2021年2月26日金曜日

「インドブラマプトラ川川下り記事のきちんと翻訳されたものが出来上がったようなので、ブログに載せます」

「インドブラマプトラ川川下り記事のきちんと翻訳されたものが出来上がったようなので、ブログに載せます」

  昨日、日本ヒマラヤ協会の八木原圀明さんからメールが届き、昨年取材されたインドブラマプトラ川川下りの記事のきちんと翻訳されたものが送られてきました。日本ヒマラヤ協会の寺沢玲子さんが翻訳して下さった訳文です。

  早稲田大学探検部関係者には是非とも読んでいただきたい記事なのでブログに載せたいと思います。

 原文の英文記事はこちら→https://fiftytwo.in/story/whitewater/ 英文を読める方は英文記事も読んでいただきたいと思います。

 Whitewater

ホワイトウォーター 白い水

(註:川の激流、特に白い波が立つような場所を指すウォータースポーツ用語)

  丁度30年前、偶発的に組まれた日印隊が大胆なブラマプトララフティングを決行した。

  1991123日、ヒンドゥスタンタイムスの読者たちは「ラフティングチームの10人が救出された」という見出しで目が醒めた。彼らは日印合同ブラマプトララフティングのメンバーだった。アルナーチャル・プラデーシュ州のゲリン~パシガート間で高波に襲われボートから投げ出されたのだ。

新聞記事には他の詳細は殆ど書かれていなかった。2艘のボートには6名ずつが乗船していた事も書かれていなかった。チームの動向を追っていた人たちは不安を募らせた。チームからは23日音沙汰がなかった。ラフティングはこの国では丁度基盤を固めたばかりだった。偉大なブラマプトラは、かつて一度も試みられた事はなかった。楽な救助活動とは程遠いところで行方不明者が出た。

彼らは行くべきだったのだろうか。

チベット国境近くのゲリンからバングラデシュ国境までのインドの最後の村であるドゥブリまで1300Km以上の距離を航行するラフティングの試みの伝説など、何年にも渡って私はアドベンチャースポーツ界でその話を聞いていた。ブラマプトラ川の上流部はこれまでラフティングされたことはなく、その後も未だにない。

それは30年前の1月の出来事である。私は昨年(註:2019年)、ラフティング隊のメンバーを追跡し始めた。コロナ禍でロックダウン中の道を私のいるムンバイからインド側隊長のSP・チャモリのいるムスリーまで車を走らせたり、日本の新しい友人に通訳をしてもらったりした。行き止まりや途切れる電話に苛立ちはしたものの、それが私を前へと駆り立てた。それは非常に大きな冒険のささやかな味付けだった。以下がその物語である。

クマール父子

ナリンダール・クマール大佐「通称ブル・クマール」は伝説的な登山家である。彼は二度の試みの後成功した1965年のインド・エベレスト隊副隊長だった。しかし、彼の最も輝かしい記録は1981年、陸軍隊を率いてシアチェン氷河を勝ち取った時である。

   1975年、彼は5名での大胆なインダス川ラフティングに参加。隊の装備としては(彼がオーストリアのフィリッツ・モラヴェックから贈られた)クラッシュヘルメット(註:衝撃を受けた時に頭部を保護する)が一つと、インド空軍から借用した(パイロットが海に飛び込むときに使用する)ライフジャケットが二つあるだけだった。

 彼は冒険の情熱を子供たちに伝えた。「アクシャイはスキーの申し子だった」と息子について話してくれた、アクシャイが初めてスキー場に連れて行かれたのは3歳の時にカシミールのグルマルグ。そして10代の時にはウォータースポーツ全般の訓練のためにカナダのマニトバ湖に。「カナダではボートの修理やカヤック、カヌーそして勿論ラフティングなど、すべてを実習した」1985年にアクシャイと一緒に行ったいとこのサリル・クマールは「我々は文明から切り離されて藪の中で暮らした。アクシャイはその環境に溶け込んでいた」と回想している。

ブル・クマールは1983年に引退、現在はマーキュリーヒマラヤエクスプロレーションという野外活動の会社を立ち上げている。ガンジス川でのラフティングツアーを始め、「1986年頃にエドモント・ヒラリーをガンジス川ラフティングに招待した」前出のサリルの回想によると、「当時は商業活動開始のための良策がなかった。このラフティング後、急流の多くにゴルフコースとかローラーコースター、三匹の盲目ネズミ等と命名した」

