合に深刻な影響を及ぼす可能性があります。

   このように、ビキニ水着と原発は、核技術の利用とその影響という点で共通点がありますが、直接的な関連性はありません。興味深い視点ですね

 以上のような回答が返ってきました。

  原爆と原発が核分裂反応を利用したとても危険なもので、放射能漏れ放射能汚染の危険があるものだと分かります。

  原発事故の怖さは2011年の福島第一原発事故を考えれば今の日本人なら誰でも知っているもので、日本でも原発(原子力発電所)の是非が多くの場所で議論されていると思います。

  原発もビキニ水着も日本人が発明したものではありません。

  アメリカが原爆を作り、その核実験をしたビキニ環礁にちなんで、原爆のように「小さくて破壊的」との意味が込められ、フランスのデザイナーがあのような女性の肌の露出度の非常に高いビキニ水着を発明したようです。

言ってみれば、第二次世界大戦の戦勝国、アメリカとフランスが、原爆を作り、原発を作り、ビキニ水着を作ったようです。

欧米から見れば、日本などは発展していない国で、遅れている国だと見られていたのだと思います。

原発と原爆が表裏一体のもので、ビキニ水着も原爆のように小さくて破壊的という意味を込められ作られたもののようです。

原発もビキニ水着も欧米のものがより良いものという日本の考えで、欧米に追いつけで日本に取り入れられたものだと僕は思っています。

 2011年の福島第一原発事故以来、これだけ多くの議論がされている原発ですが、原発と原爆が表裏一体のもので、女性の肌の露出度が非常に高いビキニ水着もアメリカが原爆の実験、核実験を行ったビキニ環礁が由来で、原爆も原発もビキニ水着も世界的な強者の論理の元で作られたものであることが分かります。

 原発に賛成するか反対するかは、強いものにつくか、弱いものにつくか、が問われている問題のような気がしています。

 あまり上手く書けませんでしたが、今回は「ビキニ水着と原発」というブログを書いてみました。

 以上、「ビキニ水着と原発」

 ブログに載せます。


2024年12月18日水曜日

「くつろぎの時間 喫煙室 第21集 の西木正明さんのエッセイ 帰らざる河」

 「くつろぎの時間 喫煙室 第21集 の西木正明さんのエッセイ 帰らざる河」

  先日、図書館で本を借りました。

  何か気分転換に読めるような本を読もうと思い、図書館の本棚を探していたら、

  「喫煙室 くつろぎの時間」という本が目にとまり、僕も喫煙者なので僕と同じような人達の話が読めると思い、図書館で借りて、気晴らしに読んでみました。

  「喫煙室 くつろぎの時間」という本を読んでいると、早稲田大学探検部の大先輩で亡くなった直木賞作家の故西木正明さんの書かれた文章が載っていました。

  「道楽の帰らざる河」というエッセイが西木正明さんらしい文章だったので、書き写しになってしまいますが、ブログに載せようと思います。

  「道楽の帰らざる河」

  わたしは道楽者で、これまで多くの趣味や道楽に手を染めてきた。小学生時代は親父の道楽につきあわされてのレコード鑑賞。戦後の物資欠乏時代、竹針をカッターで切って、ゼンマイ駆動の蓄音機でSPレコードを聞いた。小学生上級から中学にかけては、これも親父につきあわされての写真機。六櫻社(現 コニカミノルタ)製の単玉ベスト判カメラ、パーレットで庭を走り回るニワトリや犬、隣の女の子などを撮り、自分で現像、焼き付け、引伸しまでやっていい気分になっていた。

 同じ頃、写生に夢中になった。絵描きだった母方の祖父の血をわずかに受け継いだのか、県の席画コンクールで二回金賞を得たから、これは多少モノになった口。ちなみにこの祖父は、森永ミルクキャラメルのエンゼルマークを創作した。秋田県蘭画の異端。

 中学上級以降はにわかにアウトドア指向になった。近隣に住む暴れ者で有名だった前科七犯のマタギに可愛がられ、山歩きのイロハをたたき込まれた。それが大学時代の北極圏越冬につなって家業の医者になりそこね、村は無医村となって、近在の人々にただならぬ迷惑をかけた。

 その後遺症は社会人になってからも残り、昨今はゴムボートに生活用具一式を積み込んでの川下りに血道をあげている。高校時代にはまった映画鑑賞とアウトドア指向が結びついた結果かも知れない。当時繰り返し見た、ロバート・ミッチャムとマリリン・モンロー主演の映画「帰らざる河」が、道楽人生の後半を決定づけたような気がする。

 これらの道楽が実生活になんの恩恵ももたらさない中、なぜか子供時代もっとも苦手だった作文で口に糊している。人生の皮肉ここにきわまり、まさに道楽人生の「帰らざる河」である。

  以上のような「帰らざる河」というエッセイが載っていて、おもしろくて腹を抱えて笑いそうになってしまいました。

 「昨今はゴムボートに生活用具一式を積み込んでの川下りに血道をあげている。」

  というのが本当におもしろくて、

  西木正明さんが繰り返し見た映画「帰らざる河」が道楽人生の後半を決定づけたような気がする。

  というのが、おもしろくて、繰り返し見た映画がそのまま人生に反映されているのが本当におもしろいと思いました。

  僕も若い頃は映画をよく見ていたので、繰り返し見た映画が僕の人生を決定づけるようなことがあれば僕のこれからの残り少ない人生もなにかおもしろい人生になるかもしれないと思いました。

  先日、「喫煙室 くつろぎの時間」という本を図書館で借りて気分転換に読んでいたら、早稲田大学探検部の大先輩だった西木正明さんの書かれたエッセイが載っていたのでおもしろかったのでブログを書いてみました。

  以上、「くつろぎの時間 喫煙室 第21集 の西木正明さんのエッセイ 帰らざる河」

  ブログに載せます。

 

 

 

2024年12月14日土曜日

「インド・ネパール・チベット料理屋さんでの会合でお話しした話 その2」

 「インド・ネパール・チベット料理屋さんでの会合でお話しした話 その2

  先日、 1130日土曜日に高田馬場のインド・ネパール・チベット料理屋さんで早稲田大学探検部30OBの中島さんと早稲田大学探検部32OBの吉澤さんと会合をしました。

