2023年2月9日木曜日

「紫藤クリニック カウンセリング 20 ブラマプトラ川川下り」

 「紫藤クリニック カウンセリング 20 ブラマプトラ川川下り」

  昨年、自分の部屋の大掃除をしていたら、僕が統合失調症と診断されてから、僕が通院し始めた紫藤クリニックでのカウンセリングの際の書類が見つかりました。

  僕が31歳の頃に書いていた文書です。

  書類には紫藤クリニックでのカウンセリングの際に、女性の心理士の先生にカウンセリングの際の参考になるように僕が書いた書類がありました。

  僕の書いた書類を女性の心理士の先生に読んでいただき、カウンセリングを受けたようです。

  かなり、恥ずかしいことも書かれていますが、心の病気の診療に参考になると思うのでブログに載せていきたいと思います。

  紫藤クリ二ックでのカウンセリングの際書類、その20、書類のタイトルは「大学4年(22才~23才)」というタイトルでした。

  以下のようなことが書かれていました。

  『ブラマプトラ川川下り』

  大学4年の10月になると、日本ヒマラヤ協会という団体から、インドのブラマプトラ川という川の川下りに参加しないかとの要請が早稲田大学探検部を通じて私のところにあり、12月からのプロジェクトに参加することになりました。

  当時は、知人が2人亡くなり、探検部にも嫌気がさし、初デートした女性とも連絡が無くなり、気分が落ち込んだ状態でしたが、何かやれば気が晴れるだろうとの気持ちでこのプロジェクトに参加することにしました。

  又、旅費、装備など全額向こう持ちということで、それも参加する理由の一つの要因でした。

  プロジェクトで下る地域は中国とインドが国境の問題で揉めているところで、なかなか川下りの許可が下りず、かなりの激流部があり、危険ということで、川自体もチベットのカイラス山の麓に源流部を持ち、チベット東部で大屈曲し、インド東部を経て、ベンガル湾に注ぐという川で、世界最深の峡谷部を持ち、謎の川とも呼ばれ、今回が世界初のプロジェクトでした。

  準備期間が短く、日本ヒマラヤ協会がどんなところかもわからず、おそるおそる高田馬場の日本ヒマラヤ協会の事務所に行ってみると、ヒマラヤの8000メートル級の山に数多くの登山隊を派遣し、過去、何人も遭難死しているとのことで、今回、同行する日本側隊長の八木原さんという人はエベレスト登頂経験を持つ、当時44才のおじさんで、副隊長の八嶋さんという人は山ばかりやっていて、奥さんに逃げられ、一人娘と一緒に暮らしているという40才のおじさんでした。

  二人とも川下りの経験はないということで、私も自信がなく不安になりました。

  学生側は早稲田の探検部から私と同期の中谷という一緒にチベットやユーコンに行った人間の2人で、もう一人は、関口君という私より一つ年下のフロンティアボートクラブという川下り専門のサークルの人間で、計3人でした。

  かなりの激流ということを聞いていたので、学生側で、四国の吉野川で転覆の練習をしたりしましたが、出発までどんな川か不安でした。

  1220日に日本を出発し、デリーに到着し、高級ホテルに泊まりましたが、私と同室になったのは八嶋さんで、逃げられた奥さんのことや、ヒマラヤ協会の悪口など愚痴を散々聞かされ、一緒にいて嫌でした。

  その後、ガンジス川の上流で川に落ちる練習をしてから、再び、デリーに戻りました。

  インド側の隊員はほとんど軍人でした。インドは完全な階級社会で、インド側の隊員からおまえの家はなにをしているのかと散々聞かれ、中華料理屋と答えると、バカにされ落ち込みました。

  14日からヘリで川下りの出発点まで行き、川下りが開始しました。

  乾期で岸から見ると、あまりわからないのですが、かなりの激流が多く、川を巻くことが多くあり、10人乗りのボートを岩場の多い岸で運ばなければならず、肉体的に疲れました。

