「桜井誠人さんの結婚披露宴スピーチ」
1999年のMacのハードディスクをバックアップしたCD-RをMac Driveを使って見ていたら、1997年の友人の結婚披露宴の際の僕のスピーチの文章がありました。
ブログに掲載するものではないかもしれませんが、一人暮らし(神田川生活)をしていた頃が懐かしいのでブログに載せてみます。
早稲田大学探検部33期で同期の桜井誠人の結婚披露宴でのスピーチは以下のようなものでした。
私、早稲田大学探検部で桜井誠人と同期でありました上原和明です。私と桜井誠人はかれこれ十年以上のつきあいでして話したいことは山ほどあるのですが、時間の制約も有りますので今日は探検部時代の桜井のエピソードを中心にお話しをしたいと思います。私が桜井と初めて出会いましたのは、大学一年の六月の春合宿でありました。桜人は入部したのが一ヵ月遅かったのでこのときの合宿が探検部初めての合宿でありました。桜井を初めて見たときの印象はとにかく背が高く、骨格もがっちりしていて、体全体から何かをしてやろうというエネルギーがむんむんと出ておりまして、これはものすごい新人が入部してきたものだと思い同期である私も探検部に彼を受け入れる度量の大きさがあるものかと心配したものでした。合宿は南アルプスの縦走だったのですが、山は不慣れなはずの桜井はまったく苦しそうな表情も見せず、登山の途中では綿のズボンを膝のあたりで切る余裕も見せて半ズボンだった少年時代に帰ったように楽しそうに雪の残る南アルプスを征服していきました。次に桜井といっしょに参加した合宿は大学二年の春合宿、高知県の四万十川川下りでした。このときは桜井の高校時代の後輩もメンバーの一人だったのですが、この男が私の持ってきましたサントリーオールドを割ってしまいました。私が激怒していると彼はわざわざ街まで行って代わりに紙パックの日本酒を買ってきまして私に渡しまして、「上ドンこれでゆるしてあげなよ」と言われました。私は怒っていた自分の未熟さを恥じるとともに桜井の本性といいますか、非常に暖かみの有る優しい男と出会ったものだと内心非常にうれしく思いました。この四万十川川下りで意気投合しました桜井と私は本日出席しております倉島孝行と中谷敏夫を誘って夏のチベット遠征を計画いたしました。都会育ちの四人組みは東京にいるときは口八丁手八丁で探検部の先輩を説得いたしましていろいろと計画を立てられるのですが、現場に行きますと頭の中で抱いていた構想と中国、チベットというフィールドはかなりちがうものでありまして、挫折挫折の繰り返しでありました。カイラスと言いますチベット西部にそびえる聖なる山までの厳しい道のりを四人で助けあいながら進んで行ったのですがなにせチベットは標高5000メートル近い高地でありまして、皆、自分のことで精一杯になります。必然的に四人の人間関係は悪くなりがちになるのですが、そんなときでも桜井は体調を崩さないよう自分を厳しく律して、苦しんでいれば可能な限り助けてくれますし、だまり込んでいれば話しかけてくれます。聞いてみれば桜井のお父さんは高名な医師とのことでありまして、例えは悪いかもしれませんが、門前の小僧手習覚えずと言いますか、親というのはこういうところに出てくるものだと感心いたしました。ここまでお話ししてきたことが学生時代に桜井と私たちとでつくりました探検小説の楽しい一部であります。先日、本を読んでいましたら、ある詩人が、「結婚とは小説の終わりであり、歴史の始まりである」と言っております。小説というのは人間のエゴを最大限に抽出してそれをぶつけ合いドラマを展開して行くものですが、歴史というものは人間の理性を最高の価値において相手を最大限許容しながらみんなで幸福の物語をつくって行くものです。今日この日から桜井誠人とYさんは歴史の中に飛び込んでいくわけでありますが肩肘張ることなく自然な広い心で人間の幸福の物語を作り上げて行ってください。
以上が、早稲田大学探検部の友人、桜井誠人の結婚披露で僕がスピーチした内容です。
僕は吃音ですが、友人の結婚披露宴では何とかスピーチをさせていただきました。
今、18年前の昔の僕のスピーチ原稿を読み返してみると、なかなか、いいことを書いているなと思いました。
これから、知り合いの結婚披露宴とかに出席する予定のある方には少しは参考になればいいなあと思います。
以上、「桜井誠人の結婚披露宴スピーチ」
ブログに載せます。
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