 会合ではもっぱらチベットのお話を2時間以上していました。

  先日はカイラスについてのお話をブログに書きましたが、今日は探検部らしいお話をブログに書きたいと思います。

  先ず、僕が1988年夏早稲田大学探検部チベット探査の際の報告書を中島さんにお見せすると、

  「よく大学2年でカイラスまで行けたな」

  と感心してくださいました。

  その後、チベットのお話をしていると、

 4人でチベットに行ってよく喧嘩にならなかったな」

 とも感心してくさいました。

 僕が五反田にあるチベット文化研究所に行ってお話を聞いたことがありますと言うと、

 中島さんもチベット文化研究所でチベット語を勉強されたそうで、

 「どの先生に会った」

 とも聞かれました。僕はどの方にお話を聞いたかはもう覚えていませんでした。

 僕から

 「中島さんと吉澤さんは中国語は出来たのですか?」

 とお聞きすると、中島さんも吉澤さんも早稲田大学で中国語を選択されていたということで、僕も中国語を選択していましたと言うと、中島さんが

 「探検部は中国語を選択している学生がよく入部する」とも仰っていて、

 吉澤さんも

 「普通の学生はフランス語かドイツ語だよね」

 とも仰っていました。

 僕はそのお話を聞いて、1988年夏早稲田大学探検部チベット探査に行った4人のうち、

 「僕(上原)、倉島、中谷は中国語を選択していました、桜井はドイツ語を選択していました。」

 とお伝えしました。

 僕の作成したチベットのスライドに関しては、吉澤さんが僕のブログを読んでくださっていたようで、行方不明、紛失してしまったこともご存じだったようですが

 「スライドはマウントしてある?」

  と訊かれたので、 

 「マウントしてあります」

 と答えました。

 中島さんが、

 「スライドが紛失したということはない。どこかにある。箱に入っているはずだ」

 とも仰っていました。

 1988年夏チベット探査計画書をお見せした際には、僕が、

 「探検部の審議にかけられて、書き直しもしました」

 と言うと、吉澤さんは、

 「そのようなことはしていなかったと思う、なんか会社みたいだな」

 と仰っていました。

  僕が1988年夏チベット探査計画書に関しては

 「カイラスまでのルートとか突っ込まれました」

 と言うと、

 中島さんが気を利かせてくださり、

 「ルートはどうする?」

 とも言ってくださいました。

 中島さんも吉澤さんも

 「この計画書、奥島先生も見ていると思うよ」

 とも仰っていました。

僕が中島さんに

「ドルマ・ラ峠が中島さんにとっての最高標高点ですか?」

「ドルマ・ラ峠が最高標高点」

と仰っていました。

吉澤さんもドルマ・ラ峠が最高標高点だと仰っていたので、先日のインド・ネパール・チベット料理屋さんでの会合で集まった中島さんも吉澤さんも僕(上原)の3人とも人生における最高標高点はドルマ・ラ峠(5660m)のようです。

僕がチベットのラサで食べた記憶があるモモに関しては、中島さんがチベットに行った際には食べていないと仰っていて、1986年にはモモはラサで食べてないようでしたが、僕らがチベットに行った1988年にはモモを出すようになったのだろうかとも仰っていました。

 「上原がインドブラマプトラ川川下りに行ったのはいつだ?」

 とも尋ねられたので、

「大学4年の時です」

 と答えました。

その他にも、僕らが早稲田大学探検部1年生の時の新歓合宿の際に、当時大学4年生だった中島さんと椎木さんがいらしていたこともお話ししました。

僕が早稲田大学探検部1年生の時の参加した春合宿で中島さん、リーダー、吉澤さん、サブリーダーで南アルプス赤石岳に登る予定だったが、途中で雪渓があり、赤石岳登頂はあきらめたこともお話しし、

中島さんが、

「1年生は山の素人だったから」

と仰り、僕は

「あの合宿が、僕にとっては南アルプスは初めてでした」

と答えました。

すると、中島さんが、

「どのピークに登ったけ?」

と仰っり、僕は

「聖岳に登りました」

と答えました。

中島さんが、

「上原たちの代は部員は何人いたんだ?」

と尋ねたので、僕は

「15人いました」

と答えました。

「上原たちの代は、多彩な人材が揃っているね」

とも中島さんが仰っていたので、

「僕らの代くらいから、部員が増えました。僕らの代は15人で、僕らの下の代は20人くらい部員がいました」

と答えました。

早稲田大学探検部の現役についてのお話も少ししました。

現在の早稲田大学探検部の顧問の先生が元早稲田大学部員の方で初めての生え抜きの顧問の先生だと伺いました。

もう何年か前の現役の1000キロのヒマラヤ隊の話もして、早稲田大学探検部OBの庄司さんと一緒にヒマラヤに行ったことも伺いました。

僕は早稲田大学探検部OBの庄司さんのことは昔、NHKスペシャルの「ザンスカール 氷の回廊」という番組を拝見したことがあり、存じ上げていたので、

中島さんに、

「氷の回廊」

と言いました。

僕のTwitter(現X)が1000キロのヒマラヤ隊のTwitterにフォローされたこともお話ししました。

なにか1000キロのヒマラヤ隊は、Twitterを使ってクラウドファンディングでお金を集めたことも伺いました。

中島さんはSNS X(旧 Twitter)についてはあまり良い印象を持っていないようでした。

現在の早稲田大学探検部が他大の学生も受け入れていることについては、中島さんは反対のようで、中島さんは早稲田大学探検部は早稲田大学純血主義の方が良いと仰っていました。

中島さんはアフリカのナイル川源流の調査をしているというお話もして、早稲田大学探検部OBの小川さんの計画だよねというお話もしました。

僕は現在の早稲田大学探検部については早稲田大学探検部のXとかを見るくらいしか知らないので、何も言えませんでしたが、僕も現在の早稲田大学探検部のXとかを見ていると、何か早稲田大学探検部OBの方の過去の業績をなぞって活動をしているような気がしていたので、

「自分の物語を作るのが早稲田大学探検部ですよね」

というようなことを言いました。

もう僕は統合失調症の精神障害2級の障害者なので、偉そうなことは言えませんが、先日の会合では少し偉そうなことを言ってしまいました。

大学卒業後のお話も少ししました。僕が大学卒業後、テレビ業界に進んだのですが、現場に出ての取材は面白かったのですが、テレビ番組は編集の仕事があり、締め切りがあり、締め切り前は徹夜、徹夜で、大変で、自分でテレビ業界は向いていないと思い、テレビ業界は辞めましたとお話ししました。僕はテレビ業界が本当に向いていなかったので、

「マスコミには行かない方がいいですよ」

とも言いました。

高野秀行さんのお話もしました。高野さんの著作、「イラク水滸伝」を吉澤さんが会合の前に高田馬場の書店で見てきたそうで、「イラク水滸伝」のお話をしました。

吉澤さんが、

「高野さんが「イラク水滸伝」で植村直己冒険賞を受賞したようですね、本を見ましたが、相棒の山田高司さんのイラストもプロの作品だったよ」と仰っていました。

僕はその話を聞いて、

「ティグリス・ユーフラテス川ですね。山田さんは東京農業大学探検部出身の方ですね。実はインドブラマプトラ川の話も東京農業大学探検部に最初に話がいきました。山田さんは四万十川にいらしていたと思います」

と言いました。

すると中島さんがその話を聞いて、

「農大の探検部は長江全流をやろうとしていた。農大探検部はすごかった」

と仰っていました。

高野さんが植村直己冒険賞を受賞した「イラク水滸伝」についてこのようなお話をしました。

帰り際に、

「上原は集まるとしたらどこがいい?」

とも聞かれたので、

「早稲田か高田馬場がいいです」

と答えました。

早稲田大学のホームグラウンドとなるような早稲田か高田馬場なら、早稲田大学探検部の話も気兼ねなく出来ると思ったので、「早稲田か高田馬場がいいです」と答えました。

  本当に早稲田大学探検部の部室にいるような感じのお話が出来て、僕も本当に楽しかったです。

 普段は両親と3人で暮らしていて、チベットの話などするような人もいないので、僕の早稲田大学探検部時代の本当に僕にとって最高の思い出になっているようなチベットのお話を出来て本当に楽しかったです。

 以上、「インド・ネパール・チベット料理屋さんでの会合でお話しした話 その2

 ブログに載せます。


2024年12月10日火曜日

「病跡学について教えてください。心の病気(精神障害)と文化作品には関係があるのですか?」

 「病跡学について教えてください。心の病気(精神障害)と文化作品には関係があるのですか?」

  実は僕は本当は心の病気(精神障害)と文化(文化とは文学、音楽、絵画、映画、写真、など)というテーマでブログを書こうと思っていました。

  僕自身が統合失調症と診断されていて、精神障害者手帳も持っているので、自分のテーマになると思い、心の病気(精神障害)と文化(文化とは文学、音楽、絵画、映画、写真など)というテーマでブログを書こうと思っていました。

