銀杏企画三丁目の掲示板2009⑯「重き荷を負いて」「シーシュポスの神話」
フォローワーさん2009人到達記念、2009年に書いていた文章。
Twitterのフォローワーさんが2009人に到達したので、僕が2009年に書いていた文章を公開してみます。
心の病気の人たちを支援する、福祉施設、社会福祉法人、本郷の森、銀杏企画が運営する「銀杏企画三丁目の掲示板」に書き込みをしていました。
ネット掲示板に関する本を読んでいたら、掲示板への書き込みの文は書き込んだ人間に著作権があるとのことでしたので、「銀杏企画三丁目の掲示板」への僕の書き込みをそのままブログに載せます。
掲示板でのハンドルネームは麻雀の役、国士無双でした。
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朝日新聞が2008年に僕が働いていた職場を取材した記事はこちら
掲示板への書き込みは以下です。
今晩は、国士無双です。 中島みゆきの「重き荷を負いて」という曲に以下のような歌詞があります。
♪掌の傷口を握るのが精一杯
愛をひろう余裕もなく
泥をひろう余裕もなく
ひび割れた唇は噛みしめるのが精一杯
過去を語る余裕もなく
明日を語る余裕もなく
がんばってから死にたいな
がんばってから死にたいな♪
「ララバイシンガー」というアルバムに収録されています。
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度々、国士無双です。
私の学生時代好きだった作家にフランスのノーベル賞受賞作家、アルベール=カミュがいます。 カミュの書いた「シーシュポスの神話」の中に次のような一節があります。
天のない空間と深さのない時間とによって測られるこの長い努力のはてに、ついに目的は達せられる。するとシーシュポスは、岩がたちまちのうちに、はるか下のほうの世界へところがり落ちてゆくのをじっと見つめる。その下のほうの世界から、ふたたび岩を頂上まで押し上げてこなければならぬのだ。かれはふたたび平原へと降りてゆく。
(中略)この男が、重い、しかし乱れぬ足どりで、いつ終りになるかかれ自身ではすこしも知らぬ責苦のほうへとふたたび降りてゆくのを、ぼくは眼前に想い描く。いわばちょっと息をついているこの時間、かれの不幸と同じく、確実に繰返し舞い戻ってくるこの
時間、(中略)かれは自分の運命よりたち勝っている。かれは、かれを苦しめるあの岩
よりも強いのだ。
(カミュ『シーシュポスの神話』清水徹訳 新潮文庫 P170 1987 年3月32刷 2006年9月改版 pp.212-213
国士無双です。 ある批評家は次のように批評しています。
希望の可能性を十分に吟味せずにペシミズムの殻に閉じこもることが不健康であるのと同じように、絶望しきっていないオプティミズムには、軽薄臭が漂う。
オプティミズムとは、まったくもって「意志」の問題なのである。死や病を免れ得ない人間にとって、悲観主義こそ「自然」で「生来」なものなのであって、オプティミズムとはそれを超えていく意志のことなのである。「これから直面する難題を創造的に解決する」
ためには、我々一人ひとりがオプティミズムという「意志」を持つことがどうしても必要不可欠なのだ、ということを、僕はいまも相変わらず言い続けたいのである。
逆説的に言えば、あらゆる明るい見通しが凋落した現在こそ、真のオプティミズムの 時代であると言えるかもしれません。
とのことです。 私もどちらかといえば、ペシミスティックですが、何とか、オプティミズムで生きて行きたいものです。
以上が僕の銀杏企画三丁目の掲示板への書き込みです。
書き込み日は2009年11月6日でした。
当時、通勤の帰りの電車の中で、中島みゆきの音楽(アルバム ララバイシンガー)をipodで聴いていて、アルバムの中の「重き荷を負いて」という曲がとても良かったので、歌詞の中から一節を引用して、掲示板に書き込んでいます。
僕は学生時代に山登りをしていたので、中島みゆきの歌詞には何か感じ入る部分があり良かったです。
何の報酬もなく、山をひたすら登る。登山の過程は辛く、厳しい道のりが多かったです。
難しい山に挑戦すれば挑戦するほど、その過程は険しく、苦しいものでした。
登山をしているときは、世俗的なことから離れて、ひたすら頂を目指します。
登山中は五感が研ぎ澄まされます。
一歩間違えば、死に至るわけですから、細心の注意を払って、一歩一歩進んでいきます。
中島みゆきの歌詞にあるように、
額からの汗をぬぐう暇もありません。
仲間からの慈愛を求める暇もありません。
山道の泥を拾う暇もありません。
ひたすら自然と対峙し、頂を目指します。
パーティーで山に登っていれば、パーティー全体のスピードに合わせなくてはなりません。
個人行なら、自分のペースで山を登れますが、個人行ゆえの危険もつきまといます。
そういう厳しい登山を経験していたので、中島みゆきの歌詞は耳に残りました。
また、僕が学生時代に読んでいたアルベール・カミュの「シーシュポスの神話」の一節を文庫本から引用して、書き込んでいます。
カミュの著作「シーシュポスの神話」に出てくる一節は、僕の登山体験と似ていたので、引用しています。
天のない空間と深さのない時間とによって測られるこの長い努力のはてに、ついに目的は達せられる。するとシーシュポスは、岩がたちまちのうちに、はるか下のほうの世界へところがり落ちてゆくのをじっと見つめる。その下のほうの世界から、ふたたび岩を頂上まで押し上げてこなければならぬのだ。かれはふたたび平原へと降りてゆく。
という一節は、僕が学生時代に早稲田大学探検部で経験した歩荷を想起させます。
僕は、伊豆七島の一つ神津島で歩荷をやりましたが、神津島の海岸の砂浜で、砂や石、岩をザックにぎゅうぎゅうに詰め込んで、20キロくらいの重さにします。
重さはきちんと、体重計で計ります。
神津島の砂浜から、神津島の最高峰、天上山まで、重さ20キロ以上のザックを背負って登山をします。
その過程は、カミュがシーシュポスの神話に書いている文章のような感じで、意味のない重い岩を天上山の山頂まで押し上げるような感じでした。
何の報酬もなく神津島の砂、石、岩をザックに詰めて天上山の山頂まで押し上げる。
僕の登山体験とカミュの文章が似ていたので、カミュの崇高な文学作品である「シーシュポスの神話」の一節を引用して、銀杏企画三丁目の掲示板に書き込んでいました。
以上、「重き荷を背負いて、シーシュポスの神話」
くだらない内容ですが、ブログに載せます。
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