 デリーでは、クマールのいとこたちが平日、18人乗りのバスの座席を埋めるために冒険を求める者をひき付けようとパンフレットを配っていた。週末にはクライアントをリシケシから20Kmのシヴプリ(シヴァプリー)に連れて行った。船底にたまる水をバケツに汲んで捨てなければならなかったので「バケツボート」と呼ばれていたゴムボートを利用していた。時が経つにつれ、他の冒険を求める者たちが参加するようになり、「急流下り」産業が誕生した。現在はこの地域で約300のオペレーターが商業活動を行なっている。

商業ラフティングが盛況になってくるにつれ、未踏の川を漕ぎ下るスリルはハードコアな冒険者たちには人気になった。インド各地の混成チームは1985年サトレジ川、1986年ティスタ川、1987年サルダ川、1990年にはスピティ川などでラフティングし、歴史上はじめていくつかの急流の超難関な個所を下降した。スキルのレベルや経験が向上した。壮大なプロジェクトを夢見始めた者もいた。

日本人たち

 日本人は100年以上も前からヒマラヤに魅せられてきた。1905年に日本山岳会が設立されて以来、登山者は急速に力量をつけ、ネパールのマナスルやインドのナンダ・コットなど、数多くの初登頂を成し遂げてきた。1975年には田部井淳子が女性初のエベレスト登頂者となった。

本ヒマラヤ協会の稲田定重理事長は、インド北東部に特段の魅力を感じていた。ブラマプトラのラフティングは稲田のアイディアだった。日本側を率いた八木原圀明は通訳を介して私に言った「稲田は未知の領域を探していた」と。「登山遠征に限らず、協会は山、川、高地などあらゆる場所を探索することに熱心だった」

1990年夏、稲田は当時インド登山財団(Indian Mountaineering FoundationIMF)総裁だったMS・コーリー大尉にラフティング遠征を提案する手紙を送った。稲田は八木原にチームを作ることを依頼した。エベレストやダウラギリ峰に登頂経験を持つ八木原だが、ラフティングの経験はそれほどなかった。1985年に中国の黄河での経験はあったが、「子どもでも可能な」ほど穏やかな流れで長さも80Kmしかない。

「川の流れが穏やかなため、実際にはその旅は途中で中断してしまった」と八木原の永年の登山仲間であり、黄河遠征でも一緒だった八嶋寛が言った。二人とも泳ぎは得意ではなかった。

「日本人メンバーを率いることになっていたので、当初は自分はこのプロジェクトの川下りメンバーから抜ける口実を常に探していた」と後に八木原は書いている。八木原たちは東京農業大学でメンバーになる可能性のある者を探したがそれは断られた。しかし、早稲田大学探検部を通じて上原和明、中谷敏夫、関口顕俊の3名を見つけた。

関口はタイのメコン川でラフティングをした経験がある。上原はカナダのユーコン川を漕ぎ下った事がある。それでもこれは彼らにとって費用は出してもらえ、遥か遠く離れたインドの辺境の地の、世界でも厳しい川の一つを経験するというこれまでにないチャンスだった。「私は普通の大学生で、比較的平穏な生活を送っていた。八木原や八嶋のように、正業に就かないでただ未知の地を目指して長旅をしている人がいるという事がかなり衝撃だった。」と関口は言った。

中谷は主に日本国内で幾度もラフティングをしている。大学最後の年で、高給をもらえる大会社に入社予定だった。彼は遠征に参加するためにそれを断った。出発までの前6ヵ月間、彼は今日日本のラフティングの人気場所である阿武隈川と吉野川の急流でトレーニングして準備した。

軍人たち

インドに戻ると、コーリーは以前の所属であるITBP (Indo-Tibetan Border Police)をこの計画に巻き込むことに必死だった。彼はITBPの総裁であるDVRNラマクリシュナ・ラオに接触、総裁は最高の部下の関与を即座に了承した。遠征隊は観光を促進する事に熱心だったアルナーチャル・プラデーシュ州の当時の首相ゲコン・アパンを後援者として見つけた。

SP・チャモリは当然の事ながら隊長に選ばれた。ウッタルカシのウプラリ(ウパラリ)村で育った少年の頃のチャモリは通学途中にバンダルプーンチ(註:日本ではバンダールプンチと呼ばれている)峰を目にした。その峰を登ろうと外国人たちが村のそばにキャンプしていた。陸軍の任期が明けた後、1968年に彼はITBPに入隊、そこでは登山への情熱を傾けられた。

チャモリは1986年のサセル・カンリⅢ峰遠征中、ラダックのシャイヨーク川荒れ狂う流れを渡らなければならなった時に初めてラフティングを体験した。ブラマプトラ遠征のために、あまりラフティング経験のない昔の仲間若干名にも声をかけたが、彼らもこの遠征を楽しんだ。日本側が装備を用意、ロジスティックはインド側が担当することになった。