  以前、Windows11にインストールされているCopilotで少し調べたことがあるので、簡単なブログになってしまいますが、簡潔にブログを書いてみたいと思います。

  先ず、Copilotに「病跡学について教えてください。心の病気(精神障害)と文化作品には関係があるのですか?」と質問してみました。すると以下のような回答が返ってきました。

  もちろんです!病跡学は、精神医学の一分野で、傑出した人物について精神医学的に考察する学問です。具体的には、精神疾患を持った作者の芸術作品について、その精神疾患がどのように影響したかを調査します¹。

 病跡学は、以下の観点から興味深いです。

 1. **文学と精神疾患の関連**:

    - 夏目漱石や芥川龍之介、大江健三郎などの作家は、精神障害者に共感的な作品を書いた直後に病跡学的な作品を発表しています。このことから、病跡学的な認識は、精神障害者に対する寛容で共感的な態度と密接に関係している可能性があります¹

 2. **健康生成的な視点**:

    - 病跡学は、病気を持った人々の成長や寛容にも焦点を当てています。当事者の側の寛容や成長(PPG; postpsychotic growth)も重要な視点です¹

  病跡学は、芸術作品と精神疾患の相互関係を探求する興味深い分野であり、文化作品と心の病気の関連について深く理解する手がかりを提供しています。

. 次に「夏目漱石は統合失調症だったのですか?」と質問してみました。すると以下のような回答が返ってきました。

  はい、夏目漱石は統合失調症の症状を示すことがありました。彼は幻聴や幻覚、被害妄想、追跡妄想、そして病気の自覚の欠如などの精神病的な兆候を示していました。ただし、統合失調症は人生のある時期だけ発症し、自然に治るケースもあるとされています。漱石もロンドン留学中に奇行を起こし、緊急帰国する出来事がありました。天才作家には統合失調症の傾向が多いことも指摘されています¹。²

  次に「芥川龍之介は精神障害者だったのですか?」と質問してみました。すると以下のような回答が返ってきました。

  はい、芥川龍之介は精神的な苦悩を抱えていました。彼の晩年は苦悶に満ちており、意識の哲学的側面にも興味深い要素があります。彼の実母は統合失調症(旧名:精神分裂病)の患者であり、芥川自身も母親からの遺伝を恐れ、精神病発症を常に危惧していました。彼の晩年の作品には自己の病的体験が描かれており、統合失調症の幻覚や妄想状態を思わせるものもあります。しかし、精密な分析によれば、彼の病態は典型的な統合失調症とは異なっていたことが分かります。彼の晩年は「神経衰弱」であり、内因性精神病ではなく、統合失調症ではないとされています。¹²

  次に「大江健三郎の万延元年のフットボールと精神障害者には何か関係がありますか?」と質問してみました。すると以下のような回答が返ってきました。

  『万延元年のフットボール』は、大江健三郎の中期の長編小説であり、一般的には彼の代表作とされています。この作品には、障害児や安保闘争など、大江の重要なモチーフがいくつも登場します。舞台は大江の故郷である四国の山奥です¹。物語は、英語の専任講師である根所蜜三郎と妻の菜採子の間に生まれた障害を持つ子供を中心に展開されます。彼らは蜜三郎の弟である鷹四とともに、谷間の村で新しい生活を始めます。鷹四は万延元年の一揆の指導者であった曽祖父の弟に憧れており、村全体を巻き込む暴動の指導者となりますが、その後の出来事が彼らの運命を変えていきます。物語は、家族の絆や歴史的な出来事、個人の葛藤を描いています³。²

  次に「大江健三郎は「万延元年のフットボール」でノーベル文学賞を受賞したのですか?」と質問してみました。すると以下のような回答が返ってきました。

  はい、大江健三郎は「万延元年のフットボール」でノーベル文学賞を受賞しました³。この作品は、1967年に連載され、同年に講談社から刊行された長編小説であり、第3回谷崎潤一郎賞も受賞しています。物語は、英語の専任講師である根所蜜三郎と妻の菜採子の間に生まれた障害を持つ子供を中心に展開され、安保闘争や日本の近代化の始まる直前の時代背景を描いています。

  次に「夏目漱石、芥川龍之介、大江健三郎は東京大学文学部の方なのですか?」と質問してみました。すると以下のような回答が返ってきました。

はい、それぞれの作家には東京大学文学部との関連があります。

 夏目漱石は東京大学英文科の学生だった頃に、芥川龍之介に励ましの手紙を送っています。彼は芥川を「先生」と尊敬し、その後も交流を続けました。

 芥川龍之介は、東京大学文学部に在籍していました。彼は漱石との関係を通じて文学の道を歩み、後に自身の作品で名声を得ました。

 大江健三郎は、東京大学文学部を卒業し、作家として活躍しています。彼は1994年にノーベル文学賞を受賞し、その作品は国内外で高く評価されています。

これらの作家は、東京大学文学部とのつながりを持ち、文学の世界で重要な役割を果たしています。

 以上のようなことをCopilotで調べました。

 実は僕は早稲田大学法学部出身ですが、東京大学文学部出身の作家の方の文学作品も読んでいたことがあり、夏目漱石も芥川龍之介も大江健三郎も読んでいます。

 このブログでは日本の文学作家のことしか調べられませんでしたが、画家のゴッホも精神病だったようですし、音楽家のシューマンも精神病だったようです。

 実は僕が東京大学から逃げるように、江戸川公園を通って、関口芭蕉庵に行ったのは、明治以降の文学作品が近代文学になり、海外(特に西洋、ヨーロッパ)の文学作品の影響をものすごく受けて、精神病と診断されている作家の方も多くいらっしゃることから、江戸時代に実際に東北を歩いて書かれた「奥の細道」の作者である松尾芭蕉の住んでいた関口芭蕉庵に行きました。

 今回は病跡学についての本を読んだりする時間も無くて、Copilotで調べただけの簡潔なブログになってしまいますが、ブログの自己紹介にも載せている、心の病気(精神障害)と文化(文化とは文学、音楽、絵画、映画、写真など)というテーマで簡単にブログを書いてみました。

 以上、「病跡学について教えてください。心の病気(精神障害)と文化作品には関係があるのですか?」

 ブログに載せます。

 

2024年12月9日月曜日

「インド・ネパール・チベット料理屋さんでの会合で拝見した日記」

 「インド・ネパール・チベット料理屋さんでの会合で拝見した日記」

  先日、インド・ネパール・チベット料理屋さんでの会合で吉澤さんの日記を拝見しました。日記についてメールでやり取りをしました。早稲田大学探検部関係者にとっては参考になるメールのやり取りだと思うのでブログに載せたいと思います。

 上原さん

  土曜はありがとうございました。いろいろと話すことができ、中島さんも貴兄もよく覚えていて、とても楽しかったです。

   小生の手帳(日記)はたしかに自分が見返しても興味深いものです。まだ10代で、いつどこを訪れ、何を見て、どんなことに感動したかなど、我ながらよく記録していています。

吉澤さん

先日は本当にありがとうございました。

僕も本当に楽しい時間が過ごせました。

まるで早稲田大学探検部の部室にいるような気分になりました。

吉澤さんのチベットカイラス行の際の日記ですが、

「日本の探検家たち」(未知への挑戦) 西堀栄三郎記念 探検の殿堂 NHK出版

という本に、梅棹忠夫さんの書かれた探検についての文章に以下のようなことが書かれています。

49人の探検を選ぶにあたって」梅棹忠夫

「探検家は探検した地域について報告をおこなう義務がある。いくら未知の地域にわけいったとしても、報告がなければ、なにをしたのかを知るすべがない。ただし、ここにいう報告とは、かならずしも報告書という体裁をとったものでなくともよい。日記、写真、地図、紀行文など、どのようなかたちでもよいわけであるが、知的に考察されたもので、人類の知識の蓄積にくわえられるべき質のたかさをもつものでなければならない」

