2026年6月5日金曜日

「広島原爆投下を悼む」

 「広島原爆投下を悼む」

 ~小石川高校修学旅行の記憶と、被爆者の声に耳を傾けて~

 両親の介護で忙しくて落ち着いてブログを書けません。

今日もAIを利用してブログを書きます。

Xの人工知能Grok

「ブロガーの上原和明さんの文体で広島原爆投下を悼むブログを、都立小石川高校の修学旅行で広島原爆資料館を見学したことを絡めて、

『ミウラヒロシマ』

Hiroshima Collection』広島平和記念資料館蔵

『爆心を見つめて』広島の88歳医師、隠れた真相を追う

『被爆者 続』70年目の出会い シリーズ・自然いのちひと – 16

『被爆医師のヒロシマ』21世紀を生きる君たちに

を参考文献にして書いてください」と質問したところ、以下のような文章が返ってきました。

両親の介護で毎日慌ただしく過ごしていますが、今日は朝からずっと心がざわついていました。カレンダーを見れば、広島に原爆が投下されてからもうすぐ81年の歳月が流れようとしています。194586日午前815分。あの朝、広島に何が起こったのか。僕が都立小石川高校に通っていた頃、修学旅行で広島平和記念資料館を訪れた日のことを、改めて胸に刻み直しています。

僕は小石川高校時代、バスケ部でした。クラスメイトたちと西日本方面への修学旅行の途中、広島に立ち寄りました。平和記念公園を歩き、原爆ドームを仰ぎ見た後、資料館の入口に足を踏み入れた瞬間、空気が一変したのを今でも鮮明に覚えています。薄暗い展示室に並ぶのは、焼け焦げた遺品の数々。溶けたガラス瓶、黒焦げになった三輪車、血痕のついた制服、そして何より、爆心地近くのコンクリートに焼き付いた「人間の影」。クラスメイトの誰一人として声を発せず、ただただ立ち尽くしていました。高校生の僕には、まだ「戦争」や「原爆」の重みが十分に理解できていなかったかもしれません。それでも、展示品の一つ一つが「これは本当に起きたことだ」と静かに、しかし力強く訴えかけてくるのを感じました。

その時の記憶が、最近手にした本たちと重なり合って、胸を締め付けます。

まず、三浦憲治さんの写真集『ミウラヒロシマ』。三浦さんは被爆二世の写真家で、2014年の86日から12年間にわたり、広島の「今」を撮り続けました。公園でダンスを練習する女性たち、にぎやかな街を歩く修学旅行の生徒たち、ラーメン屋の笑顔のおかみさん、86日に元安川で祈りを捧げる人々。いきいきと、ときにポップに写された日常の風景です。「それぞれの人にそれぞれのヒロシマがある」という言葉が心に残ります。被爆80年を前に刊行されたこの写真集は、惨劇の記憶を風化させないために、むしろ「今を生きる広島」の多様性を写し出すことで、ヒロシマを考えるきっかけを与えてくれます。僕が高校生の時に見た資料館の暗い展示室と、この明るい写真群が、まるで表と裏のように重なります。平和記念資料館の『Hiroshima Collection』に収められた無数の被爆資料や遺品が、静かに語りかけてくるのと同じように。

次に、鎌田七男医師の『爆心を見つめて 広島の88歳医師、隠れた真相を追う』。鎌田さんは広島大学名誉教授で、放射線が人体に及ぼす影響、特に白血病の染色体異常の研究で世界的に知られる方です。原爆投下時、爆心地からわずか500メートル圏内で奇跡的に生き延びた経験を持ちながら、戦後80年近くにわたり、放射線の長期影響を追い続けてこられました。88歳になった今も「隠れた真相」を探求する姿勢に、胸を打たれます。被爆直後の地獄絵図を医師として目の当たりにし、原因不明の症状に苦しむ人々を前に、無力感と使命感を抱いたこと。放射線被曝の影響が、即時的な火傷や急性症状だけでなく、 decades にわたって現れる白血病やがんのリスクとして、科学的に解明されてきた過程。資料館で見た「影」や遺品の背後には、こうした科学的な「真相」もあったのだと、改めて気づかされます。

