2024年12月14日土曜日

「インド・ネパール・チベット料理屋さんでの会合でお話しした話 その2」

 「インド・ネパール・チベット料理屋さんでの会合でお話しした話 その2

  先日、 1130日土曜日に高田馬場のインド・ネパール・チベット料理屋さんで早稲田大学探検部30OBの中島さんと早稲田大学探検部32OBの吉澤さんと会合をしました。

 会合ではもっぱらチベットのお話を2時間以上していました。

  先日はカイラスについてのお話をブログに書きましたが、今日は探検部らしいお話をブログに書きたいと思います。

  先ず、僕が1988年夏早稲田大学探検部チベット探査の際の報告書を中島さんにお見せすると、

  「よく大学2年でカイラスまで行けたな」

  と感心してくださいました。

  その後、チベットのお話をしていると、

 4人でチベットに行ってよく喧嘩にならなかったな」

 とも感心してくさいました。

 僕が五反田にあるチベット文化研究所に行ってお話を聞いたことがありますと言うと、

 中島さんもチベット文化研究所でチベット語を勉強されたそうで、

 「どの先生に会った」

 とも聞かれました。僕はどの方にお話を聞いたかはもう覚えていませんでした。

 僕から

 「中島さんと吉澤さんは中国語は出来たのですか?」

 とお聞きすると、中島さんも吉澤さんも早稲田大学で中国語を選択されていたということで、僕も中国語を選択していましたと言うと、中島さんが

 「探検部は中国語を選択している学生がよく入部する」とも仰っていて、

 吉澤さんも

 「普通の学生はフランス語かドイツ語だよね」

 とも仰っていました。

 僕はそのお話を聞いて、1988年夏早稲田大学探検部チベット探査に行った4人のうち、

 「僕(上原)、倉島、中谷は中国語を選択していました、桜井はドイツ語を選択していました。」

 とお伝えしました。

 僕の作成したチベットのスライドに関しては、吉澤さんが僕のブログを読んでくださっていたようで、行方不明、紛失してしまったこともご存じだったようですが

 「スライドはマウントしてある?」

  と訊かれたので、 

 「マウントしてあります」

 と答えました。

 中島さんが、

 「スライドが紛失したということはない。どこかにある。箱に入っているはずだ」

 とも仰っていました。

 1988年夏チベット探査計画書をお見せした際には、僕が、

 「探検部の審議にかけられて、書き直しもしました」

 と言うと、吉澤さんは、

 「そのようなことはしていなかったと思う、なんか会社みたいだな」

 と仰っていました。

  僕が1988年夏チベット探査計画書に関しては

 「カイラスまでのルートとか突っ込まれました」

 と言うと、

 中島さんが気を利かせてくださり、

 「ルートはどうする?」

 とも言ってくださいました。

 中島さんも吉澤さんも

 「この計画書、奥島先生も見ていると思うよ」

 とも仰っていました。

僕が中島さんに

「ドルマ・ラ峠が中島さんにとっての最高標高点ですか?」

「ドルマ・ラ峠が最高標高点」

と仰っていました。

吉澤さんもドルマ・ラ峠が最高標高点だと仰っていたので、先日のインド・ネパール・チベット料理屋さんでの会合で集まった中島さんも吉澤さんも僕(上原)の3人とも人生における最高標高点はドルマ・ラ峠(5660m)のようです。

僕がチベットのラサで食べた記憶があるモモに関しては、中島さんがチベットに行った際には食べていないと仰っていて、1986年にはモモはラサで食べてないようでしたが、僕らがチベットに行った1988年にはモモを出すようになったのだろうかとも仰っていました。

 「上原がインドブラマプトラ川川下りに行ったのはいつだ?」

 とも尋ねられたので、

「大学4年の時です」

 と答えました。

その他にも、僕らが早稲田大学探検部1年生の時の新歓合宿の際に、当時大学4年生だった中島さんと椎木さんがいらしていたこともお話ししました。

僕が早稲田大学探検部1年生の時の参加した春合宿で中島さん、リーダー、吉澤さん、サブリーダーで南アルプス赤石岳に登る予定だったが、途中で雪渓があり、赤石岳登頂はあきらめたこともお話しし、

