2016年11月21日月曜日

「こんにゃく芋を食べて、今昔物語に挑戦してみる」

「こんにゃく芋を食べて、今昔物語に挑戦してみる」

 先日の、本郷の森のブログを読んでいたら、群馬に旅行に行ったことが書かれていました。


 ブログがアップされていたのは、1116日でした。

 群馬旅行のブログの文章の中では、サファリパークをバスで見学されたこととか、良いホテルに宿泊されたこととか、世界遺産に登録されている富岡製糸工場を見学されたこととか、こんにゃくパークでこんにゃくバイキングを食べたこととかが書かれていました。

ブログは読みやすい文章で、僕もおもしろく読ませていただきました。

サファリパークをバスで見学された話を読んでみて、サファリパークの看板の、
「SAFARI」という文字を読んでみて、Macのパソコンに搭載されているウェブブラウザ、「SAFARI」を想起しました。「SAFARI」とは日本語に訳すと、「旅、旅行」になるようです。毎日、毎日、普通の日常生活を送っている、庶民からすると、非日常を経験出来る「旅、旅行」は、心と体をリフレッシュする貴重な時間だと思います。

良いホテルに宿泊された話を読むと、ホテルの名前から、以前、僕が在籍していた頃に銀杏企画セカンドにいらっしゃった今は亡きメンバーさんを思い出しました。銀杏企画セカンドにいらっしゃったメンバーさんは、人の良いメンバーさんで、銀杏企画セカンドの翁のような方で銀杏企画セカンドの長老の方でした。職員さんからも愛されていた方でした。僕も銀杏企画セカンド在籍中に、重い資材の持ち上げ方を教わったこともあり、お世話になったメンバーの方でした。懐かしくなりました。

最後のこんにゃくパークに行って、こんにゃくバイキングを食べて、皆さんがこんにゃく芋をお土産にもらったことも書かれています。

 僕は、このこんにゃくパークでの出来事を読んでみて、地元文京区にある、「こんにゃくえんま」(源覚寺)を思い出すともに、何故か、日本文学の古典の、「今昔物語」を連想しました。

 こんにゃくえんまさんのホームページはこちら
         ↓
 http://www.genkakuji.or.jp/intro.html

  先日、文京区の春日の文京区民センターの斜向かいにある「こんにゃくえんま」(源覚寺)に行って来ました。


 こんな感じです。


 こんにゃくえんまの入り口です。




参道です。


お百度参りのための石だと思います。


閻魔堂です。


塩地蔵です。



こんにゃくえんまは雰囲気の良いお寺でした。

目の病気を治す(眼病治癒)ご利益があると庶民の方々から信仰を集めています。

僕もきちんとお賽銭を入れて、眼が良くなりますようにと祈願してきました。 

夏目漱石の作品にも登場する、由緒正しいお寺です。


「今昔物語」と関係があるのか分かりませんが、


 夏目漱石門下の文人、芥川龍之介が作品を作る際に参考にしていたらしい、「今昔物語」のことを急に思い出しました。

 僕は、「今昔物語」は、大学受験の際の、日本文学史の勉強で学んだ程度で、「今昔物語」を読んだことはありません。

 急に頭の中に、「今昔物語」が思い浮かんだので、早速、「今昔物語」を文京区立図書館のサイトで調べてみました。

 全4巻の、「今昔物語」がありました。

 図書館で借りて読んでみようとも思いましたが、僕は、ここ3年くらい、

「東日本大震災」関連の書籍を読んでいるので、なかなか、「今昔物語」全4巻を読む気になりせんでした。

そこで、アマゾンのサイトで、「今昔物語」を検索してみました。

アマゾンで検索すると、水木しげるさんの、「今昔物語 (上)マンガ日本の古典」「今昔物語(下)マンガ日本の古典」がありました。

こちらは、水木しげるさんのマンガ本で、読みやすそうなので、読んでみたいと思いました。

アマゾンの紹介文を読んでみると、「今昔物語」には、美女によるSM行為の話とかもあるようです。女性が美女ですから、多分、女性がS(サディスティック・ラブ)で、男性がM(マゾヒスティック・ラブ)のSMの関係の話だと思います。

僕は、普通の庶民の息子なので、男女間の恋愛も、普通の関係しか思い浮かびません。

僕は美女によるSM行為とかには縁がないので、アマゾンの紹介文を読んで、何か禁断の非日常の世界の話なのかなとか思ってしまいました。

何か禁断の非日常の世界の話なのかなと思えば思うほど、余計に読みたくなってしまいました。

芥川龍之介が書いた、「今昔物語」の美女によるSM(女性がサディスティック・ラブ、男性がマゾヒスティック・ラブ)の話を題材にした短編小説、「偸盗」が青空文庫にありました。