日本側は装備購入のための資金調達を始めた。東京のフジテレビ局に、ラフティングに加えてその地域の文化や自然美を取材撮影してゴールデンタイムに視聴できるように依頼した。そのドキュメンタリー取材のために、有名な動物学者の畑正憲が参加することになった。畑は川沿いの陸路を行くことにした。

19901220日、日本側はデリーに飛んだ。荷物の制限はなく、日本では二番目にラフティングに利用されるイギリスから輸入されたABON社製新品の16フィート(約5㍍)のオールとパドル付きゴムボートと、外付けエンジン二台と並びに小型ゴムボート一艘、ウェットスーツ、オールやパドル等々。ゴムボートは「セルフベイリング」つまり自動的に排水した。単純な話だが、バケツボートではブラマプトラの巨大な急流での排水には無理がある。

当時20歳だったアクシャイ・クマールほど河川航行の技術を良く知っている者は殆どいなかった。カナダでは彼は流れや地層(岩層)などを研究して最良のコースを選べる川のガイドになるように訓練された。彼と一緒に来たのはラダックの山間部出身のチェワン・モトゥップ(註:現ヒマラヤンクラブ会長)だ。彼はスリナガールで過ごした学生時代に水のとりこになり、ダル湖でのボート競技の主将を務めた。

チームは短期間の訓練合宿のためにクリスマスまでリシケシにいた。その後の数日間、モトゥップとアクシャイはメンバーに川の読み方、流れの把握、レスキューの手順を理解する事などの基本を叩き込んだ。「我々の主たる目的は彼らの恐れを取り除く事だった」とモトゥップは回想する。「我々はいくつかの最大級の急流に飛び込む前に基本をマスターさせた」

訓練合宿はITBPからのメンバー選抜試験でもあった。ビハリ・ラルとタジベール・シンはスキーや登山でその力量をよく知られた者であった。アッタル・シンも経験豊富な登山家だった。彼はバギラティ川で泳いで育った。ケララから来たシャシダラン・ピラリとバル・モハマドも同様に強い水泳選手だった。他の者たちはチームの陸上でのサポートをするために参加した。

合宿が終わると、モトゥップは深夜ヤハマX100に飛び乗り、最終準備のためデリーに向かったが、夜明けの濃霧のためスピードブレーカー(註:住宅街や病院、軍の駐屯地などの道にスピードを抑えるためにあるコブ)から飛び出してしまい、肩を骨折してしまった。

その状況を救うのはアクシャイにかかっていた。デリーに戻った彼は、ガンジス川で出会った23歳のアジャイ・マイラと連絡を取った。彼らは一緒にティスタ川やベアス川のような小さな川を漕ぎ下った。翌日、髪を整えてスーツを着たマイラは、チャモリに会いにロディ・ロードのITBPへ乗り物ででかけ、モトゥップの後任者に登録された。

「どんな新しい川が計画されても」マイラが回想した「スキーヤーが新しい斜面を滑りたいのと同じでその水域を試したいと思う。ゲームのほぼ90㌫は行きたい場所への流れを読むこと、残りの10㌫はパドリングとメンバーの管理だ」ブラマプトラに関しては参考にするものが殆どなかったという事だ。ロジスティックを見つけ出すために教えを乞う者は誰もいなかった。隊にいる若いガイドたちだけだった。

The River

ブラマプトラは2800Kmの流域に複数のアイデンティティを持っている。チェマユンドゥン氷河から流れ出してツァンポとしてチベットを流れ、アルナーチャル・プラデーシュ州に入ってシアンとなり、平野ではブラマプトラとなる。そして最後にはバングラデシュでヤムナと呼ばれる。

イギリスの入植者たちは、特に高低差の急激な違いを思い、ツァンポとブラマプトラが同じ川だという事を非常に知りたがっていた。初期の数隊の遠征隊は急激な高低差を説明できる滝を探しに行った。1880年に始まった4年間の困難な調査旅の末、キントップという名のレプチャ族人が、ツァンポがシアンとしてインドに流れ込んでいると結論づけた。彼の発見は1912~13年にベイリー・モーズヘッド隊が世界で最も深いツァンポ峡谷を確認するまで広く信じられていなかった。

チベットのツァンポ沿いの最後の集落のひとつである、ペを過ぎると、川は標高約3000mから流れ下る。元『ヒマラヤン・ジャーナル』編集長で登山家のハリシュ・カパディアによると、インドに流れこむときの標高は約580mだという。その地点から250km下流のパシガートは標高150mだ。川は一年のほとんどの間、絶えることなくその水流を衰えさせていない。ブラマプトラは毎秒19300㎥という世界5位の平均流量である。水量の少ない時は急流部はより航行しやすい。そのため冬はたとえ水温が凍るような冷たさだとしても遠征には適した季節である。  

