「高校1年生の時に書いていた文章 生命とは何か」
今日、部屋の引き出しを開けたら、僕が小石川高校1年生の時に書いていた文章がありました。
文章のタイトルは、「生命とは何か」というタイトルでした。
僕も何でこの文章を書いたのか覚えていませんが、「生命」のことについて書いている文章なので、おそらく生物の授業で書いた文章だと思います。
参考文献は、「生命の起源」NHKブックスでした。
僕が高校1年生の時に書いていた文章は以下のような文章でした。
生命というのが何かといっても自分にはわからない。しかし、自分にとっては、生命はどういうものかは考えられるので、生命について考えてみることにする。
生命というものについて考える時、3つの角度から見ることができると思う。一つは宇宙全体から生命というものを考えることである。又、もう一つは生物全体から生命というものを考えることである。そして最後の一つは人間という現実的な目から生命というものを考えることである。
宇宙的な雄大なスケールで生命を考えると二つの観念が生まれてくる。一つは生命がどれほど神秘的で素晴らしいというかということである。岩石などの荒涼とした無機物ばかりの世界から、なぜか有機物ができて、そこからバクテリアというような今ではあまり気にもされないような生命が生まれたのである。これは、この宇宙においてまさに奇跡だったのではないかと思う。その生命は海で生まれたとか、宇宙で胎生したとかいろいろ言われている。科学的に言えば、タンパク質がなんだかんだとかさっぱり分からないが、私から言わせてもらえば、これは一つの運命だったと考えている。(あまりにも非科学的だが)
もう一つの観念というのは、生命がなんともむなしく、別に大したものでもないということである。生命の誕生の舞台として、今もすばらしい星と言われている地球だって数億年後には存在しないのである。また生命のために大きく貢献してきた太陽でさえも時の流れには勝てないのである。こんなことを考えたとき生命というものは何の意味もないものに思えてくる。
生物全体で生命を考えると人間は果たして正しいことをしているのかと疑問を抱いてしまう。生物が何万年もかけて作ってきたすばらしい自然や生物同士の関係を、別に罪の意識もなく破壊していくのである。酸素を合成しているたくさんの木々をどんどん切り倒している私たち、容姿が悪いものはその理由で殺してしまう私たち、それらのために多くの生物たち(生命)はなくなっていく。一つの流れとして生命をここまですばらしいものしてきてくれた進化の流れさえも、人間は自分たちの手で変えようとしている。世に神がいたなら天の上でなげているに違いない。しかし、正直なところ、自分も偉そうなことを言っているわりには実は自然破壊に参加している一人である。紙を無駄に使い、企業の営利のために太らされたブタの肉を食べているのである。大きな矛盾が出てきてしまうが生まれたときからこの生活に慣らされてしまっている。自分には何の活動もできず、一人で考えるのみである。とにかく、少しでも自然と共存していくために、もっともっと自然を大切にしていこう。それが生命がすばらしいものであると考える者の行うべきことであると思う。
人間的すなわち現代の社会の目から生命を考えた場合、生命とは人間の生命に限定されていると思う。生命は尊いものであると考えられている。人の死に対する異常なほどの恐怖がそのもっとも大きな原因となって、生命は尊いと考えられていると思う。しかし、その生命の尊さについてもいろいろな問題がある。例えば尊厳死などの問題である。又、人工授精や遺伝子組み換えの問題も大きなことである。しかし、それらのことはほとんど世界の豊かな人間の問題だ。本当に生命が尊いものと考えるならば、そんなことよりも何も食べられず死んでいく人や戦争の犠牲になっていく人たちの生命についてもっと考えていくべきだ。人間の生命は平等なはずである。
最後になるが生命について科学的に解明するよりも人は神を信じて生きていく方が、もしかしたら幸せなのかもしれないと思った。
以上のような文章を僕は高校1年生の時に書いていたようです。
高校生らしい生意気な知ったかぶりのような文章を書いていますが、生物の先生からはAをもらったようです。
僕も高校生の頃は生意気な知ったかぶりのような文章を書いていたことが分かったので、ブログに載せておきます。
以上、「高校1年生の時に書いていた文章 生命とは何か」
ブログに載せます。
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