以上のようなことが書かれています。

吉澤さんはあれだけ、手帳にびっしりときちんとした字で日記を書かれていて、梅棹忠夫さんのおっしゃる探検の報告になるのではないかと僕は思いました。

実は僕がチベットに行った際には、僕はほとんどと言って良いほど、記録が出来ませんでした。

本来なら報告書作成のために、探検する現場に自分で赴き、記録を書かなければいけなかったのですが、僕はそれが出来ませんでした。

僕は吉澤さんの当時の手帳は探検の報告になっているような気がしたので、日記に興味がありますとメールに書きました。

来年、探検部の同世代で会うことがありましたら、僕も出来る限り参加させていただきたいと思っています。

なんとか都合をつけて参加させていただきたいと思っています

どうぞよろしくお願いいたします

上原 和明

上原さん

一昨日のメールありがとうございます。梅棹忠夫さんの言う探検の報告にあたるのではないかと貴兄に言っていただき、何とも面映ゆい思いがして恐縮してしまいました。10代の学生が素直かつ率直に記録はしていますが、知的な考察とはかけ離れていて、お恥ずかしい限りです。

あの部室も時代もよかったですし、モモも美味しかったですし、中島さんも当時から変わっていませんでしたね(小生も周りからよくそう言われます)。探検部出身者は持ち前の好奇心によるものか、気持ちが若いのだろうと思います。

このあいだのOB会がきっかけとなって、来年また僕らの世代で集まると思いますので、その際はお声がけします。明日あたりから本来のこの季節らしい寒さになるようですので、お互いに気を付けましょう。では、また。

吉澤さん

吉澤さんのチベットカイラス行の日記が探検の報告になるかについては、僕は探検の報告になると思います。

知的に考察されているかは、僕は日記を読んでいないので何とも言えませんが、

吉澤さんの書かれる文章は知的に考察された文章だと僕は思います。

僕の体調を慮っていただきありがとうございます。

これから寒さも厳しくなるかもしれません。

吉澤さんもお体に気をつけてお過ごしください。

来年の同世代の集まりの際にもお声かけいただければ、

なんとか参加させていただきたいと思っています。

どうぞよろしくお願いいたします。

上原 和明

以上のようなメールのやり取りをしました。

早稲田大学探検部について回る問題に探検をして、報告を残すというものがあります。僕は探検をして記録をすることが報告書の基本だと思っていますが、日記も報告になると思っています。

僕はチベットに行った際にはポジフフィルムで写真を撮って記録(報告 スライド)を残したつもりでしたが、スライドはどこかに紛失してしまったようです。残念に思っています。

僕は早稲田大学探検部時代に文章による記録はほとんど書けなかったので、その後も活字メディァには進まずに、映像関係のメディアに大学卒業後進みました。

早稲田大学探検部の現役時代に、探検をして、文章として記録を出来るかどうかは大学卒業後の人生でも大きな岐路になるような気がしています。

以上、「インド・ネパール・チベット料理屋さんでの会合で拝見した日記」

ブログに載せます。


2024年12月8日日曜日

「インド・ネパール・チベット料理屋さんでの会合でお話ししたカイラスについての話」

 「インド・ネパール・チベット料理屋さんでの会合でお話ししたカイラスについての話」

   先日、高田馬場のインド・ネパール・チベット料理屋さんで早稲田大学探検部30OBの中島さんと早稲田大学探検部32OBの吉澤さんと会合をしました。

  会合ではもっぱらチベットの話を2時間以上していました。

  全てのお話をブログに書くのは大変なので、カイラスについてのお話をブログに書きたいと思います。

  中島さんと吉澤さん、僕(上原)が行ったことのあるチベット、カイラスについては、中島さんが、カイラスについては、ヤルツァンポ川沿いを護岸したので(僕らがチベットに行った頃はヤルツァンポ川沿いの道が、ヤルツァンポ川が氾濫していて通れなくて大きく北に迂回にしてカイラスに行きました)ヤルツァンポ川沿いの道を車で通って、現在では簡単にカイラスに行けるようになっていると仰っていました。また、カイラス巡礼の出発地点、タルチェン(大金)にはホテルも出来ていると仰っていました。

  僕はそのお話を聞いて、

 「それでは、カイラスは観光地になっているのですか?」

  と中島さんに尋ねると、中島さんは、

 「今でも巡礼地になっている」

  と仰っていました。

   カイラスについては、日本のお寺の地図記号にもなっている卍(まんじ)もカイラスが由来らしいと中島さんが仰っていたので、僕は「カイラス 卍」というキーワードでグーグルでネット検索してみました。

  すると、カイラスと卍についてのグーグルでのSearch Labs | AI による概要では

  お寺の地図記号は「卍(まんじ)」です。寺院で見られる「卍」をそのまま使用しており、国土地理院のホームページによると、有名な寺や目標になる寺を表す記号として使用されます。

   「卍」は、古代インドで用いられたサンスクリット語(梵語)に由来し、幸福を意味します。ヒンドゥー教や仏教では吉祥の印として用いられ、インドではビシュヌ神(ヒンドゥー教三神の一)の胸にある旋毛とされ、瑞兆の相といわれています。

  以上のような記述がありました。

   その他にもカイラスと卍(まんじ)について書かれたブログが見つかり、そのブログを読んでみました。ブログなので信用できるのか分かりませんが、興味深い記述があったので、何故、カイラスが卍の由来になっているかについてブログを引用して書いてみたいと思います。

  卍は本来、仏教のものではなかった。元々は、在る土地の地形に基づいた「吉祥」を意味するデザインである。何処に在る土地か? それは「シャンバラ」の土地にある。卍の文字の中心の二つの線が重なった部分が、チベットに在る聖山「カイラス山」の在る地点となる。そこが、古来から「天地を繋ぐ中心」とされてきた。それは今でも変わらない。これからも変わらない。カイラス山の形、四つの河の源流、そして、その相互の波動が不思議な力を感じさせるからだ。

 カイラス山を中心にして、四方に四つの河が、外向きに流れている。カイラス山の辺りが源流となっているのだ。四つの河とは、それぞれ、ブラマプトラ、サトレジ、ガンジス(ガンガー)、インダスである。全てはアジアを代表する大河である。卍は地図がそのまま文字になった好例、しかも、象形文字としてもかなり古い。

 という記述が、

https://shambhalacafe.blogspot.com/2006/12/blog-post_03.html

 というブログに載っていました。

 カイラスから、四つの河(ブラマプトラ、サトレジ、ガンジス(ガンガー)、インダス)、が外向きに四方に流れていることを表すのが卍(まんじ)のようです。

  僕の家にある「チベットの山 カイラス山とインド大河の源流を探る」 という本にも、カイラス山が卍(まんじ)の山、という記述があります。

  卍(まんじ)もカイラスが由来だとすると僕も本当にすごい場所に学生時代に行っていたのだと思いました。

  先日の先日、高田馬場のインド・ネパール・チベット料理屋さんでの会合ではとても貴重なお話をお伺いできたので、ブログに書いても良いものか迷いましたが、カイラスについてのお話をブログに載せさせていただきます。

  以上、「インド・ネパール・チベット料理屋さんでの会合でお話ししたカイラスについての話」

  ブログに載せます。

 