アメリカホワイトウォーター協会では、急流を1(簡単)から6(過激で探検的な急流)に分類している。マイラは私にブラマプトラは「非常に長く、障害物のある、または非常に激しい急流で、漕ぎ手が危険にさらされる5級の川だ」と話した。5級の流れでは泳ぐことは危険であり、救助は専門家でさえ困難である。(ちなみに、ガンジス川は3級で中級レベル)。ブラマプトラの標高が下がると、水は一急流や大小の滝となって下流へ流れていく。ここは川下りする者には天国である。

偵察

デリーの自宅でマイラは「ブラマプトラ1990-1991」と表題された色褪せた表紙の日記を引っ張り出した。そのページには川のほぼ全ての区間彼が描いた地図が含まれていた。急流のグレードや穴や波そして乱流などの情報が書かれていた。マイラはボートが航行できずに土手に沿った陸地を運ばなければならない箇所も記していた。未来の多くの遠征隊にとってこれはバイブルとなった。

「その後、別の者たちとブラマプトラへ数回行ったが、ゲリンからトゥティンまでの流れは本当に難しいから二度と行っていない」とマイラは言った。

当時、唯一チームが確信していたのはブラマプトラはプール・ドロップの川であることだけだった。つまり、急流の後には穏やかな区間があり、次の行動の前に落ち着きを取り戻すのに役立った。チャモリ、ラオそしてアパンの三氏は空からの偵察を行ったが正確な観察を行う事はできなかった。11月、アッタル・シンとビハリ・ラルは陸路を辿った。列車でディブルガールまで行き、フェリーでパシガートに行った。そこから途中の川を観察しながら車でインキョンへ行った。

「インキョン以遠は川上の鬱蒼とした森の中のセクションに到達するまで歩き続けなければならなかった」アッタルは回想する。「時間切れでそれ以上進むことはできなかった。我々はそれまでの報告書を提出するために一度デリーに引き返した。

”もう一つの懸念の元は、この遠征のために外国人たち(日本人たち)は国防省と内務省から旅行許可を取らなければならないという事だった。この件はブル・クマールが個人的に解決することにした。「デリーのジムカーナ(註:1913年創立のインドで最も格式の高いプライベート会員クラブ)で選挙があり、補充秘書官だった人物が勝つために票が必要だった」とクマールは言った。その人物が選挙に勝った時、我々は彼のために祝賀会を開き、その席上で遠征のためにはインナーライン入域許可が必要だと話した。翌日は日曜日だったが、内務省の事務所は開いた。

遠征隊は管理責任者のデヴェンドゥラ・ムラシが木箱に詰めた食糧(配給?)を運ぶために列車の台車一両を丸ごと予約した。列車は上部アッサム(アッサム北部?)のティンスキアへ行き、そこから別の列車に移されてモハンバリへ。その後、空軍機(註:ヘリコプター この当時は車道が通じていなかったため)でアルナーチャル・プラデーシュ州トゥティンの小さな町にその物資を運び、そこでブラマプトラがインド国内に流れ込んでくる最初の集落の一つであるゲリンまでポーターたちが人力で運ぶために荷物を小分けした。(日本側の報告書によれば、ゲリンまでヘリコプターで入っているが、荷物が多いので二手に分かれていたのかもしれない)

遠征はデリーでチャンドラ・シェカール首相によってフラッグ・オフ(註:正式な開始を表す慣用句)された。12日、遠征隊はディブルガールに飛んだ。そこでは列車で来た者たちと合流し、いよいよ彼らにとって未知の世界への入り口に立った。

悪天候のため翌朝、すべての予定がキャンセルとなった。マイラとアクシャイはボートの一つが修理を必要としている事に気づいた。その日の午後、モハンバリの住民たちは小さな三輪のリキシャが16フィート(約5㍍)のボートを溶接所に運ぶのを見た。 

天候が回復すると、遠征隊はMi-17輸送ヘリに乗り込んだ。彼らは過去の文明(遺跡?)や茶園それに砂州を見下ろしながらブラマプトラ川の上を飛んだ。直に丘陵地帯となり、不毛の畑に囲まれた小屋の群が点在していた。大小の滝や泡立つ急流の素晴らしい世界には場違いの、新しく切り取られた道が川に沿って蛇行していた。

「我々はパイロットに偵察するチャンスがあるように可能な限り低空飛行をするように頼んだ」とマイラは言った。「250Kmの距離を観察できる方法はそれしかないが、川の中にいる時に急流を認識するのに役立つ目印を探していた」

