2022年7月3日日曜日

「探検部の神々、惠谷治さん」

 「探検部の神々、惠谷治さん」

  2018518日のメールを見直していたら、早稲田大学探検部13OBだった惠谷治さんが亡くなり、葬儀が終わったあとに早稲田大学探検部関係者からメールが来ていました。

 件名は「探検部の神々」というメールのやり取りでした。読み直しているとなかなかおもしろい内容なのでログに載せたいと思います。

 件名「探検部の神々」

 吉澤です。今朝の恵谷さんの告別式では、探検部のどなたかが弔事を読まれたので

しょうね。拝聴したかったのですが、昨日お通夜に行けただけでもよかったです。

竹村さん、高木さん、井手さん、蒲さん、高野さん、洋祐さん、村上さん、森山さ

ん、大島新さんに会え、5時間くらいでしたか、あっという間でした。恵谷さんの

思い出=怖かった、というのが全員共通で、やはりそうですよね。高野さんは恵谷

さんに1ヶ月前に会ったということでしたが、小生は201310月、高野さんと角幡

さんの講談社ノンフィクション賞受賞記念のOB会に行ったときに、2次会で恵谷さ

んの隣に座ったのが最後でした。企業に勤めてもよいが、探検部OBとして気概を持

ってやっているかどうかだと叱咤激励され、ありがたく思った次第です。

井手さんが、奇襲第1号にあった恵谷さんのインタビュー記事をもう一度見たいと

仰っていましたので、多くの方はお持ちだと思いますが、コピーを添付します。恵

谷さんのご冥福を心からお祈りいたします。

吉澤基勝

吉澤さま

早速ありがとうございました。

『奇襲vol.1』、僕も本棚にあるので(なんと2冊ありました)、みんなに送ろうと思っていたのですが、きれいさっぱり忘れていたので、助かりました。さすが吉澤さん。

恵谷さんインタビュー、久しぶりに読みました。

これは強烈でしたよね。

恵谷さん、当時からツルッパゲだったイメージがあったんですが、写真を見ると、思っていたより髪があったことにまず驚き。

「何が経済的基盤だ」

「来れば出す」

などの名文句が一時、部内で流行語になったことも思い出しました。

これ、あらためて読むと、戸部さんの質問も秀逸ですね。

インタビューの仕方と原稿のまとめはすでにプロクオリティですよ。

「何が経済的基盤だ」

と頑固一徹にゲリラ解放区を最前線する探検部精神(スピリット)の化身

このリード文の完成度は最高じゃないでしょうか。

森山憲一

吉澤さま、森山さま

  おはようございます。上原です。恵谷さんの葬儀の参列、お疲れ様です。メールまでいただきありがとうございます。早速、吉澤さんのメールに添付されていた、PDFファイルを読ませていただきました。フリージャーナリストとしての恵谷さんの言葉が本当にすごいと思いました。森山さんが書いていますが、「何が経済的基盤」だとか「来れば出す」などフリージャーナリストとしての恵谷さんの言葉が鮮烈でした。奇襲にインタビューされたのは、もう30年くらい前だと思いますが、大学生が作っていた奇襲という部誌のクオリティの高さも分かりました。僕も恵谷さんにお会いしたことがあり、朝まで飲んでいただいた思い出があり、恵谷さんの訃報は残念でした。僕らの世代では探検部の神々とされる恵谷さんがお亡くなりになり、早稲田大学探検部の皆さんも悲しんでいると思います。恵谷さんのご冥福を心よりお祈りいたします。

 上原和明

 惠谷さんのインタビュー、30年ぶり?に読んだけど、めちゃめちゃ面白いね。

インタビュアーの戸部の質問&ライティングも惠谷さんの受け答えも最高だ。

これ、どこかネットにアップして一般公開できないのかな。

惠谷さんはいまや、本当に探検部の神になったわけだし。

 高野

 𠮷澤さま

 ありがとうございました。

学生のときに(私はリアルタイムではなく、部室にあった古い「奇襲」でした)

