銀杏企画三丁目の掲示板2009⑧「障害者の表記について」
フォローワーさん2009人到達記念、2009年に書いていた文章。
Twitterのフォローワーさんが2009人に到達したので、僕が2009年に書いていた文章を公開してみます。
心の病気の人たちを支援する、福祉施設、社会福祉法人、本郷の森、銀杏企画が運営する「銀杏企画三丁目の掲示板」に書き込みをしていました。
ネット掲示板に関する本を読んでいたら、掲示板への書き込みの文は書き込んだ人間に著作権があるとのことでしたので、「銀杏企画三丁目の掲示板」への僕の書き込みをそのままブログに載せます。
掲示板でのハンドルネームは麻雀の役、国士無双でした。
銀杏企画三丁目の掲示板の掲示板はこちら
ハンドルネームの由来はこちら
朝日新聞が2008年に僕が働いていた職場を取材した記事はこちら
書き込みは以下です。
こんにちは、国士無双です。
先日は、仕事帰りで疲れていて、「障害者」か「障がい者」かについて考えて、書き込み出来ませんでした。
今日は、仕事休みなので、ネットで、
「障害者
障がい者
問題」と検索したら、面白いブログがあったので、書き込みます。
楽天 読。書。考。─トントロ日記 安易なオシゴトとしての言葉狩り [ 随想 ]
先日の産経新聞コラム「産経抄」にちょっと面白い記事があった。詳しくはリンク先をご
覧頂きたいが、要するに「障害者」という表記を「障がい者」と改めようという自治体の 動きがあり、産経抄は費用対効果の点からそれに批判的な論調を書いた、ということ
である。
ただ、産経抄も言うように 『この手の話は、うっかりすると「ごもっとも」と思えるし、反 対もしにくい』わけで、仕方なく費用対効果の点からの批判をするにとどめたのかもし
れない。施設の名称を改めなければならないところ、
『看板を付け替える費用で、いく
つ車椅子が買えるか、道路の段差を無くせるか、ということだ』と書くが、あまり説得力
が無いのはその「仕方なさ」ゆえかと思う。
福岡市議会にはすでに「障害者」の表記のある施設の名称を「障がい者」にあらため る条例案が提出されており、可決される見通しだという。産経抄子が福岡市議会に問
い合わせたところ、全国で30余の自治体が「改名組」なんだそうだ。きっともっと広が
るだろうと思われる。簡単だし、反対はされにくいし、いかにも「正しい」オシゴトだし、
きれいだし人権派だし平和だし「優しい」し・・・
寄っていって「優しくしてあげる」人々、そしてそんな自分の振る舞いにお腹一杯の満足を得る人々であるに違いない。「ある種の人々」としかいいようがないが。
障害者という言葉ほど「改名」が多く試みられたものは無いと思う。多く試みられたとい うことは、即ち多く失敗したことを意味するんだけれども。「禁煙なんて簡単だ。俺はもう200回もやったよ。」というマーク・トウェインのジョークに似て。
国士無双です。 先程のブログの続きです。
僕自身の体験からして、当の障害者自身はきっと「日本障害者協会」の意見に同意するんじゃないかと思う。そして、「改名」を推進しようとしているのはきっと健常者じゃないかと思う。その健常者も、全てを指すんじゃなくて、きれいで優しくて平和でおしゃれなものを偏愛する性向を持った人々、「弱者」と見れば菩薩のような微笑とともにすり寄っていって「優しくしてあげる」人々、そしてそんな自分の振る舞いにお腹一杯の満足を得る人々であるに違いない。「ある種の人々」としかいいようがないが。
障害者という言葉ほど「改名」が多く試みられたものは無いと思う。多く試みられたとい うことは、即ち多く失敗したことを意味するんだけれども。「禁煙なんて簡単だ。俺はもう200回もやったよ。」というマーク・トウェインのジョークに似て。
一時期、ディスエーブルド(disabled)、と言い換えられた。これは「ある種の人々」に 非常にありがちな外国語の直輸入だ。QOLとか、リプロダクティブライトとか、ジェンダ
ーとかね。こうやって直輸入言葉を提示しておいて、その意味を問われると「それは非常に多義的で、とても一口に説明できるような問題ではないが・・・」などという前置き
を必ずするんだよ。本人達がろくにものを考えていない証拠。なんとなくかっこいい、
優しい、平和だ、つまり「ある種の人々」の心の琴線に触れるというに過ぎないのであって、思想も何もあったもんじゃない。ただの「気分」だ。だから直輸入言葉には気をつけなければならない。
ディスエーブルドが本場アメリカで「むしろ差別的だ」と批判されてから(考えるまでも無く当たり前だぞ馬鹿)、新たに輸入された言葉が「ハンディキャップト」だ。この言葉
は今でも生きている。日本語と混ぜて「お体にハンディをお持ちの方」などといわれる。
どうですかね、この言葉。むしろいやらしいと思うんですが。極めて他人行儀で、距離
感があって、つまりこの社会をともに生きるという覚悟のかけらもない人の発する言葉
だと思いますよ。とりあえずトラブルが無きゃいいや、面倒くさいでしょ係わり合いになるのが、と言っているように聞こえる、とは言いすぎですが。でもあながち外れてなかったりして。
更に進んで、チャレンジド(チャレンジングだったかなと思うがどうでもいい)という表現 もあります。「障害がありながら社会で自立して生きてゆくという『挑戦』をしている人」