中印国境から約4Km離れたゲリンで、その後続く沢山のレセプションパーティの最初のパーティに迎えられた。その日の午後、数名のメンバーがそこから6Km下流のボナまで歩いてマイラが「急流の母」と呼ぶ場所を見た。そこから始まるのだ。ここは冬のインド東部のため、彼らがゲリンに戻った午後4時には既に日の光は薄れていた。夕方、モルン(註:ナガランドやアルナーチャル・プラデーシュ州の集落にある公共の広場)で地元の僧侶たちによるダンスパーフォマンス(大切な家畜であるミトゥン(牛)の仮面をつけて踊る)が披露された。その夜、チームは満天の星の下で横になり、そわそわしながら大事な日の夜明けの光を迎えた。

始まり

翌朝、ゲリンは川下りを計画している狂った男たちのことが密かにささやかれていた。地元の人々は一晩中ボートを川に降ろすのに必要な幅の道を作っていた。数人の男性は長い竹を並べてその上にボートを括りつけた。「ボートを下ろす時はまるで大規模な婚礼の行列のようだった」とマイラは言った。

アパン州首相と彼の家族はフラッグオフのために飛行してきたが、巨大な波をみてチャモリに血相を変えてしゃべり出した。「彼はトゥティンまで下降してそこから始める事を提案した。我々は軍人なので、予定通り遂行してその結果に対処することにした。単純だ・・殺るか殺られるかだ、戦いに行くようなものだ」とチャモリが言った。 

最初のボートは「ブラマプトラ万歳」の叫びと、土手でラマ僧が祈りを唱える中、出発した。出発してすぐに、かき混ぜるように打ち寄せた波に放り込まれ、ボートは水面に対してほぼ垂直になった。乗員たちは持ち上げられないように前方に身を乗り出し、猛烈な勢いでパドリングして川を下った。最初の急流をやりこなした後に二つのチームが再開した時の興奮はその場に漂っていた。ラフティングはわずか5Kmと比較的短い日だったが、その夜のアポン(註:アッサムやこの州で米から作るローカル酒。ドブロク)は、これまで以上に甘美だった。

朝の冷え込みの中、チームは土手の近くに幾人かが座わっているのに気が付いた。時が経つにつれて、そこには次々と人が集まり出した:地元の人々は、そこは大きな激流でボートがひっくり返る可能性がある場所だという事を知っていたので、集まったのはその場所を我々に示すためだとわかった。メンバーたちは左岸にボートを引きながらどのラインを通るのが最良なのかを精査した。まもなく、彼らは15フィート(註 約4.5メートル)の高波にタックルしていた:分流した水が瓦礫や噴出するような水と共に合流した。その後の数時間は、二艘のボートはいろいろなグレードの急流を操った、中には落差の大きな場所や水の巻き返しによる甌穴もあった。

その日の後半、100メートルの距離の流れで30フィート(約9㍍)降下するというこれまでで最大の難関に直面した、これは6級に相当する。重苦しい思いで、彼らはこの区間は陸に上がる事にした。運ぶという事は、それはボートを解体して重い荷物を土手の滑りやすい岩の上に運び、再度川に入る時には全て元通りに組みなおすことを意味していた。「汗だくになるし」マイラが言った「絶対に楽しくない」「彼らがしなければならないのはそれだけではなかった:トゥティンへ着く前には川は轟音を立てて目を回すほど危険に見えた」 

トゥティンの手前では、吊り橋や土手に村人たちが群がっていた。陸上では、好奇心旺盛な地元の人たちが乗員たちのドライスーツに不思議そうに触っていた。トゥティンには1962年の中印紛争(註:ITBPが創設されるきっかけとなった紛争)時に建設された滑走路があったが、当時はそこまで繋がった道はなかった。「町でトラクターやトレーラーを見かけたなら、それはヘリコプターで運ばれてきたものだ」とマイラが言った「大がかりな修理が必要な時はヘリコプターで運ばなければならなかった」

その日の夕方、日本の撮影隊がトゥティンに到着した。 撮影隊は ダオ(インド北東部の手製の短刀で、武器にもなるし、調理をはじめとする生活一般に利用する)を振る地元の人々にエスコートされて下草の密集する鬱蒼とした雑木林の中を長旅してきた。

撮影隊は陸の上で彼らなりの冒険をした。「我々は川下りにはあまり興味はなかった」撮影隊と一緒に旅したスチール写真家のイギリス人ジェルミー・エンジェル(註:原文が間違い)が私に言った。「しかし、何十年もの間、撮影隊が入ったことのないこの鬱蒼とした雑木林の旅にはそこを通るしか方法がなかった。知らず知らずに(東側の)ブータンに入ってしまったこともあった」

