「紫藤クリニック カウンセリング ブラマプトラ川川下り」
プロジェクトで下る地域は中国とインドが国境の問題で揉めているところで、なかなか川下りの許可が下りず、かなりの激流部があり、危険ということで、川自体もチベットのカイラス山の麓に源流部を持ち、チベット東部で大屈曲し、インド東部を経て、ベンガル湾に注ぐという川で、世界最深の峡谷部を持ち、謎の川とも呼ばれ、今回が世界初のプロジェクトでした。
準備期間が短く、日本ヒマラヤ協会がどんなところかもわからず、おそるおそる高田馬場の日本ヒマラヤ協会の事務所に行ってみると、ヒマラヤの8000メートル級の山に数多くの登山隊を派遣し、過去、何人も遭難死しているとのことで、今回、同行する日本側隊長の八木原さんという人はエベレスト登頂経験を持つ、当時44才の方でした。副隊長の八嶋さんという人は山が大好きな40才の方でした。
お二人とも川下りの経験はないということで、私も自信がなく不安になりました。
学生側は早稲田の探検部から私と同期の中谷という一緒にチベットやユーコンに行った人間の2人で、もう一人は、関口君という私より一つ年下のフロンティアボートクラブという川下り専門のサークルの人間で、計3人でした。
かなりの激流ということを聞いていたので、学生側で、四国の吉野川で転覆の練習をしたりしましたが、出発までどんな川か不安でした。
12月20日に日本を出発し、デリーに到着し、高級ホテルに泊まりました。私と同室になったのは八嶋さんでした。
その後、ガンジス川の上流で川に落ちる練習をしてから、再び、デリーに戻りました。
インド側の隊員はほとんどITBP(インド・チベットボーダーポリス)の軍人でした。
1月4日からヘリで川下りの出発点まで行き、川下りが開始しました。
乾期で岸から見ると、あまりわからないのですが、かなりの激流が多く、川を巻くことが多くあり、10人乗りのボートを岩場の多い岸で運ばなければならず、肉体的に疲れました。
世界初のプロジェクトで、今までの探検部の活動とは違い本格的で緊張感があり、又、フジテレビのムツゴロウさんの番組チームが取材のために同行し、その人たちの相手もしなければならず、インド側隊員とのコミュニケーションも不足しがちで、亡くなった仲間のことも忘れられず、プロジェクトに集中できず、精神的にもかなり疲れ果てました。
結局、途中で体調を崩し、抗生物質を飲んで、テントでウーウー唸りながら寝る羽目になりました。
ムツゴロウさんにも手を握られ、
「頑張れ」
と励まされました。
このとき、山が崩れる夢を見て、非常に恐ろしかったのが印象に残っています。
(ちょうど、梅里雪山の大量遭難事故の時でした)
出発の前日、私のアパートの斜め前の家の前で、おばあちゃんが、うつぶせになって倒れていて、救急車を呼んだのが印象に残っています。
1991年の1月下旬から大学の試験があったので、私は途中で隊と別れ、1人、1月中旬にインドから帰国しましたが、学費値上げ闘争で試験は中止になっていて、各科目レポートを提出することになっていました。
この文書にはインドブラマプトラ川川下りのことが書かれています。
インドブラマプトラ川川下りは取材されて記事になるほどのラフティングエクスペディションだったようですが、僕が31歳の頃に書いていた文書を読んでみると、そんなにすごい活動だったのかなと思わせるようなことが書かれています。
僕の文書の書き方が、稚拙なのだと思いますが、僕の書いた文書を読んでみると、インドブラマプトラ川川下りの緊張感が伝わってきません。
ただ、インドブラマプトラ川川下りで体調を崩して、テントでウーウー唸りながら寝込んでいたときに、山が崩れる夢を見たことが書かれています。
関係があるのか関係がないのか僕にも分かりませんが、時間的には1991年1月4日から川下りが始まったと書かれてあります。
ブログに載せます。
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