以下です。

「偸盗」

関心のある方いらした読んでみてください。

美女に男性が弄ばれるメロドラマのようなお話のようです。

少し読んでみましたが、沙金(しゃきん)という美女に恋をする男の物語です。

沙金(しゃきん)が相手をしてきた男性の数はとても多いようです。

沙金(しゃきん)が多くの数の男性と関係を持ってきたことを知っていながら、男は、沙金(しゃきん)の美しさに心を奪われ恋をしてしまう話です。

多情な沙金(しゃきん)がサディスティックな女性で、男はマゾヒスティックで、沙金(しゃきん)の盲目な恋の奴隷のようになっていることが、「偸盗」を読んでいると分かります。

日本の古典にあった、SMの物語、「今昔物語」を題材にしている、芥川龍之介の短編小説でした。ネットの青空文庫で読むと文章に感情移入できないので、きちんと文庫本でも購入しようかと思いました。

Amazonでも検索したら商品があったので、Amazonのリンクも貼っておきます。


Amazonのリンクはこちら

     ↓



この「地獄変・偸盗」のAmazonののリンクを貼ってから、




芥川龍之介の今昔物語の中のSMの物語を題材にした、「偸盗」が収録されている「地獄変・偸盗」 (新潮文庫)を、文京区立図書館で借りました、その本の中にある、「偸盗」を読みました。

「偸盗」は今昔物語の巻第二十九 第三話 「人に知られざりし女盗人の語」を題材にした短編小説のようです。

「人に知られざりし女盗人の語」は、美女が、男をむち打つ場面も出てくる現代でいうSM(サド・マゾ行為)のような場面が出てくる話です。

「人に知られざりし女盗人の語」は、女がサディスティックで男がマゾヒスティックなSMの関係で、女と男によるSMの話としてはおもしろい話だと思いました。

今昔物語の「人に知られざりし女盗人の語」を題材にしている、「偸盗」は芥川龍之介の書いている、メロドラマ(男が女にメロメロになる話)のような短編小説のようです。

青空文庫でも読みましたが、新潮文庫で読んでみるとやはり紙の本の良さが感じられました。

「偸盗」は、男が沙金(しゃきん)という美女に誘惑されて、男が沙金(しゃきん)の恋の奴隷にようになる話です。

男が、沙金(しゃきん)に心を奪われて堕ちていっている様子が分かります。

僕が、読んでいて沙金(しゃきん)のことを表す表現として印象に残った部分を抜粋してみます。

以下、抜粋です。

その1

もっともおれ一人が、沙金(しゃきん)を自由にする男でないという事も、知っていなかったわけではない。沙金自身さえ、関係した公卿(くげ)の名や法師の名を、何度も自慢らしくおれに話した事がある。が、おれはこう思った。あの女の肌(はだ)は、おおぜいの男を知っているかもしれない。けれども、あの女の心は、おれだけが占有している。そうだ、女の操みさおは、からだにはない。――おれは、こう信じて、おれの嫉妬しっとをおさえていた。もちろんこれも、あの女から、知らず知らずおれが教わった、

上記の部分から、沙金(しゃきん)がとても多い数の男性と肉体関係を持ってきたことがこの部分から分かります。沙金(しゃきん)が多くの数の男と関係を持ってきたこと知っていながら、男は、沙金(しゃきん)の心だけは、「おれが占有している」と思い込んでいることが分かります。男も沙金(しゃきん)と肉体関係(寝る経験)を持ち、沙金(しゃきん)に惚れ込んでいることが分かります。


その2

よしや沙金のほうから手を出してもその誘惑に乗らないだけの、慎みを持ってくれる事と、いちずに信じ切っていた。が、今になって考えれば、それは、弟を買いかぶった、虫のいい量見(りょうけん)に過ぎなかった。いや、弟を見上げすぎたというよりも、沙金のみだらな媚びのたくみを、見下げすぎた誤りだった。ひとり次郎ばかりではない。あの女のまなざし一つで、身を滅ぼした男の数は、この炎天にひるがえる燕の数(つばくろのかず)よりも、たくさんある。現にこう言うおれでさえ、ただ一度、あの女を見たばかりで、とうとう今のように、身をおとした。……