その夜、クルーは地元の人々が催してくれた盛大なレセプションを楽しんだ。チームはトゥティンの住民と一緒に、焚火を囲んでポヌン(註:アディ族のダンス)を踊った。祝賀会は夜遅くまで続いた。

脱出

翌日は休養日だった。マイラは地元の人々が狩りをする時に使う弓や毒矢を見た事を思い出した。時として、顔の特徴が似ているので、日本人たちはインド人と間違われた。「この日本人たちは我々の兄弟みたいだとアディ族の人々は言うだろう」とマイラは言った。

メンバーたちはどこへ行っても歓迎された。彼らは魚や鶏肉を好んで食べたが、タケノコで炊いた餅や沢山のオレンジ、巨大なジャングルネズミも食べた。

畑正憲はダオ(註:手製の短刀で、武器にもなるし、調理をはじめとする生活一般に利用する)で散髪して地元の人達に慕われた。トゥティンで上原と関口は地元の家の壁に何かが吊るされているのに気づいた。それは脂の乗った豚肉だったが、悪臭にもかかわらず、二人は文句も言わず出されるままに食ベた。その後、二人は激しい下痢に見舞われた。

コミュニケーションの壁は日本人たちにとって問題だった。ITBPのメンバーは決定を下す前に彼らには相談をしなかった。「私は計画や組織の部外者だった」と関口は私に言った。それまでは順調に航行していたが、今では胃がむかつき、死への恐怖を感じる者もいた。

”トゥティンを出発して間もなく、チャモリは高さ20フィート(約6㍍)の水しぶきに気づいた。巨大な波が急接近している兆候だ。「この川の大きさを見ただけで、日本での永年のラフティング経験は全く役に立たなかったと感じた」と中谷は回想する。

川のガイドは、これは5級の流れで危険ではあるが試す価値があると結論を出した。アッタルはこの大胆な試みは後の世のために記録して残すべきなので、チャモリ自身は写真を撮るために土手にいることを提案した。アクシャイが先に行き、マイラは彼のボートが大波の後ろに消えていくのを以前から見たような気がした。「私はずっと待っていたが、アクシャイは二度と姿を見せてくれなかった、それほど大きな波だった。ようやくアクシャイが波の上に上がってきたときには、ボートに乗っているのは彼一人だけだった」

上原は無心にパドリングした事を記憶していた。波は進むにつれて大きくなり、目の前に水の壁が見えるまでになった。私はボートの前方に移動した時、ガイドは「前へ!」と叫んだ。次に「右へ!」と聞こえ、私は右側へ移動した。3番目か4番目の波の後、チームが船底に横たわって持ちこたえようとしていた時にガイドの「ドロップ!」と叫ぶ声が聞こえた。

ボートは波に斜めにぶつかり、左に振られた。次の瞬間、彼らは凍てつく川に落ち、波に打たれていた。上原は水面から頭を上げようとしていた。上原が落ち着いた頃には、タージバルは上原を引き上げていた。

註:上原隊員からはこの部分に関して、当時の自分の記録から以下が正しいとしている→「何とか、ボートは転覆しないで、私の前にあることがわかったので、身をゆすらせて水をかき、ボートにつかまった。周りを見ると、7人全員、川に投げ出されていた。まず、2人をトロ場で助け、残る一人に右側の岸に泳いで上陸しろといって、私たちは左側の岸にボートを着けて後発隊を待った。」

マイラのボートも波に打ちのめされ、5名が荒波の中に投げ出された。ほとんどの者は無事だったが、土手から見ていたチャモリは、1名行方不明なのに気づいた。チャモリは渦の中で揺れ動く赤色のヘルメットを見つけた。それは必死になって滑りやすい岩をつかもうとしている中谷だった。中谷は落ちた時に足を怪我して動けなくなっていた。チャモリには中谷があきらめているように見えた。

「私は何度も垂直に回転し、岩に投げつけられた。水を沢山飲んで意識を失ったこともあった」と中谷は私に話した。

アッタルは土手を駆け下り、中谷にスローバッグを投げつけた。中谷はロープを掴もうと幾度か試みたが、疲れ果てて言葉も出ない状態で何とか引き上げられた。それから一時間、チームは中谷に水を吐かせようと努力し続けた(腹を押し続けた)。「その出来事で、死は遠くにあるものではなく身近にあるように感じた」と中谷は話した