   世界初のプロジェクトで、今までの探検部の活動とは違い本格的で緊張感があり、又、フジテレビのムツゴロウさんの番組チームが取材のために同行し、その人たちの相手もしなければならず、インド側隊員とのコミュニケーションも不足しがちで、亡くなった仲間のことも忘れられず、プロジェクトに集中できず、精神的にもかなり疲れ果てました。

  結局、途中で体調を崩し、抗生物質を飲んで、テントでウーウー唸りながら寝る羽目になりました。

  ムツゴロウさんにも手を握られ、

 「頑張れ」

  と励まされましたが、個人的にムツゴロウさんは嫌いだったのでなんとも思いませんでした。

  このとき、山が崩れる夢を見て、非常に恐ろしかったのが印象に残っています。

  又、出発の前日、しばらく、禁欲生活が続くと思い、新大久保のニュードールというヘルス(ファッションマッサージ)に行こうとしたところ、私のアパートの斜め前の家の前で、おばあちゃんが、うつぶせになって倒れていて、救急車を呼んだのが印象に残っています。

  1991年の1月下旬から大学の試験があったので、私は途中で隊と別れ、1人、1月中旬にインドから帰国しましたが、学費値上げ闘争で試験は中止になっていて、各科目レポートを提出することになっていました。

   せっかく早く帰国したのにとも思いましたが、心身共に疲れ果てていたのでレポートで良かったです。

  なんとか全科目レポートを書き上げ、全科目単位を取れました。

  レポートを書き上げるとそれまでの疲れが出たのか、バイト以外はしばらくアパートでぐったりしていました。

  以上が、紫藤クリニックでのカウンセリングの際に女性の心理士の先生に読んでいただいた書類です。

この文書にはインドブラマプトラ川川下りのことが書かれています。

インドブラマプトラ川川下りは取材されて記事になるほどのラフティングエクスペディションだったようですが、僕が31歳の頃に書いていた文書を読んでみると、そんなにすごい活動だったのかなと思わせるようなことが書かれています。

僕の文書の書き方が、稚拙なのだと思いますが、僕の書いた文書を読んでみると、インドブラマプトラ川川下りの緊張感が伝わってきません。

一緒に川下りに行った、日本ヒマラヤ協会の八木原さん、八嶋さんに対しても敬意が感じられない文書となってしまっています。

ムツゴロウさん(畑正憲さん)に対しても敬意が感じられない文書になってしまっています。

ただ、インドブラマプトラ川川下りで体調を崩して、テントでウーウー唸りながら寝込んでいたときに、山が崩れる夢を見たことが書かれています。

実は、インドブラマプトラ川川下りをしていた時期に、中国雲南省の梅里雪山に挑んでいた京都大学学士山岳隊の参加した日中合同登山隊の雪崩による大量遭難事故が起きています。

関係があるのか関係がないのか僕にも分かりませんが、時間的には199114日から川下りが始まったと書かれてあります。

梅里雪山の大量遭難事故が起きたのが、199114日です。

僕が川下りをしていたのはインドのアルナチャルプラデシュ州という地域で、梅里雪山はとても近い地域でした。

何か特殊な力が働いて、僕が、山が崩れる夢を見た可能性もあるかもしれません。

ここまで僕が統合失調症と診断されてから通院し始めた紫藤クリニックでのカウンセリングの際の僕の書いた書類をブログに載せてきましたが、僕の体の具合が悪く(逆流性食道炎と過敏性腸症候群でお腹がものすごく痛い状態が続いています)、ちょうど、インドブラマプトラ川川下りのことについて書いた書類までブログに載せたので、これからは体の具合が良いときに、紫藤クリニックでのカウンセリングの際の書類を随時、ブログに載せていきます。

以上、「紫藤クリニック カウンセリング 20 ブラマプトラ川川下り」

 ブログに載せます。

 

 

0 件のコメント:

コメントを投稿