2024年12月3日火曜日

「インド・ネパール・チベット料理屋さんでの会合後のメールのやり取り」

 「インド・ネパール・チベット料理屋さんでの会合後のメールのやり取り」

  1130日土曜日の高田馬場チベット料理屋さんでの会合の後に会合に参加された中島さんと吉澤さんとメールでやり取りをしました。

  以下のようなメールのやり取りをしました。

 中島さん、吉澤さん

 今日は楽しい時間を過ごさせていただいてありがとうございました。

中島さんと吉澤さんのカイラス行のお話も伺えて、

カイラスでのお写真も見せていただきありがとうございました。

中島さんも吉澤さんもドルマ峠が最高標高点と伺い、私と同じだと思い親近感が湧きました。

私も懐かしい記憶が蘇りました。

拙い後輩で申し訳ありませんが、今後も何卒よろしくお願いいたします。

 上原 和明 拝

 上原様

 今、吉澤君と別れたところです。

本日はありがとうございました。

上原君の変わらぬお姿とチベット話で盛り上がれ

とてもハッピーな時を過ごせました。

それにしても2時間少々あっという間まだ話し足りない気がしています。

近々集まる機会があると思うので話の続きをその時にできればと期待しています。

 中島木祖也

 上原さん

 こちらこそありがとうございました。貴兄が呼びかけてくれたおかげで、とても貴重な会合を持つことができました。そうでもないと当時の手帳を掘り出すこともなかったですし、中島さんと貴兄の記憶力にも驚かされました。あの時代しかできないことをよくぞやれたと思います。親にも先輩にも社会にも感謝します。

 それでは、また。おやすみなさい。

 吉澤

 中島さん、吉澤さん

 昨日は本当にありがとうございました。

中島さん、近々集まる機会があるのでしたら、是非、お声かけください。

何かお力になれることがありましたら協力させていただきます。

チベット話の続きにも参加させていただきたいです。

吉澤さんの当時の手帳にも興味があります。

 上原 和明

 以上のようなメールのやり取りをしました。

 次回の早稲田大学探検部の同世代の集まりが来年のようなので、僕もなんとか体調を崩さないように気をつけて、早稲田大学探検部の同世代の集まりに参加出来るようにしたいと思っています。

  以上、「インド・ネパール・チベット料理屋さんでの会合後のメールのやり取り」

  ブログに載せます。

 

2024年12月2日月曜日

「インド・ネパール・チベット料理屋さんでの会合」

 「インド・ネパール・チベット料理屋さんでの会合」

  先週の土曜日に、早稲田大学探検部30OBの中島木祖也さんと、早稲田大学探検部32OBの吉澤基勝さんと僕の3人で、高田馬場のインド・ネパール・チベット料理屋さんで会合をしました。

  5時前に、お店の近くを歩いていると、吉澤さんに

 「上原」

  と声をかけられ、吉澤さんと一緒に、お店を探して、僕が少し迷ってしまいましたが、何とかお店のある雑居ビルを見つけました。

  すると、中島さんもお店のある雑居ビルの前にいらしていて、3人でエレベーターに乗ました。僕はお店は4Fだと思っていて、4Fまで行ってしましたが、4Fにはお店はなく、吉澤さんが3Fではないだろうかと仰り、3人で階段を降りて、3Fのお店に到着しました。

  お店は3人以外にはお客さんはいなくて、中島さんをが上座に座られ、吉澤さんと僕が下座に座りました。

  僕は会社勤めはしていなくて、お店のご案内も席の座り方も知らない人間で、ここら辺から、僕はこの会合に参加して良い人間だったのだろうかと不安になり始めました。

  中島さんがメニューを見て、注文を始められたので、僕は「エベレスト」という名前のビールがあったと思い、メニューを見ましたが、「エベレスト」という名前のビールはなくて、店員さんに

  「エベレストいう名前のビールありませんでしたっけ」

  と聞いてしまいました。

  この辺りでも、僕の不手際を感じ始めていました。

  中島さんが、メニューを見て料理を注文され、ビールを注文して会は始まりました。

  会合では主に、チベットに関するお話を2時間以上ずっとしていました。

 僕も持参した、カイラスの写真集、1988年夏チベット探査計画書、報告書、当時の学生手帳などを先輩方にお見せしました。

  会はあっという間に2時間以上経ってしまって、午後7時になり、吉澤さんが僕に気を遣っていただいて、時計を見せてくださり、午後7時から少し時間が経ったときに、中島さんが、店員さんにお会計お願いしますとおっしゃり、中島さんが会の会計を持たれて、会は終了しました。

  僕の両親が高齢で、両親とも要介護1なので、帰宅が遅くなると、両親に悪いので、僕が午後7時くらいに帰れる会なら参加出来ますとメールに書いていたので、先輩方が気を遣って僕を帰してくださったのだと思います。

  会では懐かしいお話が出来て本当に楽しかったです。

  本当にありがたい場を設けていただき、ありがとうございましたという気持ちです。

  先週の土曜日に高田馬場のインド・ネパール・チベット料理屋さんで中島さんと吉澤さんと僕の3人で会合をしたので、ブログを書かせていただきました。

  以上、「インド・ネパール・チベット料理屋さんでの会合」

  ブログに載せます。

 

 

2024年12月1日日曜日

「11月は9万4902字入力していたようだ」

 「11月は94902字入力していたようだ」

   ATOKマンスリーレポートを見ていたら、僕は、202411月は94902字パソコンで入力していたようです。

  ブログを書くこと、Twitterをやることで、パソコンのキーボードで入力しているので、入力した文字数が一月、9万字を超えていたのだと思います。

  一日平均3163字くらいです。

  入力時間は139時間、原稿用紙238枚分入力していたようです。

  1日平均、46時間、1日平均原稿用紙にすると8枚分、パソコンに向かってキーボードで入力しているようです。

  相当、長い時間、パソコンに向かい、キーボードをカチカチ打っているようです。

  9万字を超える文字を入力していたとは、かなり多い入力数だと思います。

   パソコンに向かって、キーボードで文字を入力していると、逆流性食道炎も良くならないと思っています。以前、お医者さんにパソコンに向かっている限り、逆流性食道炎は良くなりませんと言われたことがありました。

   何度も同じ事を書いていますが、パソコンに向かう仕事以外の、体を動かす仕事をした方が良いと自分でも思っています。

   毎月、毎月同じようなブログを書いていますが、今日、ATOKマンスリーレポートを見ていたら、202411月は94902字入力していたようなので、ブログを書いておきます。

 以上、「11月は94902字入力していたようだ」

 ブログに載せます。

 

「11月は1日平均8761歩歩いていたようだ」

11月は1日平均8761歩歩いていたようだ」

  スマホの万歩計を確認していたら、僕は、11月は261946歩、1日平均、8731歩歩いていたようです。

  文京シビックセンターで行われた文京区の特定保健指導では112千歩歩くことが目標になっていますが、18千歩で十分だと自分では思っています。

  11月は過ごしやすい日が増えて、散歩の歩数も増えたようです。

   昨年の健康診断では体重が74キロもあり、メタボリックシンドロームだと診断されて、文京区の特定保健指導を受けましたが、74キロもあった体重が、先日の文京区の健康診断では、体重を測ったら、65キロになっていました。

  もう112千歩歩かなくても、十分に体重は落ちたので、これからは無理のない散歩くらいにしておこうと思っています。

これから散歩をするには良い季節になるので、散歩の歩数も増えると思いますが、無理に多くの歩数を稼ごうと散歩をするつもりはありません。18千歩程度の散歩で十分だと内科の先生も仰っていたし、気楽な気持ちで気分転換のつもりで散歩をしようと思っています。