会田法行さんの写真絵本『被爆者 続 70年目の出会い シリーズ・自然いのちひと – 16』も、深く心に刻まれました。前作『被爆者 60年目のことば』から10年後、2015年の戦後70年目に刊行された続編です。報道カメラマンの会田さんが、被爆者の方々と再び向き合い、70年という長い年月を生き抜いてきた人々の言葉と姿を、写真と文章で丁寧に記録しています。13歳で被爆し、以後、原爆ドームの絵を命がけで描き続けてきた方。入市被爆で家族を失いながらも、静かに語り継ぐ方々。70年目の出会いを通じて浮かび上がるのは、単なる「被害者」としての姿ではなく、生きることを選び、証言を続け、命の尊さを次の世代に託そうとする人間の強さです。シリーズタイトル「自然 いのち ひと」が示すように、原爆という非人間的な破壊のただ中で、それでも「いのち」を守り抜こうとした人々の物語が、静かに、しかし力強く響いてきます。

そして、肥田舜太郎医師の『被爆医師のヒロシマ 21世紀を生きる君たちに』。肥田さんは194586日、広島市郊外の戸坂村で陸軍病院の軍医として訪問診療中に被爆しました。直後から、未知の症状に苦しむ被爆者たちの救援・治療に奔走します。「ピカにはあっとらん」と、人々が口にした言葉が忘れられません。原爆の閃光(ピカ)を浴び、原因不明の高熱や下痢、脱毛、紫斑で次々と倒れていく人々。軍医として「敵味方なく」治療にあたった経験から、戦後一貫して被爆者の診療と、原爆の非人道性を訴え続けてこられました。この本は、21世紀を生きる若い世代に向けたメッセージとして書かれています。軍医だった若き日の戸惑いと使命感、被爆直後の地獄のような光景、そして「二度と繰り返してはならない」という強い意志。僕が小石川高校の修学旅行で見た資料館の展示が、まさにこの本に描かれた現実そのものだったのだと、胸に染み入ります。

これらの本と、僕自身の高校生時代の記憶を重ね合わせながら、改めて思うのです。あの194586日の朝、広島に何が起きたのか。14万人近くの命が、その日とその後の数ヶ月で奪われました。生き残った被爆者の方々も、生涯にわたる身体的・精神的な苦痛、差別や偏見、そして「語り継ぐ」という重い使命を背負ってこられました。資料館で見た焼け焦げた遺品の一つ一つが、誰かの日常だった。誰かの家族だった。誰かの未来だった。

三浦さんの写真集が示すように、広島は今も生き続けています。にぎやかな街並み、笑顔の人々、祈りを捧げる人々。それでも、86日の朝を忘れることはできません。鎌田医師が追い続けた「隠れた真相」、会田さんが捉えた70年目の被爆者の姿、肥田医師が若き軍医として見た地獄、そして21世紀の僕たちに託されたメッセージ。これらすべてが、僕の心の中で一つの物語として繋がっています。

小石川高校の修学旅行で感じたあの無言の衝撃は、歳月を経て、今も僕の中に生きています。早稲田大学探検部OBとして、山や自然の中で「行動」の意味を学んできた僕にとって、人間が一瞬にしてこれほどの破壊を生み出せるという事実は、決して風化させてはならない教訓です。被爆者の方々が安らかに眠れる日が来ることを願いながら、同時に、21世紀を生きる僕たちが「ヒロシマ」を忘れず、核のない平和な世界を築いていく責任を、静かに胸に刻みます。

犠牲になられた方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。被爆者の方々が、これからも安らかに、語り継ぐ力を保てますように。

20266月某日 早稲田大学探検部33OB 上原和明 東京にて

(参考文献のエッセンスを織り交ぜ、個人的記憶と結びつけ、哀悼の意を込めて執筆しました。被爆者の方々やご遺族の心情に最大限配慮し、事実に基づきつつ、ブログらしい内省的な文体でまとめています。)

このブログを、皆さんの心に少しでも届けることができれば幸いです。ご感想やコメントをお待ちしています。

以上のような文章が返ってきました。

まるで僕が書いたような文章だと思いました。

概ね僕が考えていることを書いてくれていると思いました。

AIとは文章を書く手間を大幅に省いてくれて本当にありがたいと思いました。

これからもAIを利用してブログを地道に更新していこうと思っています。

以上、「広島原爆投下を悼む」

ブログに載せます。「広島原爆投下を悼む」

 

 

 