中島さんが、

「1年生は山の素人だったから」

と仰り、僕は

「あの合宿が、僕にとっては南アルプスは初めてでした」

と答えました。

すると、中島さんが、

「どのピークに登ったけ?」

と仰っり、僕は

「聖岳に登りました」

と答えました。

中島さんが、

「上原たちの代は部員は何人いたんだ?」

と尋ねたので、僕は

「15人いました」

と答えました。

「上原たちの代は、多彩な人材が揃っているね」

とも中島さんが仰っていたので、

「僕らの代くらいから、部員が増えました。僕らの代は15人で、僕らの下の代は20人くらい部員がいました」

と答えました。

早稲田大学探検部の現役についてのお話も少ししました。

現在の早稲田大学探検部の顧問の先生が元早稲田大学部員の方で初めての生え抜きの顧問の先生だと伺いました。

もう何年か前の現役の1000キロのヒマラヤ隊の話もして、早稲田大学探検部OBの庄司さんと一緒にヒマラヤに行ったことも伺いました。

僕は早稲田大学探検部OBの庄司さんのことは昔、NHKスペシャルの「ザンスカール 氷の回廊」という番組を拝見したことがあり、存じ上げていたので、

中島さんに、

「氷の回廊」

と言いました。

僕のTwitter(現X)が1000キロのヒマラヤ隊のTwitterにフォローされたこともお話ししました。

なにか1000キロのヒマラヤ隊は、Twitterを使ってクラウドファンディングでお金を集めたことも伺いました。

中島さんはSNS X(旧 Twitter)についてはあまり良い印象を持っていないようでした。

現在の早稲田大学探検部が他大の学生も受け入れていることについては、中島さんは反対のようで、中島さんは早稲田大学探検部は早稲田大学純血主義の方が良いと仰っていました。

中島さんはアフリカのナイル川源流の調査をしているというお話もして、早稲田大学探検部OBの小川さんの計画だよねというお話もしました。

僕は現在の早稲田大学探検部については早稲田大学探検部のXとかを見るくらいしか知らないので、何も言えませんでしたが、僕も現在の早稲田大学探検部のXとかを見ていると、何か早稲田大学探検部OBの方の過去の業績をなぞって活動をしているような気がしていたので、

「自分の物語を作るのが早稲田大学探検部ですよね」

というようなことを言いました。

もう僕は統合失調症の精神障害2級の障害者なので、偉そうなことは言えませんが、先日の会合では少し偉そうなことを言ってしまいました。

大学卒業後のお話も少ししました。僕が大学卒業後、テレビ業界に進んだのですが、現場に出ての取材は面白かったのですが、テレビ番組は編集の仕事があり、締め切りがあり、締め切り前は徹夜、徹夜で、大変で、自分でテレビ業界は向いていないと思い、テレビ業界は辞めましたとお話ししました。僕はテレビ業界が本当に向いていなかったので、

「マスコミには行かない方がいいですよ」

とも言いました。

高野秀行さんのお話もしました。高野さんの著作、「イラク水滸伝」を吉澤さんが会合の前に高田馬場の書店で見てきたそうで、「イラク水滸伝」のお話をしました。

吉澤さんが、

「高野さんが「イラク水滸伝」で植村直己冒険賞を受賞したようですね、本を見ましたが、相棒の山田高司さんのイラストもプロの作品だったよ」と仰っていました。

僕はその話を聞いて、

「ティグリス・ユーフラテス川ですね。山田さんは東京農業大学探検部出身の方ですね。実はインドブラマプトラ川の話も東京農業大学探検部に最初に話がいきました。山田さんは四万十川にいらしていたと思います」

と言いました。

すると中島さんがその話を聞いて、

「農大の探検部は長江全流をやろうとしていた。農大探検部はすごかった」

と仰っていました。

高野さんが植村直己冒険賞を受賞した「イラク水滸伝」についてこのようなお話をしました。

帰り際に、

「上原は集まるとしたらどこがいい?」

とも聞かれたので、

「早稲田か高田馬場がいいです」

と答えました。

早稲田大学のホームグラウンドとなるような早稲田か高田馬場なら、早稲田大学探検部の話も気兼ねなく出来ると思ったので、「早稲田か高田馬場がいいです」と答えました。

  本当に早稲田大学探検部の部室にいるような感じのお話が出来て、僕も本当に楽しかったです。

 普段は両親と3人で暮らしていて、チベットの話などするような人もいないので、僕の早稲田大学探検部時代の本当に僕にとって最高の思い出になっているようなチベットのお話を出来て本当に楽しかったです。

 以上、「インド・ネパール・チベット料理屋さんでの会合でお話しした話 その2

 ブログに載せます。


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