  スマホの万歩計を確認していたら、僕は、11月は261946歩、1日平均、8731歩歩いていたようなのでブログを書いておきます。

  以上、「11月は1日平均、8731歩歩いていたようだ」

 ブログに載せます。


2024年11月30日土曜日

「チベットに行った1988年のラグビー大学選手権」

 「チベットに行った1988年のラグビー大学選手権」

   僕がチベットに行った、1988年の日記には、1988110日の第24回ラグビー日本選手権をその後チベットに一緒に行くことになった早稲田大学探検部で同期の倉島孝行さんと観戦しに行ったことが書かれています。

  僕が早稲田大学に入学した1987年にはスーパー1年生と言われた堀越正巳選手、今泉清選手、藤掛三男選手が早稲田大学ラグビー部に入部され、1988110日のラグビー大学日本選手権で同志社大学と対戦して、1910で勝利を収め、優勝されました。

   その後、115日に行われたラグビー日本選手権でも社会人の東芝府中を2216で破り、なんと大学生が社会人を倒して、日本一になりました。社会人のチームに大学生が勝ったのは1988年の早稲田大学ラグビー部が最後のようです。

  1988年の日記には、110日の第24回ラグビー日本選手権を観戦して、かなり興奮して、日記が書かれていました。日記は創造というタイトルで、

 「人間が何かを創造するためには楽しいだけではできないと思う。

   何かを成し遂げようと思ったときからその人の苦しみは始まるのかも知れない。なぜなら成功することは、失敗の山の上にあるからであり、挫折の末にあるからである。」

 という文章が書かれていました。早稲田大学ラグビー部のストイックな姿勢に感動して、書かれた文章だと思います。

  僕が1988年にチベットに行ってもなんとか頑張れて、カイラスまで到達出来たのは、早稲田大学ラグビー部のストイックな姿勢に多くのことを学んで、なんとか頑張れたのだと思っています。

  僕が早稲田大学で良かったと思うのは、早稲田大学がスポーツが強くて、多くの勇気、元気をもらえたことも早稲田大学で良かったと思っています。

  明日はラグビーの早明戦があり、100回目の記念の早明戦になるようです。

  早稲田大学に関係している方々は、多くの勇気、元気をもらえると思っています。

  良い影響は自分にとっての養分になると思います。

  僕がチベットに行った1988年に一緒にチベットに行った倉島孝行さんとラグビー大学選手権を観戦していて、とても感動して日記を書いていたことをブログに書いておきます。

  以上、「チベットに行った1988年のラグビー大学選手権」

  ブログに載せます。

 

 

 

 

2024年11月29日金曜日

「中国のアウトドア用品メーカーとしてのカイラス」

 「中国のアウトドア用品メーカーとしてのカイラス」

  僕は早稲田大学探検部2年生の時に中国のチベット自治区にある、チベットの聖山、カイラスに行き、カイラス巡礼をしました。

 そのカイラスの名前を冠した中国のアウトドア用品のメーカーがあることを何年か前に知りました。

 ネットで、「アウトドア用品メーカー、カイラス」と検索してみると、カイラスジャパンというサイトが見つかりました。

 カイラスジャパンのサイトを見てみると、カイラスというブランドは2003年にBaggio Zhong氏が創立されたアウトドア用品のブランドだそうで、中国国内での売り上げが90%を占めているそうです。

 日本ではカイラスジャパンという名前で楽天市場などでオンラインショップを運営しているようです。

 https://www.rakuten.co.jp/kailas/

 僕は、早稲田大学卒業後は仕事ばかりの人生になってしまって、アウトドアの活動も登山も川下りも全くしていません。

 今からでも遅くないので、学生時代を思い出して、僕にでも出来るようなアウトドアの活動をしてみようかとも思っています。

 カイラスジャパンという名前で楽天市場などのオンラインショップがあり、カイラスという名前のブランドでアウトドア用品を購入できるのなら、一度、カイラスジャパンというオンラインショップでアウトドア用品を購入して、学生時代を思い出して、アウトドアの活動を始めてみても良いとも思っています。

 アウトドアの活動を始める良いきっかけになる、カイラスという名前を冠したアウトドア用品のブランドの発見があったので、早稲田大学卒業後、全くアウトドアの活動をしていない自分を叱咤激励する意味でも、中国のアウトドア用品メーカーとしてのカイラスのことについてブログを書いてみました。

 1130日土曜日の高田馬場チベット料理屋さんでの中島さんと吉澤さんとの会合でもカイラスという名前を冠したアウトドア用品のブランドがあることのお話もしてみようと思っています。

 以上、「中国のアウトドア用品メーカーとしてのカイラス」

 ブログに載せます。

 

 

 

 

 

 

 

2024年11月28日木曜日

「カイラスと日本人」

 「カイラスと日本人」

  僕は早稲田大学探検部2年生の時にチベットの聖山、カイラスに行きました。

  カイラスと日本人の歴史を調べてみると、日本人で初めてカイラスに行かれのは僧の河口慧海さんのようです。河口慧海さんは1900年に日本人として初めてカイラスに行かれたようです。

 


  カイラスを日本人として初めて写真撮影されたのは長谷川伝次郎さんのようです。長谷川伝次郎さんは1927年にカイラスを巡礼されて日本人として初めてカイラスを写真撮影されているようです。

 


   河口慧海さんも長谷川伝次郎さんも、滋賀県にある探検の殿堂が選んだ日本の探検家になっています。

   日本人の探検とカイラスがとても関係が深いことが分かります。

   僕らがカイラスに行った1988年では、カイラスに行っても探検と認めてもらえるか分かりませんが、僕にとっては探検でした。

   カイラスと日本人について簡潔ですがブログを書いてみました。

   1130日土曜日の高田馬場チベット料理屋での中島さんと吉澤さんとの会合ではカイラスと日本人についてもお話が出来れば良いなと思っています。

  以上、「カイラスと日本人」

  ブログに載せます。

 

 

 

 

2024年11月27日水曜日

「ブラマプトラ川の源流としてのカイラス」

 「ブラマプトラ川の源流としてのカイラス」

  僕が早稲田大学探検部4年生の時に参加した日本ヒマラヤ協会のプロジェクト、「インド・ブラマプトラ川川下り」で下ったブラマプトラ川の源流は僕が早稲田大学探検部2年生の時に行ったカイラスの麓にあります。

  カイラスの麓にあるマナサロワール湖からブラマプトラ川は流れ出ているようです。チベットではブラマプトラ川はヤルツァンポ川と呼ばれ、チベット高原を1500キロ東進して、大ヒマラヤで大屈曲して南に流れを変えインド・ブラマプトラ川となります。

  僕の家にある「チベットの山 カイラス山とインド大河の源流を探る」という本を読んでみると、以下のような記述がありました。

  「創造主ブラフマンの息子たちはヒマチャラの北に赴き、カイラス山の上で苦行をした。そこでシヴァとパルパディに会い、十二年そこにいて苦行と祈りに専念した。当時そこにはほとんど雨が降らず、水もなく、困った一同はブラフマンのところに行ってお祈りをした。するとブラフマンは、お前たちの願いは何かと聞いた。賢人たちは「私たちはカイラスで勤行をしています。私たちに水浴する場所を作って下さい」と答えた。するとブラフマンが精神力でマナサという聖なる湖を作ったので、賢者たちは再びカイラス山で苦行と祈りに従事し、湖水の真ん中から浮かび上がった金色のタラを崇拝した」