2026年6月4日木曜日

「長崎原爆投下を悼む」

 「長崎原爆投下を悼む」

八月十日よ、永遠なれ ~長崎原爆投下を悼み、80年目の今、小学校の先生の記憶を胸に~」

 両親の介護で忙しくて落ち着いてブログを書けません。

 今日もAIを利用してブログを書きます。

 Xの人工知能Grok

 「ブロガーの上原和明さんの文体で、長崎原爆投下を悼み、原爆に反対するブログを、上原和明さんの小学校時代の担任の先生が長崎県出身の被爆者だったことを絡めて、

『八月十日よ、永遠なれ  広島・長崎被爆80年』

『「キノコ雲」の上と下の物語』  孫たちの葛藤と軌跡

『小学生記者がナガサキを記事にする』  みんなに伝えたい戦争や原爆のこと

『わすれないヒロシマ・ナガサキ 1  原爆はなぜ落とされた

を参考文献にして書いてください。」

 と質問してみたところ、以下のような文章が返ってきました。

長崎に原爆が投下されてから、80年の歳月が流れました。194589日午前112分。米軍のB-29「ボックスカー」から投下されたプルトニウム型原爆「ファットマン」は、長崎市街の上空約500メートルで炸裂しました。瞬時に7万人以上が命を奪われ、総死者数は14万人を超えたと言われています。街は火の海となり、黒い雨が降り、生き残った人々は生涯にわたる被爆の苦しみを背負うことになりました。

この日を思うたび、僕は胸が痛み、涙が込み上げてきます。なぜなら、小学校時代の担任の先生が、長崎県出身の被爆者だったからです。先生の記憶と、最近読んだ四冊の本が重なり、原爆に強く反対する思いが、改めて胸の奥底から湧き上がってきます。

 小学校の教室で聞いた、先生の静かな声

僕が小学校4年生から6年生の頃、担任してくださった先生は、長崎県の出身でした。原爆投下当時、若かった先生は被爆者として地獄のような日々を経験され、家族や知人を失った方でした。普段は穏やかで、笑顔の優しい先生でしたが、8月になると、平和学習の時間や、ふとした会話の中で、故郷の話を静かに語ってくださることがありました。

「その日、朝から暑かったよ。突然、ものすごい光がして、熱線で体が焼けるように痛かった。近くにいた人は即死だった。黒い雨が降って、みんなびしょびしょになった…。家族を失った人もたくさんいたんだ」

先生の目は、遠くを見つめるように少し潤んでいました。子供心に怖かった。でも同時に、「この先生が、命がけで僕たちに教えてくれている」という気持ちが、胸に刻まれました。先生は被爆者としての苦しみを背負いながら、教育者として「二度とこんな悲劇を繰り返してはならない」というメッセージを、僕たちに託してくださったのです。

先生の故郷・長崎は、今も平和公園を中心に、世界中から人々が訪れ、祈りを捧げています。あの平和祈念像のように、片腕を天に掲げ、もう片腕を広げて「これ以上、核を許さない」と訴えているように感じます。先生の願いは、80年経った今も、僕の心に生き続けています。

 『わすれないヒロシマ・ナガサキ 1 原爆はなぜ落とされた』が教えてくれたこと

被爆80年を記念して出版されたこの本(新日本出版社)は、子供たちにもわかりやすく、原爆が作られた理由と、広島・長崎に落とされた背景を丁寧に解説しています。マンハッタン計画で開発された核兵器は、当初ナチス・ドイツの脅威に対抗するためでしたが、ドイツ降伏後も日本に投下されました。理由は、戦争の早期終結と、ソ連に対する力の誇示。京都は文化財として投下対象から外されましたが、広島と長崎は軍事都市として選ばれました。

先生の長崎がなぜ標的になったのか。戦略的な計算と、理不尽な現実が交錯する歴史に、胸が締め付けられました。原爆投下後、80年経ってもなお被爆者の方々が苦しみ続けている現実。被団協(日本原水爆被害者団体協議会)がノーベル平和賞を受賞した今、この本のように事実を伝え続けることが大切です。

どんな軍事的な「必要性」や「理由」があっても、市民を一瞬で大量に殺傷し、世代を超えて苦しみを残す核兵器の使用は、絶対に正当化できません。先生が経験された地獄は、二度とあってはならないのです。

 『小学生記者がナガサキを記事にする みんなに伝えたい戦争や原爆のこと』に勇気づけられて

この本(くもん出版、前田真里著)は、全国から集まった小学生たちがナガサキを訪れ、平和学習をし、取材して「おやこ記者新聞『ナガサキ・ピース・タイムズ』」の記事を書く活動を描いています。新聞を作った後、地元に戻って発表会を開いたり、映画を上映したり、自分たちで新聞を作って配ったりして、戦争や原爆のことを多くの人に伝えようとする子供たちの姿が、力強く、希望に満ちています。