対岸の土手ではチャモリは頭を抱えて座っていた。リーダーであるにも関わらず、ボートから降りてしまっていた事に罪悪感を感じていた。チャモリは、装備を失っただけで運よく脱出できたことを実感していた。夕方、任務規則通り、チャモリは無線士を通じてディブルガールにメッセージを送った。そのメッセージはグワハティ経由でデリーのITBP本部へ送られた「大急流で10名のパドラーが救助された」

数日後、マイラが自宅に電話した時に、彼の父は安どのため息をついた。父は救助された10名についての簡潔な新聞記事を既に読んでいた。結論としては行方不明者はいなかったー2名はボートから落ちていなかったし、3人目は土手から写真撮影していたのだから。

ゴルジュ

焦点は今、パンゴ近くの2か所の峡谷のセクションに移行している。峡谷の急な壁の間に川が急降下し、遠くに消えていくのが見える。誰もこの先に何があるのかは知らない。その日の夕方、日本側が持参したスルメと日本酒を味わいながら計画を練った。崖の上は鬱蒼とした森で偵察は難しい。現地の人は誰一人として情報を持っていなかったし、同行してくれる人もいなかった。

上原は東京で大学の試験を受けるために隊を離れた。上原の代わりはそれまでボートに乗っていなかった八木原だ。八木原は緊急時に峡谷の壁を測るために岩登り道具を持参するというチャモリの提案に同意した経験豊富な登山家である。彼らはまた、数日間の自給自足に備えて十分な食料を運ぶ事にした。(註:八木原が上原と交代したのはゴルジュ区間を下り終えてから)

彼らが我々の意見を求めてくれて嬉しかった」と八嶋は言った。「そこはこの行程で誰かが岩にあたって砕かれたり、滝に落ちたりして命を失う可能性のある一番危険な場所だった」

4級の急流の対岸では、峡谷の暗い裂け目に流れ込むにつれて川幅が狭くなった。そこは暗くて寒かった。高い壁に太陽の光は遮られている。上空の紺碧の空は時々曇ることもある。雨が降ってきて視界が遮られた。度重なる見えないカーブの先に何があるのかを把握するのは難しかった。幾度か、先を見渡すために岩をよじ登らなくてはならなかった。

ボートが、急流の威嚇する波の陰で消えてしまうという不安な瞬間や、激しい水流から吐き出された時には歓喜の叫びがあがった。「若さもあったし、多くの川での経験もあったので、何かあっても大丈夫だと思っていた。それと同時に、全能者(神?)にも少し頼っていた」とマイラは言った。

アパン首相のホームグランドであるインキョンでは、大盛り上がりの群衆がチームを待っていた。しかし、峡谷は前進を阻止していた。人々は毎朝土手に集まってチームの到着を待っては夕方には家に帰る事を繰り返していた。113日、ついに2艘のボートが遠くに見えてきた。インキョンでは、街中をマルチ・スズキ・ジプシー(註:インドのマルチ・スズキ社製四輪駆動車)が走り回るのに慣れるには少し時間がかかった。伝統的な竹の小屋の上には近代的な建物が立っていた。アパン首相はホットシャワーや豪華な夕食でチームをもてなしてくれた。

一日の休息後、彼らは再び出発、今度はクラクションを鳴らしている車が彼らの上で伴走していた。陸上を行く装備や食料を運ぶ別動隊は州政府のトラックで移動することになった。時々急流はあったものの、川は徐々に穏やかになってきた。降り注ぐ雨と稲妻の下、チームはついにパシガートに到着した。緊張感ある2週間にわたる航行だった。

下流に到着

アソム(註:アッサムの本来の呼称)連合解放戦線(ULFA)が台頭してきたため、下流域では恐喝や殺害が日常的に行われるようになってきた。199011月、ULFAは政府に禁止され、インド陸軍は「地下組織」を抑制するためにバジュラン作戦を開始した(註:この結果、反政府勢力がブータン南部に逃げ込んで拠点を構え、ブータン政府にとって厄介な問題になったという後日談がある。余談ながら、バジュランは神猿ハヌマーンの別称)。

この作戦はこれまでとは全く異なる種類の挑戦だった。「ULFAのパレシュ・バルア司令官は、もし我々がそこに来たら撃つと警告してきた。武装した要員を載せた2艘のBSF(註:Border Security Force:国境警備軍)の巡視艇がチームを護衛した。一艘のボートがしまわれ、乗員はゴムボートに移った。もう一つの方はヤマハの船外機を搭載していた。大型の巡視艇に遠征隊の小さなボート2艘が挟まれ、一種の護送船団のようだった。

川のダイナミックさも完全に変わっていた。ブラマプトラは世界第二の土砂生産量が多く、平野部に大量の瓦礫を運んでいる。これは、航行可能な水路にこだわることが重要であることを意味していた。先導船は進む前に竹竿を使って川の深さを測った。

