「障害者は不幸しか作れないのか?」
今日、ヤフーのサイトを見ていたら、相模原市の障害者施設での殺傷事件の犯人、植松聖に関する記事がありました。
記事を読んでいて、障害者は不幸しか作れないとの言葉を思い出しました。
果たして障害者は不幸しか作れないのでしょうか?
僕は、国から認定されている精神障害者ですが、文京区立図書館に所蔵されている東日本大震災関連書籍を紹介するサイトを作っています。
「原発」に反対している本のアクセスが多いですが、2011年4月以降に文京区立図書館に所蔵されている東日本大震災、原発などに関する書籍を2800冊以上、掲載しているサイトを作っています。
とても大事な本が掲載されているサイトで、誰かが作らなくてはいけないサイトだと思っています。
僕が早稲田大学在学中に所属していたサークル早稲田大学探検部のOB関係者の方々が書かれている本もアクセスが多い本になっています。
植松聖の言うように、障害者とは不幸しか作れないのでしょうか?
不幸とか幸福とかを判断するのは、一体誰なのでしょうか?
植松聖に殺害された障害者の方々は自分で不幸だと思っていたのでしょうか?
障害者施設の問題もあると思うし、植松聖のように、障害者は不幸しか作れないと考えている障害者福祉従事者も多くいるのでしょうか?
僕が国から認定された障害者で障害者施設にも入所していたこともあり、相模原での事件はとても気になります。
僕が昔在籍していた障害者施設の職員連中も、障害者は不幸しか作れないと思っているのかなと思っています。
以上、「障害者は不幸しか作れないのか?」
ブログに載せます。
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