上記の部分から、沙金(しゃきん)が自分から男を誘惑するような、サディスティックな女であることが分かります。沙金(しゃきん)のまなざし一つで身を滅ぼした男が燕の数(つばくろのかず)よりも多いと書かれています。沙金(しゃきん)をただ一度見ただけで、多くの数の男が身をおとしたことが分かります。沙金(しゃきん)が如何に魅力的な女かが分かります。

その3

そういう次郎に、沙金が心をひかれるのは、もとより理の当然である。その上また、次郎のほうでも、おれにひきくらべて考えれば、到底あの女の誘惑に、勝てようとは思われない。いや、おれは、始終おれの醜い顔を恥じている。そうして、たいていの情事には、おのずからひかえ目になっている。それでさえ、沙金には、気違いのように、恋をした。

上記の部分から、沙金(しゃきん)が如何に魅力的で、沙金(しゃきん)に誘惑されると、男は自分の理性を抑えることが出来ずに沙金(しゃきん)に誘惑され、気違いのように沙金(しゃきん)に恋をしてしまうことが分かります。

その4

自分は、沙金(しゃきん)に恋をしている。が、同時に憎んでもいる。あの女の多情な性質は、考えただけでも、腹立たしい。その上に、絶えずうそをつく。時々、自分は、あの女のみだらな寝姿をながめながら、どうして、自分がこんな女に、ひかされるのだろうと思ったりした。ことに、見ず知らずの男にも、なれなれしく肌はだを任せるのを見た時には、いっそ自分の手で、殺してやろうかという気にさえなった。それほど、自分は、沙金を憎んでいる。が、あの女の目を見ると、自分はやっぱり、誘惑に陥ってしまう。あの女のように、醜い魂と、美しい肉身とを持った人間は、ほかにいない。

上記の部分から、沙金(しゃきん)が多情な女であることが分かります。一人の男だけでなく、多くの男と肉体関係(寝た経験)を持っていることが分かります。男も、沙金(しゃきん)と寝たことがあり、その淫らな沙金(しゃきん)の寝姿(寝ている姿)をながめていると、男は沙金(しゃきん)が憎くて仕方ないことが分かります。沙金(しゃきん)に溺れている(恋をしている)から沙金(しゃきん)が憎くて仕方ないことが分かります。沙金(しゃきん)のことが好きで好きでならないから、憎くて憎くて仕方ないのだと思います。

その5

 この自分の憎しみも、兄にはわかっていないようだ。いや、元来兄は、自分のように、あの女の獣のような心を、憎んではいないらしい。たとえば、沙金(しゃきん)とほかの男との関係を見るにしても、兄と自分とは全く目がちがう。兄は、あの女がたれといっしょにいるのを見ても、黙っている。あの女の一時の気まぐれは、気まぐれとして、許しているらしい。が、自分は、そういかない。自分にとっては、沙金が肌身はだみを汚けがす事は、同時に沙金が心を汚す事だ。あるいは心を汚すより、以上の事のように思われる。もちろん自分には、あの女の心が、ほかの男に移るのも許されない。が、肌身をほかの男に任せるのは、それよりもなお、苦痛である。それだからこそ、自分は兄に対しても、嫉妬しっとをする。すまないとは思いながら、嫉妬をする。してみると、兄と自分との恋は、まるでちがう考えが、元になっているのではあるまいか。そうしてそのちがいが、よけい二人の仲を、悪くするのではあるまいか。……

上記の部分から、男が沙金(しゃきん)と関係(寝た経験)を持っている男に対して、物凄い嫉妬心を持っていることが分かります。男が本当に沙金(しゃきん)に惚れていることが分かります。

その6

次郎は、沙金の目が、野猫のねこのように鋭く、自分を見つめているのを感じた。そうして、その目の中に、恐ろしい力があって、それが次第に自分の意志を、麻痺まひさせようとするのを感じた。

上記の部分から、沙金(しゃきん)の眼力がとても強く、沙金(しゃきん)に見つめられると、男の持っている意志など麻痺してしまうことが分かります。沙金(しゃきん)が如何にサディスティックで魅力的な女かが分かります。

芥川龍之介は、今昔物語の「人に知られざりし女盗人の語」を題材に、イメージを膨らませて、「偸盗」を書いていると思いました。

沙金(しゃきん)に関しては、芥川龍之介ご自身が、沙金(しゃきん)のような淫らで、サディスティックな美女と肉体関係(寝た経験)があるのかなとふと思いました。

沙金(しゃきん)に関する描写がリアルだし、芥川龍之介ご自身も、沙金(しゃきん)のような淫らで、サディスティックな美女に誘惑されたような経験があったのかなと思いました。

