「司馬遼太郎の、街道をゆく 本郷界隈 を読んで」
先日、文京区の図書館に行ってみたら、司馬遼太郎の「街道をゆく 本郷界隈」という本があったので読んでみました。
活字も大きめの本で読みやすく、文章も司馬遼太郎の文章なので、一気に読めました。
司馬遼太郎が、東京大学のある本郷界隈を歩いて、ルポルタージュ形式で、文章を書いています。
司馬遼太郎らしく、資料集めもきちんとしていて、なおかつ、資料もきちんと読んでいて、本の中で、資料からの引用、借用も多くある本です。
「街道をゆく 本郷界隈」では、本郷の地理的なことについても書かれています。
東京大学のある本郷台地が、昔は少し行くと海に出くわすような場所で、現在の上野公園にある不忍池も昔は海だったとありました。
上野公園も上野の山を、環境保全のために公園にしたとのことです。
この本の中には本郷三丁目の交差点に現在もある、「かねやす」というお店のことについても書かれています。
この本の中には本郷三丁目の交差点に現在もある、「かねやす」というお店のことについても書かれています。
江戸時代の享保年間に口中医師(歯科医師)の兼康友悦(かねやすゆうえつ)という人が、本郷三丁目の角に店を開いて、「乳香散」という、粉の歯磨き粉を売って、江戸じゅうに知られるようになったそうです。
神田や日本橋界隈で、
「本郷にゆくのなら”かねやす”で乳香散を買ってきておくれよ」
という会話が交わされていたに違いない、とあります。
「本郷もかねやすまでは江戸の内」
司馬遼太郎は、実際に現在も残っている「かねやす」に赴いて、お店に入っています。
昔は歯磨き粉が売られていたが、今では娘さん好みの持ち物や愛玩用品、化粧品のたぐいが並べられていて、司馬遼太郎は空豆ほどの小さな硯を買ったそうです。
僕も昔、本郷界隈に通っていたことがあるので、「かねやす」のことは知っています。
本の中では、東京大学のことが多く書かれています。
加賀藩の屋敷だった土地に西洋の学問を学び、日本に広める東京大学が出来て、医学部、理学部、法学部、文学部などの大学が出来たのとのことです。
昔は医科大学、理科大学、法科大学、文科大学などと呼ばれていたそうです。
作家、司馬遼太郎なので、東京大学出身の文豪、夏目漱石、森鴎外のことについても多く書かれていました。
夏目漱石の、「三四郎」森鴎外の「雁」を持ち出して、東京大学生の恋愛事情のことについても書いています。
「三四郎」では東大構内にある三四郎池が出てきて、「雁」では、東京大学から不忍池に出る無縁坂が出てきます。
僕は「三四郎」も「雁」も読んだことはありませんが、東京大学生も男なので、女性を女性と意識して恋愛感情を抱いていたようなことが分かりました。
司馬遼太郎はきちんと、三四郎池にも無縁坂にも実際に行って、写真も載せて、文章を書いています。
なおかつ、「三四郎」や「雁」からの引用もあるので、とても分かり易かったです。
ルポルタージュのお手本にもなるような文章で、実際に現場に行き、写真を撮って、現場の雰囲気を伝え、その現場を舞台にしている小説からの引用もきちんとしています。
司馬遼太郎が、資料の世界だけではなく、実際に、東京大学のある本郷界隈を歩いて文章を書いているので、文章も読み易いのだと思いました。
その他にも、水戸学のことなども書かれています。
現在の東京大学農学部のある場所は、江戸時代は水戸家の中屋敷で、水戸黄門で有名な徳川光圀が日本史を編む作業をする修史の局を置いた地だと書かれています。
現在の東京大学のある、本郷界隈が、日本の中でも、学問の先進地だったことが分かりました。
現在の東京大学農学部のある場所は、江戸時代は水戸家の中屋敷で、水戸黄門で有名な徳川光圀が日本史を編む作業をする修史の局を置いた地だと書かれています。
「大日本史」を編む修史の局、開局の地が本郷界隈の水戸家の中屋敷のある場所だったとのことです。
その後、現在の後楽園になっている、水戸家の上屋敷に場所を移し、局を「彰考館」と命名し、「大日本史」を編んだとのことです。
光圀はテレビ番組でおなじみの、「水戸黄門漫遊記」で有名ですが、「水戸黄門漫遊記」とは創話で、講釈場で語られていたとのことです。
「水戸黄門」に出てくる助さんとは、光圀の命によって四方の資料を探し歩いたひとりに、佐々十竹(さつきじつちく)(1640~98)という人のことで、のちに彰考館総裁になる人で、通称介三郎といったそうです。この方が、「水戸黄門漫遊記」では助さんとして造形されたとのことです。
同じく「水戸黄門」に出てくる格さんとは、助さんより年下の安積澹泊(あさかたんぱく)(1656~1738)という人のことで、この方も儒者として学才文才を兼ねのちに彰考館総裁になっていて、通称覚兵衛といったそうです。この方が、「水戸黄門漫遊記」では格さんになっているそうです。
この水戸家による「大日本史」の編む作業は、光圀が本郷界隈の水戸家の中屋敷で業を興してから250年後の明治39年(1906)に終了したとのことで、江戸時代の一藩の作業としては途方もない作業だったと書かれています。
現在の東京大学のある、本郷界隈が、日本の中でも、学問の先進地だったことが分かりました。
本郷界隈を言い表す言葉として、「配電盤」という言葉を使っていますが、東京大学のある本郷界隈のことを言い表す言葉としてはとても分かり易い言葉だと思いました。
日本の首都、東京で西洋の学問を受け止め、東京から日本各地に、西洋の学問を広めるという意味で司馬遼太郎は、「配電盤」という言葉を使っているのだと思います。
その配電盤の役割を担っていた東京の中でも、東京大学のあった本郷界隈こそが、「配電盤」だったと書いています。
本郷界隈を言い表す言葉としてこれほど分かり易い言葉もないと思います。
本郷界隈に何かあったら、配電盤が故障して、日本全体にも何らかの影響が出てしまうのかもしれないと思いました。
先日、地元、文京区立図書館で司馬遼太郎の「街道をゆく 本郷界隈」という本を借りて読んでみたので、本を読んでの感想を書いてみました。
以上、「司馬遼太郎の、街道をゆく 本郷界隈 を読んで」
ブログに載せます。
0 件のコメント:
コメントを投稿