読んだ印象とはまったく違うものが伝わってきて、

最高に面白かったです。

それにしても、恵谷さんが今の私よりも

10歳も下のときにこんなことを語っていたとは

同じようには生きられませんが、

恵谷さんのスピリットは受け継いでいきたいと思いました。

 大島 新

 みなさま

 2016年9月から、初任地の秋田におります。

記事については、30年前の青春の残滓が突然現れ、紅顔の至りとしか言い様が

ありません。全盛期の恵谷さんが発する異様な威圧感の中、どう思われてもかま

わないから知りたいことは全部聞いてしまおうとの思いでぶつかったと記憶して

います。恵谷さんも、口幅ったいことを言う後輩に対して怒鳴りたいのもこらえ

て、忍耐強く答えてくれたものです。

「それをやっとって、どうやって好きなことができるんだ。株でもやるのか」

「誰もやってくれんからよ、俺がやるしかないんだよ。お前やれよ」

「探検部は何かというと、結局オリジナルな発想なんだよ」

発する言葉の一言一言が、今でも心に突き刺さって来ます。

恵谷さんのその後の活動を見るに、最期まで探検部スピリットを貫いて駆け抜

けたんだと思います。そんな生き方ができるんだと、あらためて驚愕する思いで

す。

ご冥福をお祈りします。

 戸部大

 上原さま

 さっそくありがとう。登録し直しておきます。ワコトにも伝えてくれたようで、そ

れもありがとう。

このあいだ恵谷さんのお通夜で会った時も、先輩もみんな全然変わらず、年月が経

ったとは思われません。森山は年季が入った感じがしましたが、それが実は歳相応

で、僕も含めて探検部は若いのでしょうね。それこそ恵谷さんは当時からかなりお

っさんだったようが気がします。それでは、また。

 吉澤

 やはり、恵谷さんというと僕からしたら怖い印象の方でした。

もちろん、奇襲のこのインタビューもしっかり覚えてます。

当時、この「経済基盤なんてどうでもいい!」のセリフは部内で話題?に

なりましたよね。

また、OB会の席で先に帰ろうとした某テレビ局の先輩に「おい、お前!帰るのか!」と

カツをいれたのも恵谷さんだった記憶があります。

僕のようにサラリーマンでフェイク?に溢れた世界にいると、

吉澤さんの「企業に勤めてもよいが、探検部OBとして気概を持ってやっているかどうかだ」と

叱咤激励された話なんか聞くと少しほっとします。

僕にとって、探検部、そして探検部の神である恵谷さんはリアルファイトな存在で、

なんかカールゴッチみたいな存在です。

 田村

 田村も変わってないなあ。どんな話でも最後は必ずプロレスに落とし込む(笑)

 でも言い得て妙か。

ゴッチは強かったけど、とにかく説教の時間が長くて辛かったと教え子の日本人レスラーたちが口を揃えてこぼしているもんね。

 高野

 吉澤です。最初に小生から送ったメールで、松田和郎と沢田石のアドレスが古いも

ので、皆さんが全員に返信してもエラーになっていたと思います。失礼しました。

二人の今のアドレスをcc:に入れましたので、こちらの方にお願いします。中島さ

んからもエラーレポートが返ってきたのですが、アドレスは変わっていないそうで

、届いているようです。

 恵谷さんのことは、当時OB会で現役が腕相撲の相手に指名されて、竹村さんや中島

さん、高野さんも勝負していたことが、映像のように頭に残っています。3年のと

きアフガニスタンに行く前に、四倉と恵谷さん宅を訪ねて、世田谷赤堤の古いアパ

ートで、夏の暑い日でしたが、娘さんがまだ小学生で小さいのに行儀が良くて、コ

ップにお水(真水)を出してくれたのも覚えています。戸部がインタビューで「・

・・ある程度就職してその余暇にやるとか。」といったくだりは、冷や冷やモノで

すね。僕も田村とまったく同じで、「企業に勤めてもよいが、探検部の気概をもっ

てやっているかどうか」と言ってもらったときは、初めて胸のつかえが取れた思い

でした。

 あと、お通夜の日に佐藤英一さんの話題にもなり、亡くなって何年になるかと話し

ましたが、2012730日にお亡くなりになりましたので、6年近くになりました。

皆さんの記憶は正しかったです。

 吉澤

 吉澤さん

 記事の送付ありがとうございました、これ20代の頃読んだことありました。

 50過ぎた今読み返すと生涯現役だった惠谷さんの言葉はイチイチ刺さりますね。

高野さんの言う通り、このインタビュー埋もれさせとくの勿体ないから、権利関係分からんけどネットにupして広く読んで貰えればいいなというの同感です!