この、芥川龍之介の短編小説「偸盗」を読んでみると、老婆が出て来たり、沙金(しゃきん)に恋する太郎が隻眼(片目が見えないこと)だったり、どこかで、文京区の小石川にある「こんにゃくえんま」と関係があるのではないかと思ってしまいます。

「こんにゃくえんま」の言い伝えは、「こんにゃくえんま」のホームページによると、以下のようなものです。

閻魔さまは、冥界にあって亡くなった人の生前の罪業を裁断する十王のうち、最も知られているひとりです。

源覚寺の閻魔さまの右目部分は割れて黄色く濁っています。
それにはこんな言い伝えがあります。

宝暦年代のころ(1751年〜1764年)、眼病を患った老婆が閻魔大王に21日間の祈願を行ったところ、夢の中に大王が現れ「願掛けの満願成就の暁には、私の両目の内、ひとつを貴方に差し上げよう」と言われたそうです。
満願の日に、老婆の目は治りました。
以来、大王の右目は盲目となりました。
老婆は感謝のしるしとして好物の「こんにゃく」を断ち、それを供えつづけたということです。
このことから、源覚寺の閻魔さまは「こんにゃく閻魔」と呼ばれるようになり、眼病治癒の閻魔さまとして人々の信仰を集めています。


何かこの言い伝えを読むと、芥川龍之介の「偸盗」とどこかで関係があるような気がしてきました。

本郷の森、銀杏企画の男性メンバーの方々も、沙金(しゃきん)のような自分から男を誘惑し、眼差し一つで、男をおとし、男を自分の恋の奴隷のようにして、気違いのように自分に恋をさせ、自分の言いなりにし、盗みも人殺しもさせるような、サディスティックで淫らな美女に、恋をしてみようとか思うのも、おもしろいかもしれません。

もともと本郷の森、銀杏企画自体が、女性職員主体の職場で、男性メンバーを上手く操るには、女の魅力で、男をおとして、自分の言うことを聞かせるような組織にした方が良いのかもしれません。

僕が、就労移行支援事業所、ソシアルビジネスに在籍していた時も、女性職員が、自分で、

「ここは女性上位なのよ」

とか言っていたし、強い女性が牛耳る職場が、障害者就労移行支援事業所なのかなと思いました。

ご自分の思うように、男性障害者のメンバーをサディスティックに調教して、男性障害者メンバーをご自分の恋のマゾ奴隷(M男くん)のようにしていけば良いと思います。

「女の平和」と言うくらいですから、「愛」を掲げて、女性主導の女性優位の女性上位の職場にしていけば、「平和」も実現するのかもしれません。

僕も内心では、沙金(しゃきん)のような淫らで、サディスクティックな美女に誘惑されて、サディスティックに調教されて、気が狂うほど恋をしてみたいと思っていますが、沙金(しゃきん)のような美女におとされたら、いいように弄ばれ(もてあそばれ)、命も心も体も金も全て、女のもののようになると思うので、僕は沙金(しゃきん)のような美女は敬遠していきたいと思っています。

本郷の森、銀杏企画のメンバーの方々も、沙金(しゃきん)のような多情でサディスティックで淫らな美女に弄ばれる(もてあそばれる)ようなメロドラマのよう恋愛経験をしたいと内心思っている男性メンバーの方々もいるかと思います。

一読の価値のある芥川龍之介の小説です。

今月は、本郷の森、銀杏企画も、小石川にある、こんにゃくえんまのはす向かいにある、春日の文京区民センターで、忘年会をされるようです。

本郷の森、銀杏企画の男性メンバーの方々も、「偸盗」に出てくるような、一度、目にしたら、忘れられないような沙金(しゃきん)のようなサディスティックで多情で淫らな美女に恋が出来ますようにと祈願しながら、今年一年の出来事は忘れられるように、飲み食いされれば良いと思います。

明日は仏滅で、縁起の悪い日です。

サディスティックで多情で、淫らな美女にいいようにもてあそばれるM男君になれますようにと祈願しながら、飲み食いされれば良いと思います。


本郷の森、銀杏企画セカンドの方々も、かかあ天下の地、群馬県が特産地のこんにゃくを特集しているこんにゃくパークで、こんにゃくバイキングを満喫して、お土産にこんにゃく芋もいただいたら、禁断の非日常の美女によるSMの世界も描いている、「今昔物語」に挑戦してみるとかもおもしろいのではないかと思いました。

以上、「こんにゃく芋を食べて、今昔物語に挑戦してみる」

くだらない内容ですが、ブログに載せます。







 


0 件のコメント:

コメントを投稿