「茗荷谷での探検部になんか入るかよ発言」
昨日もブログに書きましたが、昨年、何故か、地元の神田川沿いで、東日本大震災に際してボランティアに行った際に泊めさせていただいた福島県いわき市に実家がある山田博英と遭遇しました。
仕方なく、茗荷谷に連れて行き、お茶をして雑談をしました。
お茶をしていた際に、僕は山田博英に、
「新聞配達をしていなければ、探検部なんて入るかよ。」
と発言しました。
僕は、2010年に、早稲田探検部の後輩の不幸があり、それを契機にTwitterを開設して、最初の頃は、自分の愚痴とかを呟いていました。
それが、2011年3月11日に東日本大震災が起きてしまい、僕は、開設していたTwitterを、東日本大震災関連の情報を発信するツールとして活用することになりました。
僕の小石川高校時代の同級生が、早稲田大学の卒業生の会の、稲門会の会員だったので、その方の参加している、稲門会の東日本大震災復興支援のイベントに合わせるように、2012年10月21日まで、大学受験勉強をしていた頃の、東京新聞の新聞配達を思い出して、死に物狂いで、ツイートをし続けました。
僕にとって、2011年3月11日からの2012年10月21日までのTwitterは、早稲田大学受験の頃の新聞配達をしていた頃のような状態でツイートをし続けました。
僕の開設している、Twitterにこれだけフォローワーさんがついていただいているのも、早稲田大学受験のために、新聞配達をしていた頃を思い出して、ツイートをし続けたからだと思います。
僕が、山田博英に茗荷谷でお茶をした際に、
「新聞配達をしていなければ、探検部なんて入るかよ」
と発言したのは、ある意味、僕の本音です。
浪人時代に、大学受験日以外は、一日も休まずに、新聞配達をしていたので、体力はものすごくあったし、大学に行っても、何か大きなことをしたいと思っていました。
新聞配達をしていて、自分に自信がついたし、授業料の高い予備校とかに行って受験勉強をして早稲田大学に入学するような連中を見返してやりたかったという気持ちもあったと思います。(僕は、予備校に通う、お金がなかったので、仕方なく新聞配達をして奨学金をもらっていました)
そのような気持ちもあったので、僕の小学校の頃の友達に紹介していただいた、早稲田大学探検部に入部しました。
茗荷谷で、山田博英とお茶をしていると、山田博英は、僕が新聞配達をしていた頃の話を知っていて、
「5万円を貸して、夜逃げされた」
話を持ち出してきました。
僕が、東京都中央区の人形町にある東京新聞の専売所で新聞配達をしていた頃に、同じ専売所で働いていた人間が、僕の住み込み先の、浜町のアパートにやって来て、土下座をされて、
「お金がないから、5万円を貸してください」と頼まれたことがありました。
僕は、当時は、東京新聞の奨学生で、月の月給は7万円くらいだったと思います。
僕は、朝夕に新聞配達、新聞配達の合間に、中央区立日本橋図書館で、早稲田大学受験のための受験勉強、夕刊を配達してから、文京区本郷にある、僕が中学生の頃に通っていた塾に週2回くらい、勉強をしに通っていました。
そんな生活をしていたので、月7万円の給料でも、アパートの家賃は、東京新聞が出してくれるので、家賃はかからなかったので、貯金は少しはありました
貯金が少しあったので、同じ専売所で働く人間が
「お金がないから、5万円を貸してください」と土下座して頼んでくると、僕も断り切れずに、少しあった貯金から5万円を引き出して、5万円を貸してしまいました。
すると、僕がお金を貸した人間は、次の日には、東京新聞の専売所からいなくなっていました。
夜逃げされたのです。
茗荷谷で山田博英とお茶をした際も、そんな話になりました。
僕は、東京新聞配達時代に、そんな、人間関係を経験しているので、その後の人生も、損な人生になったようです。
そんな話ばかり、茗荷谷で山田博英とお茶をしながらしていたので、僕もつい、
「新聞配達をしていなければ、探検部なんて入るかよ。」
と発言したのだと思います。
以上、「茗荷谷での探検部になんか入るかよ発言」
ブログに載せます。
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