という意味なんでしょう。もうね、ここまで来るとその言葉が何をさしているのかも明ら
かでなくなってきます。だんだん対象の個性が薄まってきてますね。人権だの平等だのと言っているうちに気がついたら没個性を指向してしまっていた、というのは「ある種の人々」によく見られる傾向です。
ジェンダーフリーがいい例ですね。性差別をなくそうとするあまり、区々の性に特有の個性までなきものにしてしまう。最近になって多くのジェンダーフリー論者が「男女の個性まで無くそうというのではない」などと言い訳をはじめましたが、彼らが言ってきたこととやってきたことの全ては記録が残っている。民族紛争をなくすために民族そのものをなくしてしまえ、といってるに等しい罪を犯したんですからね、覚悟しなさい。
このチャレンジドという言葉を日本に輸入した人のことを、以前テレビで見ました。大 阪?で障害者のためのパソコン教室を運営している人だったと記憶しています。その方の業績は100%尊敬しますが、ちょっとした違和感も・・・教室を立ち上げるとき「障害者の自立のために」とうたって企業に寄付を呼びかけといて、生徒には「障害者だからって月謝がただになるわけではない」と言うのはどうかな、と。ま、プロジェクトXの例もあるからあんまりテレビを信用してはいけないけれど。
で、今回は「障がい者」ですよ。外国語直輸入の技が通用しなくなったとの反省があったのなら一応評価してやる。
でも、日本障害者協会も言うように、単なる言葉狩りは実は本質的な話ではないという反省もしなきゃならない。本質的な点について考え、ときに自己を痛烈に批判しなければならないのは誰にとっても辛いことだ。でも障害者問題(ひいては差別一般の問
題)自体を丸ごと無視するわけにはいかない。じゃあどうするか、となったときに非常
に安易に「言葉狩り」をしようとするんじゃないか。
「いいじゃないか、間違ったことではないんだし。言葉は重要ですよ。」なんだけど、困 難で辛い作業になるかもしれない本質論を避け、同時に一応仕事はしてますよという
ポーズをとるために(また同時に私は人権派で弱者に優しくて善人で内面美人です、
国士無双です。 これで、最後です。 本質的な話とは何か。 僕は次の2点を挙げたい。
1.ある種の人々の「弱者好き」
2.単なる気分と権利の混同
でも長くなるのでまたいずれ。
以上が「障害者」か「障がい者」かについての表記の問題ですが、さて、このブログを 読んで、私を含めた当事者はどう感じるでしょう?
私は、「僕」の考えていることは、当事者で無い人の主張だと思います。
この人の考えによれば、「民族問題」に「民族紛争」が付き物のように、「障がい者」問題にも「障がい者」と「健常者」の紛争を煽るような気がしますが・・・
私は「自立支援法」とは闘わなくてはいけないと思いますが、別に「障がい者」と「健常者」で争う必要はないと思ってます。
ただ、健常者の中にも「僕」のような人がいるので、このような健常者には、きちんと
「障がい者」に関する教育をしていかなくてはいけないと思います。
障がい者の「QOL(クオリティ・オブ・ライフ)」(生活の質)の向上のどこが没個性なので しょうか?
個性を尊重するより、現実的に「障がい」を持っている当事者が、生き生きした生活を送れる方がよっぽど良いのはないでしょうか?
言葉の問題は難しいですが、「僕」のような人が世の中の圧倒的多数なら、「障がいを持った当事者はどんどん、肩身の狭い思いをすることになると思います。
私は「障がい」を持った当事者ですが、「障害者」という表記にはある種の差別のようなものを感じます。
「僕」のような人間がきちんと「障がい」に理解を示してくれなくては、困ったものです。 脈絡が無くなってしまいましたが、投稿します。
以上が、僕の銀杏企画三丁目の掲示板への書き込みです。
書き込み日は2009年2月10日でした。
この書き込みの中でも、「障害者」か「障がい者」かの表記について書き込んでいます。
書き込みの中で取り上げた、ブログを書いている人は、「障がい者」と表記する人々がある種の弱者好きな人だと書いています。
「障がい者」のような弱者に菩薩様のような心優し微笑みを与えて、お腹が一杯になる人々が、「障がい者」と表記するのではないかと言っています。
僕は、「障がい者」の当事者なので、僕に、菩薩様のような微笑みを下されば正直、うれしいです。
例え、その微笑みによって、微笑んだ人がお腹いっぱいになったとしても、別に構いません。
日本では古くから「判官びいき」という言葉があるように、「弱者好き」はもともとある文化です。
アメリカから輸入された文化だけでなく、日本にも古くから「判官びいき」などの弱者好きの文化はあります。
この、書き込みの中でブログを書いている「僕」という人物が、健常者なのか障がい者なのか分かりませんが、健常者からの一方的な意見で、障がい者のことをかわいそうな人、弱い人と規定するのは健常者の自分の器量の無さだと思います。
以上、「障害者の表記について」
くだらない内容ですが、ブログに載せます。
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