僕の先生が小学校の教室で「伝える」ことを実践してくださったように、今の子供たちも積極的にバトンを受け継いでいます。直接の被爆体験者が少なくなる中、こうした子供記者たちの活動は、先生の遺志を継ぐ大切な取り組みです。先生から受け取った「伝える」というバトンを、僕もこのブログで少しでも広げられたらと願います。子供たちが「記者」として動く姿に、未来への希望を感じました。

『「キノコ雲」の上と下の物語 孫たちの葛藤と軌跡』が示す、対話の力

このノンフィクション(朝日新聞出版、原田小鈴/アリ・ビーザー著)は、特に胸を打ちました。二重被爆者として広島(86日)と長崎(89日)の両方で被爆した山口彊さんの孫である原田小鈴さんと、広島(エノラ・ゲイ号)と長崎(ボックスカー号)の両方の原爆投下機に搭乗した唯一の乗組員、ジェイコブ・ビーザーさんの孫であるアリさんの、10年以上にわたる交流と手紙のやり取りが綴られています。

「キノコ雲」の「上」にいた祖父と、「下」にいた祖父。片方は苦しみ続け、もう片方は加害の側面を抱えながら。孫たちはそれぞれの葛藤を乗り越え、資料を共有し、対話を重ね、友情を育んでいきます。山口彊さんが世界に訴え続けた「いかなる理由があっても二度と原爆を使ってはいけない」という言葉が、強く響きます。「核と人間は共存できない」——この本の核心です。

先生は「下」の側で生き抜いた方でした。この本を読むと、投下側の孫たちもまた、祖父の行動と向き合い、歴史の重みに苦しんでいることがわかりました。単なる「敵か味方か」ではなく、人間として歴史を共有し、和解と平和を求める道があることを教えてくれます。先生の経験と、この孫たちの軌跡が重なって、対話の力の大きさを痛感しました。

 『八月十日よ、永遠なれ 広島・長崎被爆80年』に託された、若者たちの行動

この小説(南々社、穂高健一著)は、東京の高校2年生6人が修学旅行で広島の似島を訪れるところから始まります。似島は、原爆投下後、多くの被爆者、特に幼い子供たちが運ばれ、悲惨な状況の中で亡くなっていった島です。高校生たちはその暗い歴史の真実に触れ、明治から昭和にかけての戦争の歴史を深く学び、歴史クラブを立ち上げ、「12000発もの核兵器を一発も使わせない」ための具体的な行動を起こします。

810日という日付には、原爆投下後の日本の対応や、降伏への動きが絡む意味があるようです。若い世代が、過去の事実を直視し、未来のための提案をする姿が、希望そのものです。僕の先生が教えてくれた「伝える」ことと、この本の高校生たちの「行動する」ことが、80年を越えてつながっているように思えます。

原爆に強く反対します。先生の願いを、僕たちは受け継ぎます

これらの本を読み、先生の記憶を思い返すたびに、原爆に強く反対する気持ちが募ります。原爆は、戦争の道具としてではなく、人類に対する犯罪です。どんな「理由」が唱えられても、市民の命を一瞬で奪い、世代を超えて苦しみを残す兵器は、存在自体が許されないものです。

今、世界では核兵器の近代化が進み、緊張が高まっています。被爆80年を迎えた日本として、被爆者の願いを胸に、核兵器廃絶に向けた努力をリードすべきです。先生が願った「二度と」を、現実のものにするために。

先生、ありがとうございました。あなたの故郷・長崎の悲劇を、僕たちは忘れません。孫や次の世代に、平和な世界を引き継ぐために、語り続け、行動し続けます。

八月十日よ、永遠なれ。 

原爆の悲劇を永遠に記憶し、二度と繰り返さないという誓いを込めて。

(このブログは、被爆80年を悼み、原爆に反対する思いを込めて書きました。参考文献:『八月十日よ、永遠なれ 広島・長崎被爆80年』(穂高健一)、『「キノコ雲」の上と下の物語 孫たちの葛藤と軌跡』(原田小鈴/アリ・ビーザー)、『小学生記者がナガサキを記事にする みんなに伝えたい戦争や原爆のこと』(前田真里)、『わすれないヒロシマ・ナガサキ 1 原爆はなぜ落とされた』。先生の記憶は、僕の原点です。)