 井出

 みなさま

 OB会の馬場さん経由で、恵谷さんの奥様からのメールが届きました。

みんなにもお伝えくださいとのことだったので転送します。

あの恵谷さんにこの奥様ありという感じで、たくましい方であることが文面からも伝わってきます。

戸部さんのインタビューも絶賛でありました。

 <1通目>

馬場孝一様

 このたびは大変お世話になっております。

おかげさまで恵谷も気に入ってくれる別れができたかなと

みなさまのご協力に感謝しております。

 またさっそくこの記事もお送りくださりありがとうございました。

大変懐かしかったですし、本人亡き後読み返しますと

このまま生涯を貫いたのだなとあらためての感慨がありました。

 当時我が家ではあの記事の中の

「借金じゃな」「家族は心配せん、心配したら行かん」

のフレーズが大層はやり、よく笑っていたことも懐かしい思い出です。

 あの写真で着ている袖が取り外しできる浴衣はわたしが作ったもので

暑がりの恵谷はその発想がいいと大変感謝してくれました。

ところが袖のないまま着ることが多くてそのうち袖との色が合わなくなって

それも我が家の笑い話だったことも併せて思い出しました。

 娘たちにも転送してまたいっしょに笑いたいと思います。

家庭人としてもあまりにもエピソードが多くて、

一生かかっても話のタネは尽きないようです。

 探検部魂を基盤に生き抜いた恵谷に

さまざまにご協力いただいたことに感謝いたします。

 ありがとうございました。

 えや まほ

 <以下は、みんなからのメールで恵谷さんについて書いている部分をを適宜抜粋して送ったところ、再度奥様から返事が来たものです。田村のカールゴッチなども伝えておきましたよ。意味が伝わったかどうかはわかりません笑>

 お世話になっております。

 ご丁寧にその時の方々からのメッセージをお送りくださり

ありがとうございました。

 私も恵谷の生の声がそのまま聞こえるような記事に

あらためて圧倒もされ感慨もありました。

まさにこうでありそのままを生きて逝ったのだなと。

 生きているうちはさまざまにバイアスがかかりますし、

後輩たちにはとてもヘビーな存在だったとは思いますが

亡くなってしまった今は日毎に「天晴れ!」の感を強くしております。

 そしてこの記事を弔辞を読んでくださった

法政大学探検部OBの岡村さんにも送ったところ

下記のような返信がありました。

 >編集者の目で見ると構成も巧く、とても大学二年生が仕上げたインタビュー

>記事には見えません。たぶん、恵谷に原稿を見せるときには、かなりビクつ

>いていて、恵谷に「これでよし」と言われたとたんにホッと胸をなで下ろしたん

>じゃないかな。そんな姿が目に浮かぶようです。

>編集長の森山くんは著名な編集者・著述家になったけど、このインタビュー

>をして文章構成をした戸部くんというのは今どうしているのか、恵谷に出会っ

>て何か変わったかな、とそんなことも思いました。

 戸部さんはどうしていらっしゃるでしょうか?

真正面からぶつかって行かれたことがよくわかりますし、

あのボリュームがあってそのままの恵谷が残ったのだと思います。

 それがただ強烈だっただけではなく、

それぞれの方々がそれぞれに受け止めて下さっていることも

あらためて知ることができ、馬場さんには大変感謝しております。

 末尾になりましたが大島の写真も拝見いたしました。

最後の気力を振り絞っている姿に胸を突かれます。

 あの時贈呈された三原の火山灰の釉のかかった壺が

亡くなった直後に届いて、今は祭壇の脇に飾っております。

 大島行は最後のエネルギーを捧げたものになり、

私たち家族も同行できて大変大きな思い出になりました。

 ありがとうございます。

 えや まほ

 以上のようなメールのやり取りを早稲田大学探検部13OBだった惠谷治さんが亡くなり、葬儀が終わった後にしました。

 早稲田大学探検部関係者の故惠谷治さんへの思いが伝わってくるメールのやり取りだと思います。

 早稲田大学探検部関係者には是非、読んでいただきたいメールのやり取りなのでブログに載せます。

 以上、「探検部の神々、惠谷治さん」

  ブログに載せます。

 

 

 

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