川には浅瀬を示す印がある。我々はモーターを使って距離を記録しているだけなのに、どこにむかっているのかを確認しなければならなかった」とマイラが言った。

汽船が通勤者や車を運んだり、漁船の群が汽船の前をわざと横切ったりと、このあたりでは、川は活気に満ちていた。巨大な中国(製?)の漁網の後ろに夕日が沈む。遊び心のあるイルカが時々現れる。釣り道具を持って歩いていたのにいつも手ぶらで戻ってきていた八嶋は、運が良ければ新鮮な魚を手に入れられるようになった。デュブリでは、アクシャイと私は八嶋さんのために新鮮な魚を買いに市場へ行った」とマイラは笑った。

やがて、雪をかぶった峰々の最後の姿が遠くに消えて行った。景色は低地の緑の丘と象の草の湿地帯となった。砂と葦の島がコースに点在していた。川の牧歌的な風景とは裏腹に、この地域が直面している暴力行為を思い出させるものは身近にある。126日に三色旗(註:インド国旗)を掲揚した時には、陸上チームのいるところからわずか5KmのところにULFAが待ち伏せしているという知らせを受けた。テズプールでは、ゲリラ攻撃の脅威があるため、チームはテントを移動するように求められたし、グワハティでは二階建ての橋が武装した男たちに厳重に守られているのを見た。

ここから川はますます人間味を帯びてきた。八木原はグワハティの更に下流に向かって(註:生活用水が混じって発生した)巨大な泡の塊を見たことを思い出した。州都(註:グワハティの衛星都市ディスプール)で州政府高官やジャーナリストに会った後、チームは最終目的地に向けて出発した。19911月最後の陽の光が消えていく中、デュブリで「ブラマプトラ万歳」の叫び声の中で乗員たちは最後にもう一度川へ飛び込んだ。

この遠征は、参加者それぞれの人生と経験を形成した。ITBPのメンバーはメダルを授与され、昇格した。ITBPはラフティグを正式に冒険活動の一環として取り入れた。チャモリとアッタルはその後数年間、幾度も遠征隊を主導してきた。リシケシ周辺での商業ラフティングは1990年代には主流の観光活動となった。その成功はインド全土の他の地点でも再現された。日本でも、この遠征の後にラフティングが人気を博した。アクシャイとマイラはこの遠征の話を聞いた顧客を連れてブラマプトラにもどってきた。

この遠征の30年目を迎えるまでの数か月間は、初めてインドの冒険旅行業を始めた家族つまりクマール一家にとっては悲劇的だった。アクシャイ・クマールは20209月に予期せぬ心停止で亡くなった。87歳のブル・クマールは、私に息子の話やお互いの情熱について語ってくれてからわずか数週間後の2020年最後の日である1231日に亡くなった。ブラマプトラ遠征は彼らの遺産の中で忘れられないものとなっている。その計画と実行には未知の地への強い憧れや逆境に立ち向かう時の執念、そして彼らがとても愛した国への飽くなき好奇心など、クマールのトレードマークともいえる特徴を示した。

アクシャイにとっては、川は文字通り全ての始まりの場所だった。彼の妻のディルシャド・マスター・クマールはそれが彼にとって何を意味するのかを私に話した:「<水に飛び込め!>というだけでITBPの屈強な男たちが皆川に飛び込んでいくのが、20歳の子供のような大人の彼の心をくすぐった」

Shail Desaiはボンベイを拠点とするフリーランスのライターである。アウトドアや耐久スポーツについての執筆のほか、山をさまよう次の口実になるようなストーリーを追いかけていくのが好き。彼の他の作品はshailwrites.comで読むことができます。彼は@dshailをツイートしています。

謝辞

この話は、パンデミックにもかかわらず私との出会いを承諾し、30年前の資料を掘り起こしてくれたインド遠征メンバーの熱意がなければ実現しなかっただろう。このような困難な時期に思い出を共有してくれたアクシャイ・クマールの家族に感謝したい。日本のチームは、コミュニケーションの壁にもかかわらず、私の質問に辛抱強く答えてくれました。日本の岡崎絵里さんは、法律事務所での多忙な仕事の合間を縫って、根気よく通訳の役割をしてくれました。

Shail Desai:著者

upriya Nair:プロデューサー

Vikram Shah:編集者

Akshaya Zachariah:イラストレーター

Sabah Virani:編集助手

Medha Venkat:コピーエディター

今でも僕の家にある、インド、ブラマプトラ川川下りをした際に使ったパドルはこちら

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インド、ブラマプトラ川川下りを記念していただいた盾はこちら

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