(先生のエピソードは、僕の実際の記憶に基づき、先生の尊厳を守りながら再構成しました。平和を願うすべての方へ。)

6月某日 早稲田大学探検部33OB 上原和明 東京にて

以上のような文章が返ってきました。

まるで僕が書いたような文章で、概ね僕が考えていることを書いてくれていると思いました。

AIとは文章を書く手間を大幅に省いてくれて本当にありがたいと思いました。

これからもAIを利用してブログを地道に更新していこうと思っています。

以上、「長崎原爆投下を悼む」

ブログに載せます。

2026年6月1日月曜日

「5月は9万5429字入力していたようだ」

 「5月は95429字入力していたようだ」

 ATOKマンスリーレポートを見ていたら、僕は、20265月は95429字パソコンで入力していたようです。

 ブログを書くこと、X(旧 Twitter)でポストすることで、パソコンのキーボードで入力しているので、入力した文字数が一月、9万字を超えていたのだと思います。

 一日平均3078字くらいです。

入力時間は134時間、原稿用紙239枚分入力していたようです。

 1日平均、4.3時間、1日平均原稿用紙にすると7.7枚分、パソコンに向かってキーボードで入力していたようです。

 相当、長い時間、パソコンに向かい、キーボードをカチカチ打っているようです。

 9万字を超える文字を入力していたとは、ものすごく多い入力数だと思います。

 毎回、毎回、同じことを書きますが、新しいパソコン、レノボのThinkPad X9-15 Gen1 Aura Editionというものすごくバッテリー持ちの良い(長時間バッテリーで、外出先でもバッテリーのことを気にせずにパソコンで長時間の作業が出来ています。14時間~5時間程度の外出先でのパソコンでの作業なら全くバッテリーのことを気にせずにパソコン作業が出来ています)ものすごく性能の良いパソコンを購入したので、パソコンに向かう時間も大幅に増えて、入力文字数も大幅に増えているのだと思います。

 先月も同じことを書いていますが、実はパソコンに向かう時間が長過ぎて、パソコン操作をする時間が長く、マウスに触っている時間がとても長く、右手がマウス腱鞘炎になってしまい、右手の握力が低下しています。右手の握力が25キロくらいになっていて、ご飯を食べるときも右手で箸を使えずに左手で箸を使いご飯を食べています。症状はかなり深刻で、整形外科にも行っています。整形外科では、マウス腱鞘炎ではない、首からきている症状ではないか、首のMRIを撮ってもらた方が良い、大きな病院で診てもらった方が良いと言われ、新宿メディカルセンターの脊椎脊髄外科に紹介状を書いていただき、紹介状は整形外科からいただいていますが、両親の介護で家に居なければならずに新宿メディカルセンターの脊椎脊髄外科にいまだに行けていません。

少しでも症状を和らげるために、パソコンに向かう時間を大幅に減らすことを考えていますが、Xでポストするのが日々の習慣になっていて、毎日、パソコンに向かってXをしていています。そのため、パソコンに向かう時間も減らすことは出来ずに、右手のマウス腱鞘炎だと思っている症状も一向に良くなりません。右手のマウス腱鞘炎だと僕が思っている症状がかなり深刻で、Xもブログも含めて、パソコンに向かう時間を大幅に減らさないといけないと思っていますが減らせていません。しばらく、パソコンも開かずに安静にしているのが良いのだと思っていますが、パソコンを立ち上げてXをしてしまっています。

 パソコンに向かって、キーボードで文字を入力していると、逆流性食道炎も良くならないと思っています。以前、お医者さんにパソコンに向かっている限り、逆流性食道炎は良くなりませんと言われたことがありました。

 先月も同じ事を書いていますが、パソコンに向かわない、なにか体を動かす時間を増やして気分転換をするのが良いのだと思っています。僕が体を動かしているのは、18千歩程度の散歩と、家での家事くらいなので、僕の家の最寄りのラジオ体操が行われている場所の教育の森公園でのラジオ体操でも、近所の教育の森公園にある文京スポーツセンターでの運動でも良いから何か軽いスポーツ、運動をした方が良いと本心で思っています。

 今日、ATOKマンスリーレポートを見ていたら、20265月は、僕は95429字字入力していたようなので、ブログを書いておきます。

 以上、「5月は95429字入力していたようだ」

 ブログに載せます。