  「マナサロワールの地にわが身を触れ、その湖水で沐浴する人は、誰でもブラフマンの天国に行く。また、その水を飲む人はシヴァの天国に行き、幾度も生まれ変わって得た罪から解放される。マナサロワールという名のついた獣でさえブラフマンの天国に行く。その湖水は真珠のようである」

  以上のような記述がありました。

  ブラマプトラ川のブラマとはブラフマー、ブラフマンのことです。プトラとは息子という意味です。

  この「チベットの山、カイラス山とインド大河の源流を探る」という本に書いてあるブラマプトラ川の源流としての、カイラスの麓にあるマナサロワール湖に関する創造神話を読んでみると、カイラスとブラマプトラ川の関係の重要性が分かると思います。

  地理的にもブラマプトラ川の源流はカイラスの麓ですし、カイラスの麓の湖(聖湖)マナサロワール湖から流れ出ているらしいです。

  僕は早稲田大学探検部1年生の時にミクロネシアヤップ島に行き、自分の持っている日本人の価値観に大きな疑問を持ちました。早稲田大学探検部2年生の時にはチベットカイラスに行き、カイラス巡礼をしてチベット仏教徒、ヒンドゥー教徒の方々の厚い信仰心を感じ取りました。早稲田大学探検部3年生の時にはカナダユーコン川川下りを経験して海外の大河川の川下りをしました。そして、早稲田大学探検部4年生の時に日本ヒマラヤ協会のプロジェクトであるインド・ブラマプトラ川川下りに参加してカイラスの麓に源流を持つ世界初のブラマプトラ川川下りをさせていただきました。

 僕にとっては、カイラスの麓に源流を持つインド・ブラマプトラ川川下りが僕にとっての早稲田大学探検部での活動で集大成だったようです。

 もう早稲田大学を卒業して30年以上経っていて、いつまでも昔のことばかりブログに書いているのかと言われるかもしれませんが、大学卒業後は仕事ばかりの人生になってしまって、全くと言っていいほど、アウトドアの活動や探検部らしい活動もしていないので、昔のことばかりブログに書いています。

 僕にとっては、チベットカイラス行とそのカイラスの麓に源流をもつインド・ブラマプトラ川川下りは切っても切り離せない僕にとって重要な早稲田大学探検部時代の活動だったと思っています。

 ブラマプトラ川川下りとは梵我一如の考えとも絡んでくる僕にとってとても大事で重要な活動だったようです。

 1130日土曜日の高田馬場チベット料理屋での中島さんと吉澤さんとの会合でも、僕にとって、とても大事で重要な活動だったブラマプトラ川川下りとブラマプトラ川の源流としてのカイラスのことについてもお話が出来れば良いなと思っています。

 ブラマプトラ川の源流としてのカイラスについてブログを書いておきます。

 以上、「ブラマプトラ川の源流としてのカイラス」

 ブログに載せます。


2024年11月26日火曜日

「チベットの聖山、カイラス」

 「チベットの聖山、カイラス」

   1988年夏チベット探査計画書を読んでいたら、チベットの聖山、カイラスについての記述がありました。計画書からカイラスについての記述を抜粋してみて、カイラスについて考えてみようと思います。

  カイラス

   カイラスとはチベット西部にある標高6656mの高山である。まわりには他にそれほど高い山はなく、又男根にも見える独特のかたちから、古来、見る人々の心に何かを喚起させてきた。このカイラス山はその神秘性ゆえに、チベット仏教(ラマ教)、ヒンドゥー教、ボン教(チベットの原始宗教)の3つの宗教の聖地とされている。これは世界的に見ても他にはエルサレムしかなく、いかに宗教的な地かがわかる。カイラスは巡礼地の定義のようにそれぞれの宗教の栄えている土地(チベット中部、西部、インド、ネパール)からは辺境の地にある。このカイラスには、毎年多数の巡礼者が訪れ、かれらの祈りを捧げてきた。

  カイラス巡礼について

  150km、一般にチベット人は一泊二日で廻る。(cf.NHK取材班34日)巡回礼者が多いのは3月~8月。内廻り(ナンギコル)、中間廻り(パルコル)、外廻り(チイコル)の3種があり、普通の人は外廻り。21回(13回?)廻ると、神か仏の廻る内廻りに行けると言われる。

  以上のような記述がカイラスについて計画書に載っていました。

  カイラスは3つの宗教の聖地と記述がありますが、実はジャイナ教でも聖地とされています。極めて宗教的な色彩の強い場所で、僕がカイラス巡礼をした際にも、何かトランス状態になっている方を見たことがあります。カイラス巡礼路の最高標高点はドルマラ峠という場所で標高5660mの峠で、僕もこのドルマラ峠がきつくて、重さ約20キロある100リトルザックを背負って、一人でドルマラ峠を通って、本当に地面に這いつくばるようにドルマラ峠を越えました。酸素も薄くて呼吸をするのも辛くて、僕が57年生きてきて、今までの人生の最高標高点が標高5660mのドルマラ峠です。本当にカイラスの周囲の巡礼路は苦行をするような道で、カイラス到達までの苦難の旅路の末に辿り着いた、カイラスで一番きつく、辛い体験を僕はしました。

  仏教の修行にも似ていると思いますが、本当に苦しく辛い経験をしました。まだ、年齢が20歳と若くて、気力、体力とも充実していて、何とか出来たカイラス巡礼だったと思っています。宗教を信じる信じないの良し悪しは僕には分かりませんが、精神的にも肉体的にも限界になるような苦難のカイラス到達の旅路、カイラスに到達してからの地面を這いつくばるようになんとか乗り越えたドルマラ峠と、カイラスとは、遊びに行くような場所ではなく、何か心の拠り所を求める人達が行く場所だと僕は思いました。

  チベットの方々はカイラス山に向かって本当に五体投地をして祈りを捧げていました。僕にとっても本当に大事なことを教わった場所がカイラスだったと思っています。

   11月30日土曜日の高田馬場チベット料理屋での中島さんと吉澤さんとの会合ではカイラスに行かれて、カイラス巡礼もされている中島さん、吉澤さんと会えるので、カイラスの思い出についてもお話が出来れば良いなと思っています。

  以上、「チベットの聖山、カイラス」

  ブログに載せます。


2024年11月25日月曜日

「チベットと原発」

 「チベットと原発」

  昨日は、チベットの水力発電、地熱発電の可能性についてブログを書きましたが、今日は「チベットと原発」というタイトルでブログを書きたいと思います。

   チベットに原子力発電所があるかどうかを知るために、Windows11にインストールされているCopilotを使って、

  「チベットに原子力発電所はありますか?」

  と質問してみました。

  すると以下のような回答が返ってきました。

  「いいえ、チベットには原子力発電所はありません。チベットは中国の自治区であり、中国の電力網に統合されています。チベットの電力は主に水力発電や他の再生可能エネルギー源から供給されています。」

  この回答からチベットに原子力発電所が存在しないことが分かりました。

  チベットの電力は主に水力発電や他の再生可能エネルギー源から供給されていますという回答でした。

  僕は長く、原発に反対する本をとても多く読んでいて、立場的には原発に反対の立場です。

  チベットと原発のことを考えると、チベットには原発は無くて、水力発電やその他の再生可能エネルギー源から供給されているということは、原子力発電所の存在が大きな問題になっている日本から見ても、チベットの電力供給源のことはとても興味深く、何か学べることが多くあるのではないかと思いました。

  僕がチベットに行った、1988年には、チベットではそれほど電気が通っていなかったという印象があります。

  夜になると真っ暗になり、夜空がとても綺麗で、星が落ちてくるような星空だったことがとても印象に残っています。

  1988年からすでに35年以上経っているので、現在のチベットでは電気もかなり普及していると思いますが、チベットには原子力発電所が存在しないということはとても興味深く、日本で長く原発のことを考えている方々が現在のチベットに行ってみても何か勉強になるのではないかと思います。

  小さな島国、日本では、至る所に原子力発電所を作ってしまって、2011年の福島原子力発電所の大事故以来、その原子力発電所の存在が日本各地で問われるようになりました。

  チベットと原発というと、何か勘違いしているとか言われるかもしれませんが、チベットの電力供給源が水力発電とその他の再生可能エネルギーだという事実は僕にとってはとても大きなインパクトを与える事実で、チベットと原発というテーマでもう一度チベットに行ってみたいなという気持ちになりました。

  早稲田大学探検部の大先輩方が、原発に反対する本を書かれたり、原発に反対する映画を撮られたりされていて、僕も長い間、原発のことを考えているので、「チベットと原発」というテーマでブログを書いてみました。

  1130日土曜日の高田馬場チベット料理屋での中島さんと吉澤さんとの会合の際にも、僕から「チベットと原発」というテーマでお話が出来れば良いなと思っています。

  以上、「チベットと原発」

  ブログに載せます。

 

 

 

 

2024年11月24日日曜日

「チベットの水力発電、地熱発電」

 「チベットの水力発電、地熱発電」

  僕の部屋を探していたら、1988年夏チベット探査計画書が見つかりました。

  1988年夏チベット探査計画書の中から、「チベットの経済」という章をブログに載せたいと思います。とても興味深いこと、水力発電、地熱発電のことが書かれているので、「チベットの経済」という章をブログに載せます。

  「チベットの経済」

 チベットと言えばいつくかのイメージと共に牧畜という言葉が思い浮かぶ。地理的条件、厳しい気候等により農耕生産が極めて限定されてきたなかで、牧畜業は産業の中心であり、現在もその比率は大きい。このことは、牧畜業と結合した多角的な発展がチベットにおける農業政策の目標の一つであり、畜産品を原料とする軽工業生産を発展させる事が工業政策の目標の一つとなっていることがことからも明らかである。又、牧畜業の健全な発展が目標とされる一方で、近年、天然資源の開発が注目されている。中国の調査によりチベットでは莫大な量の天然資源が眠っていることが判明した。その天然資源埋蔵量の多さは中国の中でも上位に位置すると言われ、その開発が進めばチベットの経済に大きな影響を与えることは必至と思われる。そういった意味でチベットの経済は今後、大きく転換する可能性を大いに秘めていると言えよう。これから以下に記すことがらは中国政府発表の資料を参照したものでありいくらか政治的意図のもとに発表されたものであることを断っておく。

  農業

  チベット自治区は、地形から蔵北高原、アリ地区(西北ルドク地方)蔵南谷地(ツァンポ流域)、蔵東横断山脈渓谷地区の4つの自然区に分けることができる。蔵北地区、アリ地区は広大な天然の牧場がひろがり、チベットの最も広い牧畜業地帯となっており、主にヤク、羊毛、山羊、馬などが放牧されている。蔵南谷地は、チベットの農業地帯で、チンコー、小麦、アブラ菜、リラ、エンドウ、ソバなどが栽培されている。(1980年、チンコー56%、小麦24%、エンドウ等20%)。チンコーとは、ツァンパの原料、家畜の飼料となる物で、生育期間が短く高原での栽培に適しているため、その種面積は、チベット全区で50%以上にも及ぶ。又、蔵南谷地の林芝、米林の一部の地区と波密、墨脱、察隅の大部分の地区は、平均標高が3000m以下で、気候は比較的温和であるため土地は肥えており、森林が繁茂していて、亜熱帯作物も耕作することができる。墨脱、察隅では、茶、稲の栽培が行われている。

  鉱物資源

  チベットの地下資源は非常に豊富である。その種類はホウ砂、クロム、銅、鉄、石炭、雲母、天然硫黄、鉛、亜鉛、コバルト、モリブデン、重晶石、塩など約40種にも及ぶ。とりわけホウ砂、コバルト、銅の埋蔵量においては、中国でも上位に位置する。

  水資源

  チベットの河川は流れが急で降雨量も他の地区と比べ比較的多く水資源は極めて豊かであると言える。中国の調査によると、全自治区の水力発電包蔵量のほぼ293%をも占める。又、水資源以外にも豊かな地熱資源も有している。

  森林

  チベットでは310万ヘクタールにも及ぶ森林資源があり、天然林蓄積量は61億平方メートルにも達する。森林には様々な植物が生育し、その種類は4500種をこえ、世界でも珍しい常緑雲松、雲杉(spruce)、鉄杉(hemlock)などが自生する。

  工業

  解放後、近代工業、手工業とも発展の経過をたどる。近代工業部門では、電力、コバルト鉱、石炭、化学工業、建築材料、機械森林化学工業、毛紡、マッチ、製紙、印刷、皮革、食品加工、などの業種が創設され工業産品は52種に及ぶ。又、民族手工業も復活し、1980年末には、集団手工業の数も30を越えている。(人民日報‘80125)。主な製品は、クッション、チベットじゅうたん、チベット布団、チベット風の前掛け、チベット靴、チベット刀、木碗、スーユー桶などで、総生産額もかなりの額が発表されている。

  以上が「チベットの経済」という章に書かれている文書です。

   僕がこの文書の中で興味深いと思ったのは、水資源に関する記述です。水力発電包蔵量のほぼ293%をも占めるという部分がとても興味深いと思いました。

  豊かな地熱資源も有しているという記述もあります。

   日本の大きな問題になっている、原発、原子力発電に代わるエネルギー源として、水力発電も地熱発電もチベットでは大きな可能性があることがこの水資源という記述を読むと分かります。

   チベットのことを考える際にどうしても普通の人たちはチベット仏教の盛んな地域で、仏教のことを考える方が多いと思いますが、原発、原子力発電に代わるエネルギー源としての水力発電、地熱発電の可能性のある地域だという観点からチベットのことを考えてみても面白い視点になってくると僕は思います。

 11月30日土曜日の高田馬場チベット料理屋さんでの中島さんと吉澤さんとの会合では原発に代わるエネルギー源としてのチベットの水力発電、地熱発電のことについてもお話が出来れば良いなと思っています。

  1988年夏チベット探査計画書の「チベットの経済」という章を読んでいたらとても興味深い記述があったので、ブログに載せたいと思います。

  以上、「チベットの水力発電、地熱発電」

  ブログに載せます。

 

2024年11月23日土曜日

「チベットで食べたモモ」

 「チベットで食べたモモ」

  1130日土曜日の高田馬場チベット料理屋での中島さんと吉澤さんとの3人で会合は、インド・ネパール・チベット料理屋さんで会合をします。

  そのお店ではモモという餃子のようなものを食べられます。

   モモはチベットに行った際に、ラサで宿泊したヤクホテルというホテルで食べたものでした。

  ラサのヤクホテルで僕らは初めて、モモという食べ物を食べました。

   当時は珍しい食べ物で、興味津々にモモを食べたことが思い出に残っています。

   チベットではツァンパというきなこのようなものが主食でしたが、ラサでヤクホテルに宿泊した際には、モモを食べました。

   モモはとても懐かしい食べ物で、1130日土曜日の高田馬場チベット料理屋さんでの会合の際もチベットに行ったときのことを思い出すために是非、食べたいと思っているものです。

  懐かしの味を思い出せることが今から楽しみです。

  以上、「チベットで食べたモモ」

  ブログに載せます。